朝倉地区の山口地域にある「荒神社・山口(こうじんじゃ)」は、主祭神に大己貴命(おおあなむちのみこと)を祀る由緒ある神社で、その歴史は上古(じょうこ)にまでさかのぼるとされています。
「上古とは?」
上古(じょうこ)とは、日本の歴史区分のひとつで、原始時代(旧石器・縄文・弥生)に続く時代を指します。
一般的には、大和時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代を含み、特に大化の改新(645年)以前の社会を指す場合が多いです。
この上古の時代、日本はまだ統一国家の形成過程にあり、氏族制社会のもと、支配層と被支配層が厳然と区別される社会構造を持っていました。
3世紀から7世紀末にかけて、ヤマト政権が勢力を拡大し、律令制度による国家形成が進められていきます。
8世紀から10世紀中ごろにかけては、奈良時代・平安時代を通じて、古代国家の全盛期を迎えました。
しかし、貴族社会の腐敗や地方の武士勢力の台頭により、10世紀末から国家体制は次第に揺らぎ、12世紀末(鎌倉時代初頭)には、封建制へと移行し、古代国家の制度は実質的に崩壊していきました。
荒神社・山口の神々と創建伝承
「荒神社・山口」の御祭神・大己貴命は、別名大国主命(おおくにぬしのみこと)とも呼ばれ、国土の開拓と人々の生活基盤を築いた「国づくりの神」として、古くから広く崇敬されてきました。
また、大己貴命とともに国土経営に携わった神として、少彦名命(すくなひこのみこと)の存在も伝えられています。
少彦名命は、日本神話に登場する協力神で、医療・医薬・温泉・酒造の守護神としても知られ、人々の暮らしを支えるさまざまな知恵をもたらした神とされています。
両神は、日本神話において、荒れた国土を整え、山河を治め、人々が安らかに暮らせる社会を築くために尽力したと伝えられています。
この「国の経営」にあたる旅の途中、大己貴命と少彦名命は、現在の愛媛県今治市朝倉地域に立ち寄ったとされています。
その折、両神が休息したと伝えられる跡地に、当地を治めていた伊予の国造が小さな祠を設け、大己貴命を祀ったことが、荒神社・山口の起源であると伝えられています。
古墳地帯に生まれた荒神社
この地には、もともと古墳時代に築かれたと見られる古い墳墓が点在しており、祖先の霊や土地神を敬う信仰が深く根付いていました。こうした土地の信仰風土もまた、荒神社・山口の創建の背景にあったと考えられます。
村とともに歩んだ信仰の歴史
「荒神社・山口」が鎮座する山口地域は、もともと古谷村の一部でした。
しかし江戸時代中期の寛永年間(1624~1644年)、今治藩を治めていた久松松平家が領地開発を進めるなか、日吉村から農民を移住させ、農耕地として開拓が行われました。
移住してきた農民たちはそのまま定住し、新たに「山口村」として村が形成されます。
村人たちは、生活と信仰を結びつけ、「荒神社・山口」を氏神として、「多伎神社」を大氏神として崇敬し、
農作物の豊作や村の繁栄を祈る儀式を執り行うようになりました。
村社への列格と神社の整備
明治4年(1871年)、新政府による神社制度の整備に伴い、山口神社は正式に「村社」に列格され、
地域を代表する公的な信仰の場として位置づけられました。
さらに明治時代末期には、もともと別の場所にあった「山之神社」「代主神社」「一本松神社」の三社が、現在の地に移築・合祀されたと伝えられています。
山口村に息づく豪族の記憶
現在の荒神社・山口の境内には、山神社と越智神社という二つの神社が併せて祀られ、今も地域の人々の篤い信仰を支えています。
一方、越智神社には、山口村で庄屋を務めた越智一族の祖神が祀られています。この越智一族は、古代伊予国において越智郡を拠点とした有力豪族・越智氏の末裔にあたります。
