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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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衣千八幡大神社(今治市・立花・鳥生地区)

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今治市衣干町二丁目。

かつて「鳥生の衣干」とも呼ばれていたこの場所には、「衣干八幡大神社(きぬぼしはちまんだいじんじゃ)」が鎮座しています。

神社が祀られている小高い丘は、古くから「衣干山(きぬぼしやま)」と呼ばれ、八幡神をお祀りすることから「衣干八幡山」とも呼ばれてきました。

ここには、武将たちの祈り、皇族の避難伝説、そして龍女にまつわる神話など、さまざまな物語が今も静かに息づいています。

「創建の由来」河野親清と八幡神の勧請

衣干八幡大神社の創建は、保延元年(1135年)にさかのぼります。

この年、伊予国の守護を務めていた河野親清(こうの ちかきよ)が、京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請し、この地に社殿を建立したと伝えられています。

河野親清は、伊予国を拠点に勢力を伸ばしていった河野氏中興の祖とされる人物です。

八幡神は武家の守護神として古くから崇敬されており、河野氏にとっても八幡信仰は一族の繁栄と武運長久を祈るうえで欠かせないものでした。

こうした信仰のもとに、衣干の丘は氏神を祀る神聖な場所となっていったのです。

また、衣干山は標高こそ高くはないものの、丘の上からは周囲を広く見渡すことができます。

自然の要害ともいえるこの地は、陣を張るには十分な条件を備えており、戦乱の時代にはたびたび軍事拠点として利用されてきました。

「南北朝時代」衣干山に築かれた陣

元弘年間(1331〜1334年)および建武年間(1334〜1338年)、衣干山には鳥生又三郎貞実の居した城砦(衣干城・衣干砦)が築かれていたと伝えられています。

当時、南北朝の争いは全国に広がり、伊予の地においても在地勢力が各地で陣を構え、戦略上の要地の確保をめぐって激しいせめぎ合いが繰り広げられていました。

そのような中、周囲を広く見渡すことができる衣干山の立地は、臨時の砦や陣所として格好の地とされ、軍事的にも重要な役割を果たしていたと考えられます。

豊臣秀吉の四国攻めと衣星砦

天正13年(1585年)、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして四国平定に乗り出しました。

