医王山「光蔵寺(こうぞうじ)」は、今治平野の南端に位置する朝倉盆地を一望できる標高約120メートルの小寺山中腹に佇む、高野山真言宗の古刹です。
眼前には雄大な龍門山を望み、境内には頓田川の源流となる清らかな小寺川が流れ、四季折々の自然に包まれています。
本尊は薬師瑠璃光如来で、古くから「厄除薬師」として広く信仰を集め、病気平癒や厄除けを願う多くの参詣者が足を運びました。
山号の「医王山」は薬師信仰に由来し、創建当初は「高蔵寺(たかくらのてら)」または「金蔵寺(かなくらのてら)」と称され、和名の「小寺(こでら)」という別称も伝わっています。
その歴史は古く、地域の信仰・文化・暮らしと深く結びつきながら、戦乱や再興を経て今日まで続いてきました。
光蔵寺の創建の時代背景
光蔵寺の創建は、飛鳥時代にまでさかのぼります。
当時の日本は律令国家の形成期にあり、推古天皇(すいこてんのう)が日本史上初の女性天皇として即位し、摂政・聖徳太子とともに政治・外交・文化の基盤を整えつつありました。
この時期、仏教は国家的保護のもと急速に広まり、各地で寺院の建立や仏像の造立が進められます。
これは単なる宗教の普及にとどまらず、国の安定と統治体制の強化を目的とした国家政策でもありました。
さらに、中国・隋との国交再開を視野に国際感覚が養われ、渡来人による先進技術や文化も地方へと広がっていきます。
伊予国でも、有力豪族が仏教を受け入れ、氏寺(うじでら)を創建することで威信を示し、領民の安寧や五穀豊穣を祈願する信仰の場を築きました。
小千益躬によって創建
寺伝によれば、飛鳥時代の推古天皇十年(602年)、伊予国の大領・小千益躬(おちのますみ)は重い病を患い、長く快癒の兆しが見えませんでした。
そんな時、たまたま当地を訪れていた行脚中の薬生僧(薬や治療の心得をもつ僧侶)・俊覚日羅(しゅんがくにちら)上人が施療を施し、益躬の病はみるみる快復しました。
益躬はこの報恩として、水之上の古寺山に二門二堂を建立し、本尊に厄除薬師如来像を安置、さらに自ら掘り上げた延命地蔵菩薩像を奉安しました。
そして五穀豊穣・萬民豊楽を祈願し、自らの氏寺として「高蔵寺」と名付けたのが始まりとされます。
小千益躬とは
小千益躬は、古代伊予の名族・越智氏の一族とされ、その名は『日本書紀』や『続日本紀』にも記されています。
史料によっては「小千宿禰益躬(おちのすくねますみ)」「乎致宿禰益躬(おちのすくねますみ)」「越智益躬(おちますみ)」など、さまざまな表記が見られます。
越智氏は伊予国の政治・軍事の中枢を担い、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の氏神として厚く信仰した有力氏族でした。益躬もまた、伊予国越智郡を統べる大領として、領内の統治や開発に尽力した人物です。
伝承によれば、益躬は武勇に優れた英雄としても知られます。奈良時代初頭、朝鮮半島から「鉄人」と呼ばれる武将が数千の兵を率いて侵攻した際、朝廷は益躬に討伐を命じました。
益躬は守護神・三嶋大明神に七日七夜祈願して神託を受け、奇策を用いてついに鉄人を討ち果たしたといいます。
この功績により、益躬は改めて伊予国越智郡の大領に任じられました。
その一方で、日々の暮らしにおいては仏教への信仰を深め、剃髪こそしなかったものの十戒を受け、法名を「定真(じょうしん)」と称していたと伝えられます。
毎朝は心静かに法華経を読み、夜は念仏を唱えることを欠かさず、その篤い信仰は生涯変わることがありませんでした。
こうした信仰心と武勇を兼ね備えた益躬が、自らの病を薬師如来の加護で癒やされたことを契機に、高蔵寺を創建したのは自然な流れといえるでしょう。
【本尊】厄除薬師如来像
本尊の厄除薬師如来像は、秀圓上人の『光蔵寺什物目』によれば、奈良時代の高僧・行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の手によるものと伝えられています。
行基菩薩説
行基上人(668~749年)は、各地を巡って布教と社会事業に尽力し、寺院・橋・道路の建設や溜池の開削などを行いました。
その功績により、朝廷から菩薩号を贈られています。
行基は薬草を扱う環境で育ったとされ、僧となってからも巡錫の途上で病人に薬草を与えるなど、薬師としても活動しました。
天平年間(729~749年)には四国にも渡り、伊予国では国分寺・正善寺・竹林寺・延命寺・南光坊などの創建・再興に関わったとされます。
とりわけ、行基自刻と伝わる仏像は守護仏として深く信仰され、この巡錫の途上で当地にも訪れ、薬師如来像を刻んで高蔵寺の本尊としたと考えられます。
光定上人説
一方で、この薬師如来像は平安時代前期の天台宗の高僧・光定(こうじょう・高別当大師)の作とする説もあります。
光定上人(779〜858年)は伊予国風早郡の出身で、石鉄山(現・石鎚山)の開山や、延暦寺での四王院建立など多くの功績を残しました
若くして比叡山で最澄に師事し、天台宗の基盤整備に尽くすとともに、空海から密教の灌頂を受けたことでも知られます。
延暦寺別当として朝廷に仕えつつ、仁明・文徳天皇に近侍し、朝廷と仏教界の橋渡し役を担いました。
