神仏探訪記 神仏探訪記

  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 今治城の歴史
    • 今治タオル物語
    • こぼれ話
    • 桜
    • 伝統×文化
    • 今治山林火災
  • 探訪記データーベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • 写真の二次利用について
    • 参考文献・参考論・資料
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ
神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

今治城の歴史

FEATURE

01

【今治城の歴史①】海とともに生きる城!築城の名手・藤堂高虎と新時代の港町
今治城の歴史

FEATURE

08

【今治城の歴史⑧】吹揚神社春祭りに響くもう一つの築城の唄「よいやな節」
伝統×文化

FEATURE

03

日本最小の在来馬「のまうま」——今治市が守り続ける”ふる里の宝”
こぼれ話
クレジットカードの起源は桜井にあった!? 信用でつながる日本の商い
桜
桜が結んだ神秘の縁!満願寺の花と世界遺産・厳島神社の伝説
今治山林火災
《今治山林火災②》避難しなかった理由──自主的な初期消火と見張り
こぼれ話
伊予から愛媛へ──古代の国名から県名へと受け継がれた呼び名の起源をたどる
SHINTO SHRINE神社の歴史を知る

貴布禰神社・種(今治市・菊間地区)

  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
【PR】
・週末は愛媛へ!ソラハピで今すぐチケット検索
・引越し侍で愛媛移住!瀬戸内暮らしをはじめよう
・今治・瀬戸内の物件で移住を応援。お祝い金+サポート充実。

高仙山から種へ…南北朝の騒乱を越えて受け継がれた水神

貴布禰神社(きふねじんじゃ)は、古くから「貴布禰」「貴布祢」「貴船」など、さまざまな表記が用いられてきました。

これは時代ごとの用字や習慣の違いによるものですが、いずれも同じ神を祀る当社の名称として受け継がれてきたものです。

菊間町種の地に鎮座する貴布禰神社もまた、その伝統を引き継ぐ社のひとつであり、古来より地域の守護神として人々の信仰を集めてきました。

貴布禰神社・種には、その創建について大きく二つの伝承が伝わっています。

舒明天皇の行幸と奈良時代の勧請

貴布禰神社・種の創建は、愛媛県神社庁の記録によると、飛鳥時代の西暦639年にまでさかのぼります。

この年、舒明天皇は伊豫温湯(いよのゆ)と呼ばれた霊泉に赴くため、皇后(のちの斉明天皇)とともに瀬戸内海を渡り、伊予国へ行幸されました。

伊豫温湯は古代より「神の湯」としてその名が高く、天皇は湯治と休養のため、また西国巡覧と国土鎮護の祈りを兼ねてこの地に滞在されたと伝えられています。

この時、天皇の御船は当社の西北十町に位置する碇ガ浦に停泊し、そこから上陸されたと語られています。

さらに天皇は、現在の泊山団地(とまりやまだんち)が広がる留山(泊山・とまりやま)の山頂に登り、航海と御幸の安全を祈られたと伝えられています。

その後、奈良時代の七百二十八年(728年)、聖武天皇の御代に、国司・越智宿祢玉純(越智玉澄・河野玉澄)に詔が下され、山城国愛宕郡の貴布禰神社より、水波能売命・高龗神・闇龗神の三柱が勧請されました。

これにより、京都に総本宮を持つ貴船社と同系の水神を祀る社として整えられ、雨乞い、五穀豊穣、海上守護の神として篤い信仰を集めるようになりました。

高仙山から始まる創建伝承

『菊間町誌(菊間町誌編さん委員会編・1979年)』には、現在高仙神社が鎮座する高仙山に創建されたとする伝承が記されています。

平安時代の寛治四年(1090年)七月十三日、菊万庄(菊間庄)の御分社として、古来より霊山として崇められてきた菊間北方の高仙山(神山・高山)の山麓古宮と呼ばれる地に、賀茂神(かものかみ)と貴布禰神(きぶねのかみ)が奉斎されたと伝えられています。

