今治市玉川町畑寺に佇む「光林寺(こうりんじ)」は、1300年の歴史を誇る名刹であり、天皇家との深い縁を持つ由緒ある寺院です。
その静かな境内に立つと、南方約七キロ先にそびえる楢原山(ならばらさん)の雄大な姿が目に入り、その光景は訪れる者の心を静かに包み込みます。
楢原山との繋がり
楢原山(ならばらさん)は、「奈良原山(ならばらさん)」とも呼ばれる、愛媛県今治市にある標高1,041mの山です。
山頂には奈良原神社(ならばらじんじゃ)が鎮座しており、古くから霊山として知られてきました。
古くはその神社に付属する別当寺として「蓮華寺」が建立されており、神仏習合の祭祀を司っていました。
現在では蓮華寺の遺構は失われていますが、参道脇にその存在を示す石碑が残されています。
別当寺とは、神社に附属し、神事や祭礼を仏教的に支える役割を担う寺院のことを指します。
楢原山の信仰においても、神社と寺院は一体となって機能し、山岳信仰を背景に、人々の祈りの場として長く親しまれてきました。
光林寺も、楢原山と深いつながりを持っており、蓮華寺と同様に、奈良原神社の別当寺として重要な役割を担っていました。
光林寺の創建史
光林寺の創建は、奈良時代初頭の大宝元年(701年)にまでさかのぼります。
この年は、日本の律令国家体制が本格的に始動した記念すべき年であり、同年に施行された「大宝律令(たいほうりつりょう)」は、日本古代法制の礎となる画期的な法典として知られています。
大宝律令と仏教の役割
大宝律令は、天武天皇・持統天皇の政治改革を継承し、唐の法制度を参照しながら、日本の実情に即して整備されたものでした。
その施行を指揮したのが、第42代・文武天皇(在位:697~707年)です。文武天皇は、母・持統天皇の後を継いで即位し、律令国家としての枠組みを確立する重要な役割を果たしました。
大宝律令の施行は、まさにその治世における最大の国家事業であり、文武天皇の名の下に制定・施行されたこの律令によって、日本は本格的な中央集権体制へと歩みを進めていくのです。
この律令体制の中で、仏教は重要な役割を担いました。
単なる宗教ではなく、国家の安泰と天皇の権威を守護する「鎮護国家」の理念のもとに制度的に組み込まれ、僧尼の資格・寺院の設置・教義の管理などが国家主導で整備されていきます。
そのような政治的・宗教的改革のただなかで、文武天皇の勅命により創建されたのが、蓮華寺と光林寺でした。
この二つの寺院は、律令制度に基づく仏教政策の一環として建立され、伊予の地で仏教を広める役割を果たすと同時に、地域の人々の精神的な支えとしても重要な存在になっていったのです。
開山・徳蔵上人
光林寺の開山を担ったのは、徳蔵上人と伝えられる高僧です。
徳蔵上人は、古代に朝鮮半島を経由して日本に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫とされ、渡来文化と仏教教義の双方に精通した学徳兼備の人物です。
弓月君は、応神天皇の御代(4世紀後半〜5世紀初頭)に百済を経て日本に来住し、多くの民を率いて山城国太秦(現・京都市右京区)に定住したと伝えられています。
その子孫にあたる秦氏は、機織・造仏・土木・養蚕などの高度な技術を日本にもたらし、古代国家の形成において宗教・経済・文化の各方面で多大な貢献を果たしました。
蓮華寺と光林寺は、こうした文化的血脈と精神的伝統を受け継ぐ徳蔵上人によって創建されました。
また、同時にその奥の霊域に国家鎮護と自然信仰の象徴として、白山権現(現:白山神社)が併せて祀られました。
「二宗兼学」法相宗と三論宗の寺院
徳蔵上人は、当時の仏教における重要な二つの宗派、法相宗(ほうそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)の教えを深く学び、その思想を礎としてこれらの寺院を開きました。
- 法相宗
法相宗は、インドの唯識学派に由来する唯識思想を中心に展開された宗派です。すべての現象は「識(しき)=心のはたらき」によって認識されるという立場に立ち、人間の心の動きや認識の構造を理論的に解明しようとする学問的性格の強い仏教です。奈良時代には興福寺や薬師寺を中心に国家仏教として栄え、多くの僧がこの教えを修めました。 - 三論宗