伊予国には、すでに秀吉に臣従していた毛利家の重臣・小早川隆景が出陣し、宇摩・新居郡から上陸。

地元の有力武将・金子元宅が奮戦するも討死し、軍勢はその勢いのまま進軍し、越智郡の中心地・伊予府中(現在の今治市中心部)に迫りました。

この圧倒的な軍勢を前に、越智郡の諸城は次々と開城し、ほとんどが無抵抗のまま降伏しました。

多くの城主が生き延びる道を選ぶなかで、ただ一人、徹底抗戦の姿勢を崩さなかった武将がいました。

それが、鷹ヶ森城(今治市鷹取町)の城主、越智駿河守通能です。

越智家の命運を託された武人

通能は、天下に名だたる豊臣の兵を相手にして勝ち目がないことを承知しながらも、なおも籠城の姿勢を崩さず、最期まで戦う覚悟を固めていました。

やがて城は包囲され、落城は避けがたい状況となります。

通能は己の命運を悟ると、弟の右衛門尉に家の命脈を託し、忠臣・門間左衛門佐の一子、門間太郎を連れて落ち延びるよう命じました。

「自分だけ生き延びるわけにはいかない!」

右衛門尉はそう言って、主君の命に背くことを拒みます。

しかし通能は、「従わぬというのならば、たとえ七度生まれ変わろうとも、おまえを勘当し続ける」と、厳然とした口調で言い放ちました。

越智家の血統を絶やしてはならぬ…通能の言葉には、主君として、兄としての最後の意志が込められていました。

右衛門尉は涙ながらに兄の気持ちを受け入れ、朝倉地区の光蔵寺(高蔵寺)に身を寄せていた門間太郎を連れ出し、落ち延びていきました。

衣星砦から周桑郡へ…命を繋ぐ逃亡劇

その逃亡の途上で立ち寄ったと伝えられているのが、衣干山に築かれていた「衣星砦(衣干砦)」です。

そこで一時的に身を隠し、追手の動向をうかがったうえで、菊間町の重茂山城へと逃れました。

しかし、そこにも追手の手が迫っていました。

刻一刻と迫る危機のなか、右衛門尉は門間太郎を嵯峨山寺(嵯峨山大井寺?)に預けて、自身は周桑郡方面へと逃げることにしました。

その行動は、あえて囮となって追手を引きつけ、門間太郎の命を繋ぐためであったのかもしれません。

その後、なんとか周桑郡への逃亡を果たした右衛門尉は、武士としての道を捨て、土に生きることを選び、農夫として静かにその生涯をまっとうしたと伝えられています。

そして、ふたりの血を引く子孫たちは越智郡や周桑郡に定住し、江戸の世を通じて、越智の命脈はひそやかに、しかし確かに受け継がれていったとされています。

今治城の築城と衣干山との知られざる関係

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける功績により、藤堂高虎は伊予国12万石を拝領しました。

当初、高虎は国府が置かれていた桜井地区の山城、「国分山城(国府城・唐子山城)」を居城としました。

この城は、かつて村上水軍御三家のひとつ・能島村上氏の第五代当主、村上武吉(むらかみ たけよし)が築いたとされ、瀬戸内海から伊予の内陸部へと進出するための戦略的な要衝として、戦国期を通じて重要な拠点とされてきました。

しかし、時代はすでに天下泰平へと向かう転換期を迎えていました。

山城よりも、海運に恵まれ、経済的・軍事的に優位な「港町」の構築が求められていたのです。

そして慶長七年(1602年)、藤堂高虎は海辺の地に新たな城の築城に着手します。

これが、後に「日本三大水城」として知られる今治城のはじまりでした。

中継地としての衣干山

今治築の築城に際して、多くの建築資材が必要とされました。

この中で、旧国府城の石垣や土塁(どるい)を解体して再利用することが決まりました。

解体された石材や土砂は、山から海へと運ばれることとなり、その中継拠点として活用されたのが衣干山(きぬぼしやま)だったと伝えられています。

衣干山に重ねられた土砂と石材

また、現在の衣干山の地形は、今治城の築城工事と深く関わっているとされています。

一説によれば、資材運搬の途中で衣干山の地で石や土がこぼれ落ち、それが幾重にも積み重なったことで、もともと丘陵であったこの地がさらに盛り上がり、現在のような小高い丘を形成したとされます。

また別の説では、築城作業の終了後に余った資材や土砂をまとめてこの地に積み上げたことが、現在の地形に影響を与えたとも語られています。

いずれの説にしても、衣干山には今治城築城という大事業の「歴史」が刻まれています。

「拝志騒動」戦略的重要性を証明した事件

衣干山の戦略的な重要性を証明することになる「拝志騒動」の舞台となりました。

拝志騒動の発端

1604年(慶長9年)、藤堂高虎は、徳川家康に伺候するため、駿府(現在の静岡市)へと赴いており、今治城の政務は、養子の藤堂高吉が任されていました。

一方、拝志城は加藤嘉明の実弟・加藤内記(ないき)が城代を務めていました。

同年7月、藤堂高吉は家臣・星合忠兵衛(ほしあい ちゅうべえ)に中元の贈り物を託し、主君・藤堂高虎のもとへ使者として駿府行きを命じました。

この話を耳にしたのが、同じ藤堂家に仕えていた小者・太郎兵衛(たろべえ)でした。

太郎兵衛は、かねてより忠兵衛に対して強い私怨を抱いており、復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

「今しかない…」

忠兵衛は翌朝の出発に備え、荷をまとめて城下の自宅へと急いでいました。

物陰に潜み待ち構えていた太郎兵衛は、忠兵衛が油断した瞬間を狙って一気に襲いかかりました。

あまりにも突然の出来事に、忠兵衛は抵抗する暇もなく斬り伏せられ、そのまま命を落としました。

太郎兵衛の逃走…拝志への潜伏

忠兵衛を斬り、長年の恨みを晴らした太郎兵衛でしたが、主君の家臣を手にかけたその罪は、武士の世ではあまりにも重く、藤堂家の領内にとどまることはもはや死を意味していました。

太郎兵衛はすぐさま逃亡を決意し、旧知の鷹匠・彦太夫(以下:彦太夫)の助けを借りて、今治城の東方に広がる拝志郷(はいしごう)へと姿をくらまします。

加藤家の勢力下にあるこの地は、藤堂家から逃れるには格好の隠れ場所だったのです。

殺害犯を追う藤堂家

この事を知った藤堂高吉は激怒し、すぐに家臣である淵本権右衛門と弟の淵本馬左衛門に、拝志郷へ逃亡した太郎兵衛の探索を命じました。

二人は加藤家の領地である拝志に入るにあたって、一人の案内役を頼むことにしました。しかし、このとき彼らが選んだのは皮肉にも、太郎兵衛の逃亡を手引きした彦太夫だったのです。