この説では、伊予ゆかりの僧であった光定は、生涯にわたり故郷との関わりを保ち、その活動の一環として薬師如来像を刻み高蔵寺に奉安したと考えられます。
信仰の継承
行基説・光定説のいずれであれ、この本尊は厄除薬師として、古来より病気平癒・厄除け・五穀豊穣の祈願仏として篤く信仰され、地域の人々に守られ続けました。
別当寺としての役割
和銅五年(712年)には、伊予国司・河野 小千(越智)玉澄が山城国伏見稲荷大社より宇迦之御魂神を勧請し、水之上明神山に稲荷(飯成)神社を創建しました。
高蔵寺はその別当寺となり、薬師信仰と稲荷信仰が融合します。
これにより、豊穣・病気平癒・厄除けといった多様な祈願を一体的に受け止める寺社として、地域社会における精神的支柱となっていきました。
また、白地地域の須賀神社・朝倉上の別当寺も務め、周辺各地の信仰を束ねる広域的な宗教拠点として、人々の生活と密接に結びついた存在となっていきました。
「華厳経学の道場」伊予国分寺との繋がり
その後、高蔵寺(現・光蔵寺)は、時代の移り変わりとともに宗派や寺勢を変えながらも、地域の信仰拠点として存続してきました。
伊予国分寺の建立
天平十三年(741年)、聖武天皇の詔により、国家鎮護と仏法弘通を目的として、全国の国ごとに国分寺と国分尼寺が建立されました。
伊予国においても、律令体制下の官寺として「伊予国分寺(国分寺)」および「国分尼寺(現・法華寺)」が創建され、その根本経典には華厳経(けごんきょう)が採用されました。
華厳経は、一切の存在が相互に関係し合い、全てが仏の世界に包まれているという思想を説き、国家と民衆の繁栄を祈る根本経典としてふさわしいものでした。
奥之院・高蔵寺の役割
伊予国分寺は平地に堂塔を備え、儀礼や法会の中心として機能しましたが、その信仰圏の中で、高蔵寺(光蔵寺)は山中に位置する華厳経学(けごんきょうがく)の道場として位置づけられました。
華厳宗(けごんしゅう)の教えに基づく華厳経学は、日本において独自の発展を遂げ、僧侶たちはここで経典の講義・講讃や修行を行いました。
現在も光蔵寺は、伊予国分寺の奥之院としてその歴史的役割を受け継ぎ、地域の人々から病気平癒・厄除け・五穀豊穣を祈る祈願所として厚く信仰されています。
「中世の隆盛」大覚寺直末寺として
鎌倉時代中期の寛元三年(1245年)七月、高蔵寺(現・光蔵寺)には、京都・嵯峨御所の大覚寺から僧侶が派遣され、正式に大覚寺直末寺となりました。
これにより高蔵寺は、大覚寺派の伊予国における拠点的寺院として重要な役割を担うことになります。
大覚寺とは
大覚寺は平安時代初期、嵯峨天皇の離宮を寺院に改めた由緒をもつ名刹で、真言宗の中でも皇室や公家との結びつきが深く、格式高い宗派として知られます。
その宗風は厳格で、学問・修法の両面において高い水準を誇り、全国の末寺に大きな影響を与えてきました。
地域宗教の中心地
高蔵寺(現・光蔵寺)もまたこの宗風を色濃く受け継ぎ、古寺山の山腹に堂宇を点在させる山岳寺院としての景観を整え、山内には僧坊や講堂が建ち並びました。
学問の研鑽と修法の実践は日々盛んに行われ、僧俗を問わず多くの人々が集う学びと祈りの場としての性格を強めていきます。
やがて七堂伽藍が整備・拡充され、講堂・金堂・経蔵・僧坊が山の地形に沿って配置されることで、その威容はいっそう高まりました。
この時期、高蔵寺は朝倉上村から朝倉中村にかけて善吉寺・多宝寺・高野堂など、十五か寺の末寺と三つの私院三坊を擁し、地域一帯の宗教的中核を担うまでに発展し、まさに最盛期を迎えます。
こうした隆盛の背景には、大覚寺との深い結びつきがあり、この関係は高蔵寺の寺勢を大いに高め、中世伊予における宗教・文化の発展に重要な役割を果たしました。
高蔵寺は単なる山間の一寺にとどまらず、皇室ゆかりの宗派直轄寺院として、長きにわたり地域社会を精神的に支え続けたのです。
「南北朝時代」南朝方との結びつき
南北朝時代に入ると、高蔵寺(当時は高蔵寺の号)は南朝方との深い結びつきをもつ寺院として歴史にその名を刻みます。
良成親王の伊予派遣と高蔵寺
正平24年/応安2年(1369年)12月、南朝の後村上天皇の皇子とされる良成親王(りょうせいしんのう)が、九州の征西府から伊予国へ派遣されました。
この派遣は、瀬戸内海の制海権確保と四国における南朝勢力の基盤強化を目的とし、伊予の有力武将・河野通堯のもとで軍事・政治活動を行うためのものでした。
親王は伊予国内を拠点に、宮方諸将を指揮して武家方の討伐にあたり、讃岐や土佐への進撃など積極的な軍事行動を展開しました。その行動の過程で、高蔵寺は親王の行在所の一つとして用いられたと伝えられます。
寺は親王を保護し、滞在中の便宜を図ったことで深い縁を結び、この功績により、親王から「慶壽院(けいじゅいん)」の号と、南朝の象徴である菊紋を下賜されたとされます。
南朝方との関係を物語る寺宝
現存する寺宝の中には、南朝年号・文中二年(1373年)の奥書をもつ大般若経二百巻があり、これが良成親王の伊予滞在期と重なることから、南朝方との関係を示す貴重な資料とされています。
また、蔵王権現三体を模した金銅五鈷鈴も同時期の奉納品とされ、戦勝祈願や修法に用いられた可能性があります。
