「小湊城跡 龍神社(こみなとじょうあと りゅうじんじゃ)」が鎮座する今治市湊町(みなとちょう)は、来島海峡に面した港町として古くから発展してきました。
この地は、瀬戸内海の重要な航路の一つであり、戦国時代には村上水軍が小湊城(こみなとじょう)を拠点にこの海域を統治し、海上交通の要衝として栄えていました。
一方で、小湊城や神社そのものの詳しい沿革や由緒を伝える記録はほとんど残されていません。
その歴史を知るためには、地域に伝わる伝承、地形や城跡の痕跡、そして村上水軍の活動記録など、様々な断片を丹念に紐解いていく必要があります。
「湊」と「港」その意味と歴史
小湊城や湊町の地名に使われる「湊(みなと)」という字は、「水辺に人や船が集まる場所」を意味し、戦国時代以前から小規模な船着き場や海上交通の拠点を指して用いられてきました。
湊は単なる停泊地ではなく、人や物資が行き交い、交易や情報交換が活発に行われる重要な場所でもありました。
これに対し、「港(みなと)」という字は、近代以降に整備された大規模な港湾を指すことが多く、江戸時代から近代にかけて貿易や物流の拠点として発展し、国家や都市の経済基盤を支える意味合いが強くなりました。
つまり、湊町や小湊城に「湊」という字が用いられていることは、この地が古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として機能し、多くの船や人々が行き交う重要な拠点であったことを示しています。
大山祇神社と「大山祇神社文書」
そして、その歴史的背景をさらに探る上で欠かせないのが、大三島の大山祇神社と、そこに伝わる貴重な史料群です。
大山祇神社は古来より伊予国の信仰の中心地であり、武士や海運に関わる人々からの信仰を集めていました。
特に戦国時代には、瀬戸内海を統治していた村上水軍や、伊予の戦国大名・河野氏との関わりが深いことで知られています。
大山祇神社には、貴重な歴史資料が伝わっており、その中でも「大山祇神社文書」には、中世の伊予国や瀬戸内海の海上交通に関する記録が多数含まれています。
これらの文書を活字化したものとして、景浦愉楽による『大山積神社関係文書』(伊予史料集成5、1977年刊)があり、「大山祇神社文書」二十七通と「三島家文書」六十七通が収録され、各文書に関する解説が加えられています。
村上山城守が小湊浦から出港
「大山祇神社文書」の記述の中には、享禄4年(1531年)、伊予の守護であった河野通直(こうのみちなお)が、村上山城守とともに小湊浦から出港し、京都へ向かったという記録があります。
このことから小湊浦が戦国時代の伊予国における海上交通や軍事行動の戦略的な拠点であったことがうかがえます。
また、これが文献に登場する小湊に関する最も古い記録とされています。
小湊城の歴史と村上水軍
「小湊の地築城された城」、小湊城は小湊浦のそばにあり、来島海峡を望む標高約27メートルの丘に築かれていたと考えられています。
この城は、戦国時代に瀬戸内海で大きな勢力を誇った村上水軍の拠点の一つとして築かれたもので、あわせて伊予の統治者である河野氏の国府館としての役割も果たしていました。
「海の武士団」村上水軍
村上水軍は、瀬戸内海を舞台に勢力を誇った「能島(のしま)」「因島(いんのしま)」「来島(くるしま)」の三家、すなわち能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏からなる武士団で、三島村上氏とも呼ばれています。
その勢力は伊予(現在の愛媛県)、備後(広島県東部)、安芸(広島県西部)の沿岸地域に及び、海上交通の管理、交易船の護衛、通行料の徴収などを通じて、海上に独自の秩序と統治体制を築いていました。
村上海賊の名でも知られていますが、単なる略奪を目的とした海賊とは異なり、戦国時代においては戦術に長けた組織だった水軍として、その勇名は広く瀬戸内海一帯に知られていました。
まさに「海の武士団」と呼ぶにふさわしい存在だったのです。
村上水軍と河野氏の関係
潮流の激しい瀬戸内海での航行技術に長け、戦術的にも優れていた村上水軍は、各地の戦国大名と連携しながら、時には自立した勢力として活動することもありました。
形式的には伊予国の守護・河野氏の重臣とされていましたが、必ずしも完全な従属関係にあったわけではなく、独自の判断で行動することも少なくありませんでした。
一方、来島を拠点としていた来島村上氏は、河野氏と縁戚関係にあり、他の村上氏(因島村上氏・能島村上氏)よりも深く結びついていました。
その信頼の証として、来島村上氏は河野氏の家紋である 「折敷に三文字」 の使用を特別に許されていました。
