愛媛県今治市の延喜地域に、地元の人々から「えんぎの観音さま」として親しまれる小さな古刹があります。
それが、千年以上の歴史を持つ「乗禅寺(じょうぜんじ)」です。
“延喜”の乗禅寺の創建史
創建は古く、昌泰元年(898年)、醍醐天皇(だいごてんのう)の発願によると伝わります。
しかし、この寺の起こりには、いくつもの不思議な伝説が語り継がれています。
- 花木長者の伝説
宅間の長者とも呼ばれた花木長者が、ある日、大井の浜で小さな観音像を見つけて小谷村(旧:延喜村)に祀った。 - 菅原道真と観音像
仁和2年(886年) 〜寛平2年(890年)。道真公が讃岐(現在の香川県)の国司を務めていた頃に海上で嵐に遭遇し、天皇から授かった一寸八分(約5.5センチ)の観音像を小谷村(旧:延喜村)に安置した。
頓魚上人の創建伝説
その昔、伊予の国(現在の愛媛県)野間郡小谷村に、喜作という若者がいました。
喜作の父は村の医者で、病に苦しむ人々を日々助けていました。医療の手段がほとんどなかった時代、父は村人たちにとって頼れるたった一人の存在であり、深く信頼されていました。
その背中を見て育った喜作も、自然と人を思いやる心を身につけ、やがて父と同じく医者の道を歩み始めます。
成長した喜作は、村から村へと足を運び、病に苦しむ人々を助けることに力を尽くしました。
そんなある日、隣村の大井(現在の大西町)で病人を診た帰り道、喜作は浜辺で一寸八分(約5.5センチ)の小さな観音像を見つけます。
(伝承によると、この観音像は、龍女という神秘の存在が作ったものだと伝えられています。)
喜作はその観音像を大切に持ち帰り、毎日手を合わせました。やがて像を安置するためにお堂を建て、自らも出家して「良玄(りょうげん)」と名乗ります。
病を癒す医者として人々を救ってきた喜作は、この観音像との出会いをきっかけに、祈りと仏の力によっても人を救う、新たな道を歩み始めたのです。
のちに、良玄は「頓魚上人」と呼ばれるようになり、その法力(仏の力を借りる力)は次第に人々の間で評判となり、ついには朝廷にも伝わることとなります。
また、同じ時代には宥然上人(ゆうねんしょうにん)の伝承も残されていますが、語られる内容が頓魚上人と重なることから、同一人物と考えられます。
道真公が聞いた噂の法力
仁和2年(西暦886年)、中央(京・京都)で学者・政治家として名声を博していた菅原道真公は、讃岐国(現・香川県)の国司(長官)である「讃岐守」に任じられ、讃岐国府へ赴任しました。
以後、延喜2年(西暦890年)までの4年間、讃岐国の租税・治安・地方行政に尽力し、公正で誠実な統治を行ったことで、民衆からも信頼を得たと伝えられています。
この在任中の仁和4年(西暦888年)3月、道真公は国司としての職務の一環で、隣国・伊予国(現・愛媛県)を巡視しました。国分寺をはじめとする寺社や地方の政治状況を確認するのは、当時の国司にとって重要な務めでした。
この巡視の際、道真公は現地で不思議な評判を耳にします。
「どんなに重い病も治してしまう法力の高い僧がいる」
その僧こそが頓魚上人でした。
この頃の伊予の地では、頓魚上人がどんなに重い病気でも治してしまうという評判が広まっていたのです。
その後、道真公は讃岐国司としての職務に戻りましたが、伊予で耳にした頓魚上人の法力のことは、心のどこかに強く刻まれていました。
地方の政務に励みながらも、病に苦しむ人々を救うという上人の姿に、学者であり政治家である自らの務めと通じる何かを感じ取っていたのでしょう。
やがて寛平二年(八九〇年)、任期を終えた道真公は都へと帰ります。
醍醐天皇を救った頓魚上人の法力
その頃、宮中では重大な事態が起きていました。宇多天皇の譲位を受け、わずか十三歳で即位した醍醐天皇が、重い病に倒れていたのです。