良成親王は約6年間伊予に留まり、その間に河野氏をはじめとする南朝方の勢力と連携しつつ各地で戦いを指揮しましたが、1375年(天授元年/永和元年)に九州へ帰還しました。
高蔵寺が親王を迎え入れたのはこの滞在の全期間ではなく、一時期に限られていたと考えられますが、その関係は寺の歴史において重要な位置を占め、以後も南朝方ゆかりの寺として語り継がれていきました。
「戦国時代」兵火による焼失
室町時代の後半から戦国時代にかけて、日本各地では守護大名の勢力が衰え、在地領主や国衆と呼ばれる地方武士が台頭しました。
伊予国でも、河野氏が国人衆をまとめあげる一方で、内部抗争や周辺勢力との戦が頻発していました。
山腹や高台に築かれた寺院や神社は、周囲を一望できる立地と堅牢な建物構造から軍事拠点として利用されることも多く、戦火に巻き込まれ焼失する例も少なくありませんでした。
高蔵寺(現:光蔵寺)もまた、こうした時代の荒波から逃れることはできませんでした。
「四国征め」
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による大規模な「四国征め」の戦火が、ついに伊予国へと迫りました。
この戦いの背景には、戦国末期の四国情勢が深く関わっています。土佐の長宗我部元親は、土佐一国を平定すると、その勢いのまま阿波・讃岐・伊予へと版図を広げ、四国全土の統一を目前にしていました。
伊予国では、古くからの国衆の盟主である河野氏がこれに抗い、幾度も長宗我部軍と戦いましたが、情勢は次第に苦境に傾きます。
伊予の情勢
河野氏を支えていたのは、中国地方の覇者・毛利氏でした。毛利水軍の中核を担う村上水軍は、能島・因島・来島の三家が海上の要衝を押さえ、河野氏の海上防衛網を形成していました。
特に能島・因島の両村上氏は毛利方との結びつきが強く、瀬戸内海の制海権を保持するうえで欠かせない存在でした。
しかし、土佐の長宗我部元親が四国統一を目前に迫る中、毛利氏は西国で織田信長との対立を抱え、伊予への十分な援軍を送れない状況に陥ります。
やがて本能寺の変(1582年)を経て豊臣秀吉が台頭すると、毛利氏は秀吉との講和に踏み切り、長年の抗争を終結させました。
この和睦は毛利領の安堵と引き換えに豊臣政権への従属を意味し、毛利氏は独自に河野氏を支援する立場を失います。
その間に村上御三家の一角である来島村上氏が織田・豊臣方へ転じ、河野氏の海上防衛は決定的な打撃を受けました。
こうして、河野氏は長宗我部の圧迫と豊臣方の軍事的圧力の板挟みとなり、伊予国の情勢は急速に豊臣方へと傾いていったのです。
河野氏の滅亡と高蔵寺の焼失
そして天正十三年(1585年)六月、豊臣秀吉はついに四国平定の軍を動かしました。
伊予方面の攻略には毛利家の名将・小早川隆景を総大将とし、吉川元長や黒田官兵衛、宇喜多秀家らがこれに従軍。
西国屈指の水軍力と強大な陸上部隊を合わせた大軍は、瀬戸内海を南下しながら河野氏が支配する伊予の要地へと迫りました。
当時、湯築城を本拠としていた河野通直は、各地の支城を総動員して防戦に当たりましたが、豊臣軍の圧倒的な兵力と機動力の前に、各地の城は次々と陥落します。
瀬戸内の海上制圧力を握る豊臣方は補給路を遮断し、河野方は孤立無援の状態に追い込まれました。援軍の望みも絶たれ、戦況は日に日に悪化していきます。
湯築城では籠城戦が展開されましたが、総大将・小早川隆景率いる豊臣軍に包囲され、城は完全に孤立。
やがて小早川から使者が送られ、河野氏は和平交渉の末に降伏を決断し、湯築城を明け渡しました。
降伏後、河野氏は所領を没収され、伊予における戦国大名としての地位を完全に失いました。
こうして数百年にわたり続いた河野氏の歴史は、ここに終焉を迎えます。
この戦乱のさなか、高蔵寺(現・光蔵寺)は古寺山の山腹という天然の要害を生かし、砦として利用されました。
僧坊や講堂、金堂などの堂宇が点在する高所は、防御と監視に優れ、戦術的にも極めて重要な拠点だったのです。
そこへ、土地勘に長けた来島村上氏の武将・来島通総が、豊臣軍の先鋒として迫りました。
高蔵寺(現・光蔵寺)は龍門の山城と共に激しい抗戦を展開しましたが、圧倒的な兵力と火力の前に瞬く間に包囲されます。
やがて戦火は境内一帯に広がり、長年守り続けてきた七堂伽藍は炎に包まれ、すべてが失われました。
残された記録
後世に伝わる古文書には、高蔵寺の往時の姿を偲ばせる地名が数多く記されています。
そこには「大門」「御門(中門)」「寺床(僧坊)」「寺屋敷(方丈)」「前古寺(金堂)」「奥古寺(講堂)」「京上(社)」「京僧(経蔵塔)」「喪入道(墓地)」といった名が並び、かつて山腹に広がっていた壮麗な伽藍の構成を、断片的ながらも鮮やかに伝えています。
これらの地名は、戦火により失われた堂塔や僧坊が、確かにそこに存在していた証であり、今もなお土地の記憶として息づいているのです。
高蔵寺を舞台にした戦乱の記録
四国攻めの中で、伊予河野家の家伝記『予陽盛衰記』第十六巻第五章「越智郡諸城没落の事」には、越智郡・鈍川郷に拠る鷹ヶ森山城主・越智駿河守通能による劇的な一幕が記録されています。
そこには、戦乱の渦中で河野一族の血脈を守るため、高蔵寺(現・光蔵寺)を舞台に繰り広げられた逃避行の一部始終が描かれています。
