延喜地区「えんぎの観音さま」として知られる「乗禅寺(じょうぜんじ)」は、昌泰元年(898年)に醍醐天皇(だいごてんのう)の発願によって、国家の安泰や皇室の繁栄を祈願するために建てられました。
伝説が紡ぐ創建物語
乗禅寺(じょうぜんじ)の創建には、いくつかの伝説が語り継がれています。
例えば、宅間の長者とも呼ばれていた「花木長者」が大井の浜で観音像を見つけ、これを持ち帰って現在の小谷に祀ったのが寺の始まりとされる説。
菅原道真が讃岐(現在の香川県)の国司を務めていた際、海上で嵐に遭遇し、天皇から授けられた一寸八分(約5.5センチ)の観音像をこの地に安置したことが、乗禅寺の創建のきっかけという説などがあります。
頓魚上人の創建伝説
当サイトでは、社伝にも伝わっている頓魚上人(とんぎょしょうにん)の伝説から始めます。
その昔、伊予の国(現在の愛媛県)の野間郡小谷村に、喜作という人が住んでいました。喜作の父親は医者で、村の人々から信頼されていました。ある日、喜作が隣村の大井(現在の大西町)で病人を診た帰りに、浜辺で一寸八分(約5.5センチ)の観音像を見つけました。この観音像は、龍女という神秘的な存在が作ったものだと伝えられています。
喜作はその観音像を持ち帰り、毎日大切に拝みました。その後、観音像を安置するためにお堂を建て、さらに自身も出家して「良玄」という名前に改めました。
良玄は後に「頓魚上人(とんぎょしょうにん)」とも呼ばれるようになりました。
やがて、頓魚上人(あるいは宥然上人とする説もあります)の法力(仏の力を借りる力)は次第に広く知られるようになり、その噂は朝廷(政府)にも届くことになります。
898年、重い病に倒れていた醍醐天皇(だいご)が住まう宮中に、伊予国から帰ってきたばかりの菅原道真が訪れました。
当時の天皇の病は長引き、宮中でも回復の見込みが立たない状況でした。天皇の病態を心配していた道真は、伊予国で知ったある僧侶の話をすることにしました。
その僧侶こそが、頓魚上人でした。
菅原道真は、頓魚上人が持つ高い法力、つまり仏の加護を借りて病気を治す力が素晴らしく、これまでに多くの病人を救ったという話を天皇に伝えました。伊予の地では、頓魚上人がどんなに重い病気でも治してしまうという評判が広まっていたのです。
天皇はその話を聞き、すぐに頓魚上人を宮中に呼び寄せるよう命じました
宮中に呼ばれた頓魚上人は、到着するやいなや醍醐天皇の病を治すための祈祷を始めました。天皇の病は非常に重く、宮中の人々は皆、不安に包まれていましたが、頓魚上人は落ち着いた態度で祈りを捧げました。
そして、驚くべきことに、頓魚上人が祈祷を始めてから三日も経たないうちに、天皇の病状はみるみるうちに改善し始め、ついには完全に回復しました。
この奇跡的な回復により、宮中の人々は大いに驚き、頓魚上人の名声は一層高まりました。
「伊予国延喜乗禅寺」皇室認定
醍醐天皇自身も頓魚上人に深い感謝の念を抱き、延喜元年(901年)、頓魚上人が住職を務めていたお寺は、「伊予国延喜乗禅寺」と名付けられ、皇室の守護を願うための正式な寺「勅願寺(ちょくがんじ)」に認定されました。
名前に醍醐天皇の治世の元号「延喜」という名前がつけられたことからも、皇室との深い関係が伝わってきます。
「延喜の観音さま」
観音像も、延喜という年号にちなんで「延喜観音(延喜の観音さま)」と呼ばれるようになりました。
「延喜村の誕生」
乗禅寺がある小谷村も「延喜村」と改められ、その名前は現在の地名としても残っています。この名前の由来が地域の歴史に深く根付いていることがわかります。
【本尊】如意輪観世音菩薩
