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加茂神社・浜(今治市・菊間地区)

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菊間地区の秋祭りといえば、「加茂神社・浜(かもじんじゃ)」の秋季大祭で披露される「お供馬の走り込み」です。

白装束に身を包んだ少年が、色鮮やかな装具をまとった馬にまたがり、参道を一気に駆け抜ける姿は、古来より地域の人々に親しまれてきた大きな見どころです。

少年は三歳から十五歳までが選ばれ、家内安全・五穀豊穣を祈願しながら勇壮華麗に駆け抜けます。この伝統行事は愛媛県の無形民俗文化財にも指定され、今なお大切に受け継がれています。

お供馬の名は、神輿渡御に馬が供奉したことに由来します。毎年十月第三日曜日の例大祭で行われるようになった背景には、菊間の歴史と生活があります。

かつてこの地は京都・上賀茂神社の荘園であり、賀茂競馬の伝統を受けて馬を用いた神事が根づいたと考えられます。

また菊間では瓦産業が盛んで、瓦焼きに必要な木材の運搬や農耕に馬が不可欠でした。そのため多くの家が馬を飼育し、自然と馬と人の結びつきが祭礼を支え続けてきたのです。

例祭当日は、午前八時から十一時にかけて馬場で「お供馬の走り込み」が行われ、牛鬼や継ぎ獅子といった芸能も加わり境内は大賑わいとなります。

少年たちが「ホイヤー、ホイヤー」と声を上げ、約三百メートルの参道を駆け抜ける姿は、勇壮で華麗な神事として見る者の心を強く揺さぶります。

「お供馬の走り込み」加茂神社の歴史

「お供馬の走り込み」は、長い歴史と信仰を背景に持つ伝統神事であり、その源流は奈良から平安時代にかけての宮中行事にさかのぼります。

宮中行事「競馬会(くらべうまえ)」

当時、宮中の武徳殿では五月五日の端午の節会に、天下泰平と五穀豊穣を祈願する「競馬会(くらべうまえ)」が盛大に行われていました。これは単なる娯楽ではなく、国家の安泰と豊作を願う重要な祭祀でありました。

天皇御臨席のもと、群臣が馬を走らせてその速さを競うこの儀式は、宮廷における武芸の披露であると同時に、国家全体の祈願を体現する荘厳な行事だったのです。

文献上では『続日本紀』大宝元年(701年)五月五日の条に「令群臣五己上出走馬、天皇臨観焉」と記され、すでにこの時代に競馬が宮中で行われていたことが確認できます。

その後も『儀式』『内裏式』『西宮記』などに、競馬会が端午の節会の中心行事として詳細に記録されています。

  • 四月二十八日:出走予定の馬を牽き出して走らせ、その速さや気性を見極めて走品を定める。
  • 五月五日:左右近衛兵による騎射、進上馬による走馬、そして菖蒲の献上などが続けて行われる。
  • 五月六日:さらに騎射・競馬・雑伎などの馬芸が披露される。

こうした一連の行事は、中国の端午節に由来する暦日の意識を背景に取り入れられ、日本独自の宮廷儀礼として発展しました。

当初は農耕予祝としての意味合いが強く、同時に騎馬武芸を示す重要なデモンストレーションでもあったのです。

しかし、安和元年(968年)、村上天皇の国忌によって端午の節会は正式に断絶します。

『日本紀略』にもその記録が見え、以降、競馬会は宮中での恒例行事としては姿を消すことになりました。

しかし、競馬そのものが絶えたわけではありませんでした。

天皇や上級貴族の祈願や報謝のために「臨時競馬」として催されるようになり、開催場所も宮中に限らず、左右近衛府の馬場、神泉苑、朱雀院など多様化しました。

また、寺社に奉納される「寺社競馬」という形でも展開します。

賊徒平定の報謝や晴雨祈願、他の祭礼に付随する奉納競馬がその例でありました。これらでは多くの場合、近衛府の武官が随身として派遣され、乗尻を務めたと伝えられています。

