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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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常髙寺(今治市・今治中央地区)

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藤堂高虎によって整備されたとされる「寺町」。

その名のとおり、多くの寺院が集まるこの町には、 かつての城下町の面影を今に残しながら、人々の暮らしと祈りが静かに息づいています。

「常髙寺(じょうこうじ)」もまた、その一角に建てられた寺院のひとつですが、 藤堂高虎の特別な庇護を受けた、今治でも珍しい寺院になります。

そして、この寺を創建したのは、若き日に豊臣秀吉、そしてその嫡子・豊臣秀頼に仕えた、勇猛な武士・加藤常髙(かとう つねたか)です。

武の道から仏の道へ。

常髙寺の創建には、乱世を生き抜いた一人の武士が、武の道から祈りの道へと至った、深い葛藤と魂の物語が宿っています。

近江国の武士「加藤常髙」

加藤常髙は、今治城を築いた藤堂高虎と同郷、近江国(現在の滋賀県)出身と伝えられています。

河野氏の系譜

しかし、その家系をたどると、常髙は単なる近江の武士ではなく、伊予国を代表する名族・河野氏の末裔であることがわかります。

中世の武士たちは、しばしば自らの本拠とする土地の名を氏(うじ)として名乗るのが一般的でした。

河野氏もまたその例に従い、もとは古代豪族・越智氏から分かれた一族でしたが、平安時代後期に伊予国風早郡河野郷を本拠としたことで「河野」の姓を称するようになったとされます。

浅海氏との繋がり

11世紀末、この河野氏の一門のうち、風早郡浅海村(現在の松山市北条地区浅海本谷)に拠点を構えた一族も同じく、土地の名から浅海氏をなのりました。

そして、この時居住した人物が浅海四郎能長です。

能長は、鎌倉時代初期に将軍・源実朝に仕えた陪臣であったと伝えられており、中央と結びつきを持ちながらも、伊予の地にしっかりと根を張った存在でした。

その遠い子孫とされるのが、加藤常髙です。

強固な血縁のネットワーク

やがて浅海氏からも、河野難波家(難波郷)、能美島の越智山野井家(現・広島県江田島市)などが分家し、瀬戸内海を取り巻く広域的な武士ネットワークを形成していきました。

中でも、河野氏(河野郷)、浅海氏(浅海邑)、難波氏(難波郷)の三家は、いずれも風早郡に本拠を構えており、地理的にも血縁的にもきわめて結びつきが強く、実質的に一つの武士団として連携していたと考えられています。

河野氏の滅亡と時代の転換

しかし、加藤常髙が生きた時代は、血のつながりを持ちながらも、敵味方に分かれて戦わねばならない、戦国の世でした。

戦国末期の1585年(天正13年)、豊臣秀吉による四国征伐が始まると、伊予国を治めていた河野氏当主・河野通信(こうの・みちのぶ)は、居城・湯築城に籠もって抗戦します。

