戦国の記憶を見守る400年の桜
愛媛県今治市菊間町池原には、春の訪れとともに人々を惹きつける場所があります。
それが、曹洞宗の古刹「掌禅寺(しょうぜんじ)」です。
人々の目当ては、境内にそびえる金龍桜(きんりゅうざくら)。
寺の山号である金龍山(きんりゅうざん)にちなんで名付けられたこの桜は、樹齢約四百年を誇るエドヒガンの巨木で、幹回りは約3.8メートル、樹高は16メートルにも及びます。
咲き始めは鮮やかなピンク、散り際にはほとんど白色へと変化し、境内を華やかに彩ります。
昼は菜の花との共演、夜はライトアップされ幻想的な姿を見せ、春になると多くの花見客で賑わいます。
毎年春には、掌禅寺でお釈迦さまの誕生を祝う花まつりが行われ、地元の音楽グループによる演奏やコンサートも開かれます。
夜には菊間特産の瓦を使った瓦灯籠が灯され、幻想的でロマンチックな雰囲気の中、訪れる人々は夜桜を楽しみます。
そんな華やかな春の景色で知られる掌禅寺ですが、いつ建立されたかを示す明確な記録は残されていません。
しかし、伝承や寺に残る記録から、天正年間(1573〜1592)にはすでに創建されていたと考えられています。
そして、この創建の背景には、かつてこの地に築かれていた高仙山城(こうぜやまじょう)と、その城をめぐる戦国の歴史が深く関わっていると伝えられています。
高仙山城と落城伝説
高仙山城は正平年間(1346年頃)、伊予の名門・河野一族の血を引く池原近江守通去によって築かれたとされる山城です。
標高は高くはないものの、山頂からは瀬戸内海・斎灘を一望できる要害の地に位置し、古来より海上交通の監視と防衛の要所でした。
築城以来、池原氏が代々城主を務め、河野水軍の一翼として瀬戸内海の制海権を担いました。
永禄年間(1558〜1570)には池原兵部通吉が城主として城下の統治や港の管理、沿岸防備にあたり、地域の政治・経済・軍事の中心として機能していました。
しかし、永禄年間を経て戦国時代も末期に差しかかると、伊予国の情勢は大きく動き始めます。
長宗我部元親が土佐から勢力を拡大し、伊予・讃岐・阿波へと侵攻を進め、河野氏はその侵攻に苦しめられていました。
一方、瀬戸内海の要衝を押さえる村上水軍も分裂の兆しを見せます。
来島村上氏の裏切りと脱出
村上水軍の御三家のひとつ、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、河野氏への忠義を守りつつも、次第にその将来性に疑念を抱くようになります。
通総は、河野氏が毛利氏と連携しながらも長宗我部氏や織田信長の圧力に苦しみ、いずれ一族が滅びるのではないかと危惧していました。
さらに通総の父・来島通康がかつて河野家の家督相続を約束されながら反故にされた経緯もあり、河野氏との関係は決して良好とはいえない状況にありました。
ついに天正9年(1581年)、通総は重大な決断を下します。
河野氏との関係を断ち、豊臣秀吉(羽柴秀吉)との同盟を選んだのです。
この決断により、村上水軍は来島氏が豊臣方、能島氏・因島氏が毛利・河野方という形で分裂。
瀬戸内海の勢力図は大きく変わることとなりました。
しかし、この裏切りに対して毛利氏と河野氏は激しく反発。
毛利水軍が来島を包囲し、因島・能島の村上氏も加わって来島村上氏を攻撃します。
通総は一族の存亡をかけて徹底抗戦しましたが、やがて追い詰められ、来島を放棄せざるを得ない状況に陥ります。
この危機的状況で通総は決死の脱出を決断。
毛利・河野・村上水軍の厳しい海上封鎖を突破し、命からがら豊臣秀吉の陣営へと落ち延びました。
天正十三年の四国攻め
同じ頃、天下の情勢を揺るがす本能寺の変が発生。
織田信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、織田政権の主導権を掌握します。
秀吉は信長の遺志を継ぎ、天下統一を推し進める過程で、かつて敵対していた毛利氏とも講和を結び、和睦を成立させました。
これにより中国地方の戦線は終結し、秀吉は次なる標的を四国へと定めます。
当時の四国では、土佐の長宗我部元親が勢力を拡大し、阿波・讃岐・伊予の大半を制圧していました。
元親は「四国の覇者」として君臨し、織田家の圧力にも従わず勢力拡大を続けていたため、秀吉は元親討伐を決意します。