「賀茂競馬」鎌倉時代

鎌倉時代の寛治七年(1093年)、堀河天皇が天下泰平と五穀豊穣を祈願して、宮中武徳殿で行われていた「競馬会(くらべうまえ)」が、京都の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、通称「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」へと移されました。

こうして移された競は「賀茂競馬」と称され、宮廷行事として行われていた競馬が神社の祭祀へと組み込まれる大きな転換点となりました。

上賀茂神社は京都でも最古級の神社で、ご祭神である賀茂別雷大神は、約2600年前に神山(こうやま)へ天降られたと伝えられます。

雷の御神威によって災厄を祓う「厄除明神」として古代から崇敬を集め、特に落雷除けや電気産業の守護神としても知られています。

社殿は白鳳七年(678年)、天武天皇の御代に整備され、古代以来の壮麗な姿を今に伝えています。

平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」の一つとして境内全域がユネスコ世界文化遺産に登録され、歴史的・宗教的価値が国際的にも認められています。

このような格式高い神社に移された競馬会ですが、当初はまだ明確な形が整っておらず、恒例行事としての制度も確立していない臨時の競馬にすぎませんでした。

実際に走らせる馬や乗尻(のりじり=騎手)は院や摂関家が準備し、上賀茂神社の氏子が直接関わるものではなかったのです。

しかし、寿永三年(1184年)から建保二年(1214年)頃、すなわち十三世紀初頭になると情勢が変わります。

氏子が自分たちで馬を調達し、また乗尻としても奉仕する体制が整えられ、競馬会は次第に社人と地域社会によって支えられる神事へと発展していきました。

これにより、宮廷に依存していた要素が薄れ、神社の祭祀としての独自性が強まっていきました。

そして、京都三大祭のひとつであり、毎年5月を通じて下鴨神社と上賀茂神社で執り行われる大祭「賀茂祭(葵祭)」の中で、欠かすことのできない神事「賀茂競馬」として定着していったとされています。

葵祭は日本最古の祭礼のひとつに数えられ、平安時代には国家的な行事として最重要の祭りと位置づけられました。

なかでも5月15日の「路頭の儀」は、天皇の勅使を先頭に総勢500人を超える王朝装束の行列が京都御所から下鴨神社、上賀茂神社へと進む壮大な神幸儀であり、都人の憧れの的でした。

しかし、この華やかな行列に至るまでには、さまざまな「前儀(まえぎ)」が用意されています。

その一つが5月5日に上賀茂神社で行われる賀茂競馬です。

賀茂競馬は、単なる競走ではなく五穀豊穣と天下泰平を祈願する神事として深い意味を持ち、足汰式(5月1日)、菖蒲の根合の儀(5月5日朝)、本殿祭(5月5日午前)といった一連の祭祀を経て、午後に境内の馬場で華麗に執り行われます。

このように葵祭は、一か月にわたる多彩な神事の積み重ねによって構成されており、その中で賀茂競馬は古式ゆかしい姿を今に伝える最も注目すべき神事のひとつなのです。

また、賀茂競馬の起源については別の説も伝えられています。

寛治七年(1093年)五月五日、宮中の殿上人や女房たちが左右に分かれて菖蒲の根合わせを行い、左方は賀茂社に、右方は石清水八幡宮に祈願したといいます。

そして、その勝敗に対する報謝として、同月九日に競馬を奉納したことが賀茂競馬の始まりともされています。

このように、賀茂競馬の成立には複数の説がありますが、いずれも当時の宮廷文化や信仰と深く結びついており、祭祀や生活文化を色濃く映し出すものとなっています。

その後、時代を経るごとに賀茂競馬は人々の注目を集め、文学や美術の世界にも描かれるようになりました。

賀茂競馬は、『徒然草』や『賀茂注進雑記』といった文献にも登場し、室町時代には将軍・足利義満や義政、戦国時代には織田信長といった権力者も観覧したと伝えられています。