しかし、相手は天下の豊臣軍でした。

圧倒的な戦力の前についに降伏し、長きにわたって伊予を統治してきた名門・河野氏は、歴史の表舞台から姿を消すこととなったのです。

豊臣秀吉の信頼を受けた加藤常髙

その後の豊臣秀吉は天正13年(1585年)の四国征めを皮切りに、翌年の九州平定。

そして最後まで抵抗を続けていた北条氏を、天正18年(1590年)の小田原征伐で滅ぼし、全国の大名を自身の傘下に置きました。

こうして、誰も抵抗できなくなったことから「天下統一」が達成され、長きにわたる争いの歴史は終わりを迎えました。

このような時代の転換期にあって、加藤常髙は一人の武士として、また一人の人間として、変わりゆく歴史の流れに翻弄されながらも、己の生き方を模索し続けていました。

「近習」豊臣秀吉の側近

常髙は京都に居住しながら、ごく限られた側近の一人「近習(きんじゅ)」として、主君・豊臣秀吉から深い信頼を寄せられていました。

近習とは、主君の身の回りの世話や命令の伝達といった日常的な務めにとどまらず、時には軍事や政務にも深く関与する、極めて信頼の厚い家臣にのみ与えられる役職です。

主君の意志を最も近くで理解し、機転と判断力をもって支える、まさに“側近中の側近”といえる存在でした。

「加藤玄番頭常髙」としての務め

また、加藤常髙は「玄番頭(げんばんとう)」という役職にも就いており、「加藤玄番頭常髙」とも称されていました。

玄番頭とは、戦国時代から江戸初期にかけて大名家で用いられた職名の一つで、主に屋敷の門番や出入りの警備、来客の取り次ぎ・案内などを担う役職です。

一見すると裏方のようにも思われがちですが、実際には主君の身辺を守る最前線に立つ、きわめて重要な地位でした。

その任に就くには、的確な判断力と高度な礼法、そして何より主君からの厚い信任が不可欠とされていました。

さらに玄番頭は、外部の者と家中とをつなぐ「橋渡し」としての役割も担っており、政務・儀礼・外交などの場面では、家中を代表して応対にあたることもありました。

いわば家の“顔”ともいえる存在であり、その品格や応対力は、そのまま主君の威信や家の格式を映し出すものとされていたのです。

こうした職に任じられていたことは、加藤常髙が単に武勇に秀でた武士であっただけでなく、礼節・教養・統率力を兼ね備えた優れた人物であったことを、何よりも雄弁に物語っています。

戦乱の中で見た非情な現実

その後、豊臣秀吉は朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)など外征を続けてはいたものの、国内では諸大名に対する統制が進み、一時的とはいえ、平穏な秩序が保たれていました。