天正十三年(1585)、秀吉は小早川隆景を総大将、宇喜多秀家・黒田官兵衛・仙石秀久らを副将とし、水軍を含めた水陸十万ともいわれる大軍を四国へ送り込みました。
豊臣軍は讃岐・阿波・伊予の三方面から同時進撃し、各地で長宗我部方の城を攻略。
讃岐では十河城をはじめとする主要城郭が次々と落城、阿波でも蜂須賀家政・仙石秀久らが平定を進めました。
伊予方面では、小早川隆景率いる毛利勢が先鋒を務め、新居浜に上陸。
上陸後はまず東伊予の高尾城など、長宗我部元親の影響下にあった城砦群を攻略し、その後進路を西へ変えて進撃しました。
道中では重茂城・無宗天城など河野氏方の支城も降伏、あるいは落城させ、伊予守護・河野通直の本拠湯築城を目指して進軍を続けます。
高仙山城の落城
この時の高仙山城主は池原近江守通吉でした。
通吉は河野一族の重臣として、永禄十一年(1568)に牛福丸(のちの河野通直)が河野氏宗家を継いでからは後見役を務め、若き当主を支えました。
通吉は天正七年(1579)に没するまで、河野氏政権の中心人物として活躍し、伊予国内の政務と軍事を統率しました。
通吉の没後は家督が池原兵部通成に引き継がれ、通成は高仙山城主としてこの地域の防備にあたることとなります。
池原兵部通成は、敵軍の勢いを削ぐため籠城ではなく出撃を選び、わずか二百余騎を率いて大門大松山(現在の伊予亀岡駅付近)に布陣。
果敢に毛利軍を迎え撃ちました。
しかし、多勢に押され敗走を余儀なくされます。
長谷の山崎の砦も陥落し、通成はわずか十九名の残兵とともに高仙山城へ退却。
城では決死の籠城戦が展開されましたが、刀折れ矢尽きるまでの奮戦もむなしく、ついに抗戦は不可能となります。
天正十三年七月十三日、真っ赤な夕日が西の斎灘へと沈む頃、十九歳の若き城主・通成は自刃し、高仙山城は落城したと伝えられています。
その後、通成や討ち死にした城兵の霊を慰めるため、山頂に鎮座する高仙神社の境内に池原神社が創建されました。
池原神社は、今も高仙山の山頂で地域の人々に崇敬され、戦国の悲劇と武士たちの忠義を後世に伝える鎮魂の場となっています。
落城の記憶と掌禅寺の創建
高仙山城落城の悲劇は、単なる歴史的事実としてではなく、地域の人々の心に深く刻まれ、数多くの伝承や民話として現代まで語り継がれています。
その中で、掌禅寺の創建にもこの落城の記憶が深く関わっていると考えられています。
掌禅寺の開基は、位牌に「掌禅寺殿日晴東光大居士」と記される河野道光と伝えられています。
位牌には天正十五年(1587年)七月十日に没したとあり、この人物が生前に掌禅寺を建立したと考えられています。
ただし、河野道光がどのような人物であったのか、詳細を伝える確実な資料は残されていません。
地域の伝承では、高仙山城主・池原兵部通成の子である太郎右衛門と結びつける説や、実は城主は得居氏で河野一族の流れをくむ得居太郎通光であったとする説など、さまざまな解釈が伝わっています。
そして昭和六十年(1985年)、高仙山城落城から四百年という節目の年には、掌禅寺と太郎坊の両方で戦没者の霊を慰める大規模な供養が盛大に営まれました。
この供養は、地域に連綿と受け継がれてきた祈りと鎮魂の心がひとつの形となった象徴的な出来事であり、戦国の悲劇を今に伝える大切な節目となりました。
勝禅寺として創建
開山は枯渓本牛禅師(こけいほんぎゅうぜんし)と伝えられていますが、その詳細は明らかではありません。
ただし、創建当時は現在の「掌禅寺」という名ではなく「勝禅寺」と称されていたことがわかっています。
その後いつの時期に現在の寺名に改められたのかは定かではありませんが、寺領坪付には「勝禅寺」の名が記されており、天正十四年(1586年)の記録には「門前(もんぜん)」という地名が使われていることから、
この地にすでに寺院が存在していたことが確認できます。
前後の史料が乏しいため文字の変遷については明確ではありませんが、寺領坪付にも「勝禅寺」の名が記されており、天正十四年(1586年)の記録には「門前(もんぜん)」という地名が用いられていることから、この地にすでに寺院が存在していたことが確認できます。
さらに、この寺領は近隣の遍照院よりも広かったと伝えられており、当時から地域の有力な寺院であったことがうかがえます。
