「常明寺(じょうみょうじ)」は真言宗醍醐派に属する寺院で 古くから地域の仏教活動に積極的に関わり、法要や年中行事を通じて住民とのつながりを深めてきました。
常明寺の創立
常明寺の起源は、鎌倉時代の西暦1210年頃。
河野通信(こうの みちのぶ)が、現在の今治市八丁(八丁字毘沙門)の地に「若松寺」として創建し、毘沙門天を本尊に祀ったのがはじまりと伝えられています。
河野氏の第23代当主・河野通信
河野通信は、越智氏の流れをくむ伊予の有力な豪族・河野氏の第23代当主で、強力な海上勢力を持つ河野水軍を率いていました。
瀬戸内を制した伊予の武将
「源平合戦(治承・寿永の乱)」では源氏方に加わり、源義経が率いる水軍の主力として、屋島の戦いや壇ノ浦の戦いで源氏の勝利に大きく貢献しました。
義経の兄・源頼朝が鎌倉幕府を開くと、その功績が評価され、伊予国の地頭職(荘園や公領の現地支配を担う役職)に任じられました。
さらに、頼朝の正妻・北条政子の妹が妻に迎えられたことで、頼朝と義兄弟となり、鎌倉幕府の中枢とも深く結びつくことになりました。
こうして河野氏は、伊予国内の統治体制を確立し、瀬戸内海の交通と海上権益を掌握する有力武家として、その地位を確固たるものにしていきました。
しかし、この安定は長くは続きませんでした。
歴史を生きた河野通信の最期
頼朝と義経の関係は次第に悪化し、義経は追われる身となって奥州・平泉(岩手県)で自害に追い込まれると、義経と行動をともにしてきた河野通信も、幕府内で次第に警戒の目を向けられる立場となっていきました。
さらに、頼朝の死後、幕府の実権は政子とその父・北条時政を中心とする北条氏へと移り、源氏の将軍家は三代・実朝の死をもって断絶。
以後、執権を頂点とする北条氏の体制が確立され、御家人の不満や幕府内の対立が次第に顕在化していきました。
こうした中、朝廷もまた武家政権に対する反発を強め、ついに後鳥羽上皇が挙兵。承久3年(1221年)、武家と朝廷が激突する「承久の乱」が勃発します。
この時、河野通信は幕府ではなく朝廷(後鳥羽上皇)側で戦いましたが、朝廷側は敗北。
朝廷に味方した多くの武士が処罰を受けるなか、河野通信も流刑に処され、貞応2年(1223年)5月19日、68歳で亡くなりました。
実は、その流刑の地となったのは、かつての盟友・源義経が非業の最期を遂げた平泉でした。
戦乱の時代を共に戦い抜いたふたりが、時を経て、同じ地でその生涯を閉じたという巡り合わせには、どこか運命的なものを感じずにはいられません。
若松寺に託した思い
西暦1210年頃、河野通信が若松寺(のちの常明寺)を建立したその時代は、北条氏が実権を握り、武士と朝廷の対立が深まりゆく、まさに激動の転換点にありました。
先の見えぬ不安のただ中にあった通信は、一族の武運長久、領国の安寧、そして後の世への祈りを、この地に託したのかもしれません。
若松寺の名の由来
河野通信の幼名は「若松丸(わかまつまる)」と伝えられており、若松寺という寺名は、この名に由来するとされています。
東禅寺との関係
一方で、通信が生まれ育ったとされる東禅寺(とうぜんじ)の起源にも、かつて「若松寺」の名が伝えられています。
それによれば、今治の府中若松館にて幼少期を過ごした通信は、長寛元年(1163年)にその館を修して若松寺とし、さらに文治元年(1185年)には堂宇を整えて寺号を東禅寺と改めたとされます。
もしかすると通信は、かつて自らが幼少期を過ごした若松寺への思いを胸に、1210年に「若松寺」(のちの常明寺)と名付けた新たな寺院を建立したのかもしれません。
若松寺から「東禅坊」へ
江戸時代初めの元和年間(1620年頃)、若松寺(のちの常明寺)は、権大僧都・増印上人によって現在の地に再建され「東禅坊」と改められたと伝えられています。
この「東禅坊」という名称には、河野通信ゆかりの「東禅寺」を思い起こさせる響きがあり、かつて通信が若年期を過ごした若松館や、そこに建立された東禅寺とのつながりを意識したものだったのかもしれません。