「賀茂神」とは

「賀茂神(かものかみ)」とは、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)に祀られている神々の総称です。

主に次の神々を指します。

  • 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
     雷の力を持つ強大な神で、厄除け・開運の神として知られる。
  • 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
     下鴨神社の御祭神で、賀茂氏の祖神。
  • 玉依媛命(たまよりひめのみこと)
     水の神格を持つ巫女的性格の女神で、賀茂別雷大神の母。

賀茂神は古来より水・雷・国家守護の神として崇敬され、古代豪族・賀茂氏と深く結びついた信仰です。

菊間の地に賀茂神が祀られた背景には、水を司る賀茂系統の神を山岳祭祀と結びつけた信仰風土があったと考えられます。

「貴布禰神」とは

「貴布禰神」とは、京都の貴布禰総本宮・貴船神社に祀られる水の神のことを指します。

  • 高龗神(たかおかみのかみ)
     山上に宿る龍神。雨を呼び、雲を動かす。
  • 闇龗神(くらおかみのかみ)
     谷底や深水に宿る龍神。水を蓄え、湧水を守る。

貴船神社の社記には「高龗神も闇龗神も、呼び名は違えど同じ神なり」とあり、両神は本来ひとつの水源・雨・龍神として理解されています。

水は古代社会において農耕・生活・航海の根幹をなす存在であり、そのため貴布禰神は雨乞い・豊穣祈願・海上安全の神として広く崇敬されてきました。

菊間における貴布禰神の信仰も、こうした水をめぐる生活文化と海に面した土地柄の中で根づいたものと考えられています。

高仙山に鎮座した可能性とその宗教的背景

元々、貴布禰神社が高仙山に創建されたのか、あるいは後世に遷座したのかについては明確な史料が残されておらず断定はできません。

しかし、『菊間町誌』などに伝えられる古伝承や、地形・祭祀の性格を考えると、貴布禰神社が高仙山に鎮座した時期があったとみる説が有力です。

高仙山は標高二八四メートルと高くはありませんが、山頂からは瀬戸内海・斎灘を広く望むことができ、古代より特別な意味を帯びた山でした。

晴天の日には石鎚山系までも遠望でき、その開けた視界と神秘的な地形は、航海の安全を願う祭り、また雨を呼ぶための山岳祭祀に用いられてきました。

貴布禰神社と賀茂別雷神社が並んで山上に祀られていた背景には、自然と祈りが密接に結びついた古代の信仰風土があったと考えられます。

高仙山はまさに、古人にとって神の依りつく霊山としてふさわしい場であったといえます。

霊山であり軍事拠点でもあった高仙山

しかし、この霊山としての高仙山は、同時に「瀬戸内海を統治するうえで極めて重要な軍事拠点」としての顔を持っていました。

高仙山は斎灘に突き出すように位置し、海路を監視するには極めて適した地形で、山頂からは潮の流れや船舶の動きが一望できました。

この地勢に注目したのが、伊予の名門・河野氏の一族である池原通去でした。

南北朝時代の正平年間(一三四六年頃)、通去は高仙山に山城を構築し、軍事拠点として整備しました。

こうして誕生した高仙山城は、河野水軍の活動を補完する戦略的拠点として重要視され、以後池原氏が代々城を守り、海上と陸上の双方を統括する地域防衛の中心となっていきました。

この山城、そして南北朝という時代状況が、後に貴布禰神社の運命を大きく左右することになります。

南北朝時代の伊予国、河野氏衰退と高仙山に及んだ騒乱

元弘三年(1333年)、日本初の武家政権であった鎌倉幕府が、後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力によって滅亡すると、天皇は理想とする王政復古を実現すべく「建武政権(建武の新政)」を開始しました。

しかし、公家と武家の利害は調整できず、わずか数年で政権は破綻へ向かいます。失望した武士たちは足利尊氏のもとへ離反し、政権は急速に瓦解していきました。

こうした中、足利尊氏は光明天皇(北朝)を擁立して新たな皇統を立て、京都に武家政権・室町幕府を開きます。それに対して後醍醐天皇(南朝)は奈良・吉野へ下り、独自の朝廷を構えて抵抗を続けました。