天正十三年(1585年)、四国攻めの戦火が伊予国にも迫る中、越智郡鈍川郷の鷹ヶ森城(今治市鷹取町)では、城主・越智駿河守通能が最後の籠城戦を続けていました。
多くの城主が生き延びる道を選ぶ中で、ただ一人、最後まで徹底抗戦の構えを崩さなかったのが通能でした。
かつての味方であった来島村上氏が、今や豊臣軍の先鋒として攻め寄せる。
それは戦国という時代の非情さを突きつける光景でした。
通能は、天下に名だたる豊臣の兵を相手に勝ち目がないことを承知しながらも、あくまで籠城を貫く覚悟を固めていました。しかしやがて城は包囲され、落城はもはや時間の問題となります。
そのとき、通能は己の命運を悟り、一族の血脈と家名を守るため、最後の命令を下しました。
「城を脱出し、高蔵寺(現・光蔵寺)に身を寄せている一族の後継者・門間左衛門佐の嫡子・門間太郎を連れて逃げよ」
命じられたのは、鷹ヶ森城の出城・大西城を守り、この戦いにも共に臨んでいた実弟・右衛門尉でした。
しかし右衛門尉は、「自分だけ生き延びるわけにはいかない!」と声を荒げ、主君であり兄でもある通能の命令を拒みます。
これに対し通能は、静かに、しかし厳然と言い放ちました。
「従わぬというのならば、たとえ七度生まれ変わろうとも、おまえを勘当する」
それは越智家の血統を絶やしてはならぬという、主君として、兄としての切なる想いを込めた言葉でした。
右衛門尉は涙を呑んで兄の意志を受け入れ、裏門から山道を伝ってある谷間まで落ち延び、従者を呼び寄せました。
「門間太郎は高蔵寺(現・光蔵寺)に匿ってある。よく事情を話し、ここまで連れてこい」
やがて従者が太郎を抱いて戻ると、一行は與和木村の重茂城を目指します。
しかし、そこにも敵が迫っているとの報が入り、山道を越えて野間郡(大井村)の嵯峨山寺へと向かいました。
ここで右衛門尉は太郎を寺の住職に託し、こう言い残します。
「状況が良くなれば迎えをよこす。だが、幾年待ってもその時が来なければ、出家させて小僧にしてほしい」
その後、右衛門尉は新居郡に越智信濃守の子孫が農村に残っていると聞き、そこを訪ねて落ち延びました。
やがて年月が流れ、時代が移り変わる中で武士の身分を捨て、農民として生涯を終えたと伝えられています。
こうして命を賭して守られた血脈は、嵯峨山寺やその後の在地に根付き、越智氏の名は細々ながらも後世に伝えられていきました。
「光蔵寺へ」文禄年間の再興
高蔵寺(現・光蔵寺)の焼失からおよそ八年後の文禄二年(1593年)、法縁智尊大徳は、由緒ある歴史と、その荒廃しきった姿を深く嘆き、寺院再興を強く志しました。
智尊大徳は、当地に古くから居住し、地域の有力者であった武田真三郎(または新三郎)、渡辺新左衛門といった有力檀徒を中心に、周辺村落の住民や僧徒の協力を取り付け、再建事業に着手しました。
「武田家」
武田家は、朝倉上之村(現・今治市朝倉上地区)に居を構えた名家で、河野十八将の一人として河野氏に仕えた、龍門山城主・武田信勝の末裔と伝えられています。
信勝は伊予国河野氏の重臣として、永禄5年(1562)に北伊予の守りの要である龍門山城に入り、周辺の山城群と連携しながら防衛を担いました。
龍門山城は頓田川の河岸段丘と山稜を巧みに利用した堅固な山城で、平時には領内統治の中枢、戦時には防御拠点として機能しました。
しかし、天正年間(16世紀後半)、豊臣秀吉の四国攻め(四国征伐)により河野氏が滅亡すると、武田家も城を失い、武士から村落の有力庄屋へと転じます。
庄屋職に就いた後も、年貢収納や村境の調停、災害時の復旧指揮、藩主巡視時の接待といった多方面の職務を担い、その政治的力量と財力は江戸期を通じて村政に大きな影響を与えました。
また、武田家は村内の庵堂や社寺の維持にも深く関わり、平林や太之原など複数の部落に持ち庵を有していました。
これらの庵は信仰の場であると同時に、地域会合や物資保管の拠点ともなり、宗教と地域自治の結節点として機能しました。
こうした活動は、武田家が中世以来、宗教・政治両面で地域社会を支えてきたことを物語っています。
やがて、当主が庄屋職を辞して医師の道を歩むと、その子孫は松山藩の御殿医を務めるなど、代々医師としての家業を継承していきました。
武士から庄屋、そして医師へと職能を変えながらも、武田家は常に地域の要職を担い、その影響力を近世を通じて保ち続けました。
「渡辺家」
渡辺家は、朝倉上村におけるもう一つの有力家であり、江戸時代中期以降には庄屋職を務め、武田家と並んで地域の政治・経済・宗教の中枢を担いました。
家の勢力基盤は水之上や宮ノ谷など、頓田川沿いの要所に広がっており、これらの地区において社寺や庵堂の後援活動にも積極的でした。
庵堂は信仰の場であると同時に、村人の会合や物資集積地としても機能しており、その維持は地域社会における影響力を示すものでした。
武田家が庄屋職を退いた後、その役目は渡辺家に引き継がれ、以後は年貢徴収や土地管理、村境の争いの調停など、藩政と農村をつなぐ行政機能の中心的存在となります。
特に、今治藩主が領内巡視のため朝倉上村を訪れた際には、渡辺家が藩主接待の主導役を務め、食事や宿泊施設の手配から随員の接遇に至るまでを采配したと記録されています。
こうした場面は、渡辺家が単なる村役人以上の格式と信用を藩からも得ていたことを物語ります。