現在の常明寺
江戸中期にはさらなる改築が施され、寺号は「東禅坊」から現在の「常明寺」へと改められ、本尊として聖観世音菩薩が安置されました。
その後、建物が老朽化したことから、大正11年(1922年)には本堂と業客殿が新築され、さらに鐘つき堂も建立されるなど、信仰の場としての体裁が整えられていきました。
そして昭和57年(1982年)には新たな本堂が再建され、現在では「がんかけ観音」として広く信仰を集める祈願寺となり、地域に根ざした信仰の場としての役割を担い続けています。
『いも地蔵盆まつり』
2024年8月23日には、新たな夏の伝統行事として『いも地蔵盆まつり』が開催されました。
この祭りは、江戸時代に甘藷(サツマイモ)を伊予にもたらし、飢饉から多くの命を救った下見吉十郎(あさみ きちじゅうろう)の功績をたたえ、その遺徳に感謝を捧げる行事です。
下見吉十郎とは
寛文13年(1673年)、伊予国大三島・瀬戸村に、かつて伊予を治めた河野氏の末裔と伝わる家に生まれた下見吉十郎は、信仰と勤勉を重んじる農家に育ち、穏やかな暮らしを送っていました。
やがて4人の子を授かりますが、いずれも幼くして亡くしてしまいました。
次々と家族を失った吉十郎は、深い悲しみに沈みながら命の重さと向き合い、徳元年(1711年)に心の救済を求めて、六部僧(ろくぶそう)として旅立ちました。
六部僧とは
六部僧とは、法華経の六巻を携え、日本全国六十六か国の霊場に一巻ずつ納めて巡る巡礼僧のことをいいます。
その名の由来は、法華経が六巻に分かれていたこと、そして全国六十六か国を巡礼することから「六十六部廻国聖(ろくじゅうろくぶかいこくひじり)」とも呼ばれました。
多くは特定の寺院に属さず、在家出身の信者として、亡き人の供養、疫病退散、五穀豊穣、世の安寧を願って法華経を写経・奉納しながら巡る、信仰に生きる行者でした。
庶民の間では、彼らの姿に仏の教えと誠実な祈りを重ね、旅の途中で施しを与えたり、宿を提供したりする習慣も根づいていました。
また、六部僧は仏像やお札、法華経の説話などを人々に伝えることもあり、仏教文化の普及者・布教者としての一面も担っていたのです。
吉十郎にとって六部僧とは、ただの巡礼者ではなく、亡き我が子への追悼と、まだ見ぬ人々を救うという祈りの実践者としての道でもありました。
命をつなぐ甘藷との出会い
吉十郎は、広島・京都・大阪と各地を巡ったのち、九州へと渡り、やがて薩摩国(現在の鹿児島県)伊集院村にたどり着きました。
さらに巡礼を続ける中で、吉十郎は農家を営む土兵衛という人物に一晩泊まらせてもらえることになりました。
そしてその夜、土兵衛から夕食として用意されたのが甘藷(サツマイモ)でした。
吉十郎はその味に驚くと同時に、痩せた土地でもよく育ち、長期保存もできる作物であることを知るとすぐにある感情が沸きあがりました。
「これさえあれば、飢えに苦しむ故郷の人々を救えるかもしれない」
吉十郎は、土兵衛に種芋を譲ってほしいと頼み込みました。
しかし、当時の薩摩藩では甘藷の持ち出しを固く禁じられていました。
これは、甘藷が飢饉対策の重要な戦略作物として重視されていたためであり、その栽培法や種芋が他藩に漏れることを厳しく警戒していたからです。
薩摩藩では甘藷の導入と改良が進められ、特に幕末に至るまで「藩の重要機密」として扱われていました。
したがって、藩外への持ち出しは厳罰をもって禁じられ、場合によっては死罪に問われることさえあったのです。
そのため、土兵衛は自分の生命に関わるこのお願いを断固として断りました。
それでも吉十郎は諦めませんでした。
涙ながらに、何度も何度も頭を下げ、飢えに苦しむ人々を救いたいという真剣な思いを訴え続けたのです。
そのひたむきな姿に、ついに土兵衛の心も動かされ、貴重な種芋を託してくれることになったのでした。
種芋を密輸出…人々の命を救う選択
