高仙山に伝わる落城の記憶と鎮魂
愛媛県今治市菊間町、標高284メートルの高仙山の山頂。
ここはかつて戦国時代の要害として名高い高仙山城(こうぜやまじょう)が築かれていた場所で、河野水軍の重要拠点として瀬戸内海の制海権を担ったと伝えられています。
山頂からは瀬戸内海・斎灘を一望でき、晴れた日には遠く石鎚山系の山々まで見渡すことができます。
この壮大な眺望は、かつてここが海上交通の監視や防衛の要衝であったことを雄弁に物語っています。
山頂には今も曲輪跡や土塁、竪堀といった城郭遺構が残され、訪れる者に往時の緊張感と戦国の気配を想起させます。
その歴史の舞台となった場所に鎮座するのが「高仙神社(こうぜんじんじゃ)」です。
高仙神社は、城を守り散った武士や落城で命を落とした人々の霊を慰めるために祀られたと伝えられ、古くから地元の人々に深く信仰されてきました。
年中行事や供養が今も続けられ、山頂は歴史と信仰、そして鎮魂が交錯する特別な空間として、静かな崇敬を集め続けています。
由緒(創建と祭神)
寛治四年(1090)、この地には加茂別雷神社と貴布祢神社が祀られていました。
両社はその後、地域の情勢や信仰の変化に応じて数度の遷座を繰り返し、加茂社は菊間の地に、貴布祢社は岩谷にそれぞれ祀られるようになりました。
のちに高仙山の山頂に高仙神社が建立され、これら二社が合祀されて現在の姿へと受け継がれています。
祭神は加茂別雷神と貴布祢神であり、いずれも京都の賀茂社・貴船社に淵源をもつ由緒ある神々です。
加茂別雷神は雷除けや五穀豊穣をもたらす神として信仰され、農耕を基盤とする地域社会にとって欠かせない守護神でした。
一方の貴布祢神は雨を司る水の神であり、旱魃の際には雨乞いの祈りを捧げられ、豊かな水をもたらす神として篤い崇敬を集めてきました。
両神の性格は農業と密接に結びつき、稲作を中心とした生活を支える存在として、人々の祈りの対象となってきたのです。
高仙山城の落城伝説
高仙山城(こうぜやまじょう)は正平年間(1346年頃)、伊予の名門・河野一族の血を引く池原近江守通去によって築かれたとされる山城です。
標高は高くはないものの、山頂からは瀬戸内海・斎灘を一望できる要害の地に位置し、古来より海上交通の監視と防衛の要所でした。
築城以来、池原氏が代々城主を務め、河野水軍の一翼として瀬戸内海の制海権を担いました。
永禄年間(1558〜1570)には池原兵部通吉が城主として城下の統治や港の管理、沿岸防備にあたり、地域の政治・経済・軍事の中心として機能していました。
しかし、永禄年間を経て戦国時代も末期に差しかかると、伊予国の情勢は大きく動き始めます。
長宗我部元親が土佐から勢力を拡大し、伊予・讃岐・阿波へと侵攻を進め、河野氏はその侵攻に苦しめられていました。
一方、瀬戸内海の要衝を押さえる村上水軍も分裂の兆しを見せます。
来島村上氏の裏切りと脱出
村上水軍の御三家のひとつ、来島村上氏の当主・来島通総(くるしま みちふさ)は、河野氏への忠義を守りつつも、次第にその将来性に疑念を抱くようになります。
通総は、河野氏が毛利氏と連携しながらも長宗我部氏や織田信長の圧力に苦しみ、いずれ一族が滅びるのではないかと危惧していました。
さらに通総の父・来島通康がかつて河野家の家督相続を約束されながら反故にされた経緯もあり、河野氏との関係は決して良好とはいえない状況にありました。
ついに天正9年(1581年)、通総は重大な決断を下します。
河野氏との関係を断ち、豊臣秀吉(羽柴秀吉)との同盟を選んだのです。
この決断により、村上水軍は来島氏が豊臣方、能島氏・因島氏が毛利・河野方という形で分裂。瀬戸内海の勢力図は大きく変わることとなりました。