「江戸時代」神仏習合時代の役割
創建後の掌禅寺(勝禅寺)は、この地域において重要な信仰の拠点として大きな役割を果たしていました。
戦国の動乱を経た時代において、人々にとって寺院は単なる宗教施設にとどまらず、精神的な拠り所であり、共同体の中心でもありました。
そのため、掌禅寺は地域社会を支える存在として、人々の生活や信仰に深く関わっていたのです、
客刀比宮神社の別当寺
隣接地に、慶長六年(1601年)十月に金毘羅宮(現・客刀比宮神社)が創建されると、掌禅寺の僧侶が社僧・別当として祭祀を担いました。
すでに天正七年(1579年)に建立されていた柱珠庵(ちゅうじゅあん)がその拠点となり、神社の行事や祈願を取り仕切る中心的な役割を果たしました。
この時代は、神と仏が同じ空間で祀られ、互いの存在を補い合いながら人々の暮らしと精神文化を支えた神仏習合の時代でした。
寺院は先祖供養や仏法の教えを説く場であると同時に、神社の祭祀にも深く関わり、豊作祈願や厄除け、地域の平穏を祈る行事が一体となって行われていました。
こうした背景のもと、掌禅寺(当時は勝禅寺)は単なる寺院としての役割を超え、村人の精神的な支柱として、地域の神事・仏事の中心を担う存在となったのです。
当時の記録によれば、祢宣(禰宜:ねぎ)は客刀比宮神社の神主・白石家が務めていた記されています。
祢宣とは、神社における神職の役職名で、宮司を補佐して祭祀や神社運営に携わる重要な役割を担う人物です。
こうした祢宣と社僧別当が互いに連携することで、神社と寺院はまさに一体となり、地域社会における精神文化の中核として機能していました。
掌禅寺の再興と本堂再建
江戸時代末期、掌禅寺は一時衰微し、堂宇の損壊も進んでいました。
そこで本寺である松山市の龍穏寺から大鏡長老が派遣され、当山第10世住職としておよそ10年間にわたり住山し、再興に尽力しました。
その結果、弘化2年(1845)には本堂が再建され、願主・長野半十郎、村庄屋・河原田友三郎、大工棟梁・常蔵・千蔵、木挽・岩蔵ら、地域の人々の協力によって伽藍が整えられました。
再建された本堂は、今日に伝わる掌禅寺の姿の基礎となっています。
神仏習合の記憶を伝える
1868年(明治元年)、新政府は近代国家の建設を進める中で、神道を国教的な位置づけとする政策を打ち出し、神仏分離令を発令しました。
これにより、日本各地で長らく続いてきた神仏習合の形は大きく崩れ、多くの寺院が神社との関係を解消することとなります。
掌禅寺もこの影響を受け、明治二年(1869年)には客刀比宮神社(旧:金毘羅宮)の別当寺としての役割を離れ、独立した曹洞宗寺院として現在へと続く新たな歩みを始めました。
しかし、かつて寺と神社が一体となって地域の祈りや祭りを支えていた神仏習合時代の面影は、今も境内の随所に息づいています。
入り口に残る「金比羅山」と刻まれた石碑や、山門に掲げられた「野間郡一郡一社 金毘羅大権現」の銘は、神と仏がともに祀られ、村人たちが豊作や安寧を願って集った往時の情景を静かに伝えています。
地域とともに生きる祈りの場
このように、掌禅寺は戦国時代の落城の記憶を伝える場であり、神仏習合の時代には地域の祭祀と祈りを担い、近代以降は独立した曹洞宗寺院として歩みを重ねてきました。
曹洞宗において宗門全体の御本尊は「お釈迦さま」であり、参拝の際には「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。
掌禅寺もこの教えを基盤としつつ、境内には延命地蔵大菩薩を本尊として安置しています。
かつては木彫の尊像でしたが老朽化により倒壊し、現在の金銅仏は昭和二十六年(1951年)に迎座・開眼されたものです。
今も地域の人々や参拝者の祈りを受け止め、安らぎと力を与え続けています。
また、境内の象徴である金龍桜は、その長い寿命から考えると、掌禅寺の創建(天正年間)とほぼ同じ時期に植えられた可能性も高く、まさに寺の歴史とともに時を刻んできた一本といえるでしょう。
平成30年(2018年)の西日本豪雨で境内が被災しましたが、地域住民や檀信徒の尽力により復旧が進められ、再び多くの人々を迎える場所として整えられました。
この復興の過程も、掌禅寺が今も地域にとってかけがえのない拠り所であることを物語っています。