「鴨部神社(かんべじんじゃ)」は、ハリソン東芝ライティングの裏側に位置し、東禅寺と向かい合うように佇んでいます。
この神社は、伊予の豪族・越智益躬(小千益躬・おちのますみ)を祀っており、その功績と信仰が今に伝えられています。
鉄人を討て!伊予の英雄伝
「鴨部神社」の創建を語る際には、東禅寺の創建伝説にも登場する「鉄人伝説」を避けては通れません。
当時、新羅 (しらぎ)・百済 (くだら)・高句麗 (こうくり)の「三韓(朝鮮大陸)」に「鉄人」と名乗る非常に強くて悪賢い武将がいました。
鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。
そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。
これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。
最恐の鉄人の進軍を止めろ!
日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、彼は突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。
兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。
さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れました。
このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。
暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。
そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。
もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族・越智益躬でした。
三島大明神の御神託
朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「三嶋大明神(三島大明神・大山祇神・大山積神)」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。
その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
益躬 vs 鉄人
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。
武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでも益躬じっとチャンスを待ち続けました。鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の選坂(かにさか )にまで到達しました。
この時、ついに決定的な好機が訪れます。
三島大明神の神撃が鉄人を貫く
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。
すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。
鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいきました。そして驚くべきことに、唯一の弱点とみられた足の裏に穴に突き刺さったのです。
これが致命傷となり、鉄人はそのまま息を引き取りました。
こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
大将である鉄人を失い大混乱の軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。
手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。
詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。
この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。
「東禅寺」兵士の霊を慰めるため
凱旋帰郷した越智益躬は、鉄人との死闘において命を落とした数多の兵士たちの霊を慰めるため、一寺を建立しました。
これが「東禅寺」のはじまりになります。
「往生伝」越智益躬の伝説
こうして、英雄となった越智益躬ですが、なおも変わらぬ誠心で朝廷に仕え、忠義を貫き続けました。
その一方で、日々の暮らしの中では仏教への信仰を深め、心静かに法華経を読み、念仏を唱えることを欠かしませんでした。
若き頃より仏道に傾倒していた益躬は、剃髪こそしなかったものの、早くに十戒を受け、自ら法名を「定真(じょうしん)」と称していたと伝えられています。
東禅寺では、益躬自身が仏前に端座し、法華経を唱えながら、鉄人との戦いで命を落とした兵たちの冥福を、静かに、心を込めて祈っていたのかもしれません。
越智益躬の最期
忠義に生き、武に秀で、そして深い信仰を貫き続けた益躬の姿は、この地に暮らす人々の誇りであり、誰もが敬意をもってその名を語りました。
しかし、そんな益躬もまた一人の人間…やがて、静かに終わりの時が訪れました。
仏教では、西に阿弥陀如来の住む極楽浄土があるとされ、臨終の際にその方角を向いて念仏を唱えることは、安らかな往生を願う作法とされています。
益躬は、その教えに従うように、西の方角に静かに坐り、定印を結んで念仏を唱えながら、痛みも迷いもなく、穏やかに息を引き取りました。
その瞬間、村人たちは空から不思議な音楽が響くのを聞き、また、言葉では言い尽くせない芳香が村全体に満ちたと伝えられています。
この神秘的な出来事に、人々は驚きとともに深く感動し、涙を流してその往生を讃えたといいます。
最期のその時まで、益躬は誠を尽くし、静かに気高く生をまっとうしたのでした。
「鴨部神社」神格化された益躬
益躬が亡くなったという報せはすぐに朝廷に届きました。
やがてその比類なき武勲と、誠心をもって貫いた忠誠が朝廷に認められ、文武天皇(在位697〜707年)より「鴨部大神(かんべおおかみ)」の尊号が贈られ、神格化されました。
これを受け、この地の人々はその御神霊を長く敬い、恩徳に報いようと、かつて益躬が建立した東禅寺の近くに、鴨部大神をお祀りする社殿を設けました。
こうして創建されたのが、「鴨部神社」です。
神戸から鴨部へ
「鴨部(かんべ)」という地名の由来については、もともと「神戸(かんべ)」と呼ばれていた地域が、大同4年(809年)に「鴨部」に変更されたとされています。
『伊予郡誌』には、「神戸大神祭神小千宿称益躬、大同四年部と改む」と記録されており、この記述からも当時の地名変更が確認できます。
つまり、鴨部神社は、越智益躬(小千益躬)は当初は「神戸大神(かんべおおかみ)」の称号を授けられ、神戸神社に祀られた後に、文字の変更によって現在の「鴨部」という表記になったと考えられます。
「越智益躬公墳墓の地」本当の墓はどっち?
