亀岡に伝えられた上賀茂信仰とこの地の歴史
「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」は、亀岡地域の佐方(愛媛県今治市菊間町佐:旧・野間郡佐方村)に鎮座する古社で、京都・上賀茂神社(賀茂別雷神社)の御分霊を奉斎したことに始まると伝えられています。
古代より賀茂信仰の流れを受け継ぎ、地域の総産土神(うぶすながみ・氏神)として人々の厚い崇敬を集めてきました。
中世の菊間と賀茂社の荘園、上賀茂神社との深い結びつき
菊間地区は中世、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の荘園(しょうえん)でした。
荘園とは、奈良時代から室町時代にかけて発達した貴族や寺社が中央から地方の土地を私的に所有し、年貢を徴収する制度です。
もともとは朝廷からの功績や寄進によって与えられた土地が始まりで、やがて国家の公地公民制が形骸化するにつれて、こうした私有地が全国に広がりました。
荘園からの年貢や収益は、本所(ほんじょ)と呼ばれる貴族や寺社に送られ、それが宗教施設の運営や祭祀、修繕などを支える経済的基盤となりました。
上賀茂神社も全国各地に多くの荘園を有しており、それらの土地は神領(しんりょう)または御供料田(ごくりょうでん)として管理されました。
現地には荘官や代官が派遣され、荘民(農民)は賀茂大神の加護を祈りながら年貢(米などの作物)を納め、それらは神社の祭祀料や社殿修繕の資金に充てられ、神官や僧侶の生活を支える重要な財源ともなっていました。
賀茂神社の荘園だった佐方
伊予国の野間郡佐方(さがた)も、そのような上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の荘園の一つとして、種(たね)および別府村(現・今治市大西地区)とともにまとめられ、佐方保(さがたのほ)と呼ばれる荘園でした。
同じ野間郡内には、菊萬庄(現在の愛媛県今治市菊間町)という荘園も存在しており、そこに鎮座する「加茂神社・浜(かもじんじゃ)」は、今日でも「お供馬の神事」で広く知られています。
この神社は、もともと上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を勧請したと伝えられ、荘園支配の時代に京都から伝わった賀茂信仰の拠点の一つでした。
佐方の賀茂別雷神社のはじまり
賀茂別雷神社の創建は、まさにこの賀茂信仰が伊予に伝わった時期にあたります。
社伝によれば、平安時代の寛治四年(1090年)に京都上賀茂神社の御分霊を勧請し、佐方の地に賀茂大神を奉斎したのが始まりとされます。
以後、佐方は上賀茂神社の神領地として続き、鎌倉・南北朝・室町を通じて賀茂社の祭祀体系のもとに置かれました。
鎌倉時代以前の記録は少ないものの、長い歴史の中でこの地に根付いた賀茂信仰が、後の菊間地域の文化や祭礼に大きな影響を与えたことは間違いありません。
荘園の時代から戦国の世へ
その後、佐方の地は室町時代を通じて京都・上賀茂神社(賀茂別雷神社)の荘園として存続していました。
荘園経営の中心は菊間に置かれた「請所(うけしょ)」で、代官として得居氏が派遣され、佐方および菊間の社領を統括しました。
これらの地からの年貢・供米は京都の本社へ送られ、上賀茂神社の祭祀料や修繕費に充てられていたことが古文書から確認されています。
賀茂社と佐方との関係は、このように中世を通じてきわめて密接に維持されてきました。
しかし、南北朝の動乱を経て荘園制そのものが衰退に向かうと、神領としての統治体制も次第に崩れ始め、戦国期には大名勢力の勢力下に置かれていきました。
戦国の伊予生きた賀茂信仰 ── 河野氏と来島村上氏、戦国の海と神をつなぐ人々
伊予の戦国期に特に大きな勢力を誇ったのが、越智氏の末裔とされる守護大名・河野氏です。
河野氏は瀬戸内海の制海権を確立するために河野水軍を組織し、周辺の海上勢力と連携を深めていきます。
その中で最も重要な役割を果たしたのが、能島・因島・来島の三家からなる村上水軍でした。