秀吉の死と再び訪れる

しかし、慶長3年(1598年)、その秀吉が没すると、政権の安定は一気に揺らぎ始めます。

豊臣政権の秩序は、秀吉という一人の強大なカリスマに依存していた側面が大きく、その死とともに内部の結束は次第に崩れ、政局は混迷の様相を見せ始めたのです。

後継として据えられていたのは、まだ幼い秀吉の嫡男・豊臣秀頼であり、実際の政務は五大老の筆頭である徳川家康に委ねられる形となりました。

このように不安定な政情の中にあっても、加藤常髙は依然として豊臣家に忠誠を尽くし、その政権を内側から支え続けていたものと考えられます。

「関ヶ原の戦い」豊臣家の没落のはじまり

しかし、徳川家康は、豊臣政権の枠組みの中にありながらも、諸大名との婚姻政策を進め、独自に政務を主導するなどして、着実にその影響力を拡大していきました。

こうした家康の動きは、秀吉が生前に定めた「五大老・五奉行制」の均衡を崩すものであり、政権内部に緊張と不信感をもたらしました。

とくに、五奉行の一人である石田三成をはじめとする反徳川勢力は、家康の専横に強く反発。

政権内の主導権を巡る対立は次第に深刻化。

そして慶長5年(1600年)、両者の対立はついに決裂し、天下を二分する「関ヶ原の戦い」が勃発します。

この戦いでは、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍とが激突。

激しい戦いの末、東軍が圧勝を収め、家康は事実上の覇権を掌握。豊臣家に代わる新たな天下人として、日本の政局を握ることとなりました。

豊臣家は、拠点の大阪城で存続はしていましたが、もはや実権はなく、政権の中心からは完全に排除されてしまいます。

関ヶ原の戦いからおよそ15年が過ぎた慶長19年(1614年)、徳川政権は、もはや力を失ったはずの豊臣家を“潜在的な脅威”として排除する決断を下します。

「大阪夏の陣・冬の陣」豊臣家の滅亡

関ヶ原の戦いからおよそ15年が過ぎた慶長19年(1614年)、徳川政権は、もはや力を失ったはずの豊臣家を“潜在的な脅威”とみなし、ついにその排除に乗り出します。

こうして始まったのが「大坂冬の陣」です。

徳川方の大軍勢は、大坂城を包囲し、豊臣家に対して圧力を強めました。戦は激しく、豊臣側も真田信繁(幸村)らの奮戦により応戦しますが、最終的には和睦が成立。

しかしその条件として、外堀・内堀が埋め立てられ、城の防備は完全に取り払われることとなりました。これは事実上の武装解除でした。

そのわずか半年後の慶長20年(1615年)、徳川方は和議違反を理由に再び軍を動かし、「大坂夏の陣」が勃発します。

再築を進めていた大坂城に対し、徳川軍は総攻撃を仕掛け、短期決戦の末に城は炎上。豊臣秀頼とその母・淀殿は自刃し、ここに豊臣家は完全に滅亡しました。

かつて天下人として君臨した豊臣秀吉の一族は、数十年にも満たぬ栄華ののち、静かにその幕を閉じたのです。

徳川方で戦った加藤常髙の苦悩

この一連の戦いに、加藤常髙も従軍していたと伝えられています。

ただし、その立場は豊臣方ではなく、徳川方であったと考えられます。

まず、関ヶ原の戦いですが、徳川家康が豊臣政権下の「五大老筆頭」という正式な立場にあり、表向きには徳川方こそが「正統な豊臣軍」とされていました。

一方で、石田三成を中心とする西軍は、豊臣政権内部での反乱勢力と見なされ、戦後には厳しい処罰が下されています。

さらに続く大坂の陣(1614〜1615年)においては、豊臣方に味方した武士たちの多くは討死し、あるいは処刑され、その家名を保った者はごくわずかでした。

そうした中で、加藤常髙が生き延びていたのは、徳川方として戦っていたからだと考えられます。

さらに、後に今治の地で、近江出身の武将であり、かつて豊臣秀長に仕え、最終的には徳川方の重臣となった藤堂高虎の庇護を受けていたという事実も、徳川方に属していたことを裏付ける有力な証拠といえるでしょう。

武から仏の道へ…。戦乱の果ての祈り

たとえどちらの陣営に身を置いていたとしても、加藤常髙が感じた無常の思いは、計り知れないものであったことでしょう。

尽くしてきた主家の終焉を目の当たりにし、終わりの見えない幾度もの戦乱、そして自らの力の及ばなさ。

さまざまな思いが胸を締め付ける中で、常髙はついに、武士としての生に終止符を打つ決意を固めます。

武士の誇りである髷(まげ)を落とし、剃髪して仏門に入ると、「了空(りょうくう)法師」として、浄土真宗の教えにその身と心をゆだねました。

主君の面影を胸に歩いた一人の僧

浄土真宗を修めた加藤常髙は、気心の知れた一族の人々と共に、西国を中心に諸国を遍歴する信仰の旅へと出ました。

最初に向かったのは中国地方で、岡山から広島へと移り、安芸国安芸郡宮盛村を経て、やがて瀬戸内海の島々を望む大崎下島を拠点として居を構えるようになります。

常髙はその後も布教の歩みを止めることなく、大崎下島をはじめ、大浜、立花、豊島、久比、沖友、大長、明石潟、沖蒲原田、小比須、大下、宗方、野々江、大島など、瀬戸内海沿岸各地に教えを広めていきました。

この信仰の旅の途上においても、常髙の心からは主君・豊臣秀吉の存在が離れることはありませんでした。

秀吉が守本尊として崇めていた阿弥陀如来を、常髙は終生にわたって手厚く祀り、その慈悲を説き続けました。

その後、常髙は今治の石井村(現在の今治市石井町)に草庵を構え、教えを伝えながら静かに暮らしていました。

藤堂高虎との再会とはじまり

ちょうどその頃、今治の地を治めていたのは、かつてからの知己であった藤堂高虎でした。

武将と僧侶という異なる道を歩みながらも、戦国時代を生きた二人は、再会とともに自然と打ち解け合いました。

そして、その縁が新たな寺院「常髙寺」の創建へとつながっていくことになります。

「寺町」藤堂高虎の今治開発

藤堂高虎は、関ヶ原の戦いでの功績により、徳川家康から伊予国中部の所領を与えられ、今治の地を治めることとなりました。

それまで本拠としていた宇和島から拠点を移し、一時的に国府の置かれていた桜井地区の国分山城(国府城・唐子山城)を本拠としましたが、ある問題点がすぐに浮かび上がりました。