両朝が互いに「正統」を主張して対立したことで国内秩序は深く揺らぎ、全国の武士たちは南朝方・北朝方のいずれかに属して戦い、各地で戦火が頻発することになります。

こうして、日本史でも屈指の大乱として知られる騒乱の時代「南北朝時代」が始まりました。

そして、全国を巻き込んだこの大動乱は、やがて伊予の地にも色濃く影響を及ぼしていくことになるのです。

細川頼之の伊予侵攻と河野氏の危機

南北朝時代の中期、伊予国は全国の戦乱の波に巻き込まれ、極めて不安定な政治情勢に置かれていました。

その大きな転換点となったのが、阿波・讃岐を支配していた細川頼之による伊予侵攻です。

頼之は北朝方・足利将軍家の有力守護として勢力を拡大し、貞治三年(正平十九年、1364年)、大軍を率いて伊予へと進軍しました。

これに対し、伊予を治めていた湯月城主・河野通朝は世田山に陣を構えて迎え撃ちましたが、多勢に無勢、ついに敗れて自害しました。

通朝の死によって河野氏の勢力は大きく後退し、伊予国内の南朝方は一時的に主導権を失うことになります。

その後、家督を継いだ河野通堯は北条市難波の恵良城に籠って細川勢への抵抗を続けましたが、これも叶わず安芸国能美島へと退き、さらに九州へと落ち延びました。

通堯はそこで征西将軍懐良親王に属して南朝方へ正式に参じ、名を「通直」と改めて再起の時を待つことになります。

伊予国内情勢の再激化

正平二十二年(1367年)十二月、北朝の将軍・足利義詮が死去したことで北朝政権に動揺が走りました。

この機をとらえ、伊予では河野通直の勢力が再び活発化し、得能氏・土居氏・吾川氏・岩屋氏など、多くの国人領主が通直を支持し南朝方として蜂起しました。

菊万(菊間)周辺の国人勢力も南朝方に立ち、伊予国内の情勢は再び大きく揺れ動くことになります。

正平二十三年(貞治六年、1368年)、混迷を深める伊予を平定するため、室町幕府は新たな動きを見せました。

幕府は伊予守護代として仁木義尹を派遣し、南朝方の制圧を目的とする大規模な軍事行動を開始しました。

仁木軍は伊予の北朝方諸勢力と合流し、まず宇和・喜多の方面から進軍して、南朝方国人の根拠地である浮穴郡大田を攻め落としました。

吉岡氏・大野氏・森山氏らの南朝方国人は激しく抵抗しましたが敗れ、通直勢力は再び後退を余儀なくされました。

しかし南朝方の国人たちはなお各地で粘り強く抵抗し、伊予国は南北両軍が至る所で衝突する戦場と化していきました。

高仙山をめぐる攻防

正平二十三年(貞治六年、1368年)九月、ついに高仙山は戦火の渦中へと巻き込まれました。

九月六日、府中(今治)を本拠とする将軍方の軍勢が、佐波の兵を率いて菊万に侵攻し、高山(高仙山)へと陣を敷いたとの急報が、得居氏・正岡氏・東得氏・重長左近らによってもたらされました。

敵は山の中腹から山頂へと押し寄せ、霊山としての神域も、高仙山城の防備も重大な危機にさらされました。

続く十日には、佐波軍が再び高山に押し寄せ、激戦の末、ついに山上は将軍方の手に落ちました。高仙山は完全に北朝方の支配下に入り、城も社殿も戦乱のただ中に置かれることになりました。