村上水軍は「海賊」と称されることもありますが、実際には瀬戸内海の航行安全を守る海上警護の専門集団であり、通行船から徴収する「関銭」や「通行料」を経済基盤としていました。
その統治海域を犯す者はほとんどおらず、結果として瀬戸内の海上秩序を維持する役割を果たしていたのです。
中でも河野氏に最も近い関係を築いたのが、来島に拠点を置いていた来島村上氏でした。
河野氏の本拠・湯築城(現・松山市)から見て、来島は芸予諸島の中央に位置し、東西南北の航路をにらむ戦略上の要地でした。
この島を本拠にした来島村上氏は、能島・因島と並ぶ村上海賊御三家の一角を占め、河野氏に最も近い立場にありました。
来島村上氏は河野氏の被官として、海上警護、通行の管理、軍事行動など多岐にわたる任務を担い、陸と海から河野政権を支える重要な存在となっていました。
「天文の内訌(伊予の乱)」伊予での来島村上氏の台頭
天文11年(1542年)、河野通直は男子の跡継ぎに恵まれなかったため、娘婿の村上通康を後継者に指名しました。
しかしこの決定は家臣団の反発を招き、予州家当主・通存との間で家督争いが勃発。「天文の内訌(伊予の乱)」と呼ばれる内戦に発展しました。
通康は主君・通直を来島城に迎え入れ、来島水軍の戦力をもって徹底抗戦。堅固な防備により落城を許さず、その武勇は広く知られることとなりました。
最終的に通康は後継の座を得られませんでしたが、この戦いを経て来島村上氏は河野家との絆をさらに深め、越智姓の使用と家紋「折敷に揺れ三文字」を許されたと伝えられています。
河野氏の衰退と来島通総の離反
しかし、戦国末期に入ると情勢は大きく変化します。
天正五年(1577年)、織田信長が羽柴秀吉を中国方面軍の総大将に任じて毛利氏への圧力を強めると、毛利と同盟していた河野氏はその支援を失い、長宗我部元親との戦いで次第に劣勢に立たされました。
この中で、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、一族の存続を第一に考え、苦渋の決断を下します。
通総はついに河野氏を離れ、秀吉方に通じたのです。
その背景には、かつて父・通康が河野家を継ぐ約束を反故にされたこと、さらに母方の河野一族が内紛によって没落していたという、複雑な因縁も影響していたと考えられます。
この離反により、村上三家はついに分裂しました。能島・因島が毛利・河野方に、来島が豊臣方に属することとなったのです。
その結果、毛利水軍の強い反発を招き、来島周辺では激しい海戦が繰り広げられました。
通総はついに来島を放棄し、包囲を突破して秀吉の陣営に逃れます。
こうして来島村上氏は、伊予の地を離れて豊臣政権の海上勢力として新たな道を歩むこととなりました。
秀吉の四国平定と河野氏の滅亡
この頃、信長軍は天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が家臣・明智光秀に討たれたことで、四国攻めは一時中断を余儀なくされていました。
しかしその後、実権を握った秀吉は信長の志を引き継ぎ、天下統一を目指して勢力を拡大。
天正13年(1585年)、ついに四国制圧を決断し、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官に据え、水陸合わせて10万ともいわれる大軍を四国に派遣。
いよいよ秀吉による四国攻めが始まったのです。
伊予方面では、小早川隆景率いる毛利勢が先鋒を務め、来島通総もその指揮のもとで伊予侵攻の先陣を担いました。
通総は海上からの奇襲と陸上部隊の進軍支援を行い、伊予東部の高尾城・重茂山城などを次々と陥落させ、河野氏の勢力を圧倒しました。
河野氏が最後は抵抗を試み、湯築城に籠城しましたが圧倒的な豊臣軍の前に抗う術はなく、小早川隆景の説得を受け降伏。
こうして、河野氏による長きにわたる伊予統治の歴史は終焉を迎えました。
また、土佐を本拠とする長宗我部元親の諸城が次々と落城。
最終的に土佐に追い詰められた元親もまた降伏し、四国は完全に豊臣政権の勢力下に入ることとなったのです。