病は長引き、宮中の医師たちも手立てがなく、回復の見込みはまったくありませんでした。
天皇の病を案じた道真公は、ふと伊予国で耳にした頓魚上人のことを思い出し、その法力の噂を朝廷に伝えます。
これを聞いた醍醐天皇は、ただちに頓魚上人を宮中に召し寄せるよう命じました。
やがて上京した頓魚上人は、到着するやいなや天皇の病平癒を願う祈祷を始めます。宮中の人々が不安の面持ちで見守る中、上人は落ち着いた態度で静かに祈りを捧げ続けました。
すると驚くべきことに、祈祷を始めてから三日も経たぬうちに、天皇の病状はみるみる回復し、ついには完全に平癒したのです。
この奇跡的な回復により、宮中は大いに沸き、頓魚上人の名声は一層高まりました。
醍醐天皇自身も、命を救われた上人に深い感謝の念を抱きました。
「延喜」改元に秘められた感謝と祈り
昌泰4年(901年)になると、元号が「昌泰」から「延喜」へと改められました。
この頃の平安京では、藤原氏が権勢をふるう一方、天変地異や疫病が相次ぎ、人々の間には不安が漂っていました。前の元号「昌泰」は「繁栄と安泰」を意味しましたが、醍醐天皇が重い病に倒れたことは宮中に衝撃を与えます。
そこで、世の中を新たにし、「喜びが長く続く平和な時代にしたい」という願いを込め、改元が行われたのです。
こうして迎えた新元号「延喜」には、喜びが絶えることなく長く続き、天下が泰平であるようにという祈りが込められました。
この改元は、まさに頓魚上人による天皇平癒の奇跡と重なり、人々に希望を与える出来事となりました。
その功績を讃えて、頓魚上人が住職を務めていた乗禅寺は、「伊予国延喜乗禅寺」と名付けられ、皇室の守護を願う勅願寺(ちょくがんじ)に認定されました。
名前に「延喜」という元号が冠されたことからも、天皇と寺院との深い結びつきがうかがえます。
さらに、寺の本尊である観音像も、延喜の元号にちなんで「延喜観音(延喜の観音さま)」と呼ばれるようになり、その名は広く知られることとなります。
また、寺のある小谷村も「延喜村」と改められました。
この地名はその後も受け継がれ、現在の地名としても残っています。地域に生きる人々にとって、延喜の名は、天皇の病を救った奇跡とその歴史を今に伝える証となっているのです。
新たな本尊
さらに伝承によれば、醍醐天皇は奇跡的な回復への深い感謝のしるしとして、仏師・安阿彌(あんなみ)に、六本の手をもつ木彫りの如意輪観世音菩薩の座像の制作を命じたと伝えられています。
安阿彌は、仏像を彫る前に心身を清めるため、三島神社・馬越や安養寺・馬越が鎮座する鯨山(鯨山古墳)にこもり、飲食を慎み、水行(みずぎょう)によって身を清めました。
こうして心身を整えたのち、安阿彌は一刀一刀、心を込めて如意輪観世音菩薩像を彫り上げたといわれています。
さらに、この本尊の胎内には、それまで大切に祀られていた一寸八分(約5.5センチ)の観音像が納められました。
小さな観音像は、村人たちが長年信仰してきた霊験あらたかな仏であり、新しい本尊にその力を宿すために納入されたと伝えられています。
また別の伝承として、六人の僧侶が力を合わせて本尊を彫刻したという話も残っています。
この説は歴史的な裏付けが乏しいため主流ではありませんが、地域の口承や信仰の中で今も語り継がれ、如意輪観世音菩薩への畏敬を深める物語となっています。
願いを叶える御陵の伝承
延長8年(930年)に醍醐天皇が亡くなると、乗禅寺の裏山に御陵(ごりょう:天皇や皇族の墓)が建てられ、地元の人々の間で「帝さん(みかどさん)」と親しまれるようになりました。
そして、いつしかこの御陵は「誰でもひとつだけ願いが叶う」とい伝えられるようになりました。