鴨部神社の境内には、「越智益躬公墳墓の地」と刻まれた石碑が建てられています。
この碑は、神社の主祭神である越智益躬の伝承を今に伝えるものであり、今治市においても重要な歴史的・文化的意味を持っています。
一方で、越智益躬の本当の墓は、今治市朝倉地区にある「樹之本古墳(きのもとこふん)」だと考えられています。
「樹之本古墳」の概要
- 所在地:愛媛県今治市朝倉地域
- 築造時期:古墳時代中期(およそ5世紀頃)
- 形状:円墳
- 規模・特徴:朝倉地域に現存する300基以上の古墳の中でも特に古く、最大級のもの
この古墳は今治平野を代表する重要な古墳遺跡であり、当時の有力豪族の墳墓であったと見られています。
明治期の発掘と主な出土品
明治41年〜42年(1908〜1909年)に発掘調査が実施され、以下の様な数多くの貴重な遺物が出土しました。
- 獣帯画像漢式青銅鏡(直径24cm)
→ 中国・漢代の工芸技術を取り入れた精巧な鏡 - 勾玉・管玉などの装飾品
- 青銅製の刀身・槍身
これらの遺物はいずれも、当時の被葬者が有力な支配層であったことを示しています。
「薬師如来像の出土」仏教伝来以前の信仰
さらに注目すべきは、この古墳から銅製の薬師如来像が出土している点です。
薬師如来像は、日本では一般的に仏教の伝来(538年または552年)以降、特に聖徳太子(574年〜622年)の時代に仏教が広く普及したのちに造られるようになったとされています。
また、薬師如来信仰そのものが日本に定着するのは7世紀初頭以降とされ、現存する最古の像は飛鳥時代の遺品に見られます。
代表的な例としては、奈良・薬師寺の本尊像(7世紀末〜8世紀初頭)が知られています。
ところが、樹之本古墳の築造時期は古墳時代中期、すなわち5世紀中頃〜後半(およそ西暦450〜500年頃)と推定されています。
もしこの薬師如来像が古墳築造と同時期に奉納されたものであれば、仏教の公式伝来以前に、すでにこの地に仏教的思想や信仰が根付きはじめていた可能性があるのです。
さらに、越智益躬が生前から仏教を深く信じていたという伝承をふまえると、この薬師如来像の出土は、そうした信仰が実際にこの地に根づいていたことを示す、有力な証拠のひとつと考えられます。
このような発見は、古墳時代における精神文化のあり方、そして地方における宗教受容の先駆的姿を探るうえで、極めて貴重な考古学的手がかりといえるでしょう。
二つの墓所に残るロマン
このように、墳丘の規模や数々の貴重な出土遺物から見て、樹之本古墳は古代伊予国を治めた有力豪族の墓、すなわち越智益躬の実際の墓所である可能性が高いと考えられています。
一方、越智益躬公墳墓の地であるとされる かつて本当にこの地に益躬の墳墓が存在したのか、あるいは人々の畏怖の念から生まれた象徴的な聖地であったのか。
現在のところは明らかではありません。
それでも、この二つの地には、それぞれ異なるかたちで、越智益躬の伝説と謎に包まれた歴史のロマンが、いまなお静かに息づいています