江戸時代に入ると屏風絵や絵巻物にも描かれ、やがて「京都といえば賀茂競馬」といわれるほどの存在となり、その名声は広く全国に響き渡っていきました。

そして現代に至るまで賀茂競馬は一度も途絶えることなく受け継がれ、京都市登録無形民俗文化財にも指定されています。

千年を超える歴史を持ちながら、今もなお人々に畏敬と感動を与え続ける、日本を代表する伝統神事なのです。

加茂神社の創建説

賀茂競馬が賀茂社の年中行事として広く知られるようになるなかで、鎌倉時代から室町・戦国時代にかけての中世を通じて、その制度も次第に整備されていきました。

「競馬料所(けいばりょうしょ)」と呼ばれる二十か所の荘園が定められ、それぞれの荘園が費用を負担し、一頭ずつ馬を寄進しました。

これにより合計二十頭の馬が左右に分かれ、十番(=十回勝負)の競馳を行う形式が確立したのです。

(※現在では、十頭の馬による五番立ての競馳が行われています)

この二十か所の荘園の一つに、伊予国の菊萬庄(現在の愛媛県今治市菊間町)がありました。

寛治四年(1090年)にはすでに菊萬庄は上賀茂神社の社領地となっており、その鎮護のために分霊が勧請され、地元に加茂神社・浜が創建されていたと考えられています。

十一世紀末には菊間が上賀茂神社の荘園として確立し、加茂神社・浜が祀られることで、以後賀茂競馬にも馬や費用を献上し続けました。

こうして菊萬庄は、遠い伊予の地から都の大祭を支える重要な役割を担ってきたのです。

現在でも上賀茂神社の競馬会では「菊万荘(菊萬庄)」と名付けられた馬が境内を駆け、その姿は遠く伊予と京都を結んだ歴史の絆を今に伝えています。

そして、菊間の賀茂神社のお供馬行事の起源も、上賀茂神社の「葵祭」の形式を手本として継承されてきたものと考えられています。

遍照院に残る記録

同じ菊間地区にある遍照院・厄除大師(へんじょういん)にも、加茂神社・浜の祭礼や由緒を今に伝える数多くの記録が残されています。

遍照院の起源と別当寺の役割

遍照院は現在、今治市菊間町の海辺に近い地にありますが、その起源は加茂神社・浜の本殿裏にある宮本池(加茂池)の奥深くに建てられた小堂「法仏山日輪寺」にさかのぼると伝えられています。

伝承によれば、弘法大師空海がこの地を訪れた際、霊気漂う山中で深い霊感を得て、自ら聖観音像を刻み、一宇の堂を建立したとされます。

さらに当時四十二歳という大厄の年を迎えていた空海は、自身の姿を刻んだ「厄除弘法大師像」を安置しました。

この像には、自身の災厄を祓うだけでなく、未来永劫にわたって人々の災厄をも取り除くという深い願いが込められていたと伝えられています。

こうした背景から日輪寺は「厄除けの霊場」として知られるようになり、やがて「法佛山遍照院日輪寺」と号し、多くの参詣者を集める寺院へと発展しました。

応永六年(1399年)には、遍照院の鎮守神として加茂神社・浜が勧請されたと伝わっています。

これによって遍照院は加茂神社・浜の別当寺として、神仏習合の姿をとりながら神社の運営や祭礼を支える役割を担うことになりました。

古文書の記録に残る加茂神社

そんな遍照院には、「お供馬」の歴史を探るうえで極めて大きな意味を持つ古文書が残されています。

それが明応四年(1495年)の遍照院古文書です。

そこには「侍競馬」と記されており、このことから菊間地区においても京都・上賀茂神社で行われていた賀茂競馬にならう行事が、室町時代にはすでに行われていたと考えられています。

