今治市菊間町高田にある「献珠院(けんじゅいん)」は、奈良時代に創建されたと伝えられる真言宗の古寺です。
正式な文献による記録は確認されていませんが、地元では弘法大師・空海がこの地を訪れたという伝承があり、古くから人々の深い信仰を集めてきました。
比留女地蔵の伝説
この寺にはいくつもの伝説が伝わっていますが、なかでもひときわ人々の心に根づいているのが「比留女地蔵(ひるめじぞう)」の物語です。
地元では「ひるめ地蔵さん」と呼ばれ、病気平癒のご利益があるお地蔵さまとして親しまれてきました。
落城と姫の逃避
天正13年(1585)。
この年、豊臣秀吉は、四国全土に勢力を伸ばしていた土佐の戦国大名・長宗我部元親の討伐を目的に、「四国攻め」と呼ばれる大規模な軍事作戦を開始しました。
元親は阿波・讃岐・伊予へと支配を拡大していましたが、織田信長の死後もなお秀吉への服従を拒んだため、その動向を警戒した秀吉は討伐を決意。
毛利輝元・宇喜多秀家・仙石秀久ら諸将に命じて、四方から四国を包囲しました。
伊予方面への侵攻を任されたのは、毛利家の名将・小早川隆景。総勢およそ三万の大軍を率い、今治・松山方面へと進軍しました。
この圧倒的な兵力を前に、伊予各地の諸城は次々と陥落。菊間町にあった高仙山城と黒岩城もまた、毛利・小早川の連合軍に包囲され、激しい攻防の末に相次いで落城しました。
黒岩城では、城主・渡部内蔵進(わたなべ くらのすけ)が奮戦の末、壮烈な最期を遂げました。
この戦乱の中、内蔵進の姉であるタカ姫は、城を脱して菊間町高田の地へ落ち延び、人知れず静かな暮らしを始めます。
病と祈りの奇跡
高貴な家柄に生まれ、気品ある容姿と慎み深い人柄を兼ね備えていた姫は、村人たちの尊敬と親愛を集める存在となっていきました。
しかし、戦乱と家族の死を目の当たりにした深い心労がたたり、姫はやがて「腰気(こしけ)」と呼ばれる重い病に倒れ、起き上がることもままならぬ日々を送るようになります。
かつての気高い姿は見る影もなくやつれ、回復の兆しも見えませんでした。
そんなある日、姫は村の田中にひっそりと佇む小さな地蔵尊に祈りを捧げるようになります。
人目を避け、静かに手を合わせ、心の底から平癒を願い続けるうちに、不思議なことが起こりました。病状は少しずつ和らぎ、やがて回復の兆しを見せ、ついには完全に癒えたのです。
人々はこれを地蔵尊の霊験と語り伝え、姫のひたむきな祈りと慈しみ深い姿に深く心を動かされました。
「比留女地蔵」の始まり
病から救われた感謝の気持ちを形にするため、タカ姫は自らの手で般若心経などの経典を写経しました。
その数は百巻にも及び、それらは一具の石棺に納められ、供養と祈念を込めて地中に埋められました。
この行為こそが、のちに「比留女地蔵(ひるめじぞう)」と呼ばれる信仰の源となったのです。
信仰と祈願成就
タカ姫が病の平癒を祈り続けた地には、やがて小さなお堂が建てられました。姫の祈りに応えたとされる地蔵尊は、「比留女地蔵(ひるめじぞう)」と呼ばれるようになり、以来、人々の厚い信仰を集めてきました。
この地蔵尊は、特に婦人病や性病、夜尿症、脳疾患など、いわゆる「下の病」に霊験あらたかであると伝えられています。そのため地元の人々はもとより、今治市内や松山市方面からも多くの参拝者が訪れ、願いを込めて手を合わせてきました。
祈願が成就した際には、その感謝のしるしとして、男性は木や陶器で作られた男根を、女性は腰巻を奉納するという独特の風習も根づきました。
堂内には今なお、こうした奉納品が数多く納められています。
「比留女(ひるめ)」という名は、「姫地蔵(ひめじぞう)」がなまったものとされており、姫の気高さと慈しみの心を映した呼び名として、人々に親しまれてきました。
地蔵堂は現在も「ひるめの田」と呼ばれる田園の中に静かに佇んでおり、風そよぐ中に、今もなお姫の祈りの気配が感じられます。
平成16年(2004年)には、「ひるめ地蔵由来」と題された石碑も建立され、伝説はかたちあるものとして後世に伝えられることとなりました。
そして、毎年8月21日には「ひるめ地蔵」の縁日が盛大に執り行われます。
この日には、地元の人々が夕力姫の遺徳を偲び、餅まきや踊りを奉納しながら賑やかに祈りを捧げます。
今治市内外からの参拝者も多く訪れ、地域の信仰と伝統が今に息づいていることを実感させる一日となっています。
「姫を偲ぶ祈りの場 」献珠院の継承
タカ姫はその生涯を閉じたのち、「献珠院殿円覚妙善禅尼」という法名を贈られました。
この法名は、病を乗り越えた姫の信仰と慈悲の心、そして人々への深い思いやりをたたえたものです。
現在もその位牌は、献珠院に大切にお祀りされています。
献珠院は、比留女地蔵とともに病気平癒の霊験あらたかな寺として知られ、姫の祈りと徳を偲び、多くの参拝者が訪れています。
この地には、戦乱に翻弄されながらもなお、人々の幸せと平癒を願い続けた姫の心が静かに受け継がれ、今もなお、祈りの場として根づいているのです。