今治市の穏やかな丘陵地に、静かにたたずむ一つの禅寺「海禅寺(かいぜんじ)」。
この寺は、京都の大本山・正法山妙心寺を本山とする臨済宗妙心寺派に属し、長きにわたって地域の信仰とともに歩んできました。
創建の歴史と再興の歩み
海禅寺の起源は明確には伝わっていませんが、その前身は「海會寺(かいえいじ・海栄寺)」あるいは「海栄寺」と称された寺院であったとされ、
戦国以前には地域の信仰を集める場として機能していたと考えられています。
しかし、戦国時代の混乱と度重なる兵火により荒廃し、長らく再興されることなく、廃絶に近い状態となっていました。
江戸時代初期 海禅寺のはじまり
江戸時代初期、寛永十年(1633年)、徳川幕府は海外渡航を禁じる「第3次鎖国令」を発し、日本は本格的に鎖国体制へと移行していました。
この政策により、日本は外交・貿易・宗教において対外的な制約を強め、国内の秩序と統治の強化が進められます。
仏教界においても統制が進み、各宗派は幕府の公認体制下で布教・教化を行うようになります。
このような時代の中、天嶺玄嶝(てんれい げんとう)和尚が今治の地に迎えられます。
小さな庵から始まった禅寺
信徒たちは、失われた祈りの場を取り戻そうと、小庵を建て、新たな住職を迎えました。
その住職こそが、玄嶝和尚でした。
海禅寺の誕生と藤堂高吉
寛永十年(1633年)、当時の今治城主・藤堂高吉に請願し、寺領の拝領を受けたことで、小庵は正式に寺院として認められました。
そして「海禅寺(かいぜんじ)」の名が与えられ、臨済宗の一道場として、新たな歩みを始めることとなったのです。
今治藩主の菩提寺
寛永十二年(1635年)、藤堂高吉の転封により、今治の地は越前国から移封された松平定房(まつだいら さだふさ)に引き継がれました。
定房は、徳川家康の異父弟・久松俊勝を祖とする久松(松平)家の一員であり、今治藩の初代藩主として着任しました。以後、久松家は代々今治藩主を務め、明治維新に至るまでこの地を治めることとなります。
こうした中で、海禅寺は歴代藩主・久松(松平)家の一族をはじめ、家老や士族たちの菩提寺としても重んじられ、次第に高い格式を備えるようになりました。
この頃の海禅寺は、久松(松平)家が今治での菩提寺としていた松源院(明治期に廃寺)、そして光林寺に次ぐほどの格式は高い寺院として、その名を連ねていました。
「塩釜桜」寺と藩主を結ぶ桜
藩主家との深いつながりは、単なる格式にとどまらず、寺院そのものが藩主たちの精神的なよりどころともなっていきます。
その象徴的なエピソードの一つが、境内に咲き誇る「塩釜桜(しおがまざくら)」にまつわる逸話です。
海禅寺は、南面する穏やかな丘陵に抱かれた地に位置し、境内からは今治の町並みや瀬戸の空を一望することができます。
その風光明媚な環境は古くから人々に愛され、春になると境内と裏山を淡紅色に染め上げる桜の景観は、まさにこの地の風物詩となってきました。
なかでもひときわ人々の目を引くのが、「塩釜桜(しおがまざくら)」と呼ばれる名木です。
山桜の一種とされるこの桜は、ふくよかで淡い紅色の花をつけ、その気品ある佇まいから、寺の風格を象徴する存在ともなっています。
長年にわたって手厚く保護されてきたこともあり、その幹は太く、根元には歴史の重みが感じられます。
この塩釜桜に魅せられたひとりが、今治藩の第3代藩主・松平定陳(まつだいら さだのぶ)でした。
定陳は貞享4年(1687年)に海禅寺を訪れた折、この桜と寺の風景に深く心を打たれ、一首の和歌を詠んだと伝えられています。
現在でも春になると多くの人が訪れ、この歴史ある桜の景観を楽しんでおり、海禅寺はその自然美と歴史的背景を持つ特別な場所となっています。
観音堂の建立と十一面観世音菩薩の信仰
寛保年間(1741年〜1744年)、海禅寺第八世和尚の尽力により、新たに観音堂が建立されました。この堂には、慈悲と救済を象徴する十一面観世音菩薩が本尊として安置されました。
十一面観音は、あらゆる方向から人々の苦しみを見つめ、導くとされる仏であり、禅宗寺院である海禅寺においても特別な存在として崇敬を集めていました。
この観音堂は、地元今治市府中地区における「府中西国三十三ヶ所霊場」の第一番札所として指定され、多くの巡礼者が参拝に訪れる場所となります。
地域に根ざした信仰の拠点として、また観音信仰を象徴する堂宇として、海禅寺の精神的中核を担う存在となりました。
明治3年の放火と復興
しかし明治3年(1870年)の冬、海禅寺は盗賊の放火という不慮の災禍に見舞われ、観音堂を含む主要な伽藍をことごとく焼失してしまいます。
建立以来、寺の象徴として親しまれていた堂宇は灰燼に帰し、一時は信仰の灯も消えかけました。
それでも、地域の人々の熱意と支援により、明治30年(1897年)には本堂や庫裡などの主要建物が再建され、寺は再び息を吹き返します。
現在残る建物群はこの再建時のもので、当時の人々の信仰と復興への強い願いが、今もその柱や瓦に宿っています。
昭和20年・今治空襲の被害
