今治市高市にある「貴布祢神社(貴布禰神社・きふねじんじゃ)」は、日本全国に約460社存在する水の神を祀る神社の一つです。その総本宮は京都府京都市左京区鞍馬にある「貴船神社(きふねじんじゃ)」です。
神話からはじまる信仰の源流
総本宮・貴船神社は、1300年以上の歴史を持つ古社で、その起源は神話の世界にさかのぼります。
社伝によれば、初代神武天皇の母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、水源を求めて淀川や鴨川を遡り、やがて現在の貴船神社奥宮にたどり着いて祠を建てたことが、信仰のはじまりとされています。
神社の名「貴船(きふね)」は、玉依姫が乗っていたとされる「黄船(きふね)」に由来すると伝えられており、この神話は古代から水への信仰が人々の暮らしに深く根ざしていたことを物語っています。
貴船神社に祀られる高龗神(たかおかみのかみ)は、山や川、雨を司る神であり、古くから農業や漁業の繁栄、さらには海上交通の安全を願う対象として、全国各地で篤く信仰されてきました。
今治・高市に伝わる貴布祢神社の信仰
高市に鎮座する貴布禰神社(きふねじんじゃ)は、聖武天皇の神亀5年(752年)に、山城国愛宕郡から木船大名神(貴船大明神)を勧請したことに始まると伝えられています。
しかし現在は、大山祇命(おおやまつみのみこと)が主祭神として祀られています。
一般的に、貴布禰神社の主祭神は高龗神(たかおかみのかみ)や船玉神(ふなだまのかみ)が中心であり、場合によっては闇龗神(くらおかみのかみ)や玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られることもあります。
このため、大山祇命が主祭神として祀られている例は、全国の貴布禰神社の中でも極めて珍しいといえます。
では、なぜこのような祭神が祀られているのでしょうか?
「高市神社」高市氏の本拠と社名の変遷
貴布祢神社は、神号額に「高市神社」と掲げられており、現在でも「高市神社」とも称されています。
これは、かつてこの地が伊予国において勢力を誇った豪族・高市氏の本拠地であり、「高市郷」と呼ばれていたことに由来すると考えられます。
平安時代末期、高市氏は平氏と深いつながりを持ちつつ、伊予国内の有力氏族として、この地域一帯に大きな影響力を持っていました。
また、古代から中世にかけては、氏神を祀る神社に氏族名を冠することが全国的に広く行われていました。
そうした中で、高市氏は一族の祖先神を祀り、この神社を「高市神社」と称していたのではないかと推測されます。
その後、源平合戦で平氏が敗れると、それに連なる高市氏も勢力を失い、やがて中予の北条方面(現:松山市北条地区)へと落ち延びたと伝えられています。
この地を離れた高市氏に代わって、地域の新たな秩序が築かれていく中で、氏族の名を冠した神社名は次第に不適切と見なされるようになり、「高市神社」から現在の「貴布祢神社」へと改称されたと考えられます。
祭神・大山祇命の謎
「高市神社」と称されていた時代に、大山祇命(おおやまつみのみこと)が祀られ始めていたのではないかとも考えられます。
大山祇命は、日本神話において山の神々の祖とされる山岳の神であり、古くから山・水・農業をつかさどる神として篤く信仰されてきました。
山・海・人を結ぶ今治の守護神
その大山祇命を祀る神社の総本社が、今治市・大三島に鎮座する「大山祇神社」です。
この大山祇神社を拠点に、神への信仰は今治一帯に広がり、皇族や武将たちの崇敬を集めただけでなく、農民や漁民にとっても暮らしを支える守護神として深く根づいていきました。
今治市は、瀬戸内海に面した交通の要衝であり、古来より農業と海運を基盤とする地域社会が営まれてきた土地です。
そうした地に暮らす人々にとって、大山祇命は単なる山の神にとどまらず、水の恵みをもたらす神、そして海上の安全を守る神としても、自然とともにある生活の中で大切にされてきたのです。
現代においてもその信仰は脈々と受け継がれており、農業や漁業の繁栄、海の安全を願う祭りや祈願行事は、今も今治の各地で行われています。
高市の貴布祢神社と大山祇命
こうした背景をふまえると、高市神社が大山祇命を主祭神として祀っていたとすれば、それは古代から続く自然信仰と今治の風土に根ざした歴史的背景とが重なり合った結果だったと考えることもできるでしょう。
そしてやがて、神社の名が「高市神社」から「貴布祢神社」へと改められた後も、祭神は変わることなく、大山祇命は現在に至るまでこの地で祀られ続けてきたとみられます。
もっとも、これらはあくまで限られた資料や伝承を手がかりとした一つの推測にすぎず、現在も調査中です。
近代以降の歴史と現在の姿
一方で、明治以降の歩みに関しては記録が残されています。
明治時代に「村社」に列格された貴布祢神社
明治4年(1871年)、貴布祢神社は、国が進めた神社制度の整備によって、「村社(そんしゃ)」という公的な格付けを受けました。
これは、同年に発せられた「太政官布告(たいせいかんふこく)」に基づいて、全国の神社に格を定める制度が始まったことによるものです。
この制度は、神社の格式や行政上の位置づけをはっきりと定める、いわば神社の“身分制度”のスタートでした。
この格付けによって、貴布祢神社は高市地区の正式な氏神・守り神として、国家からも公認されたことになります。
以後、地域の祭祀や神社の維持運営についても、公的な支援を受けることができるようになりました。
大己貴命の合祀 ― 神社の統合と信仰の拡大
明治19年(1886年)には、高市上部落の氏神であった「大己貴神社」の祭神・大己貴命(おおなむちのみこと)が、貴布祢神社に合祀されました。
これは、明治政府が進めた神社合祀政策の初期的段階にあたる現象であり、地域に点在していた小規模な無格社や末社を、格式の高い神社に統合することで、国家神道体制の整備と信仰の効率的な管理を図る動きの一環でした。
この合祀により、貴布祢神社は単なる一村の神社から、より広範な氏子圏を包含する地域神社へと発展していきました。
昭和の火災と再建
しかし、昭和34年(1959年)8月、貴布祢神社は突如として火災に見舞われ、本殿・拝殿など主要な社殿を焼失しました。
神社建築の多くが木造である中、このような火災は当時も珍しくなく、地方神社にとっては再建のための財政的・人的負担が非常に大きな問題となりました。
それでも、地域の人々の強い信仰心と結束、そして浄財・労力の提供により、翌年の昭和35年(1960年)10月には社殿が再建されました。
新たに建てられた社殿は、伝統的な様式を守りつつ、地域の象徴として新たな歴史を刻む存在となりました。