さらに醍醐天皇は、仏師の安阿彌(あんなみ)に命じて、手が六本ある木彫りの如意輪観世音菩薩の座像が作られました。安阿彌は、馬越の鯨山(鯨山古墳)で飲食を慎み、水行(みずぎょう)をして心身を清め、この仏像を彫りました。
この如意輪観音菩薩像の制作にあたり、それまで大切に祀られていた一寸八分(約5.5センチ)の観音像を新しい仏像の腹の中に納めたと言われています。
他には、有力な説ではないものの、六人の僧侶が力を合わせて本尊を彫刻したという話も伝わっています。この伝承は、歴史的な証拠が少ないため、主流の説として広く受け入れられているわけではありませんが、地域の伝統や口承文化の中で今もなお語り継がれています。
願いを叶える御陵の伝承
930年に醍醐天皇が亡くなると、乗禅寺の裏山に御陵(ごりょう:天皇や皇族の墓)が建てられ、地元の人々の間で「帝さん(みかどさん)」と親しまれるようになりました。
そして、いつしかこの御陵は「誰でもひとつだけ願いが叶う」とい伝えられるようになりました。
この言い伝えがどのようにして生まれたのかは定かではありませんが、醍醐天皇の慈悲深さや、人々を救おうとする心がその背景にあると考えられています。かつて病を癒した頓魚上人の祈祷や、天皇自身が奇跡的な回復を遂げた逸話が、この言い伝えにつながったのかもしれません。
現在でもこの伝承は広く信じられており、乗禅寺は多くの人々の心の拠り所となっています。
後醍醐天皇と七舌上人の奇跡
時代は進み、後醍醐天皇の御代(1318〜1339年)。乗禅寺には奇しくも「頓魚上人」という前時代の頓魚上人とは別人ながら、その名を継ぐ、不思議な法力を持つ僧侶が住職を務めていました。
頓魚上人が一人でお経を唱えると、まるで七人の僧侶が一斉に読んでいるかのように響き渡ったため、「七舌上人(しちぜつしょうにん)」とも呼ばれていました。
そんなある時、後醍醐天皇が重い病にかかってしまい、宮中の医師たちによる治療も効果がなく、天皇の病は日に日に悪化していきました。宮廷は不安に包まれ、誰もが天皇の病の快癒を祈り続けていました。しかし、天皇の病状は良くなる兆しが見えませんでした。
そんなある夜、天皇が深い眠りにつくと、夢の中に神々しい姿の「延喜の観音さま」が現れ、穏やかな声で「私を祈祷すれば、あなたの病は立ちどころに癒えるでしょう」と告げました。
よく朝、これは神様からの御告げであると信じた天皇は、すぐに「延喜の観音さま」を祈祷するため、乗光寺の頓魚上人に祈祷を依頼しました。
そして頓魚上人(とんぎょしょうにん)は、天皇の病を癒すため、宮中へと出向きましたが、宮中の門は厳重に警備されており、門番たちは門を通してくれませんでした。
頓魚上人は天皇に招かれたと名乗り出たものの、その言葉は信じてもらえず、門番たちは田舎から来た僧侶が何かを言っていると嘲笑しながら、「本当に法力があるなら、ここで証拠を見せてみろ」と挑発しました。
頓魚上人は静かに扇子を取り出すと、そばに咲いていた梅の花を軽くあおぎました。すると、驚くべきことに、梅の花は一斉に散り始め、地上に降り積もりました。
周囲がこのまさかの光景に驚いていると、今度は散ったはずの梅の花びらがふわりと舞い上がり、再び元通りの枝に戻っていきました。
この奇跡を目の当たりにした警備の者たちは、すぐさま天皇にそのことを報告しました。天皇は本物の頓魚上人であると確信し、すぐさま正式に宮中へ迎え入れるよう命じました。
こうして、頓魚上人は無事に宮中へ案内され、後醍醐天皇のもとで心を込めたもてなしを受けました。
そして、頓魚上人は後醍醐天皇の病を治すために祈祷を始めました。心を込めた祈りが続けられ、徐々に天皇の体調は良くなっていき、ついにはその病が完治ました。
