今治市クリーンセンター「バリクリーン」の裏手に広がる鹿ノ子池。
この池は、今治市内でも有数のため池として知られ、古くから農業用水として重要な役割を果たしてきました。
しかしその役割は、農家だけにとどまりません。池の周辺は、四季折々の自然に包まれ、地域の人々の憩いの場としても親しまれてきました。
静かな水面に映る風景は、日々の暮らしにそっと寄り添い、今も多くの人々に癒やしを与えています。
そしてそのほとりに、ひっそりと鎮座するのが「鹿児神社(かのこじんじゃ)」です。
この神社は、鹿ノ子池を守護するために創建されたと伝えられており、池と人々の営みを見守り続けてきました。
鹿児神社の創建と、池に込められた祈り
鹿児神社の創建は、江戸時代初期までさかのぼります。
鹿ノ子池は、今治市において地域の農業を支える重要な水源でした。
しかし、当時の池は規模が小さく、干ばつのたびに水不足に陥り、農作物が育たず、人々の生活にも大きな影響を与えていました。
このことが、地域の農業の発展を大きく妨げる要因となっていたのです。
作物の収穫量は安定せず、農村経済は常に自然の影響に左右される不安定な状態が続いていました。
そのため、池の拡張と安定した水源の確保は、地域の誰もが望む切実な課題となっていったのです。
初代藩主・松平定房による治水の始まり
江戸時代初期、寛永12年(1635年)に今治藩の初代藩主となった松平定房(まつだいら さだふさ)公は、藩の統治を担うにあたり、地域のインフラ整備に取り組み始めました。
当時、今治の平野部では、蒼社川や頓田川がたびたび氾濫を起こし、田畑を水浸しにしてしまう被害が繰り返されていました。
水害によって作物が失われ、村人たちの生活にも深刻な影響を及ぼしていたのです。
松平定房公は、こうした状況を改善するため、両河川の流れを整え、堤防を築き直すなどの本格的な治水事業に力を注ぎました。
その結果、川の氾濫は抑えられ、流域の安全は大きく改善されました。
一方で、地域の農業にはさらなる課題が残っていました。
それは、安定した農業用水を確保するための「水源」の不足でした。
それは、農業用水を供給するための水源である鹿ノ子池(かのこいけ)の規模が小さく、干ばつ時には十分な水を確保できないという問題でした。
鹿ノ子池は、地域の農業を支える重要な池でありながら、その容量不足が地域住民にとって深刻な問題となっていいたのです。
六代藩主・松平定休による池の大改修
この課題に本格的に取り組んだのが、六代藩主・松平定休(さだやす)公でした。
明和8年(1771年)、定休公は鹿ノ子池の拡張工事を命じ、池の容量を倍増させる大規模な治水事業を始めました。
この工事は、池の近隣に暮らす村人たちの総力を結集して行われ、なんと29年の歳月をかけて、寛政11年(1799年)に完成しました。
池の拡張と堤防の築造
拡張工事では、現在も池の中央に「古土手」として残る堤防の外側、新谷村大野方面へと池の領域を広げ、新たに200メートル以上の堤防が築かれました。
その結果、鹿ノ子池は以前の倍以上の貯水量を持つ池へと生まれ変わり、干ばつのたびに悩まされていた農業用水の供給が安定しました。
これにより、地域の農業は大きく発展し、住民の暮らしも飛躍的に改善されたのです。
池を守るための神社「鹿ノ子神社」
拡張された鹿ノ子池が、地域にとってかけがえのない存在となっていく中で、この池の守り神が必要だという思いが、住民の間に強く芽生えていきました。
長い歳月と労力をかけて完成したこの池は、もはや単なるため池ではなく、地域の暮らしと命を支える“いのちの水源”として、人々にとって神聖な存在となっていたのです。
そこで、寛政11年(1799年)、人々は大三島の「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」から、大山積ノ神(おおやまづみのかみ)を鹿ノ子池のほとりに勧請し、新たに神社を建立しました。
こうして誕生したのが「鹿児神社(かのこじんじゃ)」です。
山・海・田畑をつかさどる自然神として、また豊穣と水をもたらす神として広く信仰されてきた大山積ノ神は、この池を守る神としてまさにふさわしい存在でした。
「ノットヤ」という特別な家々
鹿児神社の社殿を建てる際には、多額の費用が必要とされました。
この費用は、地域の人々の寄付によってまかなわれましたが、なかでも特に信仰心が厚く、多額の寄進を行った家は「ノットヤ」と呼ばれ、地域の中でも特別な存在として敬われてきました。
お祭りの日になると、そのノットヤの家には、神さまをお乗せしたお神輿(みこし)が運ばれてきます。
庭や敷地にお神輿が安置されると、神主がその家を訪れ、神さまに向かって「祝詞(のりと)」を奏上します。
祝詞(のりと)とは?
祝詞(のりと)とは、神社の神事やお祭りで、神職が神さまに向かって読み上げる「祈りのことば」のことです。
その内容は、神さまをたたえる言葉にはじまり、地域の繁栄や家族の安全、五穀豊穣への願いなどが、感謝と祈願の気持ちをこめて語られます。
あわせて、神事を行う理由や、その由来についても丁寧に神さまへ伝えられます。
音の力と言霊(ことだま)祝詞は、古代から受け継がれてきた特別な日本語で綴られており、その響きには「言霊(ことだま)」と呼ばれる霊的な力が宿ると考えられています。
神さまは、文字よりも“音”によって言葉を受け取るとされており、だからこそ声に出して読み上げることが大切とされているのです。
実際に使われる表現のひとつに、こんな言葉があります。
「かしこみ かしこみ 申す」
これは「恐れ多いことですが、つつしんで、心から申し上げます」という意味で、神さまに敬意をはらい、深く感謝しながら話しかける気持ちをあらわしています。
「ノットヤ」の意味
こうした祝詞を奉げる家「祝詞屋(のりとや)が、少しずなまっていき「ノットヤ」となったと考えられています。
「ノットヤ」は、地域社会において特別な敬意を持って扱われ、その役割は代々受け継がれていきました。
そして今も、祭りの日にはお神輿を迎え、神さまの祝福を直接受けるというこの伝統が、地域の中に深く息づき、暮らしの中に生き続けています。
地域の暮らしを支え続ける水源と信仰
鹿ノ子池は時代が移り変わっても、地域にとってかけがえのない存在であり続けてきました。
大正15年(1926年)の豪雨災害によって一部の堤体が損壊した際にも、迅速に復旧作業が行われ、昭和17年(1942年)には堤体の補強も実施されました。
200年以上が経過する頃には老朽化が進み、安全性が懸念されるようになりましたが、地域社会からの強い要望があり、愛媛県は昭和58年4月に本格的な改修工事に着手。
平成3年3月にこの工事が無事に完了し、鹿ノ子池は再び地域の農業を支える重要な水源としての役割を果たすことができるようになりました。
そして現在。
鹿ノ子池は、今も変わらず田畑を潤し、四季折々の風景の中で人々の暮らしと寄り添い続けています。
そのそばに鎮まる鹿児神社もまた、変わらぬ祈りの場として地域の信仰を支えています。
自然と人、祈りと暮らしがともに歩んできたこの場所は、これからも地域の基盤として、そして心のよりどころとして、静かにその姿を守り続けていくことでしょう。