しかし、南朝方はここで退くことはありませんでした。

十九日、南朝方の軍勢は西側の籠峯(こもりみね)に陣を敷き、夜陰に乗じて高山の敵陣へ奇襲を仕掛けました。

この夜討ちは大きな成果を挙げ、府中方十四名を討ち取り、敵陣を崩して高山を奪還することに成功しました。

もっとも、勝利の代償は小さくなく、味方の大籠蔵人が討死するなど、戦いは熾烈を極めました。

神社の避難と度重なる遷座

この戦乱の最中、一時高仙山を制した北朝方・木梨入道軍の兵が、山上に祀られていた貴布禰神社と賀茂別雷神社を、戦火から守るため山のふもとへと移したと伝えられています。

その後、貴布禰神社はしばらく仮の地に置かれていましたが、天授六年(康暦二年、1379年)四月、三永九郎通能によって留山(泊山)へと遷されました。

さらに八年後の元中四年(嘉慶元年、1387年)には、同じく三永九郎通能によって再び遷座が行われ、現在の放山に移されたと伝えられています。

賀茂明神の分離と独立

応永六年(1399)四月、それまで貴布禰神社と合祀されていた賀茂明神が、菊間庄にあった遍照院の鎮守として分霊され、遷座されたと伝えられています。

この遷座を契機として、貴布禰神社と賀茂明神は互いに独立した神社としての歩みを進めることになり、このとき遷された賀茂明神が、現在の加茂神社・浜の起源とされています。

起源をめぐる別の説

ただし、この起源については残された史料が少なく、当時の祭祀の実態や遷座の経緯には依然として不明な点が多く、別説も存在しています。

菊間の地は、寛治四年(1090年)にはすでに京都・上賀茂神社の荘園である「菊萬庄」として成立しており、この段階で賀茂祭祀が当地に根づいていた可能性が指摘されています。

また、上賀茂神社の大祭である葵祭を支える「競馬料所(くらべうま りょうしょ)」に菊萬庄が含まれていたことからも、菊間における賀茂信仰が中世以前から確固としたものとして存在していたとみる説があります。

そのため、応永六年の遷座は一つの節目ではあるものの、加茂明神の成立はより古い賀茂祭祀に連なるものだった可能性も高く、当時の祭祀の運営形態やどの段階で独立した神社として機能していたかについては、今なお検討を要する部分が残されています。

いずれにしても、加茂明神(加茂神社・浜)は長い歴史の中で貴布禰神社とともに菊間の信仰を支え、今日まで続く賀茂祭祀の重要な拠点として歩みを続けてきたことに変わりはありません。

河野氏による深い崇敬と貴布禰神社の重要性

貴布禰神社は中世を通じて、瀬戸内海一帯に勢力を広げた伊予の名族・河野氏から深い崇敬を受け続けました。

瀬戸内海の海上交通を掌握していた河野氏にとって、水の神を祀る貴布禰神社は航海安全や雨乞いを祈願する重要な社であり、地域の安定と軍事活動を支える象徴的な存在でした。

居氏による末社創建と氏神化

菊間庄の預所(代官)として恵良城を拠点に地域を統治していた得居氏は、氏神とするため貴布禰神の分霊を受け、下灘波村に末社を建立したと伝えられています。

それ以降、預所得居氏は代々この神社を本社として尊崇し、祭祀の維持や社殿の修復に尽力しました。

得居氏の中でも重要な武将として知られるのが得居半右衛門尉通之で、河野十八将の一人に数えられています。

通之は恵良城主として風早郡から菊間にかけての地域を統括し、来島村上氏の流れを継いだことから海上戦力にも通じ、河野家における軍事的役割はきわめて大きなものでした。

三永氏・河野通生らによる祭祀支援

また、三永氏も貴布禰神社を厚く尊崇しており、地域の祭祀を支えていました。

さらに応永年間には、河野教通の弟である河野通生(兵部少輔)が菊間庄池原に館を構えて高仙山城を整備し、この地域を河野家の勢力下に置く体制が整えられました。

これに伴い、貴布禰神社は軍事と信仰が重なる場として、より重要な位置づけを獲得していったと考えられます。

戦国末期‥来島村上氏の離反と河野氏の没落

16世紀後半、河野氏の体制が大きく揺らぎます。

来島村上氏の当主となった来島通総と、その兄である得居通幸が河野家から離反し、織田信長・豊臣秀吉方へ通じたことは、河野家の海上勢力を大きく損なう出来事でした。

この離反によって河野家は水軍の中核を失い、伊予国内の統治基盤にも深刻な影響が及びました。

こうした状況の中で迎えた天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による四国征め(四国征伐)において、河野氏は抗しきれず没落します。