後醍醐天皇は頓魚上人と乗禅寺にの深い信頼を受けた頓魚上人は、乗禅寺に対して大きな支援を受けることができました。この特別な信頼により、寺は再び七堂伽藍(主要な建物群)の改修と再建が行われ、寺がさらに発展しました。
乗禅寺の高い格式
その後、乗禅寺は天皇の側近である「蔵人(くろうど)」が天皇の意向を受けて作成した文書である「綸旨(りんじ)」を賜りました。この綸旨は、特別な紙である「宿紙(しゅくし)」(漉き返しの再生紙)に書かれ、天皇の意志を正式に伝えるものでした。
さらに、将軍足利尊氏からは「御教書(ごきょうしょ)」を受けました。この「御教書」は、平安時代後期から室町時代にかけて、三位以上の高位にある人々が、その意向を家司を通じて発給した正式な文書のことです。これにより、寺は将軍からも強力な支援を受けることになりました。一方、四位以下の公家や守護大名クラスの武士が発給する同様の文書は「奉書(ほうしょ)」と呼ばれます。
また、河野家からは寺領として五百石の寄進があり、これによって乗禅寺はさらに豊かになり、経済的に安定しました。
このように、乗禅寺は天皇からの綸旨、将軍足利尊氏からの御教書、そして河野家の寄進によって強く支えられ、その後も歴代の藩主によって手厚い保護を受け、重要な寺院としての地位を確立し続けました。
火災からの復興
宝暦5年(1755年)、乗禅寺は大火災に見舞われ、本堂を含む多くの重要な建物が焼失しました。この火災は寺にとって大きな打撃であり、寺は一時衰退の危機に直面しました。
しかし、嘉永年間(1848年~1854年)に隆賢和尚(りゅうけんおしょう)が寺の復興を主導し、明治28年(1895年)には、本堂が改修され、廃城となった今治城の辰ノ口門を移して慈照門としました。
乗禅寺の歴史を語る遺産
乗禅寺には、長い歴史を物語る重要な遺産が数多く残っています、
「延喜の観音さま」は、乗禅寺の歴史の中で幾度もの兵火に見舞われながらも、そのたびに難を逃れ、現在も寺の御本尊として大切に祀られています。この観音像は高さ三尺七寸(約112センチ)あり、その歴史的・宗教的価値から十分に重要文化財として認定されるに値するものです。
しかし、宝暦5年(1755年)の大火災で本堂が焼失した際、観音像を運搬中に不幸にも手を一本折ってしまいました。後に修理が施されましたが、その箇所がわずかに残っており、歴史の中で残念な部分とされています。それでも、この観音像は今も変わらず乗禅寺のシンボルとして、多くの人々の信仰を集めています。
さらに、後醍醐天皇が頓魚上人に祈祷を依頼した書物や、将軍足利尊氏が祈祷を依頼した文書が原型のまま保存されています。これらの書物は、寺の歴史における重要な証拠であり、後醍醐天皇や足利尊氏と乗禅寺の強い結びつきを示す貴重な遺産です。
これらの文書を通じて、乗禅寺がいかに皇室や幕府との深い関係を築いてきたかが伺えます。
「乗禅寺石塔群」
今治市の野間地区を含む旧乃万村地区には、多くの石塔が点在しており、その中で16基が国の重要文化財に指定されています。
これらの石塔は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、村上海賊が全盛期を迎えた時代に作られたもので、地域の石造文化を象徴する重要な遺産です。
これに加えて、指定されていない石塔も数多く残っており、それらも年代や技術的に非常に優れたものが多く見られます。
乗禅寺の裏手には、重要文化財に指定されている16基のうち、なんと11基が境内に集まっており、「乗禅寺石塔群」と名付けられています。