この言い伝えが、いつ、どのようにして生まれたのかは定かではありません。
しかし、醍醐天皇の慈悲深い心や、病に倒れたときに頓魚上人の祈祷によって奇跡的な回復を遂げた逸話が、この言い伝えにつながったのかもしれません。
現在でもこの伝承は広く信じられており、乗禅寺は多くの人々の心の拠り所となっています。
後醍醐天皇と七舌上人の奇跡
時代は進み、後醍醐天皇の御代(1318〜1339年)。
この時代にも同名の頓魚上人(とんぎょしょうにん)と呼ばれる、不思議な法力を持つ僧侶が、乗禅寺の住職を務めていたと伝えられています。
頓魚上人が一人でお経を唱えると、まるで七人の僧侶が一斉に読んでいるかのように響き渡ったため、「七舌上人(しちぜつしょうにん)」とも呼ばれていました。
この頃、後醍醐天皇が重い病にかかってしまい、宮中の医師たちによる治療も効果がなく、天皇の病は日に日に悪化していきました。
宮廷は不安に包まれ、誰もが天皇の病の快癒を祈り続けていました。
しかし、天皇の病状は良くなる兆しが見えませんでした。
そんなある夜、天皇が深い眠りにつくと、夢の中に神々しい姿の「延喜の観音さま」が現れ、穏やかな声でこう告げました。
「私を祈祷すれば、あなたの病は立ちどころに癒えるでしょう。」
翌朝、これを尊い仏のお導きであると信じた天皇は、すぐに「延喜の観音さま」を祈祷するため、乗光寺の住職・頓魚上人に祈祷を依頼しました。
これを受けた頓魚上人は、天皇の病を癒さんと宮中へと赴きましたが、御所の門は厳重に警備されており、門番たちは通すことを拒みました。
頓魚上人が「天皇のご命により参上した」と名乗っても、門番たちは信じず、田舎の僧が何やら言っていると嘲笑いながら、「法力あるというなら、ここで証を見せてみよ」と挑発しました。
頓魚上人は静かに扇子を取り出し、そばに咲いていた梅の花に向かって軽く扇ぎました。
すると、驚くべきことに、梅の花は一斉に散り始め、地上に降り積もったのです。
人々がその光景に息を呑む中、今度は散ったはずの花びらがふわりと舞い上がり、再び枝へと戻っていきました。
この奇跡を目の当たりにした門番たちは、すぐさま天皇にこの出来事を報告しました。
天皇はそれを聞き、本物の頓魚上人であると確信し、すぐに正式に宮中へ迎え入れるよう命じました。
こうして、頓魚上人は無事に宮中へと入ることができ、後醍醐天皇のもとで心を込めたもてなしを受けました。
その後、頓魚上人は、静かに後醍醐天皇の御前に座し、心を澄ませて祈祷を始めました。
香煙がゆらめく中、読経の声は宮中に清らかに響き渡り、まるで仏の慈悲がその場を包み込むかのようでした。
誠心誠意の祈りは日を重ねるごとに効験を示し、やがて天皇の顔色は日に日に明るさを取り戻していきました。
ついには、長く苦しんだ病もすっかり癒え、後醍醐天皇は健康を取り戻されたのです。
この奇跡に深く感銘を受けた天皇は、頓魚上人とその拠る乗禅寺を深く信頼し、格別の御厚恩を賜りました。
寺には寄進や領地の下賜が行われ、かつて荒れかけていた伽藍の再建が始まりました。七堂伽藍は再び荘厳な姿を取り戻し、法灯は絶えることなく輝き続けました。
こうして、頓魚上人の祈祷による後醍醐天皇の病平癒は、乗禅寺繁栄の大きな契機となり、その名は都で再び響き渡ることとなったのです。
乗禅寺の高い格式
乗禅寺は、やがて朝廷や幕府からも厚く信任される、格式高い名刹として広く知られるようになりました。
朝廷からの信任
まず、天皇の側近である蔵人(くろうど)が天皇の意向を受けて作成した綸旨(りんじ)を賜り、正式に朝廷の保護下に置かれました。
綸旨は、特別な紙である宿紙(しゅくし)(漉き返しの再生紙)に書かれ、天皇の意志を直接伝える由緒ある文書です。