しかし、この裏切りに対して毛利氏と河野氏は激しく反発。
毛利水軍が来島を包囲し、因島・能島の村上氏も加わって来島村上氏を攻撃します。通総は一族の存亡をかけて徹底抗戦しましたが、やがて追い詰められ、来島を放棄せざるを得ない状況に陥ります。
この危機的状況で通総は決死の脱出を決断。
毛利・河野・村上水軍の厳しい海上封鎖を突破し、命からがら豊臣秀吉の陣営へと落ち延びました。
天正十三年の四国攻め
同じ頃、天下の情勢を揺るがす本能寺の変が発生。
織田信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、織田政権の主導権を掌握します。
秀吉は信長の遺志を継ぎ、天下統一を推し進める過程で、かつて敵対していた毛利氏とも講和を結び、和睦を成立させました。
これにより中国地方の戦線は終結し、秀吉は次なる標的を四国へと定めます。
当時の四国では、土佐の長宗我部元親が勢力を拡大し、阿波・讃岐・伊予の大半を制圧していました。
元親は「四国の覇者」として君臨し、織田家の圧力にも従わず勢力拡大を続けていたため、秀吉は元親討伐を決意します。
天正十三年(1585)、秀吉は小早川隆景を総大将、宇喜多秀家・黒田官兵衛・仙石秀久らを副将とし、水軍を含めた水陸十万ともいわれる大軍を四国へ送り込みました。
豊臣軍は讃岐・阿波・伊予の三方面から同時進撃し、各地で長宗我部方の城を攻略。
讃岐では十河城をはじめとする主要城郭が次々と落城、阿波でも蜂須賀家政・仙石秀久らが平定を進めました。
伊予方面では、小早川隆景率いる毛利勢が先鋒を務め、新居浜に上陸。
上陸後はまず東伊予の高尾城など、長宗我部元親の影響下にあった城砦群を攻略し、その後進路を西へ変えて進撃しました。
道中では重茂城・無宗天城など河野氏方の支城も降伏、あるいは落城させ、伊予守護・河野通直の本拠湯築城を目指して進軍を続けます。
高仙山城の落城
この時の高仙山城主は池原近江守通吉でした。
通吉は河野一族の重臣として、永禄十一年(1568)に牛福丸(のちの河野通直)が河野氏宗家を継いでからは後見役を務め、若き当主を支えました。
通吉は天正七年(1579)に没するまで、河野氏政権の中心人物として活躍し、伊予国内の政務と軍事を統率しました。
通吉の没後は家督が池原兵部通成に引き継がれ、通成は高仙山城主としてこの地域の防備にあたることとなります。
池原兵部通成は、敵軍の勢いを削ぐため籠城ではなく出撃を選び、わずか二百余騎を率いて大門大松山(現在の伊予亀岡駅付近)に布陣。
果敢に毛利軍を迎え撃ちました。
しかし、多勢に押され敗走を余儀なくされます。
長谷の山崎の砦も陥落し、通成はわずか十九名の残兵とともに高仙山城へ退却。
城では決死の籠城戦が展開されましたが、刀折れ矢尽きるまでの奮戦もむなしく、ついに抗戦は不可能となります。
天正十三年七月十三日、真っ赤な夕日が西の斎灘へと沈む頃、十九歳の若き城主・通成は自刃し、高仙山城は落城したと伝えられています。
境内社・池原神社
高仙山城落城後、池原兵部通成や城兵の霊を慰めるため、山頂の高仙神社の境内に池原神社が創建されました。
ここには通成と十九名の家臣、さらには戦火に倒れた多くの将兵が合祀されており、地域の人々は代々この霊を丁重に祀ってきました。
池原神社では、往時の無念を慰めるための祭祀や供養が続けられ、戦国の悲劇を忘れないための象徴的な場所となっています。
境内には落城を伝える石碑も残され、訪れる人に高仙山城の歴史と池原氏の奮戦を今に伝えています。
今日においても、地元住民は年中行事や例祭を通じて池原氏の霊を慰め、地域の安泰、家内安全、五穀豊穣を祈願しています。