三論宗は、中観派の哲学に基づき、すべての存在は実体を持たない「空(くう)」であると説く宗派です。現象界に見えるあらゆるものごとは固定された本質を持たず、すべてが相対的・仮の存在であるという深遠な思想に立脚しています。三論宗は、中国から日本に伝わり、奈良の東大寺などで受け継がれてきました。現代においては宗派としての組織は存在しませんが、その哲学的影響は日本仏教全体に色濃く残っています。
光林寺は、これらの宗派を同時に学ぶ二宗兼学の寺院として設立されました。その体制は、約100年もの間続き、さらに複数の宗派の教えを学ぶ三宗兼学も行われていました。
当時の仏教界では、各宗派の教理を柔軟に摂取し、教義の枠を越えて仏法の真理を探求しようとする動きが広まりつつありました。
光林寺もその流れの影響を受け、幅広い仏教思想と実践を探求する場として重要な役割を果たしていたのです。
弘法大師の登山と密教伝授
時は流れ、平安時代初頭(794年~900年頃)。
唐から密教を学び大同元年(806年)に帰国した空海(弘法大師)は、諸国を巡る中で伊予の地に立ち寄りました。
その際、空海は楢原山に登り、この霊山で密教の奥義を弟子たちに授けたと伝えられています。
楢原山の自然霊性に満ちた風土は、空海にとって修法の場としてふさわしいものだったのでしょう。
この中で、空海は奈良原神社の別当寺であった光林寺にも訪れました。
当時の光林寺は、法相宗や三論宗といった、仏教の教理を理論的に体系化し、思索によって真理を探究する宗派の教えを深めており、いわば「思索による悟り」を目指す学問仏教の代表的な寺院でした。
しかし、空海の訪問を契機として、光林寺には実践を重視する真言密教の教えが取り入れられます。
真言密教は、真言(仏の言葉)、印契(手印)、観想(瞑想)といった密教の修法を通じて、身・口・意の三業を仏の世界と一体化させ、「即身成仏」を目指す実践体系を特色としています。
光林寺では、こうした修法を学ぶために多くの僧侶が集い、密教の教義と実践の伝統が脈々と受け継がれ、伊予における密教の拠点寺院として広く知られるようになりました。
この頃から、光林寺は歴代天皇や貴族の信仰を集め、国家安泰や雨乞い祈祷、病気平癒などの願いが託されるようになり、勅願寺としての格式も次第に高まっていきました。
天皇による勅願と大規模な再建
光林寺が国家的な寺院としての格を確立する契機となったのが、天長3年(826年)に行われた再建です。
この年、第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)は、弘法大師・空海の教えに深く感銘を受け、国家仏教の刷新と地方寺院の整備を積極的に推進していました。
その一環として、荒廃しつつあった光林寺の再興を命じ、再び官寺としての命脈を保たせることとなったのです。
これにより、伊予における仏教拠点としての機能を強化すべく、堂宇の大規模な修復と伽藍の整備が進められ、天長7年(830年)には、なんと49の僧坊を備えた大寺院群が完成したと伝えられています。
これは、奈良・平安期の有力寺院に匹敵ほどの規模であり、光林寺がいかに朝廷から重視されていたかがうかがえます。
さらに約200年後の長久3年(1042年)には、第69代・後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の勅裁(ちょくさい)によって、再び大規模な再建が行われました。
この再建においては、当時、政治的・軍事的に台頭していた河内源氏の棟梁、源頼義(みなもとのよりよし)が支援を行い、伊予国内の武家勢力とも連携して復興が進められました。
そのなかで、伊予国の守護職を務めていた河野氏第22代当主・河野親経(こうの ちかつね)もこれに加わり、地元勢力の代表として再建に尽力しました。
このように、中央の貴族権力と在地の武士勢力とが協力して整備された光林寺は、宗教的・社会的にもその重みを増し、国家と地方を結ぶ仏教寺院としての地位を、ゆるぎないものとしていったのです。
そして、その象徴ともいえるのが、この時期に建立された薬師堂でした。
これは、源頼義が諸国に建立した「四十九薬師堂」の一つとされ、地域における信仰の要として、深く根付いていきました。
「火災と復興」試練と再建の歴史
