「観音寺(かんのんじ・観音禅寺)」は、戦国の動乱や江戸時代の藩政、昭和の戦火と復興を経て現在の地に至り、時代を越えて地域の人々の心のよりどころとなってきました。
さらにここは、あの“猿飛佐助”とも意外な縁を持つ場所としても知られています。
観音寺の歴史
観音寺の創建年代は明らかではありませんが、もともとは現在の朝倉地区(旧・朝倉村)に所在していたと伝えられています。
観音寺の誕生と移転
永禄年間(1558〜1570年)、日吉御城山の城主・原房康(はら ふさやす)によって、宇海寺古川(うかいじ・ふるかわ)へと移されました。
そして、営鏡梵地(えいきょう ぼんち)和尚が開山として迎えられ、臨済宗妙心寺派・観音寺として地域の信仰の場となりました。
その後、元禄年間(1688〜1704年)に入ると、観音寺は今治藩の命により再び移転され、現在の地に定着しました。
この遷座は、単なる場所の移動ではなく、藩政のもとで進められた仏教統制の一環であり、寺院としての役割と格式が公的に認められた証でもありました。
信仰の広がり
正徳年間(1711〜1716年)には、白州視純(はくしゅう しじゅん)による教化と伽藍の整備が進み、旧今治村・日吉村・朝倉村にまで信仰圏が及ぶようになりました。
明治年間(1868〜1912年)には、太元彗剛のもとで本堂と庫裡(くり)が再建され、その後も修復が施されるなど、近代以降も寺の維持と再興が続けられてきました。
しかし昭和に入ると、寺を取り巻く状況は大きく変わりました。
今治空襲の被害
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市はアメリカ軍による3度の空襲を受けました。
なかでも、8月5日から6日にかけての夜間爆撃は最も激しく、市街地は壊滅状態に陥り、家屋の約75%が焼失。
多くの市民が命を落とし、学校・役所・寺社を含む公共施設もほとんどが焼け落ちました。
死者は575人にのぼり、今治は愛媛県内で最も大きな戦災を被った都市となりました。
この空襲は、単なる建物の焼失にとどまらず、人々の日常と記憶、そして地域の歴史そのものを奪い去ったものでもありました。
観音寺も、この空襲によって甚大な被害を受けました。
寺院の中心となる本堂や庫裡をはじめ、その他の重要な建築物は次々と炎に包まれました。奇跡的に山門と鎮守堂は焼失を免れたものの、それ以外の貴重な伽藍のすべてが失われ、寺は存続すら危ぶまれる深刻な状況に陥りました。
しかし、寺を想う人々の祈りと願いは、途切れることはありませんでした。
戦火からの復興
終戦から5年後の昭和25年(1950年)、当時の住職・茶道宗直和尚のもと、復興への歩みが始まります。
最初に再建されたのは庫裡でした。これは戦後の混乱の中で、地域の人々の支援と信仰に支えられながら築かれた、まさに再生への第一歩でした。
その後も少しずつ整備が進められ、昭和45年(1970年)、ついに壮麗な本堂が再建されました。観音寺はふたたび、祈りを受け止める場として、静かにその姿を取り戻したのです。
そして現在、観音寺には多くの人々が訪れ、信仰と地域のつながりを感じる場所として大切にされています。
藩士や著名な人物が眠る「お抱え寺」
観音寺は、江戸時代には今治藩の「お抱え寺」として手厚い庇護を受け、藩士や藩医、儒学者、絵師など、藩を支えた多くの名士が眠っています
たとえば、蘭学を学び伊予諸藩で最も早く種痘を導入した今治藩の医師・菅周庵(かんしゅうあん)、藩医でありながら絵師としても知られる山本雲渓(やまもとうんけい)、今治の繊維産業の父・柳瀬義富(やなせよしとみ)など、歴史に名を残す人物が観音寺に埋葬されています。
他にも、境内には今治の栄枯盛衰を物語る墓碑や石塔が点在し、訪れる人々に地域の歴史と祈りの連続性を静かに伝えています。
現在も境内には今治の栄枯盛衰を物語る石塔や碑が点在し、訪れた人々に地域の歴史と祈りの連続性を静かに伝えています。
猿飛佐助とのつながり
境内には、『立川文庫』の創作に携わった今治出身の作家・池田蘭子、そしてその叔父であり中心的作家であった山田阿鉄をはじめとする山田一族のお墓もあります。
『立川文庫』
『立川文庫』は、明治44年(1911年)から大正13年(1924年)にかけて、大阪の立川文明堂より刊行された少年向け講談本シリーズで、総数196巻におよびます。
戦国・忍者・義侠といった題材を扱い、当時の少年読者の心を強く捉えました。
『立川文庫』の誕生