また、天正十六年(1588年)の遍照院の記録に「明応四年 侍競馬 白石」とあったと伝えられ、これによって「菊間でも上賀茂神社の賀茂競馬に類似する行事が五百年前から行われていた」と考えられてきました。

祭礼の歴史を語る際に、この伝承は長らく根拠として引き継がれてきたのです。

しかし近年の調査によって、実際に「侍競馬」という語を確認できるのは文政九年(一八二六)の『遍照院鎮守賀茂大明神勧請謂書』であることが明らかになりました。

この文書にも「明応四年 侍競馬」と記されており、江戸時代後期の時点で「この行事は室町時代から続いている」と人々が認識していたことがわかります。

さらに、この記録の末尾には「三永十郎左衛門記端ニ見、法佛山寛応記」とあります。

「寛応」とは遍照院の住職で、宝暦二年(1752年)に没した人物です。このことから、文政九年の記録は住職・実順が修復した後世の写本であると考えられています。

つまり「明応四年 侍競馬」の記事は五百年以上の歴史を直接証明するものではなく、「明応年間に起源を持つ」とする伝承が江戸後期の地域社会に広く浸透していたことを示すものなのです。

また、遍照院の文書には文亀元年(1501年)の「加茂の馬場」という記録も残されています。

これにより、この時代にはすでに加茂神社・浜の境内に馬場が整備されていたことが裏付けられます。

当時そこで現在の「お供馬の走り込み」と同じ形式の行事が行われていたかどうかは明らかではありませんが、少なくとも馬を用いた祭礼が行われていたことは確実です。

こうした遍照院に残る古記録は、菊間における「お供馬」の起源と発展を知るうえで欠かせないものであり、加茂神社・浜の祭礼の歴史を裏付ける重要な証拠となっています。

江戸時代に花開いた祭礼文化

江戸時代に入ると、加茂神社・浜は菊間郷十ヶ村の大氏神として信仰を集め、地域社会を統合する宗教的・精神的中心となりました。

とくに松山藩からは特別崇敬社に列せられ、藩政に関わる公式な祭祀の場として重要視されました。

祈雨・祈晴、蝗害退散の祈願、年越祭などの折には幣帛が供えられ、臨時の祭礼には藩の代官が参向するなど、藩権力と神社が密接に結びついていたことが分かります。

こうした事例は、地域の農業や生活が自然条件に大きく依存していた当時、加茂神社・浜が「五穀豊穣と藩政安泰」を祈る拠点として機能していたことを物語っています。

また、延宝五年(一六七七)には、祈雨の奉賽として野間郡中の有志から神殿が寄進されたことが記録されています。

これは一地域の信仰を越えて、広域的な人々からの崇敬を受けていた証拠といえます。

社殿の寄進や修復は、その後もたびたび行われ、江戸期を通じて加茂神社・浜は社格を高めるとともに、地域共同体の精神的支柱としての地位を揺るぎないものにしていきました。

さらに、江戸時代の祭礼は単なる神事にとどまらず、娯楽性と芸能性を兼ね備えた地域最大の年中行事へと発展しました。

代表的な「お供馬の走り込み」だけでなく「牛鬼」「獅子舞」など、芸能や馬を用いた行事が加わることで、民衆が参加し楽しむ華やかな祭り文化が形成されました。

「牛鬼」菊間に伝わる異形の守護者

牛鬼(うしおに)は、愛媛県南予地方を中心に広く伝わる祭礼の神事で、鬼の体に牛の頭をもつ異形の存在として知られています。

宇和島地方では祭りの主役として各地で盛んに登場しますが、東予地方においては数少なく、特に菊間の加茂神社・浜に伝わる牛鬼はその東限に位置する貴重な存在です。

しかも、南予地方の牛鬼が鬼面獣身であるのに対し、菊間の牛鬼は文字通り「牛の面」を持ち、独自の形態を伝えていることから、地域固有の文化的特色を示すものとして注目されています。