こうして池原神社は、単なる慰霊の場にとどまらず、地域共同体の精神的な拠り所となり、高仙神社とともに高仙山の信仰と歴史を支え続けているのです。
語り継がれると伝承と民話
高仙山城落城の悲劇は、単なる歴史的事実としてではなく、地域の人々の心に深く刻まれ、数多くの伝承や民話として現代まで語り継がれています。
「裏切り家老」
「どんな攻めにも決して落ちないほど堅固な城」
高仙山城はそう言われるほどの要害でした。
山の守りは堅く、河の内に通じる横のタオ(峠)には侍たちの住家が点在し、武具や食料も豊富に備えられていました。
そのため、少々の攻めでは降伏することはなく、さすがの小早川隆景も攻めあぐねたと伝えられています。
しかし、最後の最後に悲劇が訪れます。
城の重役である家老が敵方に内通し、自ら道案内をして毛利軍を城へ導いたと語り伝えられているのです。
この裏切りによって、難攻不落とされた高仙山城もついに陥落しました。
この話は菊間の人々に強い印象を残し、今も「裏切りがなければ高仙城は落ちなかった」と語り継がれています。
村の古老たちは、高仙の話題になると必ずこの家老の裏切りを口にし、悔しさと無念を子や孫に語り聞かせたといいます。
「田圃の中の塚」
高仙山城が落城した際、命からがら逃げ延びた一人の武士が追っ手に捕らえられ、田圃の中で斬り殺されてしまったといいます。
これを不憫に思った百姓や村人たちは、その場に小さな塚を築き、手厚く葬ってやりました。
しかし、田圃の持ち主にとっては塚の存在が大きな悩みの種となりました。
田植えや麦蒔きのときには必ず下肥をまく必要があるし、収穫の際にも塚が邪魔になってしまうのです。
「これでは葬られた武士も、静かに眠ることができまい……」とお百姓は考え、ついにその塚を自分の家の庭に移し、祀ることにしました。
ところが、その夜から家では物の怪が現れるようになりました。
家族は恐れ、村中に噂が広がります。
困り果てた百姓は、通りすがりの行者に相談しました。
行者はしばらく塚を眺めてから、こう告げたといいます。
「田圃の塚を移したのがようない。お武家さんが元のところに帰りたいゆうとる。」
お百姓は観念して、ぶつぶつ言いながらも塚を元の田圃の場所へ戻しました。
すると不思議なことに、その夜から物の怪は現れなくなり、やがて村人たちの間でもこの出来事は忘れ去られていったといいます。
「博打せぬのは・・・・・・」
「博打せんのは聖願寺のお地蔵さんと、村長じゃった菅の政次郎さん丈じゃあ」――そんな言い伝えが、今も菊間には残っています。
昔、池ノ原には馬喰(馬商人)が多く住んでいて、二~三人も集まれば、ちょっとした時間に花札や一本張り、サイコロなどで賭け事を始めたといいます。
とくに賑やかだったのは客神社で、毎晩のように大勢が集まり、博打を打ったそうです。
その神社は今はもうなくなっていますが、あった場所は今も「勝負谷」と呼ばれており、名前の由来もこの賭場にあったといわれます。
けれども、土地の古老はこう語ります。
「ほんとうは高仙城の侍が、小早川の軍勢と最後の勝負をした場所じゃけん、勝負谷ゆう名がついたんじゃ」
こうした言い伝えから、勝負谷はただの博打場ではなく、戦国時代の合戦の記憶をとどめる土地だと考えられています。
そのため、男の子が生まれるとサイコロや花札を握らせて遊ばせる風習もあったそうです。これは勝負に強い男に育つようにという願いを込めたものでした。
そんな土地柄でも、賭け事を一切しなかったのが、聖願寺のお地蔵さんと村長だった政次郎さんだけだったと伝えられています。
今となっては遠い昔話ですが、村の人々はこの話を語り継ぎながら、「勝負谷」の名の由来とともに高仙山城落城の記憶を今に伝えているのです。
落城の記憶と史跡