その結果、長年の後ろ盾を失った貴布禰神社は京都の本社・貴船神社との関係も途絶え、社勢は次第に衰微していきました。

江戸時代における再興と藩の祈願所

豊臣政権期に河野氏が没落した後、しばらく衰微していた貴布禰神社ですが、江戸時代に入ると再び重要な位置を占めるようになります。

松山藩主・久松松平家は、当社を藩の祈願所として定め、武運長久や五穀豊穣を祈る祭礼を行いました。

藩政期を通じて久松家の庇護は続き、社殿の修復、祈祷の執行などが安定的に行われるようになりました。

地域の信仰を集める総氏神

この頃、貴布禰神社は種子村(種子・浜村・長坂・西山・高田・中ノ川・川上・川ノ内・松尾・池ノ原)一帯の総氏神とされ、さらに近郷十か村からの崇敬も集め、広域的な信仰の中心となっていました。

寄進や社殿の造営・改修も各地から相次ぎ、地域社会の精神的基盤としての役割を確立していきました。

また、貴布禰神社と並んで賀茂祭祀を伝える加茂神社・浜もこの時代に大きく整備され、両社を中心とする信仰圏は菊間の宗教文化の核として機能しました。

明治の神仏分離と社格の再編

明治維新を迎えると、日本社会は政治体制だけでなく、宗教制度においても大きな転換期を迎えました。

新政府は国家神道の確立を目指し、明治元年以降、次々と神仏習合を廃する政策「神仏分離令」を発布しました。

この急激な改革は全国の神社・寺院に大きな影響を及ぼし、菊間の貴布禰神社もその例外ではありませんでした。

合祀による再編と地域祭祀の再構築

明治四年(1871年)、政府による神社制度の整理が進む中で、まず早山に祀られていた真名井神社が貴布禰神社に合祀され、相殿の神として祀られるようになりました。

さらに同年、八幡山に鎮座していた八幡社(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰)も合祀され、光安・千原・城上・長谷・岩谷といった周辺部落に広がる氏子圏が、貴布禰神社へと統合されていきました。

神仏分離と神社統合の時期に、多数の小社が地域の中心社へ編入されていったことは日本全国に共通する現象であり、貴布禰神社もその流れの一環として位置づけられます。

社格制度の導入と貴布禰神社の位置づけ

明治政府は神社の格式を定める社格制度を導入し、各地の神社の序列が明確化されました。

この過程で、賀茂明神(加茂神社・浜)が郷社に列せられたのに対し、貴布禰神社は村社に位置づけられ、種子地域の氏神としての役割を担うことになりました。

これにより、両社の祭祀の役割は明確に分かれ、地域祭祀の再編が進むことになります。

また、この時期には社家の体制にも変化が訪れます。

長く貴布禰神社の社家を務めていた中原家が明治四年に退き、以後は加茂神社祠官である池内家が明治十九年まで兼務しました。

こうして明治九年(1876年)三月の村社列格を経て、貴布禰神社は種子地区の産土神(氏神)としての地位を確立し、地域の祈りを受けとめる中心的な神社へと歩みを進めていきました。

そして明治四十一年(1908年)になると、八幡社の氏子たちの希望により、合祀されていた八幡社の社殿が境内に建立され、分祀によって独立した神社として再興されました。