菊間の牛鬼は、竹で組んだ骨組みに布をかぶせ、その内部に人が入って担ぐ仕組みになっています。

全長はおよそ八メートル、幅二メートルを超える巨大な姿で、首は四メートル近くも伸縮自在に動かせるように作られています。

練り歩く際には首を上下に振りながら進み、時には伸ばし、時には縮めて迫力ある動きを見せます。走る際には首を縮めて疾走し、その勇壮な様子は観衆を圧倒します。

その由来については確かな記録は残されていませんが、文化十三年(1816年)の加茂神社・浜の祭礼において、獅子組と牛鬼組の若衆が宮出しの際に争い、村役人の取り調べを受けたという記事が残されており、この頃すでに牛鬼が祭礼に欠かせぬ存在として定着していたことが分かります。

また、地元に伝わる口碑によれば、かつて疫病が流行した際、牛鬼を出して悪霊退散を祈ったところ病が治まったことから、その後は絶えることなく行事として続けられたといいます。

逆に牛鬼を出さなかった年には再び疫病が流行したため、以来必ず祭礼に登場させるようになったとも伝えられています。

つまり、牛鬼は人々にとって単なる祭礼の余興ではなく、災厄を防ぎ、地域の安寧を守る「守護者」としての役割を担っていたのです。

さらに、遍照院に残された古記録には、天正年間に「菊間で牛馬が次々と悪獣に襲われる事件が起こり、祐珍という僧が加茂大明神の神威をもってこれを退けた」という記載が残されています。

この「悪獣」を牛鬼の起源に結びつける説もあり、単なる芸能ではなく、神仏習合の時代に生まれた「神威の象徴」としての性格を帯びていた可能性も考えられます。

運営の面では、かつては末社・厳島神社の氏子上町区域の人々が担っていましたが、のちに氏子全域に広く分担されるようになりました。

祭礼の日には、勇ましい牛鬼が神輿やお供馬とともに練り歩き、観衆を熱狂させます。その姿はまさに「神の使い」として邪気を払い、五穀豊穣と地域の平穏を祈る象徴といえます。

今日でも菊間の牛鬼は、秋祭りにおいてお供馬や獅子舞と並び、欠かすことのできない主役の一つです。

巨大な牛面を揺らしながら参道を進む姿は迫力に満ち、地域の伝統と信仰を体現する文化財として、人々の心に深く刻まれ続けています。

「獅子舞」今治地方の継ぎ獅子

獅子舞とは、獅子頭をかぶった舞手が太鼓や笛の囃子に合わせて舞い、悪霊を祓い、五穀豊穣や家内安全を祈る、日本各地に広く伝わる民俗芸能です。

その形態は地域によって多様で、一人で舞う「一人立ち獅子舞」や複数人で演じる「連獅子舞」などがあり、いずれも「神の使い」としての獅子が人々の信仰を集めてきました。

その中で、今治地方に特徴的なのが「継ぎ獅子(つぎじし)」です。

舞手が互いの肩の上に立ち、さらにその上に子どもを乗せて段を重ね、より高く獅子を掲げることで神に近づこうとする信仰を表現します。

最上段に立つ子ども「獅子児(ししこ)」は神の遣いとされ、地に足をつけさせず、扇や鈴を手に舞う姿は荘厳そのものでした。

菊間では池原地区に伝承され、現在も「池原獅子連(池原獅子若連中)」によって加茂神社・浜の祭礼で披露されています。

記録によれば文化十三年(1816年)には、同じ祭礼に参加する牛鬼組と争った記録が残されていることから、江戸時代中期にはすでに盛んに行われていた考えられてます。

戦後の変化と保存活動

長い歴史の中で受け継がれてきた加茂神社・浜の祭礼も、近代以降の社会変化の波を避けることはできませんでした。

とくに昭和期、第二次世界大戦後の農村社会の急激な変容は、祭礼の根幹を揺るがす大きな試練となりました。

近代化の波と祭礼の試練

戦後、日本社会は自動車の普及や農業機械化の進展によって急速に近代化しました。

トラックや耕運機が導入されると、それまで農耕や運搬の担い手であった馬は次第にその役割を失い、やがて「家に一頭は馬を飼う」という農村の暮らしは過去のものとなっていきました。