それが、「天下泰平」の到来という時代背景でした。

もはや戦乱の世は終わり、高虎は山城の防御力よりも、港湾機能や経済・軍事の利便性こそが重要であると判断し、
新たな城を海辺に築くことを決意します。

そして、1602年(慶長7年)、今治城の築城が開始されました。

また、これと並行して、城郭にふさわしい城下町の整備も着々と進められていきました。

その過程で、今治の中でも特に由緒や影響力のある14の寺院が集められ、計画的に寺院群が配置されました。

こうして誕生したのが、現在「寺町」と呼ばれている区域です。

その一角に建立された寺院のひとつこそが、加藤常髙(了空)によって開かれた「常髙寺」なのです。

防衛拠点としての寺町

寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。

戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。

そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。

寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として戦の拠点として利用されることもありました。

城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。

これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。

今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。

この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。

統制のための配置と宗教勢力の管理

寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。

戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。

比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。

江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集める、町人地とは切り離す、幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。

今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。

信仰と生活の場、そして門前町へ

寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。

江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。

寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。

やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。

江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んになり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変貌していきました。

境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。

人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。

こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。

今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。

その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。

「常髙寺の創建」絆が築いた祈りの寺

このような流れの中で、慶長八年(西暦1603年)二月上旬、かねてより交流のあった藤堂高虎との縁によって寺地を賜り、加藤常髙は本山に一寺の建立を願い出て、自らの俗名「常髙」を寺名として賜り、常髙寺が創建されました。

常髙寺は、他の寺町の寺院とは異なり、藤堂高虎(領主)と加藤常髙(住職)との間に特別な絆があったことから、特に手厚い庇護を受けていたと考えられます。

その後も、時折修繕や改築が重ねられながら、常髙寺は今治の寺町の一角において、地域の信仰を静かに支え続けてきました。

しかし、その歴史ある寺院は深刻な危機に直面することとなります。

それが、太平洋戦争末期に起きた「今治空襲」でした。

「今治空襲」御本尊の加護による奇跡

昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期の今治市は、3度にわたる空襲に見舞われました。

なかでも、8月5日から6日にかけての大規模空襲では、B-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、
市街地の大半が焼失するという、壊滅的な被害を受けます。

この空襲により、全市戸数の約75%が焼失し、多くの命と建物が失われました。

寺町でも周囲の寺院が次々と焼け落ちるなか、常髙寺では本堂だけは奇跡的に戦火を免れることができました。

これは、聖徳太子の作と伝えられる御本尊・阿弥陀如来の加護によるものと語り継がれています。

現代アートとの融合

創建以来350年以上の歴史を持つ常髙寺は、その長い歩みだけでなく、現代アートとの融合によっても注目を集めています。

「バルーン住職」

住職の加藤大地さんは、通称「バルーン住職」として知られ、バルーンアートを用いて仏教の教えを表現する独自の活動を展開しています。

大地さんの作品には、本尊・阿弥陀如来をバルーンで再現したものもあり、細部に至るまでこだわり抜かれた造形が多くの人々の心を惹きつけています。

また、加藤住職は地域のイベントやワークショップなどにも積極的に参加し、仏教の魅力を楽しく、分かりやすく伝える工夫を重ねています。

境内の施設と新たな門徒会館

常髙寺の境内には、本堂・経蔵・門徒会館が整備されており、参拝者を温かく迎え入れています。

なかでも、令和4年(2022年)9月に新たに完成した門徒会館は、法要や地域の集会、学びの場としても活用され、寺院と地域社会との結びつきをいっそう深める拠点となっています。

歴史とアートが共鳴する場所

常髙寺を訪れると、仏教キャラクター「きくぞう君」が正面で出迎えてくれ、やさしい空気に包まれながら、阿弥陀如来像が安置された静かな本堂で、自分と向き合うひとときを過ごすことができます。

歴史と現代のアートが共鳴する、今治ならではのユニークな寺院「常髙寺」。

そのやさしさと深さを、ぜひ実際に訪れて体感してみてください。

寺院名

常髙寺(じょうこうじ)

所在地

愛媛県今治市風早町4丁目1−13

電話

0898-22-2264

宗派

浄土真宗本願寺派(西)

山号

天祥山

本尊

阿弥陀如来

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