越智氏は、奈良時代(8世紀)から平安時代中期(10世紀)にかけて、郡司として地域を治め、農業や交通網の整備、文化の振興にも力を注ぎました。
さらに、越智氏の流れをくむ一族は、やがて伊予を代表する武家・河野氏へと発展し、中世における伊予の歴史と政治を大きく動かす存在となっていきます。
こうして、越智氏とその後裔たちは、長きにわたり地域社会の礎を築き、今なおその名を伝えています。
境内社に刻まれた越智一族の足跡
これら二つの境内社がともに越智氏と深く結びついていることから、越智一族が山口地域の発展に大きく寄与し、長きにわたって信仰を支え続けてきたことがうかがえます。
山口地域に伝わる「笠鉾まつり」の歴史
愛媛県今治市朝倉地域に鎮座する荒神社・山口では、毎年5月1日に「笠鉾まつり(かさぼこまつり)」が厳かに執り行われています。
笠鉾まつりの起源
この祭りは、約300年前、山口地区が古谷から独立した寛文6年(1666年)頃に始まったと伝えられています。
当時、この地域では牛馬に疫病が蔓延し、多くの家畜が命を落とす悲劇に見舞われました。
人々は牛馬の無事と健康を願い、神に祈願を捧げるようになり、その祈りが時を経て、「笠鉾まつり」として今日まで受け継がれてきたのです。
祭りの流れ
祭りの準備は前日から始まり、山口の住民たちは総出で、荒神社へと続く道を清掃し、神事にふさわしい環境を整えます。
祭り当日、午後3時ごろになると、山口の各家庭から氏子たちが集まり、笹竹に幼児の衣服をまとわせた「笠鉾」を手に、荒神社へ参集します。
この笠鉾は、子孫繁栄や家畜の無病息災を祈る象徴とされ、代々受け継がれてきた神聖な風習です。
まず、社殿内で神事が執り行われ、続いて参列者たちは笠鉾を手に「サーマイド、カーカイド、牛馬が繁盛するように」と唱えながら、社殿の周りを三周します。この唱和は、牛馬の健康と地域の繁栄を願う、祭りの中心的な儀式です。
その後、一行は笠鉾を先頭に「多伎神社」へ向かい、道中でも「サーマイド、カーカイド」と声を合わせながら歩を進めます。多伎神社に到着すると、ここでも神殿を三周し、神事が行われます。
この場では、荒神社の男神と多伎神社の女神が結び合う「妻訪い(つまどい)」の儀式が執り行われ、豊作と家畜の繁栄、そして地域の安泰が祈念されます。
神事が終わると、氏子たちは笠鉾を社殿に立てかけ、祝詞奏上と神酒拝戴の儀式をもって、祭りは厳粛に締めくくられます。
翌日の行事
翌5月2日には、「多伎神社」の大祭が続きます。この大祭では神輿が地域を巡り、氏子たちが祝福を受けながら、五穀豊穣と家内安全を祈願します。
また、この日を境に、高市郷の農民たちは田植えの準備に取りかかり、苗代に種を撒き始めます。
この風習も、今なお大切に受け継がれています。
古代の信仰と笠鉾まつり
笠鉾まつりの起源には、古代の信仰が深く関わっていると伝えられています。
かつて、「荒神社・山口」には祀られている男神が、古谷の「多伎神社」に鎮座する女神のもとへ通うという、「妻訪い(つまどい)」の伝説がありました。
この信仰が時を重ね、祭礼という形に昇華し、笠鉾まつりの原型となったと考えられています。
また、「サーマイド、カーカイド」という唱和の言葉には、もともと子孫繁栄を祈願する意味が込められおり、ここから笠鉾に幼児の衣服を着せる風習が生まれたとされています。
さらに、約300年前、地域に牛馬の疫病が流行した際には、牛馬の無病息災を願う思いも重ねられ、現在の笠鉾まつりの形になったといいます。
そして現在、笠鉾まつりは山口地域へと確かに受け継がれ、荒神社・山口とともに、地域の信仰と暮らしの中に息づいています。