これを受けた乗禅寺は、単なる地方寺院ではなく、公認の祈願寺としての地位を獲得しました。
幕府からの庇護
さらに、室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏からは、御教書(ごきょうしょ)が下賜されました。
御教書は、平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上の高位の者が家司を通じて発給する正式な文書であり、幕府からの強い庇護を示すものです。
四位以下の公家や守護大名クラスの武士が発給する同様の文書は奉書(ほうしょ)と呼ばれますが、乗禅寺が受けたのはより高位の証となる御教書でした。
これにより、寺は朝廷と幕府の双方から特別な扱いを受けることとなり、国中でも名だたる祈願寺のひとつとして地位を確立しました。
在地豪族との結びつき
また、伊予の有力豪族である河野氏からは、寺領として五百石の寄進が行われました。
この寄進は単なる財産の提供にとどまらず、寺院と在地領主との結びつきを強固にし、乗禅寺は地域社会の中核的な役割を担うことになります。
寄進によって得られた安定した経済基盤により、七堂伽藍の維持や修復、僧侶たちの修行環境の充実、さらには年中行事や法会の盛大な開催が可能となりました。
名刹としての発展
こうした朝廷・幕府・在地豪族の三方からの庇護により、乗禅寺は格式・信仰・経済力の三拍子が揃った名刹となります。
その名は伊予国内にとどまらず、周防・安芸・讃岐といった周辺諸国にまで知られるようになり、巡礼や祈願のために訪れる人々が絶えない霊場として栄えていったのです。
火災からの復興と今治城の歴史
宝暦5年(1755年)、乗禅寺は大火災に見舞われ、本堂を含む多くの重要な建物が焼失しました。この火災は寺にとって大きな打撃であり、寺は一時衰退の危機に直面しました。
しかし、嘉永年間(1848年~1854年)に隆賢和尚(りゅうけんおしょう)が寺の復興を主導し、明治28年(1895年)には、本堂が改修されました。
今治城から受け継がれた山門
この復興の過程で、廃城となった今治城の門の一つ乗禅寺に移され、山門として第二の生を歩み始めます。
この門は慶長年間(1596~1614)に築かれた武家専用の通用門で、かつては城の辰巳の方位に構えられ、城下の防御と威厳を象徴する建物でした。
今治城は、関ヶ原の戦いで戦功を挙げた藤堂高虎によって築かれた日本有数の海城で、砂の吹き上げる海岸に建つため「吹揚城」、また海岸や砂浜を意味する「須賀」にちなみ「美須賀城(みすがじょう)」などとも呼ばれています。
1602年(慶長7年)に築城が始まり、堀や船入など当時の最新技術を駆使した城郭構造を誇りました。1608年(慶長13年)頃に完成し、その後は松平(久松)氏の居城として栄えます。
しかし、明治維新後の1869年(明治2年)、今治城は「当今時勢不用之品」とされ解体が決定。天守や櫓など多くの建築物は取り壊され、木材や石材は払い下げられました。
このとき、城を支えた材木の多くは、町の寺社や民家に受け継がれ、地域の中で第二の人生を歩むことになります。
その中で、門の一つが乗禅寺に譲られ、山門として新たな役目を担うこととなったのです。
乗禅寺に息づく、歴史の記憶
乗禅寺には、長い歴史を物語る重要な遺産が数多く残っています、
「延喜の観音さま」災火をくぐり抜けた御本尊
本堂に祀られる「延喜の観音さま」は、寺創建の古き時代から信仰を集めてきた霊験あらたかな御本尊で、歴史的・宗教的価値からも重要文化財に匹敵する存在です。
像高三尺七寸(約112センチ)の優美な立ち姿は、長い時を越えてなお、多くの人々の心のよりどころとなっています。