しかし、光林寺の歩みは、常に順風満帆であったわけではありません。
その栄華の陰には、何度も試練の炎が襲いかかってきました。なかでも、寺の命運を左右するほどの大きな災厄が、たびたび歴史を揺るがせました。
それが“火災”です。
「文永3年の大火」焼け残った門と祈りの雨
文永3年(1266年)に発生した大火は、光林寺の歴史上最も深刻な被害をもたらしました。
寺内の堂宇はほぼすべてが焼失し、貴重な建築物や仏像、経典などもことごとく灰となりました。
かつて壮麗を誇った伽藍は、一夜にして跡形もなくなり、寺の存続すら危ぶまれる状況に陥ったのです。
しかし、すべてが焼け落ちるかに思われたこの火災のなかで、ひとつの奇跡が起こりました。
なんと、仁王門と総門の二つの門だけが焼け残っていたのです。
火災をくぐり抜けてなお立ち続けていたこの門は、やがて人々にとって再建への希望の象徴となり、以後の復興の歩みにおいて精神的な支柱としての役割を果たしていくことになります。
そして、この奇跡的に残った門を見上げながら、光林寺の再建を願う動きが静かに始まりました。
やがてその想いは、天皇や地元有力者たちの支援を得て現実のものとなり、光林寺はふたたび美しい伽藍を構えることとなったのです。
この再建には、ひとつの不思議な伝説が今も語り継がれています。
再建にあたって、当時の天皇であった亀山天皇(かめやまてんのう)は、光林寺の復興を深く願い、自ら特別な祈願の儀を執り行いました。
すると、まるでその願いが天に通じたかのように、突如として恵みの雨が降り始めたのです。
実は、この年は深刻な干ばつが続いており、大飢饉すら懸念されるほどの危機的状況にありました。人々にとって雨は、まさに命をつなぐ“天からの救い”でした。
人々はこの奇跡に深く感謝し、光林寺の再建に喜んで協力したと伝えられています。
「文保2年の大火」仁王門と総門の軌跡
無事に再建されたた光林寺でしたが、その後も火災は続きます。
文保2年(1318年)にも再び大火が発生し、多くの堂宇が再び失われてしまったのです。
しかし、この時も仁王門と総門は無事であり、寺院と不屈の信仰の象徴として人々を励まし続けたのです。
そして、再び支援の輪が広がり、光林寺は復興を果たしました。
「永禄元年・元亀3年の大火」戦国の混乱と二度の火災
やがて時代は、日本全土が戦乱に揺れる戦国時代へと突入します。
伊予の地においても例外ではなく、武将たちの勢力争いが激化し、多くの寺社が戦火に巻き込まれて荒廃していきました。
そんな中、光林寺にも再び大きな災厄が襲いかかります。
永禄元年(1558年)、火災が発生し、再建された堂宇の多くがまたしても焼失するという事態に見舞われました。
それでも、焼け残った仁王門と総門は、まるで信仰の灯を守るように、戦火の中に凛としてその姿を保ち続けました。
しかし、火災の傷跡が癒えぬまま、わずか十四年後の元亀3年(1572年)、ふたたび大規模な火災が光林寺を襲います。
ようやく再建されたばかりの伽藍は無情の炎に包まれ、多くの建物が失われてしまいましたが、仁王門と総門はこの試練にも耐え抜き、奇跡的に焼失を免れたのです。
しかし仁王門と総門は、この火災にも耐え抜き、奇跡的に焼失を免れたのです。
度重なる災難に見舞われ、しかも時代は戦乱と混沌のただ中にありました。
仏教寺院を維持することすら困難を極める状況でしたが、それでもなお、光林寺は諦めることなく、再建への歩みを止めることはありませんでした。
この困難な時期にあって、復興の先頭に立ったのが、伊予を治めていた河野氏の一族・河野通直(こうの みちなお)でした。
通直は、祖先から受け継がれた信仰の場を守る責務を胸に、失われた伽藍の再建に全力を注ぎました。
修復にあたっては、かつての光林寺の様式と格式を損なうことなく、旧来の構造を尊重しながら、慎重に修復が進められ、再び荘厳な姿を取り戻しました。
「開山一千年」現在につながる歴史
そして、こうした長い歳月の信仰と再建の積み重ねの先に、一つの大きな節目が訪れます。
元禄14年(1701年)、光林寺は創建から一千年という歴史的な節目を迎えました。
この記念すべき年に、伊予国今治藩の第3代藩主である松平定陳(まつだいら さだのぶ)の篤い帰依により、新たに本堂の再建が行われました。