また、渡辺家は光蔵寺の有力檀家でもあり、寺院との関係は深く、代々支援を続けてきました。
この再建事業を発願し全体を統括した智尊大徳は、まさにその渡辺家の出身であったとも伝えられています。
寺院の再興と二大有力家
こうした両家の存在は、文禄二年(1593年)に行われた光蔵寺再興の場面で、まさにその真価を発揮しました。
戦乱の影響で荒廃していた旧高蔵寺の地を立て直し、再び地域信仰の中心として蘇らせるには、多大な資金・労力・組織力が必要でしたが、そのすべてを担ったのが武田家と渡辺家だったのです。
再興地は、かつて高蔵寺(現・光蔵寺)の大門があったと伝わる「湯の口」で、この場所は古寺山の山麓に位置し、水利や防御の面でも優れた立地でした。
両家の尽力により、この地には石垣が積まれ、本堂をはじめとする寺院の建物が再び整えられました。こうして光蔵寺は往時の姿を取り戻し、再び地域の信仰と暮らしを支える中心として甦ったのです。
さらに両家は、祭礼や年中行事の再開にも尽力し、途絶えていた地域の結びつきと精神的支柱を再び強く蘇らせました。
武田家先祖の御室墓
境内には、庄屋武田家のご先祖の御室墓(おむろぼ)が残されています。
この御室墓は、室町時代末期から戦国期(15世紀後半〜16世紀末)の建立と推定される非常に古い墓所で、二基の石室が並び、その上を四本の石柱で支えた大きな瓦葺き屋根が覆っています。
屋根は雨風から墓石を守るための構造で、こうした形態の墓は地域でも類例が極めて少なく、貴重な文化遺産です。
また、光蔵寺には寛永18年(1641年)の位牌が現存し、そこには武田七右衛門満古が先祖を祀ったことが記されています。
このことから、江戸初期の段階で墓はすでに長い年月の風化にさらされていたと考えられ、七右衛門が屋根を設けて保護したと推測されています。
この御室墓は、光蔵寺再興に尽力した武田家の歴史と深く結びついており、戦国から江戸初期にかけての波乱の時代を生きた一族の歴史と信仰を今に伝えています。
光林寺との繋がりと光蔵寺
こうして再興を果たした高蔵寺(現:光蔵寺)は、慶長年間(1596〜1615年)になると、越智郡鴨部郷(玉川地区)に所在する光林寺 (こうりんじ)との結びつきを一層強めていきました。
光林寺は当時、大覚寺派の中でも高い格式を誇る「中本寺(ちゅうほんじ)」の地位にあり、越智郡内外に多数の末寺や小本寺を抱える宗教的拠点として絶大な影響力を持っていました。
中本寺は単なる地方の寺院ではなく、宗派組織の中核として、教義の正統な伝達、法会や年中行事の主催、末寺・小本寺の運営や人事監督などを一手に担う存在でした。
当時の越智郡は、朝倉郷・高市郷・桜井郷・新屋郷・拝志郷・給理郷・高橋郷・日吉郷・立花郷・鴨部郷の十郷に分かれ、これらの広い範囲にわたって光林寺の宗教的支配が及んでいました。
光林寺は各郷の末寺や庵堂を通じて檀家や信者を統率し、僧侶の派遣や寺院再建の指導、宗派儀礼の執行などを行い、越智郡一円の信仰秩序を維持していたのです。
「光蔵寺」結集寺院としての位置づけ
高蔵寺(現・光蔵寺)は、この光林寺を中心とする結集寺院(けつじゅうじいん)として組織に加わりました。
結集(けつじゅう)とは、僧侶たちが一堂に会し、経典や教義の内容を確認し合い、布教方針や宗務運営を協議する会合を意味します。
その起源は釈迦入滅後、弟子たちが教えを整理・編纂した古代インドの仏教史上の出来事に遡ります。日本においても本山や中本寺を中心に、こうした結集の制度が受け継がれてきました。
光蔵寺は結集の場に参加することで、宗派内の一体感を保ち、僧侶同士の学び合いを促進するとともに、地域における布教や儀礼の統一を進めました。
また、結集寺院として末寺や庵堂の監督、僧侶の派遣、檀家の宗旨管理といった役割を果たし、朝倉郷をはじめ周辺郷に広がる信仰共同体の統率において重要な拠点となりました。
「光蔵寺」への改称
このように光林寺との密接な関係のもとで宗派運営に深く関わるようになった高蔵寺は、やがて寺号を正式に「光蔵寺」と改めます。
そして、江戸時代を通じて宗派の一翼を担う寺院としての基盤を築き上げていきました。
江戸時代の光蔵寺
江戸時代に入ると、光蔵寺は大覚寺派の小本寺としての地位を背景に、地域の有力庄屋・豪農・商家の菩提寺として大きく繁栄しました。
檀家には、朝倉上村庄屋の武田家・渡辺家をはじめ、上ノ村庄屋武田家、上村里正山本家、朝倉中村北庄屋渡辺家、玉川高野村庄屋武田家、今治藩侍医武田家(元上村庄屋)、藩御用達酒造商武田家、神官田窪家、越智家、芥川家、加藤家、宇佐美家、金光家、長沢村渡部家、旦之上武田家など、越智郡内外に広がる有力家が名を連ねています。
これらの家々は代々光蔵寺を檀那寺とし、寺院運営や修繕、行事への支援を惜しみませんでした。
本堂の改築
文政6年(1823年)には本堂の大改築が行われ、地域信仰の中心としての姿を新たに整えました。
本尊は薬師瑠璃光如来立像で、檜の一木造り、定朝様式を伝える平安時代中期〜後期の作とされます。
頭に螺髪や衣褶を表さない造形は、神仏習合期の特色を示すもので、寺伝では行基菩薩、または別当大師光定の作とも伝えられています。
現在の本堂内には、本尊の両脇に日光菩薩・月光菩薩、さらに薬師十二神将像が安置され、持仏として鎌倉時代の観世音菩薩立像。
