今治市新谷の静かな山あいにひっそりと立つ禅寺、「吉祥寺(きちじょうじ・吉祥禅寺)」。
この寺は、春には椿が咲き誇る名所として知られる一方で、戦国時代の悲話と安産信仰を今に伝える「鷹取殿(たかとりでん)」を祀る祈りの場としても、長く人々の信仰を集めてきました。
吉祥寺の創建と由緒
吉祥寺が創建されたのは、江戸時代前期の寛永年間(1624〜1644年)。
臨済宗妙心寺派の「海禅寺」の復興に尽力したことで知られる第四世・萬化月龍和尚の弟子、蘭庭彗秀(らんてい・えしゅう)和尚が、師から受け継いだ禅の教えを新谷の山あいに根付かせるため、臨済宗妙心寺派の寺院として吉祥寺を開きました。
その後、吉祥寺は静かな山林に囲まれた修行の場として整備され、禅僧たちが坐禅や読経に励む場所となりました。
さらに月日が流れるうちに、吉祥寺は修行道場としての役割を超えて、地域の人々が心の拠り所として祈りを捧げる場としても親しまれるようになりました。
椿の名所としての魅力
吉祥寺の裏山は、知る人ぞ知る椿の名所として親しまれています。境内の奥から山にかけて、季節になると無数の椿が咲き誇り、静かな山寺の風景に華やぎを添えています。
この椿園は、昭和の終わり頃から坂野泰堂住職が心を込めて育ててきたもので、その数は何千本にもおよび、品種は五百種類を超えるといわれます。
厳しい冬を越えた椿たちは、毎年二月下旬から三月にかけて見ごろを迎え、境内一帯をやさしい紅や白、桃色の花で彩ります。
静けさに包まれた山あいに、ひっそりと咲く椿の姿は、訪れる人々の心を和ませ、まるで仏の慈悲を映すかのようです。
事前に連絡をすれば見学も可能で、近年では写真愛好家や植物に詳しい人々の間でも評判を呼んでいます。
また、平成16年(2004年)からは吉祥禅寺と今治椿同好会が中心となって「椿まつり」が催され、地元の人々や観光客で賑わいを見せる春の風物詩となっています。
裏山と古墳の考古学的価値
吉祥寺の裏山は、古代の面影を今に伝える貴重な場所でもあります。
昭和5年から6年(1930~1931年)にかけて、この裏山からは土器や玉類、銅鏡などが出土しました。
さらに、昭和39年(1964年)の水道工事の際にも須恵器が見つかっており、これらの発見から古墳時代の遺構が存在することが確認されています。
当時の調査によれば、出土した遺物の一部は古墳時代後期にあたるもので、この地がかつて有力な豪族の支配領域であった可能性が指摘されています。
とりわけ銅鏡や勾玉といった副葬品は、祭祀や権威の象徴であり、この裏山が単なる自然の丘陵ではなく、信仰と死生観が交差する神聖な空間であったことを物語っています。
そしてこの裏山には、もうひとつの物語が伝えられています。
それは、戦国の世を生きた一族の悲しい伝承「鷹取殿(たかとりでん)」にまつわる、深い祈りの記憶です。
鷹取殿と正岡紀伊守の伝承
吉祥寺の裏山には、「鷹取殿(たかとりでん)」と呼ばれる小さな社(祠)があります。
ここには、安産や子授けのご利益があるとされ、今も多くの人々が静かに手を合わせに訪れます。その由来には、戦国の世に生きた一族の、深い悲しみと祈りが語り継がれています。
鷹取山城の戦い戦い
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による四国征めの波が、ついに伊予の地にも押し寄せてきました。
このとき、今治市にそびえる鷹取山(標高314メートル)には、山頂に築かれた堅城・鷹取山城がありました。その城を守っていたのが、地元の武将・正岡紀伊守(まさおか きいのかみ)です。
伊予攻略の任を受けた秀吉の武将・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)は、鷹取山城を攻略すべく、大軍を率いて進軍。
夜討ちを仕掛けたものの、鷹取山城は予想をはるかに上回る堅固さで、中々落ちませんでした。
小早川隆景の計略と落城
これに手を焼いた小早川隆景は、ついに力攻めを断念し、和議を申し入れるため、正岡紀伊守に大きな「つづら(葛籠)」を送りました。
つづらは、慎重に選ばれた使者の手によって、厳重に封をされたまま城門の前に置かれました。
警戒しつつも敵の意図を量りかねた守兵たちは、協議の末、そのつづらを城内に運び入れました。
しかし、これは小早川隆景の仕掛けた計略だったのです。