このとき建立された本堂は、荘厳な佇まいを今日まで保ち続け、訪れる人々を静かに迎え入れています。
その後も、光林寺は時代とともに修復と発展を重ねていきます。
元治2年(1865年)には、寺の重要な施設である客殿が再建され、こちらも現在まで大切に保存されています。
また、昭和55年(1980年)には、光林寺の象徴ともいえる仁王門が茅葺きから瓦葺きへと改修され、より堅牢な姿になりました。
こうして光林寺は、数々の困難を乗り越えながらも、千三百年の時を越えて現在に至るまで、人々の信仰と祈りを受け継ぐ寺院として、静かにその存在感を放ち続けているのです。
光林寺の影響力
光林寺は、今でこそ高野山真言宗に属しており、その本山は和歌山県にある金剛峯寺ですが、戦前までは京都にある大覚寺派に属していました。
大覚寺派
大覚寺派は、平安時代に創建された由緒ある寺院であり、真言宗の中でもとりわけ皇室や公家との関わりが深い宗派として知られています。
その宗風は厳格で格式高く、古来より多くの寺院がその教義と儀礼を受け継いできました。
中本寺
その大覚寺派において、光林寺は「中本寺(ちゅうほんじ)」として重要な地位を占めていました。
中本寺とは、単なる一地方寺院にとどまらず、複数の末寺を統括する中心的役割を担う存在であり、信仰と教義の拠点として地域社会に大きな影響力を及ぼしていました。
戦前までは、光林寺の末寺は今治市の玉川町や朝倉村、さらには越智郡の島々にまで広がりを見せており、その信仰圏は現在の今治全域にまで及んでいました。
このような広域的影響力の背景には、もちろん大覚寺派が持つ宗教的威信がありましたが、同時に光林寺自体が地域の人々から篤く信仰されていたことが大きく関わっています。
単なる宗派の末端としてではなく、地域の精神的支柱として深く根を張っていたのです。
神護別当
さらに、光林寺は大覚寺派に属する寺院の中でも、特別な宗教的役割を担っていました。それが「神護別当(しんしょくべっとう)」という立場です。
神護別当とは、神社の管理や祭祀を仏教寺院が司る役職を指し、神仏習合が一般的であった時代においては、こうした寺院が地域の精神文化の中核的存在として機能していました。
光林寺もまた、神護別当として周辺の神社と密接な関係を築いていました。
神仏分離と大山祇神社とのつながり
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の別当寺「東円坊」とは密接な関係を築いており、江戸時代の万治年間(1658~1661年)には、光林寺がその本寺(統括寺院)としての機能を担っていました。
しかし、明治時代に発布された神仏分離令(1868年)により、神道と仏教の分離政策が急速に進められると、光林寺も大きな転換期を迎えることになりました。
これまで共存していた神仏習合の慣習に基づき、神社には仏像や仏具が安置されていましたが、神仏分離によりこれらが寺院へと移されることになったのです。
このとき、光林寺は大山祇神社から仏像や仏具を引き取ることになり、伊予の歴史においてさらに重要な位置を占める寺院となりました。
光林寺に残る重要な文化財
光林寺には、このような長い歴史の中で蓄積された貴重な文化財が多く残されています。
仁王門
その中でも特に際立っているのが仁王門です。
この門は、数々の災害から免れ、今日まで守られてきました。現在、仁王門は県指定有形文化財に指定され、訪れる人々にその荘厳な姿を見せ続けています。
本尊「不動明王」
本尊である不動明王は密教における重要な守護仏であり、その力強い姿と鋭い眼差しで、人々を守り導く存在として信仰されています
もともとこの不動明王像は、奈良原神社が鎮座する楢原山に安置されていたものですが、神仏分離政策の影響で移転されることとなり、光林寺に移されて本尊として祀られています。
「護摩堂」修行の場
光林寺はかつて、門下49を誇る大規模な寺院として、数多くの僧侶たちが修行に励む中心的な場所でした。
ここで、僧侶たちは密教の教えを学び、実践するために、厳しい修行を積み重ね、心身を鍛え続けていたのです。
現在でも、光林寺の境内には護摩供養を行う護摩堂があり、そこには不動明王が安置されています。
不動明王の前で行われる護摩供養は、炎の中に護摩木を投げ入れ、祈りを捧げる儀式です。