農作業や瓦の運搬のために欠かせなかった馬が減少することは、単に労働力を失うということにとどまりません。

家族の一員として馬と共に生活し、その姿を神前に奉じてきた文化そのものが失われる危機に直面したのです。

かつては農閑期になると子どもたちも自然に馬と触れ合い、秋祭りの「お供馬行事」も暮らしの延長線上にありました。

しかし、生活から馬が姿を消すと、祭礼に用いる馬を確保することすら難しくなり、行事の継続は困難を極めました。

さらに、戦後の社会では若者の都市部への流出や生活様式の変化によって、祭りに参加できる人々も減少していきました。

こうした複合的な要因が重なり、加茂神社・浜の「お供馬行事」はまさに存亡の危機に立たされたのです。

保存会の結成と工夫

お供馬行事の存続が危ぶまれる中、地域の人々は「先祖から受け継いだ祭礼を絶やしてはならない」という強い思いを抱き、保存活動に立ち上がりました。

昭和には「愛馬会」や「菊間町お供馬行事保存会」といった組織が結成され、祭礼の中心である「お供馬の走り込み」を継続するための多様な工夫が凝らされました。

最大の課題は、農耕馬の減少により祭りで用いる馬を確保できなくなったことでした。

この問題に対し、保存会は農耕馬に代わり競走馬や乗用馬を導入し、祭礼用に調教する仕組みを整えました。

また、少年が馬に乗って神前を駆け抜ける「乗子(のりこ)」の役割を地域の子どもたちに担わせることで、次世代への継承を図りました。

これは単なる代替措置ではなく、馬と人との関わりを地域文化として守り抜くための重要な取り組みであり、子どもたち自身が「伝統を体験する担い手」となることで、行事は再び地域全体に根づいていきました。

菊馬会の設立と新しい展開

しかし、保存活動を続けるうえで「馬をどう飼い続けるか」という課題は常につきまといました。

馬は農作業の道具ではなくなり、日常生活から切り離された存在となっていたからです。

こうした中で、地域ぐるみで馬を育てる仕組みづくりが不可欠だと考えた有志たちは、2020年に住民の協力を得て「特定非営利活動法人 菊馬会(きくまかい)」を設立しました。