こうした伝承だけではなく、『亀岡村誌』『菊間町誌』には落城の様子や城兵の最期が詳細に記録され、地域の人々がいかにこの出来事を重く受け止めてきたかを物語っています。
山麓や周辺の村落には、戦死者を悼む石碑や塚が点在し、大門大松山には討ち死にした兵を祀る「仙人塚」が今も残り、供養が絶えることはありません。
また、高仙神社が鎮座する高仙山城跡には曲輪跡、竪堀、土塁跡などが残され、往時の防御施設の面影を今に伝えています。
城跡を歩けば、かつてここで繰り広げられた籠城戦や武士たちの奮戦、そして落城の悲劇を追体験するかのような感慨を覚えます。
菊間駅前の若宮社や駅裏の「五輪さん」、松尾集落の氏神「オヒメサン」なども、落城で命を落とした武士や姫君を祀るものとされ、地域の人々は今なお手を合わせ、慰霊と鎮魂を続けています。
「与楽地蔵堂」
菊間中学校の裏手にある与楽地蔵堂も、落城の記憶を今に伝える場のひとつです。
昭和二十二年、学校建設のために地面を掘り返したところ、大きな自然石が掘り出されました。
石鎚の行者がこれを「名ある武士の墓」と見立てたため、お堂に祀られ部落で管理されるようになりました。
さらに、かつて隣の石に小便をかけた少年が突然錯乱し、地蔵を水で洗い清めると症状が止まったという話も残されています。
「オジノッサン」
また、菊間には「オジノッサン」と呼ばれる土地神信仰も根強く残っています。
田畑の中にある自然石を祀るもので、多くは「高仙山の落ち武者の霊」とされています。
ある家では田んぼの石を動かそうとしたところ急に体調を崩し、行者に相談すると「名のある侍の墓だ」と言われ、元の場所に戻して祀ったところ回復したといいます。
毎年お盆には施餓鬼幡を立てて供養が行われ、月命日にあたる二十四日には地蔵の縁日と同じ日に祀りを行う家もあります。
こうして戦死者の霊、地蔵、土地神の信仰が重なり合い、地域の祭祀として受け継がれてきました。
太郎坊の伝承
さらに、落城の悲劇の象徴として語り継がれてきたのが太郎坊(たろうぼう)の伝承です。
池原兵部通成の子とされる存在で、落城の戦乱の中で命を落としたのち、現在の菊間中学校付近に葬られたと伝えられます。
その墓所には人々が踏み荒らさぬようソテツが植えられ、太郎坊として祀られました。
夜ごと首のない馬が駆けるという怪談は、落城の悲劇と結びついて恐れられ、同時に慰霊の対象ともなっています。
かつては三月の彼岸に大般若経の読誦、八月十三日にはどぶろくを供えて霊を鎮める行事が行われましたが、近年では甘酒に代えられた途端に不幸が続いたといい、「太郎坊の怒り」として恐れられたこともありました。
こうした経験は、供養の作法を正しく守ることの大切さを改めて人々に意識させています。
落城の記憶と史実の再検討
このように、高仙山城の落城は単なる過去の出来事ではなく、山麓の石碑や祠、地名、村の年中行事、さらには怪談や口碑といったかたちで、現代の生活文化に深く浸透しています。
地元の人々にとっては、落城は歴史の一ページではなく、今も身近に感じられる「語り継ぐべき出来事」として息づいているのです。
一方で、その史実性については近年再検討も進められています。
高仙山城の城主は来島通康
多くの史料、たとえば『河野家譜』では、高仙山城の城主として池原近江守通吉・兵部通成父子の名が記されています。
しかし、『河野分限録』などの記録には、来島通総の父・来島通康(村上通康)が高仙山城主を兼ね、池原近江守は通康の旗本の一人として城代を務めていたと記されています。
大規模な戦はおこなわれなかった
また、天正十三年(1585)の秀吉の四国攻めの際、河野氏が小早川隆景に城を明け渡したのは無血開城であったとする史料もあり、菊間周辺で大規模な合戦があった可能性は必ずしも高くありません。
