今治市山口にある荒神社・山口神社は、主祭神に大己貴命(大国さん)を祀る由緒ある神社で、その歴史は上古(じょうこ)にまでさかのぼるとされています。
「上古とは?」
上古とは、日本の歴史のうち、原始時代の後、大和・飛鳥・奈良・平安時代を指すことが多く、特に大化の改新(645年)以前の時代を示すことが一般的です。
この時代、日本は奴隷制社会であり、3~7世紀末に国家が形成され、8~10世紀中ごろに全盛期を迎えました。その後、12世紀末までに封建制への移行が進み、古代国家の制度が崩壊しました。
荒神社・山口の神々と創建伝承
山口神社はこのような古い時代に、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が国の経営にあったったときに駐まったとされる古墳の跡地に、伊予の国造が小さな祠(ほこら)を設け大己貴命を祀ったと伝えられています。
山口村の誕生
この地域はもともと古谷村の一部でしたが、江戸時代中期の寛永年間(1624~1644年)に、今治藩を治めていた久松松平家が領地の発展を進めるため、日吉村から農民を移住させて農耕地として開拓しました。
開拓に携わった農民たちは、そのまま定住し、新たに「山口村」として村が形成されました。
そして、村人たちは信仰の中心として荒神社を氏神と、多伎神社を大氏神として祀り、農作物の豊作や村の繁栄を願う儀式を執り行うようになりました。
村社に列格
明治4年(1871年)には、新政府による神社制度の整備の一環として、山口神社は正式に村社に列格され、地域の公的な信仰の場となりました。そして明治時代末期には、もともと異なる場所に存在していた、山之神社・代主神社・一本松神社の3社が現在の地へと移築されたとされています。
現在の荒神社・山口の境内には、山神社と越智神社という二つの神社が建てられており、地域の信仰を支えています。
越智氏との関わり
現在の荒神社・山口の境内には、山神社と越智神社という二つの神社が建てられており、この二つの境内社はいずれも越智氏と深く結びついています。
山神社には大山祇命(おおやまつみのみこと)と、その子孫とされる越智命(おちのみこと・乎知命)が祀られています。一方、越智神社にはは、越智命の末裔とされる越智氏の一族で、山口村の庄屋であった越智一族の祖神が祀られています。
越智氏は、古代の伊予国において、越智郡を拠点とした有力な豪族でした。奈良時代(8世紀)から平安時代中期(10世紀)にかけて、越智郡の郡司として地域を統治し、経済や文化の発展に貢献しました。さらに、その子孫が武家「河野氏」へと発展し、伊予の歴史に大きな影響を与えました。これら二つの境内社がともに越智氏と深く結びついていることから、越智一族が山口地域の発展に大きく寄与し、長きにわたって信仰を支え続けてきたことがうかがえます。
「笠鉾まつり」
毎年5月1日には「笠鉾まつり(かさぼこまつり)」が盛大に行われています。
伝説によると、この行事がはじまったのは約300年前。つまり、山口が古谷から独立した寛文6年(1666年)の頃とされています。、
当時、この地域では牛馬の疫病が流行し、多くの牛馬が病死しました。そこで、村人たちは牛馬の健康を守り、疫病から救うために神へ祈願を捧げるようになりました。この祈りの儀式が、時を経て現在の笠鉾まつりとして受け継がれ、今日まで続いていると伝えられています。
笠鉾まつりの準備は前日から始まり、山口の住民たちは総出で神社へ続く道を清掃し、神事のための環境を整えます。
祭り当日、午後3時頃になると、山口の各家庭から氏子が集まり、笹竹に幼児の衣服を着せた「笠鉾」を持って荒神社へ参集します。これは、子孫繁栄や家畜の無病息災を願う象徴とされており、古くから続く神聖な風習です。
荒神社では、まず社殿内で神事が執り行われます。その後、笠鉾を手にした参列者たちは「サーマイド、カーカイド、牛馬が繁盛するように」と唱えながら社殿の周りを三周します。この唱和は、牛馬の健康と地域の繁栄を祈願するもので、祭りの中核をなす儀式の一つです。
社殿の周囲を巡った後、一行は笠鉾を先頭に一路、多伎神社へ向かいます。この道中でも「サーマイド、カーカイド」と唱えながら歩を進め、牛馬の健やかな成長と豊作を祈ります。多伎神社に到着すると、神殿の周りを三周し、神事が執り行われます。この神事では、荒神社の男神と多伎神社の女神が結ばれる「妻訪い(つまどい)」の儀式が行われ、豊穣と繁栄が祈念されます。
神事が終わると、氏子たちは再び神殿の周りを巡り、笠鉾を社殿に立てかけます。その後、神官による祝詞が奏上され、参列者たちは神酒をいただき、神々の加護に感謝を捧げます。こうして、笠鉾まつりは神聖な雰囲気の中で幕を閉じます。
祭りが終わると、翌5月2日には多伎神社の大祭が行われます。この大祭では、神輿が地域を巡行し、氏子たちが祝福を受けるとともに、五穀豊穣と地域の安全を願います。さらに、この日を境に高市郷の農民たちは田植えの準備を始め、苗代に種を撒くという伝統が続けられています。
古代の信仰
この笠鉾まつりの起源には、古代の信仰も深く関わっているとされています。かつて、山口の荒神社に祀られる男神が、古谷の多伎神社に鎮座する女神のもとへ通う「妻訪い」の伝説がありました。この信仰が、時を経て笠鉾まつりという形で受け継がれ、現在の神事へと発展したと考えられています。
また、「サーマイド、カーカイド」という唱和の言葉には、もともと子孫繁栄を祈願する意味が込められていました。このため、笠鉾に幼児の衣服を着せる風習が生まれたとされています。その後、約300年前に牛馬の疫病防止の願いが加わり、現在の形へと変化しました。
笠鉾まつりは、ただの伝統行事ではなく、地域の歴史と信仰が息づく神聖な儀式です。牛馬の健康や五穀豊穣を願う祈りが、時代を超えて受け継がれ、今もなお人々の暮らしと深く結びついています。