愛媛県今治市の八幡山中腹にある「浄寂寺(じょうじゃくじ)」は、平安時代中期に創建された禅宗の寺院です。
近くには国八十八ヶ所霊場 第57番札所「栄福寺(えいふくじ)」もあり、この一帯は「石清水八幡神社(いわしみずはちまんじんじゃ)」を中心とする神仏習合の信仰の場として、長く人々の暮らしとともに歩んできました。
長い歴史の中で、浄寂寺は単なる宗教施設としてだけでなく、地域の苦難と再生に寄り添ってきた場でもあります。
特に、飢饉や災害の際に人々を救おうとした僧や庄屋たちの物語は、今なお地域に語り継がれています。
石清水八幡神社の別当寺 「能寂寺」
天慶年間(938〜947年)。
八幡山の中腹に「鳩峰山 能寂寺(きゆうほうざん のうじゃくじ)」という寺院がありました。
当時は、「神仏習合(しんぶつしゅごう)」の思想が広く浸透しており、能寂寺は石清水八幡宮(石清水八幡神社)を監督する別当寺(べっとうじ)としての役割を果たしていました。
神仏習合とは
神仏習合とは、日本固有の神々(神道)と外来の仏教(仏教信仰)を対立させることなく調和させようとする宗教観で、奈良時代から平安時代にかけて盛んになりました。
たとえば、神は仏が仮の姿で現れたものであるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」思想に基づき、神社の境内に寺を建てたり、神を仏として礼拝することも行われました。
別当寺とは
このような神仏習合の思想に基づき、神社と寺院は一体的に機能し、神社の宗教的実務や管理を寺院が担うことが一般的となりました。
このとき、神社の運営・祭祀を取り仕切る立場にあった寺院を「別当寺(べっとうじ)」といいます。
別当寺の僧侶(別当)は、神社の儀礼を主導し、社領の管理や神事の実施、寺院としての修行も担うなど、宗教・行政の中核として重要な役割を果たしていました。
「八幡三味堂」神と仏をつなぐ寺
能寂寺もまた、石清水八幡宮の別当寺として、その実務的な役割を担っていました。
石清水八幡宮に宛てられた手紙や書状、公的な文書などは、まず能寂寺に送られ、僧侶たちが内容を確認・整理したうえで、正式に神社へと届けられていたといいます。
このような重要な中継・管理の役割を担っていたことから、能寂寺は「八幡三味堂(はちまんさんまいどう)」とも呼ばれていました。
「能寂寺文書」戦国時代における河野氏の保護
当時の能寂寺は、宗教的な権威のみならず、地域の中心的な役割を果たしており、境内には三重塔(もしくは五重塔)があり、寺の領地は山のふもと一帯にまで広がっていました。
しかし、時代が進み武士の時代になると、武士たちは自分たちの領地を広げるため、寺院の田畑を強引に奪ったり、荘園や財産に手を出すなどの行為が横行するようになりました。
その結果、戦国時代の後半の1560年頃には、能寂寺(浄寂寺)の領地は最盛期の10分の1にまで減少してしまいました。
こうした状況に強い危機感を抱いたのが、当時、伊予地方の武士たちをまとめていた河野氏・河野通直(こうの みちなお)でした。
河野通直は、寺に対する乱暴や田畑の奪い合いをやめさせるために、「これ以上そうした行為をしてはならない」という内容の文書を出しました。
この文書は、のちに「能寂寺文書(のうじゃくじもんじょ)」と呼ばれるようになり、今も浄寂寺に15通が大切に保管されています。
「浄寂寺の誕生」武士の台頭と禅宗の興隆
鎌倉時代(1185年〜1333年)、武士が政治の実権を握る新しい時代が始まると、仏教の世界にも大きな変化が訪れました。
この時期、日本では禅宗が新たな仏教の潮流として注目を集め、各地にその教えが徐々に広まっていきます。
なかでも臨済宗は、坐禅による内省や厳格な修行を重視するその教義が、質実剛健を尊ぶ武士の精神性と強く共鳴したことから、武士階級に広く受け入れられました。
こうした動きを背景に、鎌倉幕府も臨済宗を積極的に支援し、国家レベルでの保護と後押しを行います。
さらに、幕府は中国・宋から高僧を日本に招き、禅の教えを直接学ぶという積極的な姿勢を見せ、これにより、日中間の宗教的・文化的交流も活発化していきました。
中国大陸に現れた名僧“一山一寧”