乗禅寺石塔群は、宝筐印塔(5基)、五輪塔(4基)、宝塔(2基)で構成されており、それぞれが仏教における異なる宗教的・文化的な役割を果たしています。
例えば、五輪塔は密教の教えに基づいており、宇宙を構成する五大元素、すなわち「地・水・火・風・空」を象徴しています。この五大元素は、物質と精神の両方の世界を表し、輪廻転生や解脱の概念と深く関わっています。五輪塔は、この教えに基づいて、故人の魂が安らかに転生の輪を超えられるように祈りを込めて建立されました。
また、宝筐印塔や宝塔も、仏教世界を反映しています。宝筐印塔は、仏の功徳を象徴する塔として造られ、仏教の教義において重要な役割を果たします。宝塔は、主に経典や仏舎利(仏の遺物)を納めるために造られ、信仰の中心的な象徴としての役割を担います
これらの石塔は、1704年(元禄17年)に元々山間に散在していたものを集めて一か所に配置されたもので、現在でも整然と並び、訪れる人々を惹きつけます。特に注目されるのは、正面中央の五輪塔と右の宝筐印塔で、「正中3年(1326年)」、左の宝筐印塔には「延文2年(1357年)」という刻銘が見られ、これにより制作年代が明確にわかる貴重な遺品となっています。
それぞれ異なる種類の石造美術品が一か所に集まっていることは全国的にも非常に珍しく、これらは歴史的にも美術的にも研究価値が高く、貴重な資料とされています。
「久松定武の顕彰碑」
乗禅寺の石塔群のすぐ近くには、長年にわたり愛媛県知事を務めた久松定武(ひさまつ さだたけ)**の顕彰碑(けんしょうひ)が建てられています。久松定武は、1951年から1971年までの20年間、愛媛県知事として地域の発展に多大な貢献を果たした人物です。戦後の復興期には、県の経済基盤を整え、交通インフラの整備を進め、地域住民の生活向上に尽力しました。
引退後も愛媛県美術会の会長を務めるなど、文化振興に尽力しました。その後、1977年には松山市名誉市民の称号を授与され、1995年に96歳で逝去しています。
久松定武の功績は、地域にとって非常に大きなものであり、現在でも愛媛県の歴史に深く刻まれ、地域の人々に感謝と敬意を持って語り継がれています
「八木忠左衛と妻子のお墓」
さらに、乗禅寺の石塔群のすぐ近くには、江戸時代の義民として知られる「八木忠左衛門(やぎちゅうざえもん)」とその妻子のお墓があります。
貞享年間(1684〜1687年)、八木忠左衛門は延喜村(現在の愛媛県今治市)で庄屋を務め、村民が重税や害虫による凶作に苦しんでいる状況を目の当たりにしました。自身の財産を使って村民を救おうと試みましたが、焼け石に水で、どうにもならない状況に陥っていました。代官たちは横暴な振る舞いを続け、村民の苦しみはさらに深まりました。度重なる嘆願にもかかわらず、代官は年貢の減免や救助米の提供を拒否し続けました。
そこで、八木忠左衛門は意を決し、村の窮状を藩に訴えるため、匿名で直訴状を藩の目安箱に投函しました。この行動によって、藩は年貢の減免を認めましたが、役人たちは犯人を探し出そうとしました。忠左衛門の書いた直訴状の文体や筆跡が優れていたことから、忠左衛門が犯人であると目星をつけられ、捕まえるために追っ手が送り込まれました。
当時、忠左衛門は息子の小太郎とともに讃岐の金毘羅大権現へ祈願に訪れており、身を隠していました。しかし、知らぬ間に家族は厳しい取調べを受け、最終的に忠左衛門と小太郎は捕らえられ、1686年(貞享3年)に紺原村(こうのはらむら)の刑場で処刑されました。