海賊行為の禁止と来島村上氏の繁栄
天正16年(1588年)、瀬戸内海の秩序を確立した秀吉は、海上交通を統制するため、全国に向けて「海賊停止令(海賊禁止令)」を発布しました。
これにより、私的に海上で武力を行使すること、すなわち海賊行為が全面的に禁じられ、瀬戸内で強大な勢力を誇っていた能島村上氏や因島村上氏は、従来のような独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきました。
その一方で、いち早く秀吉に従った来島村上氏は、例外的に水軍大名としての存続を許されるという特別待遇を受け、さらに伊予風早郡(現:愛媛県松山市北部)に1万4,000石の領地を与えました。
これにより、来島村上氏は豊臣政権公認の大名家としてその地位を確立し、鹿島(旧北条市鹿島)の鹿島城(かしまじょう)を居城とすることとなりました。
また、上賀茂神社の神領であった佐方保(佐方を含む)・菊萬庄の地も来島通総に与えられ、豊臣政権下の新たな領地として再編されることとなりました。
その結果として、本社である京都の賀茂神社(賀茂別雷神社)との繋がりは失われてしまいました。
検地と賀茂信仰の継承
一方で、来島通総の所領として再編されたのちも、上賀茂神社への信仰はこの地域で絶えることなく受け継がれていきました。
その証として、天正十四年(1586年)に行われた検地帳には、「五月田(さつきだ)」「菖蒲田(しょうぶだ)」など、賀茂祭(葵祭)に由来する地名が記録されています。
これらは、かつて上賀茂神社の神領であった時代に営まれていた祭礼や農耕儀礼の名残と考えられ、豊臣政権による土地制度の改定後になっても、賀茂社の信仰と祭礼文化が地域に深く息づいていたことを示す史料的裏付けとなっています。
久留島氏への改姓と上賀茂信仰の継承
しかし、時代の激しい変化の中で、来島村上氏はこの地を去らなければならなくなります。
豊臣秀吉の死後、政権の実権をめぐって徳川家康と石田三成の対立が深まり、ついに慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発しました。
来島村上氏は当初、旧主・毛利氏や豊臣政権への恩義から西軍に属していましたが、戦況が急速に東軍優勢へ傾くと、当主・来島康親(くるしま やすちか)は一族の存続を第一に考え、決戦直前に東軍へ内通する決断を下しました。
戦後、康親は一時的に本領の安堵を受けたものの、徳川家康による天下統一の進展にともなって行われた大名再編の中で、旧豊臣方の諸大名とともに再評価の対象となり、最終的に伊予国での所領を没収されました。
その結果、康親は一時浪人の身となり、家臣わずか数名を従えて京都や大坂を転々としたと伝えられています。
康親は、かつて瀬戸内海を拠点に築いた水軍時代からの交易網や、戦中戦後を通じて関係を結んでいた福島正則・本多正信ら有力大名との縁を頼みとし、幕府への復帰を目指して奔走しました。
こうした努力が実を結び、慶長10年(1605年)、ついに徳川幕府に召し出され、豊後国森藩(ぶんごのくに もりはん)に一万四千石を与えられて大名としての地位を回復しました。
しかし、新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置する山に囲まれた内陸の地でした。
これにより、来島村上氏は海を舞台とした水軍の時代に終止符を打ち、陸上領主として新たな歴史を歩み始めることになったのです。
やがて一族は家名を「久留島(くるしま)」と改め、豊後森藩の藩主家として近世を通じて存続しました。
そして、領地を離れたのちも、久留島家の上賀茂神社への崇敬は絶えることなく続いていました。
延宝9年(1681年)の『賀茂別雷社文書』には、久留島家が今なお賀茂別雷神社を敬い、その加護を祈っていたことが記されています。
この記録は、かつて伊予の地でも根づいた賀茂信仰が、久留島家の心の拠り所として遠く豊後の地にまで受け継がれていたことを示しています。
松山の所領となった佐方の地