ちょうど日本で禅宗が注目を集め始めた鎌倉時代の中期、中国・元の時代にあたる宋末から元初にかけて、 一山一寧(いっさん いちねい)という優れた禅僧が中国大陸に現れました。
一山和尚は当初、伝統的な仏教の一つである天台宗の教えを学んでいましたが、 やがて臨済禅の精神と実践に強く惹かれるようになり、自ら宗派を転じて修行の道を進みます。
その後、臨済宗の一派である曹源派の名高い禅僧・頑極行弥(がんきょく ぎょうや)に師事。 この出会いによって、臨済禅の正統な法脈と精神を深く学び、その教えを継承していきました。
一山和尚は、やがてその学徳を広く知られるようになり、日本との縁を結ぶ重要な人物となっていきます。
「元」モンゴルの統治下に入った中国大陸
当時の中国大陸は、モンゴル帝国の統治下にあり、1271年にはフビライ・ハンによって「元(げん)」と称する王朝が建てられていました。
そのような中で、一山和尚は元の皇帝に仕える高僧として重んじられ、当時最も優れた禅僧の一人と評されていました。
平和の使者としての来日と幽閉
正安元年(1299年)。
禅宗を厚く信仰していた日本と平和的な関係を築こうと考えた元の皇帝から、 一山一寧をが国使(外交使節)として日本に派遣されてきました。
しかし、これは弘安の役(元寇・1281年)。
モンゴル帝国(元)が日本侵攻を試みた大戦から、わずか18年後の出来事でした。
このため、鎌倉幕府は一山和尚を「再侵攻のための偵察ではないか」と疑い、伊豆の修善寺に幽閉してしまいます。
まさかの形で幽閉されてしまった一山和尚でしたが、取り調べや修善寺での交流を重ねるうちに、深い学識、高い徳行、そして誠実な人柄が徐々に明らかとなっていきました。
やがて幕府もその人となりを理解し、誤解を解いた末に、一山和尚は釈放されることとなったのです。
以後、一山和尚は建長寺・円覚寺・南禅寺といった鎌倉・京都の名刹を歴住し、日本における臨済禅の普及に大きな役割を果たしていきました。
そして、その教えと精神は、多くの弟子たちに受け継がれ、日本全国の寺院へと継承されていきました。
この流れの中で、一人の禅僧が浄寂寺の創建に深く関わることになります。
一山和尚の弟子・魯山玄璠と伊予の仏教再興
江戸時代中期、地方にも仏教文化が深く根づいていった頃、この地を一人の禅僧が訪れました。
それが、一山一寧の三世の法孫にあたる、魯山玄璠(ろざん げんはん)和尚です。
江戸(東京)に生まれた魯山和尚は、幼くして仏門に入りました。十五歳のとき、京都・天竜寺の名僧・文礼周郁のもとで得度を受け、禅の道へと歩み始めます。
その後、翌年には美濃・円光寺の天岩祖啓(てんがん そけい)に師事し、厳しい修行と研鑽を積んだ魯山は、やがて円光寺の第五世住職となり、寺を守りながら後進の指導にあたりました。
さらにその禅風と修行の深さが認められ、後年には臨済宗南禅寺派の大本山・南禅寺に招かれ、二百九十四世として住持を務めるなど、中央禅林の中でも重きをなす存在となります。
一方で、魯山玄璠は南禅寺の住持という高い地位にありながら、そこに安住することなく、禅の教えを地方に広めることこそが自らの使命であると考えていました。
そうした強い信念のもと、魯山和尚は各地で荒廃した寺院を再興し、仏道を説いて人々に伝えていきました。
能寂寺から浄寂寺へ
寛文年間(1661〜1672年)のある日、魯山和尚は、伊予国に伝わる古い由緒をもつ寺院「能寂寺」を訪れました。
かつて栄えたこの寺も、長い歳月のあいだに荒廃し、かろうじて往時の面影をとどめるのみとなっていました。
その荒れ果てた姿を目にした魯山は、寺の再建を決意します。
魯山和尚は、寺の再興にあたってただ建物を修理するだけでなく、ここを本格的な禅の修行道場としてふさわしい場にするため、寺院の再整備を一から行いました。
そして、自らの法脈である臨済宗南禅寺派に正式に所属させ、組織的にも再出発を図ります。
この再興にあたって、魯山和尚は寺号をあらためることにしました。
古くからの名である「能寂寺」に敬意を払いつつも、再び静かな禅の道場としてよみがえらせるという決意を込め、寺の名を「浄寂寺(じょうじゃくじ)」と改めました。
また、寺のふもとには「松尾村(まつおむら)」という集落があったことから、 寺には山号が添えられ、以後は「松尾山 浄寂寺(まつおさん じょうじゃくじ)」と称されるようになります。