この観音像は、戦乱や火災に幾度も見舞われながら、奇跡的にそのたびに難を逃れ、現代まで伝えられてきました。
なかでも宝暦5年(1755年)の大火災の折には、本堂が炎に包まれるなか運び出されましたが、その際に一本の手を折るという傷を負いました。
後年修復は施されたものの、その痕跡は今も像に残されており、歴史の重みとともに訪れる者の胸に深い印象を残します。
後醍醐天皇・足利尊氏とのゆかりを伝える文書
乗禅寺にはまた、貴重な古文書も大切に受け継がれています。
後醍醐天皇が高僧・頓魚上人に祈祷を命じた文書、さらには将軍・足利尊氏による祈願文書が、今も原型のまま残されているのです。
これらの史料は、乗禅寺が単なる一地方の寺院にとどまらず、時の朝廷や幕府とも深く結びついていたことを静かに物語っています。
「乗禅寺石塔群」石に刻まれた祈りと歴史
今治市の野間地区を含む旧乃万村地区には、多くの石塔が点在しており、その中で16基が国の重要文化財に指定されています。
これらの石塔は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、村上海賊が全盛期を迎えた時代に作られたもので、地域の石造文化を象徴する重要な遺産です。
これに加えて、指定されていない石塔も数多く残っており、それらも年代や技術的に非常に優れたものが多く見られます。
乗禅寺の裏手には、重要文化財に指定されている16基のうち、なんと11基が境内に集まっており、「乗禅寺石塔群」と名付けられています。
乗禅寺石塔群は、宝筐印塔(5基)、五輪塔(4基)、宝塔(2基)で構成されており、それぞれが仏教における異なる宗教的・文化的な役割を果たしています。
例えば、五輪塔は密教の教えに基づいており、宇宙を構成する五大元素、すなわち「地・水・火・風・空」を象徴しています。
この五大元素は、物質と精神の両方の世界を表し、輪廻転生や解脱の概念と深く関わっています。
五輪塔は、この教えに基づいて、故人の魂が安らかに転生の輪を超えられるように祈りを込めて建立されました。
また、宝筐印塔や宝塔も、仏教世界を反映しています。宝筐印塔は、仏の功徳を象徴する塔として造られ、仏教の教義において重要な役割を果たします。
宝塔は、主に経典や仏舎利(仏の遺物)を納めるために造られ、信仰の中心的な象徴としての役割を担います
これらの石塔は、1704年(元禄17年)に周辺の山間部から集められ、現在のように整然と並ぶ姿となりました。
特に注目されるのは、正面中央の五輪塔と右の宝筐印塔で、「正中3年(1326年)」、左の宝筐印塔には「延文2年(1357年)」という刻銘が見られ、これにより制作年代が明確にわかる貴重な遺品となっています。
それぞれ異なる種類の石造美術品が一か所に集まっていることは全国的にも非常に珍しく、歴史的・美術的・学術的価値の高い貴重な資料となっています。
「久松定武の顕彰碑」
乗禅寺の石塔群のすぐ近くには、長年にわたり愛媛県知事を務めた久松定武(ひさまつ さだたけ)の顕彰碑(けんしょうひ)が建てられています。
久松定武は、旧伊予松山藩主久松家の嫡流に生まれた伯爵家の出身で、東京帝国大学大学院を修了後、三菱銀行での勤務を経て政界に転身。
1944年には貴族院議員となり、戦後は参議院議員、そして1951年から1971年までの20年間にわたり愛媛県知事を務めました。
知事在任中は、戦後の混乱と復興期にあって、交通網や産業基盤の整備、教育・文化政策の推進に尽力。
特にミカン栽培の振興や、県産ジュース「ポンジュース」の命名など、地域特産品の発展にも大きく貢献しました。
また、勤務評定制度導入など、教育行政にも強い姿勢で臨み、保守王国・愛媛の政治的基盤を築いた人物でもあります。