そして、稲荷明神(現:飯成神社)の本地仏とされる如意輪観音像も祀られています。
星祭りとは
本尊の薬師如来は古くから「厄除薬師」として信仰を集め、節分には星祭りと呼ばれる護摩祈願が行われました。
星祭りとは、本命星(ほんみょうじょう)と呼ばれる、生まれた年によって定まる星の巡りを基に、その年の吉凶を占い、災厄を除き福徳を招くために行われる年中行事です。
この修法は、弘法大師空海が唐から持ち帰ったとされる密教経典『宿曜経』に由来し、古代インドの占星術が中国を経て日本に伝わったものです。
本命星と当年星の関係から、その年の運勢を判断し、特に厄年や八方塞がりの年にあたる人々は、護摩供養によって悪運を祓い、仏の加護を得ることを願います。
光蔵寺では、節分の時期になると護摩堂において星祭りの護摩祈願が厳修され、炎に護摩木を投じて災厄を焼き尽くすとともに、一年の無事息災・家内安全・身体健全を祈ります。
この行事は江戸時代から続き、現在も地域住民や遠方の参拝者が集う重要な年中行事となっています。
「一願堂」護摩堂の建立
文政8年(1825年)には、第8代今治藩主・松平定芝(まつだいら さだしげ)の命により、護摩修行や護摩祈祷を行うための密教系仏堂である護摩堂「一願堂」が建立されました。
建立の発願は当時の住職・隆快上人によるもので、文政6年(1823年)から着工し、寺社奉行竹本弥四郎の指揮のもと、肝煎総代武田七右衛門・渡辺幸四郎らをはじめとする総代、世話人、大工、炊事係など、多くの人々の奉仕と協力によって完成しました。
この護摩堂は小堂ながらも、堂内外に菊紋をあしらい、兎や龍の彫刻、せり上がり式の格天井など、格式を備えた造りとなっています。
特に兎と龍の彫刻は、この堂が兎年から辰年にかけて造営されたことを示しています。
堂内の本尊には、奈良時代作と伝わる等身大の厄除薬師如来坐像を安置し、脇仏として延命地蔵菩薩立像、弘法大師坐像、そして「一願青不動明王立像」が並びます。
この「一願青不動明王立像」(一願不動尊)は、心中に抱く一つの願いを必ず叶えると伝えられ、この護摩堂が「一願堂」と呼ばれる由縁となっています。
古くからの伝承によれば、この青不動尊に対し、49日間毎日参詣し、燈明と線香を供え、不動真言を49遍一心に唱えれば、その願いは必ず成就するとされています。
像は江戸時代、大洲藩主・加藤家より拝領したものと伝わり、その由緒の深さも信仰を集める一因となっています。
さらに堂内天井には、八十八種の草花を描いた八十八枚の天井絵がはめ込まれ、芸術的価値も高く評価されています。
特に水仙花を描いた板の裏には、文政七年(1824年)の年号とともに、松平定芝や建立関係者の名が墨書され、天井裏の梁や棟札にも建立当時の記録が残されています。
平成19年(2007年)には約180年ぶりとなる大規模修繕が行われ、今日も星祭りや護摩祈祷の場として、地域の信仰と文化を支え続けています。
「明治期」神仏分離と独立
江戸後期の光蔵寺は、護摩堂を中心に星祭りや厄除けの護摩祈祷を行い、宗派の拠点としてだけでなく、庄屋層や地域有力者との強固な結びつきによって、越智郡における宗教・文化の中心としての地位を確立していました。
しかし、明治維新とともに、日本の宗教界全体を揺るがす大きな変革に直面します。
明治元年(1868年)、新政府は近代国家建設の一環として神道を国教的基盤に据える方針を打ち出し、同年「神仏分離令(神仏判然令)」を発布しました。
これは、長きにわたり自然に営まれてきた神仏習合の慣行を制度的に否定し、神社と寺院を明確に分離することを命じるものでした。
この政策により全国で別当寺制度は廃止され、各地で廃仏毀釈が広がり、多くの仏像や仏具の破壊、寺院の廃絶が相次ぎました。
別当寺としての終焉
光蔵寺もまた、明治元年(1868年)の神仏分離令による影響を避けることはできませんでした。
長年にわたり地域の神社を統括し、神仏習合のもとで宗教活動を展開してきた別当寺としての役割は、国家政策の転換によって突如として終わりを迎えます。
これにより、水之上の氏神である稲荷神社(現・飯成神社)、須賀神社・朝倉上の別当寺職をすべて失い、神社と寺院の結びつきは制度的に断ち切られてしまったのです。
なかでも稲荷神社(現:飯成神社)との関係断絶は、光蔵寺の歴史における大きな転換点でした。
稲荷神社(現:飯成神社)は古くから光蔵寺と深く結びつき、同寺はその祭祀運営や神宝管理を一手に担ってきました。
しかし分離後、神社に祀られていた本地仏・如意輪観音像、稲荷神社(現:飯成神社)の本地とされるダキニ天仏画、そして中世から近世にかけて奉納された数多くの神社棟札が光蔵寺に移されます。
これらは単なる宗教美術品ではなく、神仏習合期における信仰体系や地域社会の宗教生活を物語る重要な文化財であり、今日まで大切に守られています。
この移転は、物品の単なる引き渡しではなく、神社と寺院が一体であった時代の終焉を象徴する出来事でした。
以降、光蔵寺は独立した寺院として単独で宗教活動を展開し、かつての別当寺としての統括機能は歴史の中に姿を消しました。
それでもなお、守り伝えられてきた寺宝は、往時の神仏習合の信仰形態を現代に伝える貴重な証言者であり、寺の歴史的価値を一層高めています。