随天和尚と法華山浄寂寺
貞享元年(1684年)、小松町の妙心寺派寺院・仏心寺で修行していた僧侶、随天軌幽(ずいてんきゆう)和尚が、浄寂寺の新たな住職として迎えられました。
そして、随天和尚の着任を機に、現在の臨済宗妙心寺派へと改宗され、山号もそれまでの「松尾山」から「法華山(ほっけざん)」へと改められました。
こうして、現在の臨済宗妙心寺派の寺院「法華山 浄寂寺(ほっけざん じょうじゃくじ)」となりました。
随天和尚と今治藩主との関係
随天和尚は、今治藩三代藩主・松平定陳(まつだいら さだのぶ)と親しい中で、寺院の発展にも尽力したことから、「中興の祖」と称されています。
ただし、その道のりは決して順風満帆ではありませんでした。
実は、随天和尚は当初、定陳公の不品行を戒めたことにより、その怒りを買って罰せられ、一時は浄寂寺に幽閉されてしまったのです。
しかし、後になって定陳公が自分の非を悟り、随天和尚に小松に戻るよう頼みました。
ところが、随天和尚は藩主直々願いを受け入れず、浄寂寺に留まり“最後の時”まで務めました。
現在の浄寂寺と語り継がれる伝承
その後、大河和尚が本堂を建立し、昭和39年(1964年)には養山和尚が庫裡(僧侶の生活の場)を再建するなど、代々の住職たちによる再興の努力が重ねられ、浄寂寺は今日までその姿を保ち続けています。
そうした歴史の積み重ねのなかで、浄寂寺には地域に根ざした数々の伝承も伝えられてきました。
「五人主殉難之地」義を貫いた庄屋
寛文年間(1661〜1672年)、伊予のこの地域も全国的な飢饉の影響を受け、深刻な不作に苦しんでいました。
今治藩でも餓死者こそ出なかったものの、米や麦の収穫は激減し、農民の暮らしは限界に達していました。
この頃、今治藩の初代藩主・久松定房(松平 定房)公は参勤交代で江戸に滞在しており、国元の政務は家老が任されていました。
しかし、その家老は窮迫する藩財政を立て直そうと、年貢の取り立てをさらに強化。 田畑の実情を顧みることなく、不作の年にもかかわらず容赦ない徴収を命じたのです。
そのため、農民たちは食べる米すら満足に得られず、疲弊しきった生活のなかで、不満と絶望が静かに広がっていきました。
近藤八右衛門の決意
当時、清水村松尾(現在の今治市五十嵐)に、村人たちから深く慕われていた庄屋・近藤八右衛門という人物がいました。
八右衛門は、困窮する村人たちを救おうと、幾度も家老に年貢の軽減を訴え出ましたが、その声は一向に届かず、藩の重税はますます厳しくなるばかりでした。
そして「このままでは村が潰れてしまう」と強い危機感を感じた八右衛門は、命をかけて藩主に直訴することを決意します。
命をかけた江戸への直訴
八右衛門は他の村の庄屋たちに、藩主に年貢の軽減を直訴をしようと相談しました。
当時、直訴は幕府の法に反する重罪とされ、場合によっては処刑されることさえあったため、それはまさに命を懸けた行動でした。
そのため、処罰を恐れた庄屋たちは、誰一人として同行しようとはしませんでした。
しかし、八右衛門の決意は固く、寛文七年(1667年)十一月、ついにたった一人で江戸へと旅立ったのです。
「府中の佐倉宗五郎」命を懸けた直訴
八右衛門は、ただ村人たちを救いたいという一心で長く険しい道のりを乗り越え、ついに江戸に到着しました。
そして、参勤交代中であった藩主・松平定房(久松定房)に面会の機会を得ると、年貢の軽減を求める訴状二通を差し出しました。
命を賭してまで村人を救おうとするその真摯な思いを、定房を真剣に受け止めました。
そして、「私の代わりに肌身離さず、これを身につけておくように」と頭巾と杖を与え、今後は善政に努めること、そして年貢の軽減を約束しました。
それは、庄屋としての責務を全うした者への最大限の敬意の表れでした。
この直訴の成功により、清水村松尾の人々はようやく過酷な年貢から解放され、安心して農作業に励むことができるようになりました。
そして、困窮する農民のために尽力した近藤八右衛門の姿は、同じく江戸時代前期に重税に苦しむ農民を救うため、命を賭して将軍に直訴した伝説の庄屋・佐倉宗五郎(さくら そうごろう)を思わせるものでした。
そのため村人は、敬意と親しみを込めて、「府中の佐倉宗五郎」と呼ぶようになりました。