20世紀に入り、海禅寺は再び戦火の渦に巻き込まれます。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期の今治空襲によって、寺は甚大な被害を受けました。空襲は3度にわたって行われ、
この空襲は、アメリカ軍のB29爆撃機による大規模な焼夷弾攻撃で、木造家屋が密集していた今治の町は瞬く間に炎上し、市街地の約8割が焼失。死者575人以上を出す壊滅的な被害をもたらしました。
多くの歴史的建造物、神社仏閣も例外ではなく、貴重な文化財が失われました。
この空襲の中で、海禅寺では再建されていた観音堂にも火の手が及び、またたく間に炎に包まれました。
しかし、堂内に祀られていた十一面観世音菩薩像だけは何とか守り抜こうと、信徒たちの懸命な手により奇跡的に救出され、戦火を免れることができました。
この観音像は、現在も海禅寺本堂に安置されており、戦火をくぐり抜けた「祈りの証」として、今なお静かに多くの参拝者の祈りを受け止め続けています。
東吟さんの物語と東吟祭
こうした歴史の中で、海禅寺には地域に深く根ざした人物の存在も欠かせません。その一人が、江戸時代中期にこの寺に住していた「東吟さん」こと西月東吟(さいげつ とうぎん)です。
西月東吟は博識と人徳によって「今治三僧」の一人と称され、村々を巡って托鉢を行いながら、得た米や麦をすべて貧しい者に施すという徹底した布施行を実践していました。
その逸話は数多く残っており、中でも「鶏の番を頼まれた話」は有名です。ある百姓が麦の番を頼んで出かけたところ、東吟さんは托鉢姿の男に麦を持ち去られてしまいます。
怒った百姓に対し、東吟さんは「私は鶏の番を頼まれただけで、人の番を頼まれた覚えはありません」と応じ、周囲を驚かせました。
東吟さんは安永七年(1778年)に示寂し、その徳を讃えて遺された米で観音堂と山門が建立されました。
さらに「西月東吟堂」が建立され、毎年旧暦7月26日には「東吟祭」が催されるようになります。
この祭りは今治の夏を締めくくる風物詩として親しまれ、盆踊りや露店で賑わいました。
現在では東吟堂は失われましたが、東吟像は本堂に安置され、施餓鬼法要と共に祭りの灯は守り続けられています。
受け継がれる剣の記憶
境内には、かつてこの地に剣術を伝えた武芸者たちの記憶も受け継がれています。
それが、鈴木重治政一(すずき じゅうじ まさかず)のお墓です。
重治政一は、江戸時代後期に活躍した剣術家で、浅山一伝流の分派を受け継いだ継承者のひとりです。
浅山一伝流とは何か
浅山一伝流は、近世初頭の上州(現在の群馬県)碓氷郡を発祥とする総合武術の一派です。
その起源は戦国末期にさかのぼり、丸目主水正則吉、国家彌左衛門、そして中興の祖とされる浅山一伝斎ら、歴代の名だたる武芸者たちの手を通じて、江戸時代を通じて全国へと広がっていきました。
この流派は、剣術や居合術を根幹としながらも、小太刀、槍、棒術、手裏剣、忍術、捕手術、毒術など、いわゆる「武芸十八般」の多岐にわたる技術を網羅した、極めて実戦的な体系を有していました。
しかし、浅山一伝流が単なる武技の習得にとどまらなかった点に、真の特色があります。
これらの技術は、外敵と戦うためだけのものではなく、己を律し、心を鍛えるための修行と捉えられており、流派の精神は禅の教えとも深く結びついていました。
刻まれた継承者
鈴木重治政一の墓には、建立にあたり協力した門弟たちの名が刻まれています。
その中には、重治の高弟で第十一代を継いだとされる剣術家、檜垣源吾信一の名も刻まれています。
源吾信一は、今治市今城の地に道場を構え、剣術の教えを広めながら、多くの門弟を育てた人物です。
剣の技量に加え、人柄もまた親しまれ、地域の人々に深く慕われていたと伝えられています。
【現代の歩み】薬師寺寛邦とキッサコ
現代において、海禅寺はその静かな境内から、日本全国、そして世界へと仏教の教えを発信し続けています。
そうした新たな布教のかたちを体現しているのが、副住職・薬師寺寛邦(やくしじ かんぽう)師による音楽ユニット「キッサコ」の活動です。
薬師寺寛邦さんが立ち上げた「キッサコ」は、仏教の教えを音楽で表現するプロジェクトです。
仏教で最も大切な経典の一つである般若心経に、美しいコーラスを加えて現代風にアレンジした、代表曲「般若心経 cho ver.」は、多くの人々に共感を呼び、YouTubeでは200万回以上再生されました。
さらに台湾ではニュース番組でも取り上げられ160万回以上再生され、中国のSNSでは2,000万回を超える大きな話題となりました。
フジテレビの「めざましテレビ」などでも紹介され、薬師寺師の活動は国内外で広く知られるようになっています。
こうした反響を受け、2018年12月には中国本土や台湾でワンマンライブツアーが開催され、6カ所での公演に多くのファンが集まり大成功を収めました。
その後も薬師寺寛邦さんは国内外でライブを継続し、仏教の教えを音楽を通して広く伝えています。
薬師寺寛邦さんの活動は、仏教と音楽を融合させることにより、仏教の本質を現代の感性に寄り添った形で届けようとする新しい試みです。
音楽を通じて心の安らぎや癒しを提供し、多くの人々に感動を与え続けています。