引退後も、愛媛県美術会会長や郵便貯金預金者の会中央連合会理事を務めるなど、文化・社会活動にも精力的に取り組みました。
1977年には松山市名誉市民の称号を受け、1995年に96歳でこの世を去りました。
顕彰碑は、久松の生涯と功績を今に伝えるものであり、地域住民にとっては郷土の発展に尽くした偉人として、今も深い尊敬と感謝を込めて語り継がれています。
「八木忠左衛と妻子のお墓」
さらに、乗禅寺の石塔群のすぐ近くには、江戸時代の義民として知られる「八木忠左衛門(やぎちゅうざえもん)」とその妻子のお墓があります。
村を救うため命をかけた庄屋の決断
貞享年間(1684〜1687年)、忠左衛門は延喜村(現在の愛媛県今治市)で庄屋を務めていました。
忠左衛門は誠実で情に厚く、常に村民の暮らしを第一に考える人物として知られ、困っている人を見れば自分のことのように心を痛める、立派な庄屋でした。
当時、村では重税に加えて害虫による凶作が続き、村民の暮らしは困窮していました。
忠左衛門は私財を投じて村人たちを救おうとしましたが、状況は改善されず、代官たちの横暴な取り立ては止まりませんでした。
度重なる嘆願にもかかわらず、年貢の減免や救助米の提供は拒否され続けました。
そこで忠左衛門は意を決し、村の窮状を藩に訴えるため、匿名で直訴状を藩の目安箱に投函しました。
この行動によって、藩は年貢の減免を認めましたが、役人たちは直訴状の筆跡や文体から忠左衛門に目星をつけ、捕らえるための追っ手を送りました。
当時、忠左衛門は息子の小太郎とともに讃岐の金毘羅大権現へ祈願に訪れており、一時身を隠していました。
しかし、家族は厳しい取り調べを受け、最終的に忠左衛門と小太郎は捕らえられ、1686年(貞享3年)、紺原村(こうのはらむら)の刑場で処刑されました。
処刑の際、忠左衛門は「百姓を頼む」と言い残し、最後まで農民たちを思いやる姿を見せました。
この言葉は立ち会った人々の心に深く刻まれ、忠左衛門の名は義民として称えられることになりました。
忠左衛門と小太郎の首は晒されましたが、村民たちはその死を深く悲しみ、涙ながらに合掌したと伝えられています。
忠左衛門一家の墓
忠左衛門とその家族のお墓は、乗禅寺の裏山に葬られています。当時は罪人扱いであったため、墓碑は粗末で、風化によって文字も読み取りにくい状態です。
しかし、忠左衛門の勇気と誠実さは村民によって語り継がれ、今でもその徳を称える行事として「延喜の子供相撲」が行われています。
この場所は、地域の歴史とともに義民の精神を後世に伝える大切な場となっています。
“隆賢和尚”の伝説と逸話
乗禅寺には、もうひとつの忘れられない人物、隆賢和尚の伝説が残されています。
いたずら小僧から破門へ
隆賢和尚は、波方町樋口村の百姓の家に生まれました。
幼いころはいたずら好きで、農作業を嫌がる困った子ども。村でも厄介者扱いされ、ついには家族の勧めで近くの乗禅寺に小僧として預けられます。
しかし、記憶力が悪く、お経もすぐに忘れてしまううえ、いたずら癖も治らず、とうとう破門されてしまいました。
「清水の舞台から飛び降りる」
「一人前の僧になりたい」
家にも帰ることができず、行くあてもなくなった隆賢は志を抱き、京都へ修行の旅に出ます。
ところが、どの寺でも覚えが悪いことが原因で、破門され続けました。
やがて深い絶望の淵に立たされた隆賢は、行くあてもないまま京都の町をさまよい、ついに清水寺へと辿り着きました。
清水寺は、切り立った崖の上に建つ古刹で、その舞台の高さは地上およそ12メートル、現代の建物に換算すると4階建てに相当します。
古くから、「観音様に命を預けて飛び降りれば命は助かり、願いがかなう」という民間信仰がありました。