昭和期の整備と貴布禰神社の発展

昭和期に入ると、貴布禰神社では社殿や境内の整備が進み、地域信仰の中心としての姿がさらに明確になっていきました。

昭和五年(1930年)には、当社は郷社へと昇格し、近郷の拠点神社としての地位を再び確立しました。

これは、江戸期以来の久松松平家による厚い崇敬、そして地域住民の深い信仰が評価された結果でもあります。

続く昭和六年には、八橋山から三穂社(三穂津姫命・事代主命)が遷され、境内に再建されました。

三穂津姫命や事代主命は豊穣・商業・漁労にご利益をもつ神として広く信仰されており、かつて佐方浜部落に多くの氏子を持っていた蛭子神の信仰も、これに統合される形となりました。

さらに昭和十四年(1939年)には、火の神・加具槌命を祀る愛宕社が境内に建立されました。

加具槌命は火伏せ・防火の神として知られ、家内安全を願う地域住民から強い崇敬を集めました。

こうした相殿諸社の整備は、旧温泉郡・和気郡・風早郡・越智郡に及ぶ広範な地域の信仰を結集することになり、貴布禰神社は地域宗教の中心としての役割をさらに強固なものとしていきました。

戦時体制下の神社と敗戦後の転換

しかし、昭和期の後半になるにつれ、国内は戦時体制へと突入し、神社もまた国家による統制のもとに置かれていました。

戦時中、全国の神社は「国家と国民精神を結ぶ場」として重視されましたが、戦争の激化とともに地域社会そのものが大きく揺らぎ、貴布禰神社を取り巻く環境もまた例外ではありませんでした。

そして昭和二十年(1945年)、日本は敗戦を迎えます。

敗戦後、GHQによって神道指令(1945年12月)が発せられ、国家と神社の結びつきは法的に解体され、長く続いてきた社格制度も全国的に廃止されました。

これは、国家神道を終わらせ、神社を民間信仰として純粋な宗教の領域へ戻すための政策でした。

地域の信仰拠点の回復と現在

こうした大きな制度改革は貴布禰神社にも影響を与えましたが、その一方で、信仰そのものは失われることなく受け継がれていきました。

国家制度が姿を消したのち、むしろ貴布禰神社は「地域の産土神」としての本質的な姿をいっそう明確にし、水神としての古代的な信仰、山岳・海上と結びつく祈り、農耕や生活を支える地域の神としての役割が、再び人々の中に息づいていきました。

今日に至るまで、貴布禰神社は種子地区を中心に厚い崇敬を受け、古代から連綿と続く水神信仰と地域の歴史を伝える社として、静かに菊間の地に鎮まり続けています。

「天狗松」神社に残る古い信仰の記憶

貴布禰神社には、社殿や古文書だけでなく、周囲の自然や地名にも、かつての信仰を物語る痕跡が静かに息づいています。

その象徴ともいえるのが、境内に今も祀られている「天狗松」の切り株です。

天狗が宿る木・天狗松

天狗松と呼ばれる木は、実は菊間だけでなく日本各地に存在しており、いずれも共通して「天狗が宿った」「天狗が腰掛けた」「天狗が人をさらった」などの伝承に彩られています。

不思議なことに、こうした天狗松と呼ばれる木の多くは、ひと目で人々の心を捉えるほどの大木で、枝は四方へ大きく張り出し、村の中でも特別な存在感を放っていました。

こうした巨木は、古代から「神霊が降りる依代(よりしろ)」とみなされ、尊ばれてきました。

長い時間の中で、その神霊が姿を変え、いつしか天狗という超自然的な存在として語られるようになったと考えられています。

恐れと敬意が入り混じる天狗の物語は、人びとの生活と密接に結びつき、各地に多彩な伝承を生み出していきました。

語り継がれる御神木

貴布禰神社の天狗松は、かつて境内に悠然とそびえていた巨木で、樹齢は三百年ほど、古老の中には「五百年であった」と語る人もいます。

高さは約三十メートル、根回りは六メートル。

四方へ力強く張り出した太い根は大地にしっかりと抱きつくように広がり、その堂々たる姿は、まさに神木と呼ぶにふさわしい威容であり、古くから人びとの信仰と畏敬を集めてきました。