「折敷に三文字」は、本来河野氏一門のみが用いることを許された格式高い紋であり、その使用が許可されたことは、来島村上氏が河野氏の重臣として極めて厚い信任を受けていたことを示しています。
伊予の海を協力して統治
このように、河野氏が村上水軍と強く結びついた理由として、伊予国を統治する上で瀬戸内海の海上交通の要衝を押さえることが必要不可欠だったことが挙げられます。
瀬戸内海は古くから交易や物流の大動脈であり、その制海権を確保することは、伊予国内の安定、そして外敵からの防衛に直結していました。
そのため河野氏は、自らの水軍「河野水軍」として強大な海上戦力を持ち、国の内外ににらみをきかせていたのです。
そして、その河野水軍を支え、実質的な海上の力となったのが、来島村上氏をはじめとする村上水軍だったのです。
小湊城は、村上水軍と河野氏の協力関係を象徴する城の一つであり、河野氏の防衛拠点としてだけでなく、村上水軍の海上戦略の要衝でもあったと考えられています。
能登水軍との関係
小湊城は、その立地や河野氏との深い関わり、さらには来島との距離の近さから、一時期は来島村上氏の城であったとする説も唱えられてきました。
しかし、現在では能登村上氏の居城であったという説が有力です。
その根拠の一つが、村上義助文書に記された「天文元年(1532年)9月3日、村上山城守隆勝没する」という記録です。
この記述から、村上山城守は当時の能島村上氏の当主である村上隆勝(むらかみ たかかつ)であったと推測することができます。
このことから、享禄4年(1531年)の大山祇神社文書に記される、伊予の守護・河野通直が村上山城守とともに小湊浦から出港し、京都へ向かったという記録の村上山城守も、能島村上氏の当主・村上隆勝であったと考えられます。
さらに、元亀2年(1571年)には能島村上氏の当主・村上武吉が小湊の地を家臣に与えようとした記録があり、天正13年(1585年)には武吉とその息子・元吉が小湊城の扱いについて議論していたことも確認されています。
これらの記録は、小湊城が能島村上氏にとって欠かせない戦略的拠点であったことを示しています。
来島村上氏の離反と四国攻め
小湊城をはじめとする瀬戸内の城砦は、戦国期の海上交通を支える要衝として、河野氏と村上水軍の連携によってその秩序が長らく保たれていました。
しかし、戦乱の時代の中で河野氏の力は次第に衰え、来島村上氏と河野氏の蜜月ともいえる関係も突如として終わりを迎えることとなります。
「信長の四国攻め」毛利氏と支援を失った河野氏
天正5年(1577年)、織田信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を中国地方遠征軍の総大将に任命し、中国地方の覇者である毛利元就(もうり もとなり)に圧力をかけ始めました。
当時の毛利氏は広範な勢力を誇っており、伊予の河野氏と同盟を結んで四国でも戦っていました。
この頃の河野氏は、四国統一を目指す土佐の長宗我部元親(ながそかべ もとちか)と戦いを繰り広げていました。
河野氏はこの毛利氏の援助を受けることで、かろうじて長宗我部氏に対抗する力を保っていたのです。
しかし、信長の本格的な中国侵攻が始まったことで、毛利氏は河野氏を支援する余力を失い、伊予への援軍を送ることが困難となりました。
毛利氏との連携を失った河野氏は次第に勢力を削がれ、長宗我部軍の攻勢の前に劣勢を強いられるようになります。
当主・来島通総の葛藤
こうした厳しい情勢の中、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ・村上通総) は、一族の存続と未来を見据え、重大な決断を迫られました。
ここまで来島村上氏は河野氏と連携し、土佐の長宗我部氏やその他の敵対勢力になんとか対抗し続けてきました。
しかし、もし織田信長の軍勢(羽柴秀吉率いる軍)が四国にまで侵攻してくれば、もはや太刀打ちできないだろう。
そんな最悪の想定が現実味を帯びる中、通総は「このまま河野氏に従い続けることは一族を滅ぼすことになるのではないか」という危機感を強めていったのです。
さらに、来島村上氏の中には河野氏に対する不満もくすぶっていました。
実は、通総の父・来島通康(くるしま みちやす・村上通康) は河野氏の娘と婚姻し、かつて河野本家を継ぐ約束を取り付けていました。
しかし、河野氏内部での家督争いや分家との対立による抗争が起き、その約束は反故にされてしまったのです。
この屈辱的な出来事も、河野氏との関係を考え直す要因の一つとなっていた可能性があります。