ここから、事件は思わぬ方向へと転じます。

混乱の拝志郷

彦太夫は案内人を装って二人を先導していましたが、内心では隙を見て二人を切り捨てようと企んでいました。

そして、隙を突いて淵本権右衛門に斬りかかりました。

不意を突かれた権右衛門は応戦する間もなく負傷。しかし、弟の馬左衛門が即座に反応し、逆に彦太夫を斬り捨ててしまいました。

彦太夫は案内人を装って二人を先導していましたが、内心では隙を見て二人を切り捨てようと企んでいました。

そして、隙を突いて淵本権右衛門に斬りかかりました。

不意を突かれた権右衛門は応戦する間もなく負傷。しかし、弟の馬左衛門が即座に反応し、逆に彦太夫を斬り捨ててしまいました。

しかし、この一連の出来事を目撃していた拝志の町人たちは、「今治の侍が拝志の者を襲った」と口々に叫び、大きな騒ぎとなりました。

この混乱の中、もはや捜索どころではないと判断した淵本兄弟は、事態の悪化を避けるために拝志郷を離れ、慎重に回り道を取りながら今治城へと帰還しました。

そして帰城するやいなや、二人はこの出来事の一部始終を藤堂高吉に報告します。

ここから、事態はさらに大きな波紋を呼び、騒動は加速度的に拡大していくことになります。

藤堂高吉の使者・渡辺庄左衛門と拝志での惨劇

この報告を受けた藤堂高吉は、怒りをさらに募らせました。

忠臣・星合忠兵衛を殺され、さらに探索に向かった家臣までもが襲撃を受けたことは、もはや一領主の面子に関わる問題でした。

そんな中でも高吉は、冷静に事態を収めようと努めました。

家臣の渡辺庄左衛門を使者として拝志郷に派遣し、事件の経緯と藤堂家の立場を説明し、和解を図ろうとしたのです。

ところが、拝志の役人(町与力)・五右衛門(苗字不詳)は、渡辺の申し出を一切受け入れようとはしませんでした。

それどころか、憤激した五右衛門は、なんと使者である渡辺を馬上のまま槍で突き殺すという暴挙に出たのです。

緊迫、絹乾山の対峙

使者・渡辺庄左衛門までもが殺されたことで、藤堂高吉の怒りは頂点に達しました。

そしてついに、直属の親衛隊である馬廻衆(うままわりしゅう)を率いて拝志郷へ向けて進軍を開始。

そのまま一気に、藤堂家と加藤家の領地を分ける境界線である衣干山(絹乾山)の「衣干城(衣干砦)」に到着しました。

そして、加藤領に攻めるためにこの場所を軍事拠点にして戦の準備を始めました。

このまま一歩でも踏み込めば、両家の間で戦が勃発する…そんな一触即発の危機的状況にまで緊張が高まっていました。

しかし、まさにその時、藤堂家の重臣・友田左近右衛門が駆けつけました。

「このような時に私闘を起こせば、幕府(公儀)を軽んじる行為と見なされましょう」

その必死の説得に、高吉はようやく冷静さを取り戻し退却を命じました。

最終的にこの騒動は江戸幕府の裁定に委ねられ、幕府は加藤家側の非を認め、加藤嘉明の弟である忠明を追放することで事態を収束させました。

この事件は、「衣干城(衣干砦)」が当時いかに重要な軍事拠点であったかを示す出来事でした。

残念ながら、長い年月の中で衣干城はその姿を消してしまいましたが、その歴史的な意義は今なお地域の人々に語り継がれています。

「衣千」の由来にまつわる伝説

さらに、「衣千」という名の由来には、古くから地域に語り継がれてきた複数の伝説が存在します。

「南北朝時代」覚理法皇の伝説

そのひとつが、南北朝時代の文中二年(1373年)、南朝の覚理法皇が命を狙われ、新居郡御所寺(現在の愛媛県新居浜市周辺)から密かに舟で避難してきたという話です。

覚理法皇は、南北朝時代の天皇・長慶天皇の弟であり、本名を恒性親王(つねながしんのう)といいます。恒性親王は後醍醐天皇の皇子で、出家して僧となった後、法名「覚理」を名乗りました。