しかし、昭和五十年(1975年)三月、長年の老衰に加え、マツクイ虫の被害が重なって、ついに倒木の時を迎えました。

倒れる直前には根元に大きな地割れが生じ、神社総代が「早く伐らねば危ない」と話していた矢先、山道沿いの住民が避難を終えた直後に、凄まじい轟音とともに大木は倒れたといいます。

幸いにも山道側へは倒れず、人的被害はありませんでした。

そのことから地元では今もなお「貴布禰の神様が守ってくれたのだ」と語り継がれています。

天狗松の由来と鞍馬天狗伝説

天狗松は、かつて境内にそびえていた単なる古木ではなく、この地を長く見守り続けた御神木として、人々の記憶に深く刻まれています。

倒れた現在も、その切り株は静かに祀られ、古くからの伝承を今に伝えています。

その伝承こそが「天狗松」の名の由来となった、京都・鞍馬山に語り継がれる牛若丸(のちの源義経)と大天狗の物語「鞍馬天狗伝説」です。

平治の乱で父・源義朝が討たれた後、牛若丸は七歳で鞍馬寺に預けられ、昼は仏道の修行と学問に励む生活を送っていました。

しかしその胸には、父の仇である平家に対する深い思いと、いつの日か源氏を再興したいという強い志が秘められていました。

ある夜、牛若丸はその思いを抱えたまま鞍馬寺を抜け出し、山奥へと分け入ります。

剣の稽古に励んでいた牛若丸の前に姿を現したのが、鞍馬山を守護するとされる大天狗でした。

大天狗は幼い少年の心に潜む強い気概を見抜き、武芸や兵法を授けることを申し出たといいます。

これ以後、牛若丸は昼は鞍馬寺で修行し、夜は大天狗や烏天狗たちとともに剣術・兵法を習うという特異な鍛錬を積むようになりました。

天狗たちは山を駆ける軽やかな身のこなしや、戦に必要な判断力、素早い太刀筋など、武芸の極意を教えたと伝えられています。

牛若丸はその才覚をめざましく発揮し、短期間で並外れた武芸を身につけていきました。

この物語は『義経記』をはじめ、能、説経節、浄瑠璃など多くの文学・芸能作品を通じて民間に広まり、やがて「鞍馬天狗伝説」として全国で親しまれるようになりました。

鞍馬の大天狗は義経の武勇を支えた守護者として尊ばれ、その信仰は日本各地の神木や巨岩に「天狗松」「天狗岩」といった名を与える背景にもなっています。

高仙山の「天狗楠」との往来

天狗松の伝承によれば、京都の貴布禰神社を菊間町種に勧請した際、に鞍馬の天狗の仲間がこの地にもやってきて、境内の大松と、高仙山頂にあった大きな楠の木との間を飛び交うようになったといいます。

貴布禰神社の大松はいつしか「天狗松」と呼ばれ、高仙山の大楠は「天狗楠」と呼ばれていました。

両者の間はおよそ三キロ。

険しい山道が続く距離でありながら、天狗たちはひと飛びにその行き来を果たしたとされ、これら二つの霊木はいつしか「天狗が飛び交う道標」であったかのように語られていきました。

天狗楠はその巨木ぶりもまた伝承を裏づけるにふさわしいもので、根元の幹回りは大人八人、あるいは十三人が手をつないでようやく囲めるほどであったといいます。その圧倒的な存在感は、山頂を守護する神木として人々の畏敬を集めたに違いありません。