佐方を含む伊予国野間郡一帯は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、 徳川家による全国的な領地再編の中で、戦功を挙げた武将・加藤嘉明(かとう よしあき)の所領となりました。
嘉明は、かつて豊臣秀吉の家臣として名を馳せた勇将であり、若くして賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられるほどの武人でした。
しかし、秀吉の死後は早くから徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍として奮戦。
その武功が認められ、伊予国一国20万石を与えられました。
そして慶長7年(1602年)、嘉明は正式に伊予へ入封し、当初は海に面した正木城(まさきじょう・現・愛媛県松前町)を居城としました。
しかし、正木城は海辺の低地にあり、防衛上の不利や洪水被害の懸念がありました。
そこで、嘉明は慶長7年(1602年)に松山平野の中央にそびえる勝山(かつやま)において、新たな城の築城を開始しました。
さらに、1603年(慶長8年)10月には嘉明自らがこの地を「松山」と名づけ、今日まで続く地名が公式に誕生しました。
そして、松山の地で築城が進められていたこの新しい城こそが、のちに愛媛県を代表する名城として知られる松山城の始まりです。
嘉明は同時に城下町の建設にも着手し、武家屋敷や町人地、寺社地を整然と区画しました。
これにより、従来伊予の中心であった道後・湯築の地から政治・経済の中心が移り、松山平野全体が新しい城下都市として発展を遂げます。
この都市計画は後の松山藩の基盤となり、近世伊予の藩政・経済・文化の中心地が確立される契機となりました。
嘉明は同時に城下町の整備に着手しました。これによって、従来伊予の中心であった道後・湯築の地から政治・経済の中心が移り、後の松山藩の基盤となりました。
賀茂別雷神社が鎮座する佐方も、このとき嘉明の所領の一部として再編され、加藤氏の代官によって新たな村政体制が整備されていきました。
築城の苦闘…松山城完成までの道のり蒲生氏へ
一方、松山城の築城工事は、当初の想定を大きく超える難工事となり、完成にまで長い年月を要することになりました。
勝山は三つの峰を連ねる複雑な地形をしており、それぞれの峰をつなぐ谷間を埋め立て、堅固な石垣を築いて平地を造成する必要がありました。
さらに、地盤の安定化や排水の確保といった土木技術上の課題も多く、工事は難航を極めたのです。
資材の調達にも大きな困難がともないました。
石材は勝山周辺の山地から切り出し、木材は重信川などを利用して運搬されました。
また、約2キロメートル離れた旧湯築城(ゆづきじょう)の建材を転用したとされ、戦国期の遺構を活かしながら新しい時代の城郭へと姿を変えていきました。
それでも工事は思うようには進まず、地形の制約や資材の不足、さらには度重なる出費によって築城は長期化しました。
そして寛永4年(1627年)、ついに松山城が未完成のまま、加藤嘉明は幕命により陸奥国会津40万石へ転封を命じられ、志半ばで伊予を離れることとなります。
これは加増転封という形をとりながらも、実際には幕府の大名再編政策の一環であり、嘉明にとっては築城途上の地を去る無念の決断でもありました。
嘉明の後を受けて、出羽国上山(かみのやま)から蒲生忠知(がもう ただとも)が入封し、松山城の築城を引き継ぎました。
忠知は本丸・二之丸の御殿を整備し、堀や石垣を改修するなど、城郭の完成に尽力します。
そして、加藤嘉明の着手からおよそ四半世紀(25年)という長い歳月を経て、ついに松山城はその壮麗な姿を現しました。
しかし、寛永11年(1634年)、忠知は参勤交代の途上で病に倒れ、江戸に到着する前に急死。
後継ぎの男子がいなかったため、蒲生家は断絶し、松山藩は一時的に城主不在(無嗣改易)の状態となってしまいました。
このため幕府は、藩政の混乱を避けるために隣国大洲藩主・加藤泰興(かとう やすおき)に松山城の在番(ざいばん)を命じ、城と領地の管理を一時的に委ねました。