この儀式は、精神的な浄化を目的としており、僧侶たちにとって非常に重要な修行の一つです。
護摩堂は、光林寺が密教の伝統を守り伝える場として、今でもその役割を果たし続けています。
新四国曼荼羅霊場・四国三十六不動霊場
また、光林寺は新四国曼荼羅霊場、四国三十六不動霊場の一つでもあります。
新四国曼荼羅霊場は、四国の様々な寺院を巡りながら仏教の教えを深める霊場の一つで、光林寺はその中でも重要な役割を担っています。
四国三十六不動霊場は、不動明王を本尊とする霊場を巡礼する信仰の道であり、光林寺もその霊場の一つとして、多くの信仰者を迎えています。
光林寺は、不動明王を本尊とし、護摩供養などの密教儀式が行われる寺院であるため、不動明王に対する強い信仰を持つ巡礼者が訪れます。
霊場巡りを行う信者たちにとって、光林寺は単なる参拝地ではなく、精神的な浄化や悟りを求める場となっています。
県指定文化財「石造宝印塔」
光林寺の境内の裏手には、歴史的に貴重な石造宝印塔が建っています。
この塔は、鎌倉時代に作られたもので、現在は県指定文化財として保存されています。
「八祖大師堂」
また、光林寺の八祖大師堂には、中央に彫刻家の桒山賀行が制作した稚児大師坐像が安置され、正面および左右には真言八祖像が並びます。
この八祖像の中でも、弘法大師の坐像は特に大きく、他の高僧像よりも一回り大きい姿で表現されています。
「阿弥陀堂飛燕閣」
さらに、光林寺の境内にある阿弥陀堂飛燕閣は、現代建築の技術を取り入れた5階建ての建物で、1階には阿弥陀堂、上層階には位牌堂があり、最上階には展望室があります。
この阿弥陀堂には十二神将立像や、内陣には阿弥陀三尊坐像が祀られています。阿弥陀如来は彩色され、脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は素木のままで、大和座りをしています。
阿弥陀堂に祀られている阿弥陀如来像は、元々1373年に神仏混淆が許されていた時代、山の頂上に安置されていました。
この時代、神社と寺院の融合が許されており、山岳信仰の一環として阿弥陀如来が祀られていたのです。
その後、鈍川木地の人々の手によって、阿弥陀如来像は山から下ろされ、今治市内に移されました。
これにより、阿弥陀如来像は地域の中心的な信仰対象となりましたが、長い年月の経過により、像は傷みが進んでいました。
そこで、阿弥陀如来像は京都に運ばれ、専門の技術者による大規模な解体修復が行われました。
この修復によって阿弥陀如来像は再び美しさを取り戻し、その後、現在の光林寺に安置されることとなったのです。
休憩スペースと遊び心
5階の展望室には、ソファやテーブルが設置され、参拝者が休憩できる空間となっており、ここには大功徳弁財天像や蔵王権現立像なども安置されています。
このような歴史的な文化財や密教の教えを守り続ける一方で、光林寺は現代的な感性も取り入れています。
その象徴が、法名「晃覚院蓮照直道大童子」と名付けられた像、一言で言えばピカチュウです。
ピカチュウの存在によって、光林寺は一層親しみやすい場所となっています。
厳粛な寺院というイメージに、ポケモンの人気キャラクターであるピカチュウが加わることで、子どもたちにも興味を持ってもらいやすくなり、若い世代からも注目されるようになりました。
法名を持つキャラクターとしてのピカチュウは、寺院の伝統や信仰を大切にしながらも、現代の文化を柔軟に取り入れる光林寺の姿勢を象徴しています。
光林寺に残る「長慶天皇伝説」
光林寺には、日本各地に伝わる「長慶天皇伝説(ちょうけいてんのうでんせつ)」が残っています。
混乱の南北朝時代
長慶天皇は、南北朝時代(1336年〜1392年)の南朝第3代天皇にあたります。
この時代は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が建武の新政を実施するも、武士たちの不満が高まり、足利尊氏が京都に北朝を立てたことで、朝廷が南北に分裂しました。
この時代は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が建武の新政を実施するも、武士たちの不満が高まり、足利尊氏が京都に北朝を立てたことで、朝廷が南北に分裂しました。