大覚寺直末寺として復興
神仏分離によって光林寺との結集関係も解かれ、光蔵寺は大覚寺派の直末寺として復興することになりました。
寺格は二等格小本寺とされ、管内の小規模寺院や庵堂の統括、法会・年中行事の統率、僧侶派遣、寺院財産管理など、多岐にわたる宗務を担いました。
これにより光蔵寺は、単なる一地域の寺院ではなく、宗派運営の要として近代以降も地域信仰の中心に位置し続けることとなったのです。
「近代から現代へ」戦時化の宗派転属
大正期から昭和初期にかけて、光蔵寺は依然として真言宗大覚寺派に属し、その二等格小本寺としての役割を果たし続けていました。
この時期も、管内の小規模寺院や庵堂の統率、年中行事の執行、僧侶派遣などの宗務を通じて、地域信仰の中核的存在としての地位を保っていました。
しかし、昭和期(1926年〜)に入ると、時代の激しい変化が寺院の運営や宗派の在り方に直接的な影響を及ぼすことになります。
昭和初期、日本は急速に軍国化の道を進み、国家の統制が社会のあらゆる分野に及びました。
宗教界も例外ではなく、政府は宗教団体の統合・整理を進め、信仰活動を国家の戦争遂行体制に組み込もうとしました。
こうした「宗教統制政策」は、各宗派間の再編や統合を促し、地方の寺院にも大きな変革を迫りました。
高野山真言宗への転属
昭和16年(1941年)に日本が太平洋戦争へと突入すると、光蔵寺もその流れの中で、長らく所属してきた真言宗大覚寺派から離れ、本山を高野山金剛峯寺と直末寺として、高野山真言宗に転属します。
この宗派転属は寺院側の自主的な選択ではなく、国家主導による宗教制度再編の一環として実施されたものであり、大覚寺派の多くの寺院が同様の措置を受けました。
転属後、光蔵寺は高野山真言宗の教義体系や宗務規則に基づき運営されるようになり、法会や年中行事の形式、宗派組織内での位置づけも変化しました。
それまで大覚寺派の結集や直末寺としての活動を通じて培ってきた僧侶間の交流は、次第に高野山を中心とする新しい宗派ネットワークに置き換えられていきます。
戦後の光蔵寺の歩み
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦が終結すると、日本は連合国軍の占領下に入り、国家による宗教統制は廃止されました。
新たに制定された日本国憲法と宗教法人令によって信教の自由が保障され、戦時中に行われた宗派統合や制度再編も法的には解消可能となりました。
しかし光蔵寺は旧所属である真言宗大覚寺派へ復帰することなく、そのまま高野山真言宗にとどまりました。
これは、戦後の混乱期において宗派の再転属が容易でなかった事情に加え、高野山真言宗内での新たな宗教活動の定着や、地域檀信徒との関係維持が重視されたためと考えられます。
その他の見所
こうして光蔵寺は、古代以来の由緒や中世以来の大覚寺派との深い歴史的つながりを受け継ぎながらも、現代では高野山真言宗の一寺院として地域信仰の拠点であり続けています。
境内はハクモクレンや唐椿の名所としても知られ、春には花を愛でる参拝客で賑わいます。また、伊予国分寺の奥之院であり、府中八十八ヶ所霊場第20番札所として四国遍路や地域巡礼の要所となっています。
さらに境内とその周辺には、地域の信仰と歴史を伝える多くの見所が点在しています。
3体のお地蔵さま
境内には、江戸時代後期に造立された3体のお地蔵さまが整然と配置され、それぞれに異なる由来や祈願の対象が託されています。
- 右:延命寺像観菩薩像(文化8年・1801年、宥傳代)
柔和な面差しと落ち着いた姿が印象的な観音菩薩像で、造立に関わった宥傳の名が銘文に記されています。地域の人々の厚い信仰を背景に建立されたことがうかがえます。 - 中央:地蔵菩薩像(文化8年・1801年)
延命経の一節が奉納された銘が刻まれ、「昔から足の痛いところをさすれば治る」と伝えられています。足腰の病や健康祈願の対象として、今も多くの参拝者が手を合わせています。 - 左:千手観音菩薩像(文化9年・1812年)
「為父母成佛」と刻まれ、両親の成仏を願って建立された供養仏です。千手観音の象徴的な意匠は風化しつつありますが、当時の造形技術と信仰心を伝えています。
これら三尊は、約200年前の人々の祈りや願いをそのまま石に刻み込み、今も境内の静謐な空気の中で語りかけてくるような存在です。
その他にも、境内には地域の人々に古くから親しまれてきた地蔵尊があります。
長生きぽっくり地蔵
その名の通り、「長生きして寝たきりにならず、ぽっくりとあの世に行けますように」という願いを叶えると信じられてきた地蔵尊です。
円光寺地蔵堂
円光寺地蔵堂は、本尊に地蔵菩薩を安置し、もとは渡辺家の持庵として建立された由緒を持つお堂です。
現在は水之上地区下部落の庵堂として地域に深く根付き、古くから住民の精神的支柱として親しまれてきました。
かつては光蔵寺の施餓鬼法会において位牌堂としても使用され、先祖供養や地域の法要・行事の場として重要な役割を担ってきました。
安置される地蔵菩薩は、衆生を救済する慈悲深い存在とされ、特に子どもの守護、先祖供養、死後の冥途での導き手として厚く信仰されてきました。