処刑の際、八木忠左衛門は「百姓を頼む」と最後に語り、農民たちのことを最後まで思いやる姿勢を見せました。この言葉は立ち会った人々の心に深く刻まれ、忠左衛門の名は義民として称えられました。忠左衛門と小太郎の首は晒されましたが、村民たちはその死を深く悲しみ、涙ながらに合掌しました。
忠左衛門とその家族のお墓は乗禅寺の裏山に葬られ、当時は罪人扱いであったため、墓碑は粗末で、風化によって文字も読みづらい状態です。
しかし、忠左衛門の勇気と誠実さは村民によって語り継がれ、今でもその徳を称える行事として、延喜の子供相撲が行われています。この場所は、地域の歴史と共に義民の精神を後世に伝える大切な場となっています。
隆賢和尚の伝説と逸話
乗禅寺には、隆賢和尚の伝説が残されています。
隆賢和尚の生まれは、現在の愛媛県波方町に位置する樋口村の百姓家でした。しかし、幼い頃からいたずら好きで百姓仕事もせず、家族や村人からは厄介者と見られていました。やがて、家族は手を焼き、村から約四キロ離れた乗禅寺に隆賢を小僧として預けました。しかし、乗禅寺でも問題は解決しませんでした。隆賢は記憶力が鈍く、お経を覚えることができず、いたずらも一向にやむことはありませんでした。経典を学ぶ努力をするものの、すぐに忘れてしまい、最後には破門を言い渡されるまでに至りました。
乗禅寺から破門された隆賢和尚は、家にも帰ることができず、志を立てて京都へ修行の旅に出ました。数々の寺を訪れ修行を試みましたが、どの寺でも頭の鈍さが災いし、破門され続ける日々が続きました。困り果てた隆賢和尚は、絶望の中で清水寺に足を運び、観音様にこう祈りました。
「自分は志を持って故郷を離れたが、何一つ成し遂げられず、どうにもならない。もしこの道に進む価値があるなら、どうか自分を変えてほしい。役立たない人間であるなら、この命をここで終わらせてください」
そして地上12メートル、高さ4階建てのビルに相当する清水の舞台から、後ろ向きに飛び降りました。
その願いが天に届いたのか、奇跡が起こりました。隆賢和尚は地面に激突することなく、腰を強打し気絶はしたものの、命は無事でした。そして、まるで運命に導かれるように偶然通りかかった僧侶が隆賢和尚を発見し、救いの手を差し伸べたのです。
この僧侶は隆賢和尚を丹波の山奥にある寺に引き取り、再び修行の道を歩ませました。ここから隆賢和尚の本当の修行が始まります。一度死んだつもりで全てに打ち込み、厳しい苦行を六年間も続けました。やがて隆賢和尚は、人の心を見抜く「観心術」という特別な術を会得しました。
修行を終えて故郷の乗禅寺に戻った時、寺は火災で焼失し、周囲は荒廃していました。隆賢和尚は、寺の再建に全力を注ぎ、特に荒行が有名です。手のひらに油を注ぎ、手燈明を捧げながら観音経を読経するなど、命がけの修行を行いました。
その姿勢は、次第に信者たちの心を捉え、多くの参詣者が隆賢和尚を慕って寺を訪れるようになりました。隆賢和尚は、参詣者の願いを見事に言い当て、またお説教も巧みであったことから、寺はますます繁栄していきました。荒廃していた乗禅寺は、隆賢和尚の努力と信仰によって再建され、前にも増して栄えることとなりました。
この隆賢和尚の物語は、単なる伝説というよりも、実際の史実に基づく伝統的な伝記といえるかもしれません。隆賢和尚の生涯は、いかに愚鈍であっても、真摯な努力と信仰によって偉業を成し遂げることができるという仏教の教えを象徴しています。
長友佑都の足跡
さらに、乗禅寺には、愛媛県西条出身のプロサッカー選手、長友佑都さんの足形が残されており、サッカーファンにとっても知る人ぞ知る必見のスポットとなっています。歴史だけでなく、現代のスポーツとの繋がりも感じられるこの場所で、新たな発見を楽しんでください。