また、通総の母は河野氏の出身でしたが、実家が河野氏内部の抗争の中で分家に乗っ取られ、その勢力を失っていました。
そのため河野氏とのつながりに執着することはなく、むしろ時代の流れに乗り、天下統一を目指す織田信長に従うことを支持していたと伝わっています。
「村上水軍の裏切り」来島村上氏の離反
天正9年(1581年)、こうしたさまざまな要因が積み重なる中、来島村上氏の当主・来島通総は、ついに一族の存続を優先し、長年にわたって忠誠を誓ってきた河野氏との関係を断ち切る決断を下しました。
通総は羽柴秀吉との同盟を選び、村上水軍の一角を担う来島村上氏は織田軍の勢力に加わることとなったのです。
また、他の御三家である能島村上氏・因島村上氏も織田軍へと同調する構えを見せ始めました。
同年9月、来島通総は20隻を超える軍船を率いて風早郡柳原の浜に押し寄せ、河野氏の家臣らと戦火を交えました。
この「反逆」とも言える行為には、河野氏だけでなく、中国地方の覇者・毛利氏も激しく反発しました。
実は村上水軍は、毛利水軍の中心戦力として瀬戸内海の制海権を維持するうえで重要な役割を担っていました。
この頃、織田軍と敵対していた毛利氏にとっても、村上水軍は瀬戸内海の制海権を支える不可欠の存在であり、来島村上氏の裏切りはその体制を根底から揺るがす重大事だったのです。
毛利氏は事態を重く見て、村上御三家三家(来島・能島・因島)を毛利陣営に引き戻すべく、信頼厚い家臣・乃美宗勝を派遣し、能島・因島両氏への説得を試みました。
その一方で、織田方も両氏に接触を図り、村上水軍全体を織田方に引き入れようと動きました。
こうして始まった村上水軍三家をめぐる水面下での「誘引合戦」は翌年まで続き、ついに天正10年(1582年)4月、因島村上氏が毛利方に人質を差し出し、忠誠を誓います。
続いて能島村上氏も乃美宗勝の説得に応じ、毛利方に復帰するとともに、織田方の羽柴秀吉に絶縁状を送りつけました。
その結果、来島村上氏が織田方に、能島村上氏・因島村上氏が毛利氏・河野氏方に属することとなり、かつて瀬戸内海を制した村上水軍は、ついに分裂の時を迎えました。
「裏切りの代償」来島村上氏の敗北
その後、毛利・河野両氏は何度も考えを改めるように説得を試みましたが、来島村上氏は方針を変えることはありませんでした。
そして、天正10年(1582年)5月、痺れを切らした毛利氏は、能島村上氏・因島村上氏に攻撃を命じ、両氏は軍勢を率いて来島村上氏の拠点であった風早郡の難波・正岡両郷へと攻め込んだのです。
瀬戸内海の制海権を巡る戦いは、かつて共に村上水軍として海を制した同族同士による、壮絶な内乱の様相を帯びることとなったのです。
さらに軍勢は来島城を襲撃し、越智郡の大浜浦(現:今治市大浜)を焼き払いました。
天正10年(1582年)10月には、能島村上氏の軍勢が来島村上氏の勢力下にあった大島の椋名(むくな)に攻め入り、来島村上氏の領地への圧力を一層強めていきました。
そして6月27日、能島・因島の軍勢は大浦ノ砦を激しく攻撃し、これを陥落させると、いよいよ海と陸の両面から来島城への総攻撃を開始します。
毛利・河野の連合軍、そして同族であった能島・因島村上氏の容赦ない攻撃の前に、来島村上氏は次第に追い詰められ、滅亡寸前にまで追い込まれました。
この危機的状況の中で、当主・来島通総はついに重大な決断を下します。
それは、拠点である来島を放棄し、毛利・河野の包囲網を突破して豊臣秀吉のもとへと逃れるというものでした。
天正11年(1583年)3月、来島通総は夜の風雨にまぎれて毛利・河野連合軍の厳しい包囲網を突破。
そのまま瀬戸内海を南下し、なんとか羽柴(豊臣)秀吉の陣営へと身を寄せることができました。
小早川隆景の書状
この戦乱のさなかにも、「小湊」という地名が記録に現れています。
それが、大阪城天守閣に所蔵される山田文書に残る、小早川隆景の書状です。
その書状には、次のような内容が記されています。
猶々(なおなお)申し添えます。この間の案文の通りに調えまして、村上方に送付いたしました。
村上方も分別を持って、文言以後の無用な事は一切いたしませんようにと願っております。目まい(目眩)の具合はいかがでしょうか。
ロロロ辺の乃兵(兵士)には、村上方にも申しておきました。
なによりも養生が肝要です。
一昨日お話しした通り、乃兵が登城しなかったのは、その理由があったからでございます。
とりあえず縮所(宿所)に戻り、城に帰り次第、来島と日高地区へ若者衆・番衆を渡すことが決まりました。
その仕立てについては、井上春忠・手嶋景繁・横見景俊に申しておきましたので、油断なきよう、あなたからも催促してください。