実際、当時の同時代史料には高仙山城の攻防戦に関する直接的な記述は見られず、『予陽河野家譜』といった後世の史料にのみその戦いが記されています。
しかし、この書は慶長年間(1596–1615)以降に編まれた軍記物語的性格の強い史料で、忠義や武勇を強調する脚色が加えられることも多く地域の記憶や後世の美化によって形づくられた可能性も否定できません。
高仙山城の城主と得居氏の伝承
その中で注目されるのが、高仙山城の城主についての再検討です。
従来は『河野家譜』などの記録に基づき、池原近江守通吉とその子・兵部通成が城主とされ、通成が十九歳で自刃して落城したという物語が広く語られてきました。
しかし近年の研究では、史料を精査すると戦国期の高仙山城は得居氏の拠点であったとする説が有力視されています。
明応四年(1495)の「遍照院文書」に、高仙山城主・得居通敦が遍照院へ寺領を寄進したという記録が残っています。
これは現存する史料に見える高仙山城に関する最古の記録であり、この史料の存在によって、少なくとも戦国時代以前には高仙山城が得居氏の居城であったと考えられるのです。
得居氏にまつわる信仰と伝承
この説を裏付けるかのように、菊間地区には得居氏に関連する信仰や伝承が今なお残っています。
代表的なものが「比留女地蔵」の伝承です。比留女地蔵は、天正十三年(1585)の四国攻めに際して高仙山城周辺で戦いがあり、その戦乱の中で得居末高の姉が命を落としたことを弔うために建てられたと伝えられています。
以来、この地蔵は下の病や精神疾患に霊験あらたかとされ、近隣だけでなく松山など遠方からも参拝者が訪れる信仰の対象となりました。
毎年八月二十一日の縁日には餅まきや踊りが行われ、今なお地域の人々に大切に祀られています。
さらに、得居氏の娘である献珠院殿円覚妙善禅尼が草庵を結んだことに始まる献珠院の由来も伝わっています。
禅尼は十一面観音を本尊とし、村人とともに風雨順時・五穀豊穣を祈願したとされ、その霊験が近隣に知れ渡り、やがて寺院として整備されました。
こうした信仰の存在は、得居氏がこの地で強い影響力を持っていたことを物語っています。
落城伝説と史実性の再検討
一方で、得居氏が城主であったなら、なおさら「落城」と呼ばれるような激しい戦闘はなかった可能性が指摘されています。
来島村上氏と得居氏はともに河野氏の有力家臣団の一角を担い、伊予水軍の中でも重要な位置を占めていました。
とりわけ得居通幸は来島通総の実兄とされ、両家は血縁を通じても深い結びつきを持っていたといわれます。
やがて来島村上氏が河野氏を離反して羽柴秀吉方に属すると、得居氏もこれに呼応して秀吉方に属する道を選びました。
もしこのとき城主が得居氏であったなら、天正十三年(1585)の四国攻めの頃には菊間一帯はすでに来島氏・得居氏の勢力下にあり、高仙山城は秀吉方の拠点のひとつとして機能していたとみられます。
そのため、後世に語られるような大規模な籠城戦や壮絶な攻防戦は実際には行われず、無血開城、あるいは小規模な戦闘で決着がついた可能性が高いと考えられます。
語り継がれる高仙山の記録
このように、高仙神社が鎮座する高仙山城跡は、池原氏・来島氏・得居氏といった複数の家系が交錯する舞台であったことが見えてきます。
落城伝説の史実性には議論が残りますが、そこから生まれた物語や祈りは、単なる歴史の断片ではなく、地域の人々の精神文化そのものとして息づいてきました。
落城の悲劇は、戦国の一局面として過ぎ去ったのではなく、後世の村人たちにとって「語り継ぐべき出来事」として形を変えながら伝承され、菊間の歴史と文化を今に伝え続けているのです。