このことから、命を懸けるほどの強い決意を「清水の舞台から飛び降りる」と表現するようになっていました。
この場所で隆賢は、観音様に向かって必死に祈りました。
「自分は志を持って故郷を離れたが、何一つ成し遂げられず、どうにもならない。もしこの道に進む価値があるなら、どうか自分を変えてほしい。役立たない人間であるなら、この命をここで終わらせてください」
祈りを終えた隆賢は、ついに覚悟を決めました。
後ろ向きに身をひるがえし、清水の舞台から飛び降りたのです。
奇跡の生還と再出発
その瞬間、視界は空に吸い込まれまたたくまに落下。
しかし、その願いが天に届いたのか、奇跡が起こりました。
隆賢は地面に激突することなく、腰を強く打って気絶はしたものの、一命を取り留めたのです。
そして、まるで運命に導かれるように、偶然その場を通りかかった僧侶が、倒れている隆賢を発見し、救いの手を差し伸べました。
この僧侶は、丹波の山奥にある、自らが住職を務める寺に隆賢和尚を引き取り、再び修行の道を歩ませました。
ここからが、隆賢の本当の修行の始まりでした。
隆賢は、一度死んだつもりであらゆる修行に打ち込みます。
六年間にわたる厳しい苦行の末、ついに人の心を見抜く「観心術」という特別な術を会得しました。
乗然寺の復興と命懸けの荒行
その後、修行を終えて故郷の乗禅寺に戻ったものの、寺は火災で焼失し、周囲は荒れ果てていました。
隆賢和尚は、寺の再建に生涯をかける覚悟を固めます。
そして、荒廃した寺を甦らせるには、ただの努力では足りない、己の命さえ投げ出す覚悟が必要だと悟ると、隆賢和尚は、手のひらに油を注ぎ、手燈明を捧げながら観音経を読経するなど、命がけの修行を行いました。
隆賢和尚は 手のひらに油を注ぎ、手燈明を捧げながら観音経を読経するなど、命がけの修行を行いました。
暗闇の本堂に、揺らめく炎と読経の声だけが響き渡る、まさに魂を削る荒行でした。
この壮絶な修行は、やがて人々の間で語り継がれるようになり、隆賢和尚のひたむきな姿は次第に信者たちの心を捉え、多くの参詣者が隆賢和尚を慕って寺を訪れるようになりました。
隆賢和尚は、参詣者の願いを見事に言い当て、またお説教も巧みであったことから、寺の再建は急速に進みました。
こうして、荒廃していた乗禅寺は、隆賢和尚の努力と信仰によって再建され、以前にも増して栄えることとなったのです。
この隆賢和尚の物語は、単なる伝説というよりも、実際の史実に基づく伝統的な伝記といえるかもしれません。
隆賢和尚の生涯は、いかに愚鈍であっても、真摯な努力と信仰によって偉業を成し遂げることができるという仏教の教えを象徴しています。
長友佑都選手の不思議なご縁
さらに、乗禅寺には、愛媛県西条出身のプロサッカー選手、長友佑都(ながとも・ゆうと) さんの足形が残されており、サッカーファンにとっても知る人ぞ知る必見のスポットとなっています。
長友選手は、中学・高校時代に幾度も壁にぶつかり、そのたびに母・りえさんがこの寺で祈願を重ねてきました。
レギュラー落ちに悩んでいた中学時代、母親がご祈祷すると、翌日に見事レギュラー復帰。
さらに、24歳の厄年に初めて本人が参拝した直後には、イタリア・セリエAへの移籍が決まるなど、まるで祈りが後押しするかのようなエピソードが残されています。
やがて長友選手は、恋愛相談のために訪れたこともあり、結婚前の平愛梨さんを連れて寺を訪れたこともあったそうです。
こうした秘話も重なり、境内に残された足形は、サッカーだけでなく、人生の「一歩踏み出す力」を象徴する存在となりました。
このように乗禅寺は、古の祈りと現代の希望が重なる、特別なパワースポットです。
訪れた際には、長友選手の足形にそっと手を重ね、自分自身の新たな一歩を願ってみてはいかがでしょうか。