南朝は吉野を拠点とし、皇統の正統を主張して抵抗を続けましたが、軍事的には北朝・足利幕府に劣り、天皇や皇族は各地を逃亡することを余儀なくされました。
長慶天皇もその一人で、各地を転々としながら命をつなぐ日々を送っていたとされますが、その消息はほとんど記録に残されていません。
そのため、全国各地には「長慶天皇が一時期身を寄せていた」「潜伏の末にこの地で崩御した」などの伝承が残され、今もなお語り継がれています。
軍事て拠点としての光林寺
そうした伝承地のひとつが、今治市玉川町にある光林寺です。
長慶天皇が信頼のおける案内人とともに吉野を発ち、高野山を経て伊予の国へ逃れた際、一時的に身を寄せた地が光林寺だったと伝えられています。
当時の光林寺は、総門・大門・仁王門を備えた堅固な伽藍を持ち、拠点として理想的な地でした。
また、経済力も非常に高く、広大な荘園(しょうえん)を有していました。
荘園とは、平安時代から室町時代にかけて、日本の寺院や貴族、武士たちが所有した私有地のことです。
この土地は、朝廷や中央政府の直接的な管理を受けず、免税地として扱われることが多く、所有者が独自に運営し、農民から年貢を徴収していました。
この制度は、領主にとって重要な収入源であり、経済的な利益だけでなく、大きな権力の基盤ともなりました。
寺院においては、荘園から得られた収益を堂塔伽藍の維持や僧侶の生活、仏事の運営などに充てることで、寺の機能と信仰が支えられていました。
その一方で、そうした豊かな資源は、外部の勢力や盗賊から狙われることも少なくありませんでした。
こうした状況の中で、政府の保護を十分に受けられない寺院は、自らの財産や領地を守るため、「僧兵(そうへい)」と呼ばれる戦闘訓練を受けた僧侶たちを組織するようになりました。
その中でも、この頃の光林寺は、なんと7,000人もの僧兵を擁し、戦いを本業とする武士勢力でさえ、容易には手を出せないほどの軍事力を誇っていました。
また、僧兵たちは外部からの侵略に備えるだけでなく、時に寺院間の争いや、他の勢力との抗争にも加わることがありました。
まさに、戦国大名と肩を並べるほどの影響力をもつ存在となっていたのです。
その代表例として知られるのが、石山本願寺の僧・顕如(けんにょ)です。
戦国時代、石山本願寺は僧兵を擁する強大な寺院として、織田信長にとって最大の障壁の一つとなっていました。
本願寺の僧兵たちは武力をもって信長の進出を食い止め、信長は顕如率いる本願寺を打ち破るために莫大な兵力を投入することになります。
しかし、僧兵たちの抵抗は極めて激しく、石山合戦は10年以上にもわたる長期戦となり、織田軍を悩ませ続けました。
最終的に顕如は和睦し退去しましたが、その存在は「宗教勢力=武力を有する主体」として全国に知られることとなりました。
理想的な休息の地
このような武力的な備えだけでなく、光林寺の近くにある楢原山には蔵王権現(ざおうごんげん)が祀られており、古くから修験道の霊場として知られていました。
全国各地から多くの修験者たちが集まり、山中での厳しい修行を通じて霊力を得ていたとされています。
修験者たちは、信仰の実践者であると同時に、時には政治的にも重要な役割を果たす存在でした。
とくに南北朝時代には、南朝を支持する勢力の一部として動き、長慶天皇の一行をこの地で支えたとも伝えられています。
このように、当時の光林寺は単なる仏教寺院というだけではなく、僧兵と修験者が結集する強力な拠点として機能していたのです。
そのため、長慶天皇はこの地において一時的に安全を確保し、休息をとることができたと考えられます。
玉川町に残る伝説
しかし、最終的には北朝の追っ手を完全に振り切るため、長慶天皇は楢原山を越えて、現在の東温市方面に移動していったと伝えられています。
これらの伝説を裏付けるように、今治市玉川町には、南朝方の元号が記された経典が今も残されています。
これは、この地域が当時、南朝の勢力を支持していたことを示しており、長慶天皇伝説が作り話ではなく、歴史的事実に基づく地域の記憶であることを示す貴重な証拠といえるでしょう。
宮内庁と光林寺の繋がり
光林寺と天皇家との繋がりは、現在も続いています。
平成16年に発生した災害で、長慶天皇の第3皇子「尊聖皇子」とその妃「観子妃」のお墓が崩れてしまいましたが、その際に宮内庁と連携することになったのです。