とはいえ、薩摩藩外への甘藷の持ち出しは重罪にあたり、見つかれば厳しい処罰を免れることはできませんでした。
それでも吉十郎は決してひるむことなく、仏像の内部に巧みに穴を開けて種芋を隠し、巡礼者を装って薩摩国を抜け出すという、命懸けの賭けに出たのです。
吉十郎はこのときの心境を、次のように記しています。
「公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」
(世の中のためになることなら、たとえ法律やお上の決まりを破ることになっても、恐れる必要はない)
この言葉には、自らの行為が私利私欲からではなく、広く人々の命を救うための“公”の正義に基づいていたという、吉十郎の確固たる信念と覚悟が込められています。
故郷で命の芋が根を張る
そして、なんとか持ち出すことに成功した吉十郎は、大三島に帰るとすぐに試験栽培に取りかかりました。
伊予の温暖な気候と肥えた土に甘藷栽培に適しており、吉十郎は見事に栽培に成功しました。
その後、生産体制が整う中でも、自身の利益を求めることなく、栽培方法を周囲の農民たちに惜しみなく伝え続けました。
こうしたたゆまぬ努力が実を結び、甘藷は次第に大三島から周辺の島々へと急速に広まっていきました。
大飢饉から命を守った甘藷
やがて飢饉に苦しむ人々を支える貴重な食糧として、各地で大いに重宝されるようになったのです。
その代表的な例が、享保の大飢饉です。
享保17年(1732年)に起こったこの飢饉は、長雨と害虫(ウンカ)の大発生により西日本一帯の稲作が壊滅的な打撃を受け、特に九州・中国・四国地方では深刻な食糧難に陥りました。
その影響は甚大で、全国でおよそ12万人以上が餓死したとされ、伊予国内でも多くの村々で餓死者や疫病による死者が相次ぎました。
しかし、大三島では甘藷があったため、餓死者を出すことなくこの大飢饉を乗り切ったとされます。
それどころか、飢饉に苦しむ伊予松山藩に米700俵を献上した記録も残っています。
「いも地蔵」地域をつなぐ功績
このように多大な功績を遺した吉十郎は、宝暦5年(1755年)9月6日、享年83歳で惜しまれつつその生涯を閉じました。
その偉業は高く讃えられ、向雲寺(愛媛県今治市上浦町瀬戸1754)に埋葬され、境内の小さなお堂には「甘藷地蔵(いも地蔵・芋地蔵)」として祀られています。
大正9年(1920年)には、吉十郎の功績を讃えて「下見吉十郎彰徳碑」が建立され、さらに昭和23年(1948年)3月29日には、甘藷地蔵が愛媛県の史跡として正式に指定されました。
現在でも吉十郎の子孫が向雲寺の近くに暮らしており、命日には「甘藷地蔵祭」が催されるほか、「いも地蔵」をモチーフにした土産用の和菓子も作られるなど、吉十郎の功績は島民に広く親しまれています。
さらにその影響は地域全体にも広がり、島内外の明光寺や宝珠寺などに、20体以上の地蔵菩薩像が建立されました。
そのひとつが常明寺に祀られており、そのご縁から常明寺で『いも地蔵盆まつり』が催されるようになったのです。
地域の未来へつながる歴史と文化
『いも地蔵盆まつり』は吉十郎への感謝の想いを表すだけでなく、夏のお盆の時期に帰ってくるご先祖様の供養や農作業の疲れを癒すための場として、人々の繋がりを再び育む大切な機会となっています。
会場となる常明寺の境内には、そうした心を今に伝える多くの歴史遺産が残されています。
墓地には大きな五輪塔があり、明神山(近見山)城主であった重見遠江守(しげみ とおとうみのかみ)や右京充同近見守(うきょうじゅうどう ちかみのかみ)の墓石が残されています。
これらの墓石は、地域の歴史や武士文化を今に伝える貴重な遺産として保存されています。
さらに、現在の本堂には江戸時代の住職が今治城主の碁会に招かれ勝負に勝ち、城から譲り受けたとされる立派な欄間が飾られています。
このような文化遺産は、時を越えて地域の人々の心を結び、世代をつなぐ大切な絆となり続けています。