しかしこの大楠も、明治四十年(1907年)に伐採され、現在はその姿を見ることはできません。

しかし、天狗松と対をなして語られてきたこの大楠の記憶は、山に伝わる信仰の歴史とともに、いまなお人々の心に深く刻まれています。

天狗松が遺したもの

昭和五十年(1975年)に倒壊した天狗松そのものは、すでにその姿を失っています。

しかし、貴布禰神社の境内には現在も立派な松が育ち、その木は「天狗松の跡継ぎ」として地域の人々から静かに見守られています。

この「跡継ぎ」の松には、故・赤尾太付雄宮司(旧:赤尾大和宮司)の深い思いが込められていると伝えられています。

赤尾宮司は、長年にわたって貴布禰神社の祭祀と地域文化の継承に尽くした人物であり、とくに天狗松の伝承について強い敬意を抱いていました。

天狗松が倒れた後、赤尾宮司は「せめてこの松の血をつぐものを残したい」と考え、境内に残された松の実から種を採り、苗木として育て、やがて現在の松を植え継いだと語り継がれています。

種に建立された「船形石」

貴布禰神社・種の境内には、古い信仰の象徴である「天狗松」と並び、近世以降の信仰継承を物語る特徴的な遺構が存在しています。
そのひとつが、平成二年(1990)六月に奉納された「船形石(ふながたいし)」です。

この船形石は、単なる記念物ではなく、京都・貴船神社に伝わる最古の由緒を今に映す象徴として建立されたものです。

建立は、京都・貴船神社の前宮司である赤尾大和氏の願意を受け、種地区の住民たちが中心となって行われました。

船形石が象徴するもの

貴船神社には古くから、次のような神話が伝わっています。

社伝によれば、神武天皇の母とされる玉依姫命(たまよりひめのみこと)は、浪花の津(大阪湾)から黄色い船に乗って淀川・賀茂川・貴船川を遡り、現在の奥宮の地に辿り着きました。

そこで、湧き水あふれる霊地「吹井(ふきい)」を見いだし、一祠を建てて水神を祀ったのが貴船神社の起こりであると語られています。

この伝承にちなみ、貴船の名は本来「黄船(きぶね)」に由来するとする説もあります。

現在、奥宮の本殿西側には、玉依姫が乗ってきた黄船を人目に触れぬよう石で覆ったという「御船形石」が今なお残され、貴船信仰を象徴する霊石となっています。

菊間の船形石も、この玉依姫命の黄船伝承をもとに建立されたものです。

石材に込められた地域の祈り

さらに、この船形石には、現代の地域事情とも深く結びついた背景があります。

建立の直前、菊間では国家プロジェクトとして菊間国家石油備蓄基地(地下岩盤タンク)の大規模な建設が進められていました。

この基地建設では、地下深くの岩盤を掘削して巨大な空洞(タンク)をつくり、地下水圧を利用して原油を安全に封じ込めるという、特殊な「水封式地下岩盤タンク」方式が採用されています。

工事は安全性を最優先としながらも大規模かつ長期間のものとなり、地域の人々はその完成までの無事を深く祈りました。

船形石に使われた石材は、その工事によって地下岩盤から掘り出された岩石であり、「工事の安全と地域の繁栄を祈願するために、貴布禰の大神へ奉納する」という願いを込めて建立されたものです。

つまり船形石は、古代の「水神の降臨」にまつわる神話と、現代の「地域の安全祈願」が重なり合って生まれた、信仰と地域史をつなぐ象徴的な石碑なのです。

現在も船形石は、かつて境内を見守った天狗松とともに、貴布禰神社の象徴的な存在として大切に守られています。

その静かなたたずまいは、古代から現代に至るまで、絶えることなく続いてきた水神信仰の深い歴史と、人々の祈りの積み重ねを今に伝えるものです。

遥かな時代を越えて受け継がれてきた信仰の証として、船形石はこれからも変わらず、地域の心を支える象徴として静かにその姿をとどめています。

神社名

貴布禰神社(きふねじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市菊間町種3814-1

主な祭礼

10月10日(例祭)

主祭神

天之御中主神・高龗神・闇龗神・水波能女神

境内社

亀山正八幡神社

フォトギャラリーを閲覧する
  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
神仏探訪記
前の記事
  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 今治城の歴史
    • 今治タオル物語
    • こぼれ話
    • 桜
    • 伝統×文化
    • 今治山林火災
  • 探訪記データーベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • 写真の二次利用について
    • 参考文献・参考論・資料
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