六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)すべてを巡って人々を救うと信じられ、庶民にとって最も身近な仏のひとつです。
「鎮守堂・子宝社」
光蔵寺の境内にある鎮守堂・子宝社は、地域の信仰と歴史を象徴する社です。
もとは播州赤穂藩(ばんしゅう あこうはん)、現在の兵庫県赤穂市で製塩業を営んだ豪商・亀田家の屋敷内にあったもので、当村出身の越智氏の縁により移築され、光蔵寺の鎮守社として祀られるようになりました。
創建当初は茅葺屋根でしたが、築百年以上を経た現在は銅板葺きに改修されています。
祭神は、光蔵寺の開基と伝わる小千益躬(おちのますみ)公で、かつて別当を務めた稲荷明神(現:飯成神社)の御神体のひとつ「子宝石」も祀られています。
この子宝石は古くから子授かり・安産祈願の霊験があるとされ、現在も夫婦や家族が参拝に訪れます。
また、鎮守堂・子宝社の歴史は、「塩」という共通の軸で波止浜地区の発展史と深く結びついています。
亀田家が製塩業を営んでいた播州赤穂は、江戸時代に山陽沿岸の荒井・的形・大塩・福泊と並ぶ有数の製塩地帯で、製塩法は藩の財政を支える門外不出の機密とされ、厳重に守られていました。
しかし瀬戸内航路を通じ、赤穂の商人や技術者が竹原(現・広島県竹原市)に立ち寄る機会があり、その中で製塩技術が伝わります。
竹原は干拓地を利用した塩田で良質な竹原塩を生産し、製塩で大いに栄えました。
竹原でも塩田や製塩法は厳重に管理されていましたが、野間郡波方村(現・今治市波方町)の九兵衛は人夫として浜に出入りし、地元の信頼を得ながら作業に携わる中で技術を習得します。
そしてこの技術を地元に持ち帰ると、塩田造成工事を主導しました。
塩田完成が目前となった天和3年(1683年)、九兵衛と協力者の園田は、工事の安全と地域の繁栄を祈願して龍神社・波止方(当時は八大籠神宮)を創建。
同年、南北270間(約491メートル)の巨大な堤防と、愛媛県初の入浜式塩田施設が完成しました。
これにより波止浜は製塩業と港湾活動で急速に発展し、現在の町の礎が築かれたのです。
このように鎮守堂・子宝社は、播州赤穂から竹原、そして波方へと受け継がれた「塩」の文化とも深く結びつき、地域の歴史を語る上で欠かせない存在となっています。
「願かけ絵馬」
このような信仰の流れは現代にも受け継がれており、参拝者は絵馬や供物を通して、真心を込めてお祈りしています。
光蔵寺では、祈願の対象や願いの内容に応じて複数の種類の絵馬が授与され、それぞれに独自の由来や意味が込められています。
- 「一願不動尊」
本堂に祀られる一願青不動明王立像にちなむ絵馬で、心の中の一つの願いに集中して祈ると成就すると伝わります。特に49日間の参詣と真言唱和の習わしと結びつき、今も篤い信仰を集めています。 - 「延命地蔵尊」
境内中央の延命地蔵尊に捧げる絵馬で、足腰の健康、長寿、病気平癒を願う参拝者が多く見られます。患部を撫でる風習も古くから続いています。 - 「大願成就」
家内安全、商売繁盛、進学合格、良縁成就など、多様な願いに対応できる汎用的な絵馬です。鮮やかな色彩が奉納所を彩ります。 - 安産・子育て祈願
鎮守堂の「子宝石」に由来し、無事な出産や子どもの健やかな成長を祈るための絵馬です。夫婦や家族で参拝し、手を合わせる姿も多く見られます。
これらの絵馬はいずれも一枚500円で授与されます。奉納された絵馬は境内の所定の掛所に吊るされ、木の板に込められた願いが風に揺れながら時を重ね、江戸時代から続く祈願の形を現代に伝えています
「寺宝」
そして、こうした信仰と歴史を今に伝える存在として、光蔵寺には数多くの寺宝が受け継がれています。
- 木造薬師如来立像(平安時代中期〜後期)
本堂本尊の秘仏。温和で引き締まった表情が特徴で、古代薬師信仰の流れを伝えます。 - 木造薬師如来坐像(奈良時代)
護摩堂本尊。等身大で厄除けの本尊として信仰を集めます。 - 木造観世音菩薩立像(鎌倉時代)
鎌倉彫刻の端正な面貌と量感ある姿態を備えた観音像。 - 大般若経200巻(南北朝時代・文中2年〔1373年〕銘)
動乱期の伊予で国家安泰を祈って写経されたもの。残る200巻は玉川町・龍岡寺(りゅうこうじ)に伝わり、両寺の絆を今に伝えます。 - 金銅五鈷鈴(鎌倉時代)
密教法具の一つで、法会や護摩修法に用いられました。 - 木造如意輪観音坐像(南北朝時代)
旧稲荷神社の本地仏。神仏習合の歴史を物語ります。 - 鰐口(桃山時代・文禄3年〔1594年〕銘)
参詣者が打ち鳴らす仏具で、当時の寄進文化を示します。 - 脇差(伝 来島通康奉納)(室町時代・天文4年〔1535年〕銘)
戦国期に瀬戸内で勢力を誇った来島村上氏4代目・来島通康が奉納したと伝えられるもの。通康は来島城から波方館へ本拠を移し、周辺に城砦群を築いて海上防衛網を整備しました。この脇差は、海賊衆と地域寺院との結びつきを示す貴重な資料です。
これらは単なる美術品や骨董ではなく、地域の歴史・文化・宗教観を物語る生きた証であり、長い時の流れの中で守り伝えられてきた貴重な文化遺産です。
かつて幾度も戦火や時代の変化を乗り越え、祈りとともに歩んできたこの寺は、今もなお地域の歴史と文化を受け継ぎ、人々の心に寄り添い続けています。