伝説によると、覚理法皇が夜明け前にこの地に上陸した際、御衣が夜露で濡れていたため、神社の岩の上にそれを干したといいます。

この出来事に由来して、やがてこの地は「衣干(きぬほし)」と呼ばれるようになり、神社もまた「衣干八幡宮」と名付けられたと伝えられています。

その後、さらにこの神社は「衣千八幡神社」と改称され、現在では「衣千八幡大神社」と呼ばれる様になったといいます。

龍女が残した衣干物語

もう一つの有名な伝説が「龍女伝説」です。

かつてこの地域は、現在のように陸地が広がっていたわけではなく、満潮時には海水に沈み、干潮になると人が歩ける浅瀬が現れるという、入り江と湿地が入り交じるような地形であったと伝えられています。

そのような時代、海から現れた龍女が、龍登川(りゅうとうがわ)をさかのぼり、玉川町にある作礼山(仙遊寺)を目指して進んだといいます。

龍女の目的は、この山で観音像を彫り上げることでした。

伝説によれば、龍女は一刀刻むごとに三度礼拝を行い、長い年月をかけて観音像を刻み続け、ついには仙遊寺の本尊となる尊像を完成させたとされます。

その後、龍女は龍登川を下り海へと帰ろうとする途中に衣干の地に立ち寄って休息を取りました。

その際、濡れた衣を岩に干したことから、この地は「衣干(きぬほし)」と呼ばれるようになったとされています。

「壇ノ浦の戦い」源氏が滞在した聖地

『平家物語』にも登場する日本史上の重要人物、「源義朝(みなもと の よりとも)」の弟、「源義経(みなもと の よしつね・源九郎義経)」が衣干山に滞在していたという話もあります。

源平合戦の幕開け

源氏と平家の滅亡をかけた戦い「源平合戦」が始まる前、平家は長く朝廷や貴族との関係を築き、権力を握っていました。

平清盛が朝廷内で台頭し、平家は栄華を極めましたが、その一方で専横な政治や経済的な重圧が周囲からの反感を招きました。

この頃、源氏は「平治の乱(1159年)」で多くの源氏が平家に討たれ、源義朝の父「源義朝(みなもと の よしとも)」も殺害されるなど、源氏は大きく力を失っていました。

頼朝も幼少期に伊豆へ流罪となり、平家に監視されながら育ちました。しかし、日本各地で平家への不満が蓄積する中で、少しずつ源氏再興の機運が高まっていきました。

そして治承4年(1180年)、白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が発した「平家打倒の令旨」に応じ、源頼朝が伊豆で挙兵しました。

この「令旨」は、当時の政治と軍事の両面で勢力を強めていた平家に対抗するため、全国の武士たちに結集を呼びかけるものでした。

この一報を聞いた平清盛(たいらの きよもり)は、直ちに討伐の準備を進め、9月29日には討伐軍を編成し、京から出陣させました。

これが「源平合戦」の始まりです。

源氏の反攻と平家の誤算

平家はこの時点で朝廷と軍事を掌握し、経済力も蓄えていましたが、関東での源氏の勢力拡大を放置することはできなかったのです。

しかし、平家の強大な権力をもってしても、この討伐は思うように進みませんでした。

関東では多くの武士たちが次々と頼朝に合流し、信濃や甲斐など他の地域にも反平家の動きが広がっていきました。

この状況は平家にとって予想外であり、平清盛が送り出した討伐軍も、富士川の戦いで敗北を喫し、頼朝の勢いを抑えることができませんでした。

こうして「源平合戦(治承・寿永の乱)」は本格的な内乱へと発展し、日本各地を舞台に源氏と平家が覇権をかけた長く激しい戦いを繰り広げることになりました。

この争いは、武士が主導する日本初の全国的な戦乱でありました。

屋島の戦いと那須与一の伝説

文治元年(1185年)、讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で行われた「屋島の戦い」において、源義経は平家軍に対して巧妙な奇襲を仕掛け、平家軍を一時的に退けることに成功しました。