立川文庫は、今治出身の女性・山田敬(通称お敬)と、講談師・玉田玉秀斎(加藤万次郎)との出会いから生まれました。
明治29年(1896年)、玉秀斎が今治に巡業した際にお敬と知り合い、のちに大阪へと移り住んだことがすべての始まりでした。
生活のために、お敬は玉秀斎の口演を速記させ、それを読み物にまとめて発表し始めます。これがやがて“書き講談”という独自の出版スタイルへと発展し、後に『立川文庫』として形を整えてゆきました。
この文庫の最大の特徴は、山田阿鉄を中心とした山田一族が制作のすべてを担った、いわば「家族経営の文庫」であったことです。
筆名「雪花散人」「野花山人」の名で知られる作品群は、実際には家族の協業によって生まれたもので、文作・編集・挿絵・表紙装丁にいたるまで、家族全員が力を合わせて制作に携わっていました。
特に山田阿鉄は文庫を代表する作家として活躍し、後に作家となる姪の池田蘭子も14歳で創作に参加。蘭子はのちに著した小説『女紋』の中で、こうした立川文庫創作の内幕を描いています。
世界を変えた「猿飛佐助」
『立川文庫』の作品の中でも圧倒的な人気を博したのが、石鎚山系の「猿飛橋」に由来して名付けられた忍者「猿飛佐助」を主人公とするシリーズでした。
真田幸村に仕える“真田十勇士”の一人として登場する佐助は、俊敏な身のこなし、天才的な忍術、機転の効いた知略を持ち合わせた正義の忍者として、多くの読者の心をつかみました。
この時代の忍者は“闇”のイメージがありましたが、猿飛佐助の登場によって忍者のイメージは大きく変わることになりました。
『立川文庫』はやがて廃刊を迎えましたが、「猿飛佐助」の物語はその後も多くの作家たちに受け継がれました。
織田作之助、柴田錬三郎、林芙美子といった文学者によって再解釈され、佐助の活躍は小説・映画・演劇・アニメなど、さまざまな媒体へと広がり、忍者という存在を子どもたちのヒーローへと押し上げました。
その存在は、やがて日本の大衆文化の源流の一つとなり、現代では世界中の人々にとっても馴染み深い“日本の忍者像”の原点として親しまれています。
『猿飛佐助』と観音寺の絆
今治市・観音寺には、『猿飛佐助』の創作に深く関わった池田蘭子をはじめ、中心的作家である山田阿鉄、そして山田一族が静かに眠っています。
その縁を象徴するかのように、境内には「猿飛佐助」のブロンズ像が静かに佇んでいます。
2004年に建立されたこの像は、奈良の「せんとくん」の作者としても知られる彫刻家・薮内佐斗司氏の手によるもので、雲を蹴って跳躍する佐助の姿が、生き生きと描かれています。
軽やかに宙を舞う佐助の像は、訪れた人々を物語の世界へと誘い、今治が育んだ創作の力と文化の息吹を静かに伝え続けています。
「塞の力神」の像
山門前にも、同じく薮内佐斗司氏によって制作された「塞(さえ)の力神」像が設置されています。
これは、かつて人々が「疫病神や悪霊は道を通ってやってくる」と信じていた民間信仰に基づくものです。
そうした災厄の侵入を防ぐため、村の入り口や道の分かれ目には「塞の神(さえのかみ)」が祀られてきました。
その伝承にちなんで、この像も山門の前に設けられたものであり、両手を広げて災いを力強く押し返す姿は、訪れる人々に静かな安心感を与えてくれます。
今治城の記憶を受け継ぐ山門
観音寺の山門は、ただの寺の入り口ではなく、それ自体が、今治の歴史を物語る貴重な建築遺産です。
この山門は、明治時代に発布された「廃城令」により今治城が取り壊された際、武家の正門として使われていた「薬医門」が寺に譲り渡され、移築されたものです。
門の正面には、今治藩の藩医として名高い菅周庵(かん しゅうあん)が直筆で揮毫した題字が掲げられています。
この書体は、当時の文化的水準の高さを示すとともに、今治藩と観音寺が深く結びついていたことの証でもあります、
今治空襲を受けながらも奇跡的に戦火を免れたこの山門は、歴史的遺産として、今もなお多くの人々を迎え続けています。
世界的建築家「丹下健三」との深い繋がり
もう一つ忘れてはならないのが、世界的な建築家である丹下健三(1913~2005年)との繋がりです。
丹下健三は大阪市堺区生まれですが、少年時代を今治市で過ごし、その後、戦後日本を代表する建築家として世界的に知られるようになりました。今治市には多くの「丹下建築」が存在し、その影響力が色濃く残っています。
観音寺の霊園内には、丹下健三の一族である丹下家の墓所があり、本家の墓もここに建てられています。