家老の報復、そして悲劇の殉難
しかしこの直訴は、家老の逆鱗に触れる結果となりました。
寛文九年(1669年)10月10日、八右衛門が五十嵐の額ヶ内で家族とともに麦まきをしていたところ、突然早馬に乗った武士たちが駆けつけ、八右衛門とその家族4人を「無礼者め」と叫んで斬殺したのです。
このとき、藩主から贈られていた“頭巾と杖”を、たまたま家に置いていたため狙われたとも伝えられています。
前述の通り、当時の直訴は幕府の法に照らして重罪とされ、通常は厳しい処罰を受けるものでした。
しかし、藩主が訴えの正当性を認めて受け入れた場合、その証として特別な品を下賜することで、処罰を免れた“公認の直訴人”であることを周囲に示す慣例がありました。
もし八右衛門がその頭巾と杖を身につけていれば、命を落とさずに済んだのかもしれません。
浄寂寺に祀られた「五人主様」
村人たちは、村の英雄である八右衛門とその家族が、まるで見せしめのように非業の死を遂げたことを深く嘆き悲しみました。
そして、罪人として扱われてしまった八右衛門を、密かにその遺体を浄寂寺裏の法華寺山に葬り、「五人主様(または五人主霊)」として手厚く祀ったのです。
その後、浄寂寺の境内には五人主堂が建立され、正式に八右衛門とその家族の御霊が祀られるようになりました。
石碑「五人主殉難之地」の建立
この出来事は長く語り継がれ、昭和48年(1973年)、清水小学校の児童やPTA、地域住民らが「五人主殉難之地奉賛会」を結成。
殉難の地と伝えられる場所(現在の清水小学校正門近くの校庭の片隅)に、高さ1.4メートルの「五人主殉難之地」の石碑を建立しました。
静かに佇むその石碑は、義を貫き、民のために命を捧げた近藤八右衛門とその家族の記憶を、今に伝える大切な証しとなっています。
「命を懸けた救済」随転和尚の即身仏
浄寂寺の飢餓を巡る伝承の中で、もう一つ重要な出来事として語り継がれているのが、中級の祖・随天和尚の入廷です。
地域を襲った大飢饉
享保時代、今治の地域では大きな火災や蒼社川の氾濫、干ばつにウンカの被害などで、地域一帯が大飢饉に見舞われました。
享保十七年(1732年)三月、この窮乏に苦しむ村民たちの姿に心を痛めていたのが、当時79歳であった浄寂寺の随転和尚でした。
自分の命と引き換えに民を救う
随転和尚は、お釈迦様が80歳で入定したことを考慮し、その一年前に入定(にゅうじょう)することを決意しました。
入定は、仏教における究極の修行の一つであり、悟りを得た状態で命を終え即身仏(そくしんぶつ)となることを目指すものです。
即身仏とは、生きたままの肉体を保存し、仏として崇拝される存在になることです。
即身仏になるためには、厳しい断食と瞑想を行い、肉体をミイラ化させる過程が必要です。これにより、死後もなお地域の人々に対して強い救済の力を持ち続けると信じられています。
つまり随転和尚は、自分の命と引き換えに人々を救うことを決意したのです。
随転和尚の入定伝説
旧暦の三月一日、彼岸入りの一日前にその決意を固めた随転和尚は、寺の裏山に穴を掘ってその中に入り、天井を作って息ができるように竹筒で空気穴を作り、その上に土をかぶせ塚を作りました。
そして、土の中で念仏を唱え始めました。
入定の知らせを聞き驚いて駆けつけた村人たちは、随転和尚が入っている塚を取り巻き合掌を始めました。
土の中からは随転和尚のかすかな読経の声と鈴の音が七日七夜にわたって聞こえ、多くの人々が遠方から訪れ、穴の前で手を合わせる姿が見られました。
随転和尚が残した辞世の句
随転和尚は、辞世の句として次の歌を残しました。
生まれては 死ねる日までの 命ぞと
思いぬる夜の 夢はさめりけり
この句は、生と死の輪廻を悟り、夢のような人生の儚さを詠んだものです。
「随転和尚入定の松」
その後、村人たちは随転和尚が眠る塚の傍らに等身大の松を植えました。
この松は現代も「随転和尚入定の松」として知られ、美しい枝葉を広げています。二百六十年間成長を続けたこの松は、昭和50年(1975年)3月27日には今治市指定保存樹の第一号として指定されました。
そしてこの松は、随転和尚を風雨から守るように幹をくねらせ塚を見守り続け、随転和尚と共に地域の救済の願いを続けています。