義経は少数の兵を率い、夜間にあえて火を焚いて平家軍を威嚇し、大軍が攻め込んできたかのように見せかける奇策を用いました。

これによって平家側は混乱し、一部は海上へと退却しました。

この戦いの中で、那須与一が見事に「扇の的」を射抜くというエピソードが生まれ、後世に語り継がれる伝説となっています。

那須与一の一射は、源氏軍の士気を大いに高める象徴的な出来事でした。

この戦いは、平家が西国に拠点を移した後、海上拠点の一つである屋島に布陣していた平家に対し、義経が攻勢をかけた場面であり、源平合戦においても重要な局面のひとつでした。

しかし、平家を完全に壊滅させることはできませんでした。

義経が痛感した水軍の必要性

屋島の戦いで、源義経は奇襲によって平家軍に一時的な勝利を収めましたが、平家軍は海上へと逃れ、義経軍は水軍を持っていなかったため追撃することができなかったのです。

結果として、平家が擁する安徳天皇や三種の神器の奪回も叶わず、戦果は限定的なものになりました。

このため、今後の戦において、義経は今後平家に対抗するためには、強力な水上戦力が必要であることを痛感したと考えられます。

河野水軍の活躍

このような状況の中で、義経は次の一大決戦(壇ノ浦の戦い)に備えて、和歌山の「熊野水軍」と、伊予の「河野水軍」に頼ることにしました。

実は、屋島の戦いでの勝利は、河野氏の活躍が大きく影響しています。

河野氏が平家側の陸上部隊である田口教能の部隊を伊予へ引きつけていたため、阿波や讃岐における平家軍勢が手薄となり、義経の奇襲が成功する環境が整っていました。

この河野氏の支援があったからこそ、義経の少数精鋭部隊による奇襲作戦が功を奏し、屋島の戦いでの勝利が可能となったのです。

このことから、源義経は平家討伐の準備のために、今治に一定期間滞在して、河野氏の指導のもとで水上戦術を学び、海上での戦闘に備えていたと考えられます。

大山祇神社に残る戦乱の記憶

この説を裏付けるように、義経が奉納した鎧が今も河野氏ゆかりの「大山祇神社(大三島)」の国宝館に残されています。

この鎧は、河野氏の当主であった河野通信(こうの みちのぶ)の出陣前の慣例である戦勝祈願の儀式に義経が参加し、平家との戦いでの勝利を祝して奉納したものと伝えられています。

この戦勝祈願は、壇ノ浦の戦いの直前、義経の兄・源範頼が陸上から平家を追撃するタイミングに合わせて義経が出陣するための祈りでもありました。

そのため、義経は河野氏とともに大山祇神社で祈願を行い、壇ノ浦の戦いでの勝利後にその感謝の気持ちを込めて鎧を奉納したとされています。

衣千に源義経が滞在

そして義経が今治に滞在していた場所として伝えられているのが、河野氏の産土神(氏神)でもあった衣千八幡大神社です。

八幡大神社に祀られている八幡神は、戦の神として武士たちの守護神とされ、武運を願う武士たちに篤く崇められました。

源氏も八幡神を代々信仰しており、戦いに臨む際には必ず八幡神の加護を願う習わしがありました。

その風習は古く、源氏の祖である源義家(八幡太郎義家)は、戦において八幡神の加護を受けたとされ、勝利を収めるたびに八幡神に感謝を捧げました。

この義家の信仰が源氏の間で広がり、以後、源氏一族は八幡神を「武運の神」として崇敬するようになったのです。

源義経も、この八幡信仰を受け継ぎ、戦に臨む際には必ず八幡神の加護を求めました。

このため、平家討伐の準備を進めるために今治に滞在していた際には、河野氏の氏神である衣千八幡大神社に滞在していたと考えられるのです。

地域に根付く信仰と自然遺産

これらの伝説が残る丘は松林に覆われており、昭和50年(1975年)に今治市の指定保存樹として登録され、地域の自然遺産として大切に保護されています。

松林は四季折々の風景を楽しむことができ、神社の厳かな雰囲気をさらに引き立てています。

明治42年(1909年)には、衣干八幡大神社に横田の地に祀られていた大名持神社が合祀され、地域の信仰の中心としての役割がさらに深まりました。

そして現在に至るまでその重要な役割を果たし続けています。

神社名

衣干八幡大神社(きぬぼしはちまんだいじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市衣干町2-2-66

電話

0898-31-1742

主な祭礼

例祭(5月第2日曜日)

主祭神

三女神(さんじょしん)・品陀和気命(ほむだわけのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)

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