小湊の人質の件は、しっかりと取り計らうようにと乃兵からも申されましたので、その通りに取り計らっております。
それゆえ、一切の段取りが整うのをお待ちください。
道後へは有田景勝と景亮を差し向けることと決めました。
これも両人に申渡し済みです。
少し具合も良くなったようですので、朝夕の隙を見て宮床へも出向き、短く済ませる予定です。
十五日には早々に帰城するつもりです。
それまでの間のこと、よくよく油断なきよう肝要です。井上春忠とも細々と相談されるように。
謹言
天正十一年六月七日 小早川隆景
山田盛祇
1583年(天正11年)は、来島村上氏が織田信長側についたことにより、毛利氏・河野氏の両軍から攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い詰められていた時期になります。
このような緊迫した情勢の中で、「小湊の人質」に関する記述が残されていることは、小湊が来島村上氏への牽制や調略を進める上で重要な拠点として、重要な役割を果たしていたことを示しています。
小湊城と村上水軍
その後、天正13年(1585年)、本能寺の変で打たれた信長の意志を注いだ秀吉は、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官とする大軍を四国に派遣しました。
来島村上氏も水軍としてこの戦いに参戦し、瀬戸内海での秀吉軍の先鋒として大きな活躍をしました。
この戦によって、長きに渡り伊予を統治していた河野氏は滅亡し、四国は完全に豊臣政権の勢力下に入ることとなりました。
その後、秀吉は海上秩序の統制を強化するため、能島村上氏・因島村上氏に代表される海賊的活動を禁止し、これらの村上水軍は大きく弱体化していきました。
しかし、秀吉方についた来島村上氏だけは例外的に存続を許され、伊予の国衆(後に大名)として一定の地位を維持しました。
ところが、来島村上氏もまた、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで大きな転機を迎えます。
当初、康親は豊臣家や旧主・毛利家との関係を重んじ、西軍に与する意志を示していました。
しかし、情勢の変化を冷静に見極めた結果、決戦直前になって東軍(徳川家康側)へ内通するという決断を下したのです。
この決断により、関ヶ原の戦後、康親は一旦は本領安堵を受けますが、最終的には所領は没収されてしまったのです。
それでもなんとか、豊後国(現在の大分県)の玖珠郡・日田郡・速見郡に1万4,000石を与えられ、森藩として存続は許されることができました。
しかし、その領地は大半が内陸部であり、かつてのように海を統治することは叶わなくなりました。
大分湾に面する頭成港を飛び地として領有しましたが、これは徳川幕府が戦国期のような独立した海上勢力の存続を許さず、村上水軍の影響力を完全に封じ込めるための措置であったとも考えられます。
こうして、瀬戸内海を舞台にその名をとどろかせた村上水軍の歴史は、関ヶ原の敗北とともに終焉を迎えることとなったのです。
その後の小湊城
このような戦乱の中でも、小湊城は残り続けていました。
豊臣秀吉は四国攻めによって四国を平定し、その後も九州征伐や小田原攻めを進め、全国統一を着実に成し遂げていきました。
秀吉は天下統一の過程で、戦国時代に乱立していた無数の城を破却し、軍事力と統治機能を主要拠点に集約することで、反乱を防ぎ、中央集権的な統治体制を築き上げたのです。
しかし、小湊城は来島海峡を抑える戦略上の要衝であったため、例外的に存続を許され、瀬戸内海の海上秩序の維持と防衛の拠点として重要な役割を果たし続けました。
四国征めを担当した小早川隆景も、小湊城を来島海峡を抑える重要な拠点と位置づけ、来島城や鹿島城とともに「伊予十城」の一つとして歴史にその名を刻みました。
さらに、関ヶ原の戦い(1600年)の後、伊予国を領有した藤堂高虎は、今治城が築かれるまでの間、小湊城を臨時の拠点として利用しました。
築城の名手として知られる藤堂高虎が一定期間小湊城を重視していたことからも、この城が戦略的に高く評価されていたことがわかります。
しかし、時代が進むにつれて小湊城は次第にその役割を終え、いつの頃からかその姿を消し、現在ではわずかに石垣や遺構の一部を残すのみとなりました。
それでも、かつて瀬戸内の海上秩序を支えたその城跡は、今も静かに歴史の証人として、来島海峡を見守り続けています。
小湊城の消滅と龍神社の創建
小湊城跡にある龍神社の創建時期や祭神は不明ですが、かつて村上水軍が小湊城を所有していた時代に、城の詰め所の跡地が龍神社となったと伝えられています。