城内で最初のつづらを開けた瞬間、中から蜂の群れが飛び出しました。
兵士たちは突然の蜂の襲撃に次々と刺され、城内は大混乱に陥ります。
そうこうしている内に、また新たなつづらが城に届けられました。
前回の蜂の恐怖が強く残っていた兵士たちは、「また蜂に違いない」と疑い、今度は中を開けず火をつけて処分しようとしました。
ところが、今回のつづらには火薬が仕掛けられており、火をつけた瞬間に爆発しました。
この爆発によって城内の建物や防御施設を破壊され、兵たちは動揺と混乱の渦に飲み込まれていきました。
そして、この爆発を合図に小早川軍が総攻撃を仕掛け、ついに鷹取山城は力尽き、落城の時を迎えました。
城主・正岡紀伊守は、もはや戦況が覆せないことを悟ると、愛する妻子を信頼のおける家臣・清水通俊に託して自らの命を絶ちました。
「安産と平安」月明かりの中で誓いを残した母
正岡経長の妻子は、小早川軍の追手から逃れるため、月明かりを頼りに吉祥寺の裏山(または鹿子谷の洞窟)へと身を潜めました。
しかし、周囲はすでに敵兵によって包囲されており、もはや逃げ道は残されていませんでした。
追手が迫る中、奥方は幼い子と共に自害する覚悟を固め、国と民の安寧を祈って辞世の句を詠みました。
「国家安康、災難削除、人畜平安を守護する」
さらに、この時の奥方は妊娠しており、そのお腹には新しい命が宿っていました。
奥方はこれから生まれてくるはずだった我が子のことを思い、さらに次のような誓いを立て自ら命を断ちました。
「わが霊は、永遠に妊婦を守護し、安産を遂げさせ、男児には『福徳知恵』を、女児には『端正麗姿』を与える」
和尚の夢枕に現れた奥方の霊
それから時が流れ、ある夜、吉祥寺の住職であった寛嶺(かんれい)和尚の夢枕に、正岡紀伊守の奥方が現れました。
奥方は静かに語りかけ、供養を求めたといいます。
翌朝、寛嶺和尚はその夢を忘れることなく、正岡夫妻のために墓石を建て、手厚く供養を行いました。
やがてその墓石は、何度か修繕や刻み直しを経ることになりますが、不思議なことに、奥方の法名が刻まれた側にだけ、一本の白い線が現れました。
人々はこれを、奥方が生前に身につけていた腹帯の布の跡ではないかと語り合い、長くその霊験が信じられるようになります。
「安産の仏様」
こうして、正岡紀伊守とその奥方の墓は、「安産の仏様」として崇められるようになり、小さな社殿が建てられ、「鷹取殿(たかとりでん)」と呼ばれるようになりました。
その墓石を訪れる人々は後を絶たず、安産や子授けを願って多くの参拝者が祈りを捧げてきました。
ご利益を受けたとされる人々によって、社殿には小さな産着や赤子の写真、よだれかけなどが所狭しと奉納されています。
これらは、無事に子供を授かり育てることができた人々の感謝の思いが形となったもので、現在でもその信仰は続いており、多くの参拝者が鷹取殿を訪れています。
「鷹取祭」
鷹取殿にまつわる祈りと信仰は、長くこの地に根を張り、現代にも受け継がれています。その象徴ともいえるのが、毎年旧暦四月十三日に営まれる「鷹取祭(たかとりさい)」です。
この祭りは、かつて正岡紀伊守に仕え、落城の際にその妻子を守ったとされる清水通俊の末裔、清水一族によって代々守られてきました。
彼らは、正岡夫妻の霊を敬い、その供養を欠かすことなく続けてきたと伝えられています。
やがて時代が移り、鷹取殿の祠と祭祀は吉祥寺が引き継ぐこととなりました。
それ以来、寺の住職や地元の人々の手によって、静かに、しかし誠実に祈りの場が守られ続けています。
信仰の継承と祈りのかたち
このように、吉祥寺は鷹取殿の歴史と伝承を背負う寺院として、今もなお多くの人々にとって信仰の場となっています。
境内には、かつてお経を埋めたとされる「経塚碑」も残されており、この地が歴史的にも文化的にも重要な場所であることを今に伝えています。
本尊と信仰の広がり
吉祥寺の本尊は、創建当初は阿弥陀如来でしたが、やがて災難消除や家運上昇、安産、厄除け、転禍招福のご利益があるとされる「聖観音菩薩」へと改められました。
こうした本尊の変更には、鷹取殿にまつわる安産信仰の広がりが深く関わっていたとも考えられます。母子を守るという観音菩薩の慈悲のかたちは、まさにこの地に宿る物語と重なり合うものでした。
静かな山あいにたたずむ吉祥寺は、こうして禅の道場であると同時に、命をつなぎ、願いを受けとめる祈りの場として、今も変わらず人々に寄り添い続けています。