このお墓は古くから地元奈良の木の人々によって大切にお祀りされていたもので、また「宮ノ上」という地名から、非常に高貴な方々のものと考えられてきました。
こうした歴史的背景や、玉川に長慶天皇が潜伏していたという伝説とも関連があるため、宮内庁にも確認がなされ、お墓を修復することについて正式な許可得て、お墓が作り直されました。
また、長慶天皇の滞在を記念する塔が建立される際にも、宮内庁の了解が得ており、現在もその歴史的つながりは脈々と息づいています。
「雨乞い伝説」
光林寺とゆかりのある楢原山は、古くから雨乞いの霊験あらたかな場所として広く知られ 仏僧や神職が楢原山の頂上にある奈良原神社に登り、雨を祈念する儀式が長年にわたって行われてきました。
こうした自然信仰と祈願の文化は、地域社会に深く根付いており、光林寺もまたその中心の一つとして重要な役割を果たしてきました。
光林寺の僧・光範上人
光林寺には、光範上人(こうはんしょうにん・俊良房)という僧侶の雨乞い伝承が残されています。
光範上人は書や漢詩に秀で、幅広い学識を備えた博学の僧として知られていました。
何よりも、常に村人の立場に寄り添い、その悩みや不安に親身に耳を傾ける姿勢は、多くの人々に安心感を与え、村全体にとって大きな支えとなっていたのです。
そしてその温かい人柄は、困難な状況でも変わることはありませんでした。
命を賭けた七日間の祈願
元禄六年(1693年)、この地域は深刻な日照りに見舞われ、田畑は枯れ、村人たちは苦しみに沈んでいました。
そこで立ち上がったのが、光林寺の光範上人です。
光範上人は村人たちと共に楢原山の頂上へ登り、水天宮の像を安置して七日間の雨乞いを始めました。
「満願までに雨を降らしてください。満願の日が来ても雨が降らない時は、私を焼き殺してください」
光範上人は命を捨てる覚悟を決めて祈祷を行いましたが、最後の満願の日がやってきても、空は晴れ渡り、雨の気配はまったくありません
そんな中、祈祷していた光範上人は、村人たちにこう告げました。
「雨が降ることになったぞ。みんな家に帰りなさい。早く帰らぬと祓川(奈良原山のふもとの川)が渡れなくなるぞ」
それを聞いた村人たちは「こんなに良い天気なのに…」と思いましたが、光範上人から告げられたので、急いで山を下り、家に帰り始めました。
すると、村人たちが祓川を越えた瞬間、突如として空が曇り大雨が降り始めたのです。
雨は川の水が溢れ出すほど激しく、村の田畑はこれによって
雨は川の水が溢れ出すほど激しく、村の田畑はこれによって潤され、その年の秋には大豊作となり、村はにぎわいに包まれました。
この奇跡のような出来事によって、光範上人の霊験は広く知られるようになり、その功績を称えて第3代今治藩主・松平定陳(まつだいら さだのぶ)から感謝状が贈られました。
そして、雨乞いの際に提出された「雨乞願書草(あまごいがんしょそう)」は、当時の真剣な祈願の姿勢を今に伝える歴史資料として、現在も光林寺に大切に保管されており、
晩年の光範上人とその功績
光範上人は、元禄六年(1693年)の奇跡的な雨乞いの年を含め、生涯で計三度の雨乞い祈願を行い、いずれも成功を収めています。
これらの祈願はいずれも地域を救う大きな出来事として語り継がれ、上人の霊験と信頼はますます厚いものとなっていきました。
さらに元禄十三年(1700年)には、光林寺に伝わる大般若経六百巻の修復という大事業を成し遂げています。
この経典は寺にとって極めて重要なものであり、その修復は宗教的・文化的意義の高い功績として後世に伝わりました。
光範上人の深い信仰と学識、そして行動力がいかに寺の未来を支えていたかがよくわかる象徴的な出来事です。
光範上人はその後、蓮明寺(れんめいじ)に隠棲し、静かな余生を送りました。そして安永七年(1778年)二月、その生涯を閉じたと伝えられています。
蓮明寺の背後には、光範上人の墓がひっそりと佇んでおり、また光林寺の境内には「法印権大僧都光範林洞上人」と刻まれた墓石が今も残されています。
これらの墓所は、光範上人を慕う人々の手によって大切に守られ続けており、今も多くの参拝者が訪れています。
また、光範上人の250回忌が近年に営まれ、その霊験と功績が改めて称えられました。
光範上人は今もなお、玉川地区において深く敬われる存在であり続けています。