菊馬会の活動は、祭礼に馬を供することにとどまらず、医療・福祉・スポーツといった幅広い分野にまで広がっています。

特に注目されるのが、役目を終えた馬が穏やかに余生を過ごせる「ホースセラピー牧場」の整備です。

サラブレッドも人と同じく歳を重ね、いずれ参道を駆け抜けられなくなる時が訪れます。

そうした馬たちに新たな役割を与え、人々を癒す存在として共生できる環境をつくることは、祭礼文化を守るうえでも大きな意義を持ちます。

その実現のために、クラウドファンディングを活用した資金調達も積極的に行われています。

瓦産業と馬文化の結びつき

こうした保存活動や人々の努力だけではなく、お供馬行事の存続を支えてきたのが地域の名産品「菊間瓦」でした。

菊間瓦の歴史は古く、鎌倉時代の弘安年間(1278〜1288年)にまでさかのぼるといわれます。

江戸時代に入ると松山藩の保護を受けて生産が本格化し、安永6年(1777年)には浜村の瓦師26軒が株仲間を結成して組織的な製造体制を整えました。

こうして菊間は西日本有数の瓦の産地として繁栄し、明治時代には皇居の瓦にも採用されるなど全国的にその名を知られるようになりました。

瓦を焼くには大量の薪木が必要であり、その運搬や農耕作業には馬が欠かせませんでした。

そのため菊間の家庭では多くの馬が飼育され、生活と馬は切っても切れない関係にありました。

結果として、祭礼における「お供馬行事」を支える基盤が日常生活の中に自然と築かれていたのです。

また、菊間瓦の代表的な製品である「鬼瓦」は、単なる屋根飾りにとどまらず、厄除け・魔除けの象徴として人々に信仰されました。

その力強い姿は外敵や災厄を退ける護符とされ、加茂神社・浜の祭礼と同じく「地域の安泰を願う祈り」を映し出しています。

現在の菊間祭り

こうして、産業と信仰、生活と祭礼が重なり合う土壌の上で、お供馬は単なる神事を超えて「地域の生活文化」として根強く継承され、「お供馬の走り込み」は愛媛県の無形民俗文化財に指定され

現在、「お供馬の走り込み」は愛媛県の無形民俗文化財に指定され、菊間を代表する伝統行事として全国的にも知られる存在となりました。

例大祭の日程と地域社会

菊間祭りは、毎年十月第三日曜日に行われる秋季例大祭を中心に行われています。

当初は「体育の日」の祝日に合わせて開催されていましたが、祝日の移動や平日化に伴って参加者が減少したため、平成十四年(2002年)に日程を十月第三日曜日に固定することが決定されました。

さらに、平成十七年(2005年)の市町村合併により菊間町は今治市に編入されましたが、祭礼そのものは地域の精神的支柱として変わらず守られています。

この日、町は早朝から祭り一色に染まり、沿道には見物客が並び、太鼓や鉦の音が響き渡ります。

かつて農耕馬が主役であったお供馬行事は、今では競走馬がその役を担い、子どもたちが馬にまたがり駆け抜ける姿に観衆の歓声が沸き起こります。

「顔見世」と祭礼前日の賑わい

祭礼の前日には、末社である八幡神社・厳島神社・砥鹿神社から神輿が宮出しされ、町内を巡行します。

これを「顔見世」と呼び、かつて芝居興行の役者が初日に扮装して町を練り歩いた習俗になぞらえたものといわれています。

顔見世は祭礼の幕開けを告げる重要な行事であり、地域全体に高揚感をもたらします。

当日の神幸行列

祭礼当日には夜明けとともに神輿が渡御し、午前十一時になると本社神輿を先頭に神幸行列が整えられます。

行列は牛鬼を先頭に、猿田彦、獅子舞、幟、武具を携えた供奉の列、末社神輿、そしてお供馬へと続きます。

その姿はまさに壮麗で、参道や町並みを埋め尽くす観客の熱気と相まって、祭礼のクライマックスを形づくります。

牛鬼が大きな頭を振り上げ、獅子舞が継ぎ獅子を演じる一方で、馬が一気に参道を駆け上がる瞬間には、歓声とどよめきが境内全体を揺らします。

かき夫に担がれた神輿は土埃を巻き上げて練り歩き、時には鉢合わせて激しくぶつかり合う姿を見せ、勇壮さと迫力を兼ね備えた光景が繰り広げられます。

現代に息づく伝統の意味

このように、様々な要素が一体となった菊間祭りは、単なる娯楽や観光資源にとどまりません。

それは、自然と共に生きてきた地域社会の歴史を映し出すものであり、共同体の絆を確認し合う大切な場でもあります。

馬の躍動、獅子や牛鬼の勇壮な舞、神輿の熱気。

それらすべてが積み重なって、菊間の人々の心に「地域の誇り」として刻まれているのです。

神社名

加茂神社(かもじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市菊間町浜1991

電話

0898-54-3132

主な祭礼

祈年祭(2月中旬)・葵祭(5月5日)・夏越祭・大祓(7月31日)・例大祭(10月第3日曜日)・新嘗祭 大祓(12月30日)

主祭神

賀茂別雷命・ 賀茂建角見命・ 闇淤迦美命・大山咋命

境内社

天神社

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