松山藩領となった佐方と地域信仰
寛永12年(1635年)、幕府の命により、徳川家康の甥・松平定行(まつだいら さだゆき)が伊勢国桑名藩から15万石で松山へ入封しました。
この入封をもって、松山は正式に「松山藩」として確立され、さらに、松平定行の弟である松平定房(まつだいら さだふさ)が同じ伊予国内の今治藩主(約3万石)として封ぜられました。
松平定行は、家康の異母弟・松平定勝(久松氏出身)の子にあたる人物で、のちに「久松松平家」と呼ばれる家系の祖となりました。
この家系は、徳川一門としての血統を有しつつ、譜代大名に準ずる地位を与えられたため、幕府から特に信任の厚い大名家でした。
賀茂別雷神社が鎮座する佐方の地も、このとき松山藩領に組み入れられ、藩政の整備にともない、村々の体制が整えられていきました。
その中で、賀茂別雷神社では祭礼の復興や社殿の修復が行われ、藩政下の地域共同体における精神的支柱としての役割を果たしました。
特に、豊作祈願・雨乞い・水害除けなど、農業と生活に密着した信仰の場として、佐方の人々の暮らしと心を守り続けたのです。
新谷池築造と摂社の遷座
明暦二年(1656年)、藩の新谷池築造工事に際して参道が整備され、この際、摂社貴布禰神社(きふねじんじゃ)が中山へ、清滝社が山上へそれぞれ遷座し、境外小社として祀られるようになりました。
貴布禰神社は、京都・鞍馬の貴船神社の信仰を伝えるもので、水を司る神・高龗神(たかおかみのかみ)を祀ります。
この遷座は、新谷池という大規模な水利工事にあたり、「水の神」への祈願と感謝の意を込めたものであったと考えられます。
以後、天正期から明治にわたり、佐方の賀茂別雷神社は地域の総氏神として氏子の厚い崇敬を受け続けました。
境内には、十禅師社・奥御前社・山口社・霊社などの末社が並び、さらに摂社として貴布禰神社と無宗天宮(むそうてんぐう)が祀られていました。
神職は、佐方保の地頭であった村上備中守吉光の家臣・波頭隼の系譜を継ぐ家が代々務め、社家として地域の祭祀と運営を統括しました。
また、藩政期には境内地が年貢免除地とされ、氏子や篤信者による寄進・修復が相次いで行われたことが記録に見えます。
これにより社殿・神輿・祭具の整備が進められ、賀茂別雷神社は佐方における宗教的中心の地位を確固たるものにしました。
近代以降の行政と信仰の歩み
明治四年(1871年)七月四日には村社に列せられ、国家神道体制のもとで例祭・新嘗祭などの式典が公式に執行されるようになります。
この時期、社名・祭神・社格の登録が行われ、祭祀の形式も国家規定に沿って整えられていきました。
同年七月十四日、廃藩置県によって藩政が終わると、明治二十二年(1889)に近代国家の行政制度改革にともない町村制が施行され、佐方村と種村が合併して野間郡亀岡村が成立しました。
佐方の賀茂別雷神社は亀岡村の鎮守として、引き続き地域全体から篤い崇敬を集め続けていきました。
明治三十年(1897)には野間郡が越智郡に統合され、亀岡村もその一部として編入されましたが、賀茂別雷神社の信仰は少しも揺らぐことなく、むしろ地域の心の拠り所としてその存在感を強めていきました。
大正十四年(1925)には、菊間町が歌仙村を合併し、地域の統合が進みます。
昭和三十年(1955)には、亀岡村と菊間町が合併し、佐方地区を含む一帯は菊間町の一部となりました。
そして平成十七年(2005)一月十六日、今治市と菊間町をはじめとする越智郡十二町村が新設合併を行い、現在の今治市菊間町佐方となりました。
現代に息づく信仰と地域の心
こうした時代の移り変わりの中にあっても、賀茂別雷神社は今なお地域の氏神として、人々の暮らしの中心に寄り添い続けています。
氏子をはじめとする地域の人々は、例祭や年中行事を代々受け継ぎながら、境内の整備や神事の運営にも心を寄せ、互いに力を合わせて神社を守ってきました。
その信仰の根底には、平安の昔に京都・上賀茂神社から伝えられた賀茂大神への崇敬が流れ続けており、今もなお、人々の暮らしと祈りを優しく結びつける絆として生き続けているのです。



