「九王地蔵堂(くおうじぞうどう)」は、今治市大西町九王に所在する、地域を代表する地蔵堂です。
古くから村人の祈りを受けとめ、旧野間郡新四国八十八ヶ所の第二十六番札所として巡礼の道に位置づけられてきました。
現在も地域の人々に大切に守られ、巡礼者を迎える場として信仰が息づいており、地域信仰と文化の両面で重要な役割を担い続けています。
創建と時代背景
九王地蔵堂の建立は江戸時代中期。
当時、この地域(旧野間郡九王村、現在の今治市大西町九王)は今治藩ではなく松山藩の領地でした。
松山藩領下の農村では、庄屋を中心とする村落共同体が形成され、年貢の徴収や地域の行事の運営を担いながら、寺社の建立や修繕にも重要な役割を果たしていました。
九王村でも庄屋・村瀬家が中心となって地域の信仰を支え、その痕跡は堂の周囲に残る墓石群からもうかがうことができます。
また、建立の年代である享保年間は、八代将軍徳川吉宗の治世であり、「享保の改革」によって倹約令が敷かれるなど、農村社会にも統制と負担が加えられた時代でした。
こうした時代状況の中で、村人たちは地域の精神的な拠り所を必要とし、祈りの対象として地蔵信仰を深めていったと考えられます。
江戸時代の地蔵信仰
江戸時代は、地蔵信仰が庶民生活に深く浸透した時代でもありました。
地蔵菩薩は地獄の苦しみから衆生を救済する存在とされ、平安・鎌倉期を経て民衆の間に広まりましたが、江戸期に入ると子どもの守護、安産祈願、病気平癒、火防、盗難除けなど、生活に直結した願いを叶える仏として篤く信仰されました。
村の交差点や道端、街道沿いには地蔵像が数多く祀られ、地域住民の安全や往来を見守る存在となりました。
また、村や町では「講(こう)」と呼ばれる信仰組織が作られ、地域の人々が協力して祈願や供養を行いました。
講は寄付を集めたり、祭礼や法要を共同で営むなど、信仰と地域社会を結びつける大切な役割を担いました。
こうして毎月二十四日の地蔵縁日や夏の「地蔵盆」は、人々にとって大きな楽しみとして定着していったのです。
九王地蔵堂の建立
このような地蔵信仰が庶民の心の拠り所となっていた時代に、旧野間郡九王村(現在の今治市大西町九王)でも地域共同体の祈りの場が求められ、享保六年(1721年)、九王地蔵堂が建立されました。
左甚五郎
この地蔵堂を手がけたのは、伝説的名工・左甚五郎(ひだり じんごろう・ひだの じんごろう)の流派に連なる阿波大工であったと伝えられています。
左甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。
日光東照宮の「眠り猫」をはじめ、全国各地に彼の作と伝わる木彫が残され、その数は百か所近くにのぼるといわれます。
その生涯や出自には諸説があり、飛騨、播磨、摂津などさまざまな土地がゆかりとされてきました。
名前の由来も「左利きであったから」「大工仲間に妬まれて右腕を失ったから」など多くの伝承が残されており、事実と物語が入り混じっています。
中には、彫った動物が夜な夜な動き出し、鎖で繋がれたという怪異譚まで伝わっており、その卓越した技と想像力が人々の記憶を強く刺激したことがうかがえます。
甚五郎の作品は写実的で躍動感にあふれ、とりわけ動物の姿を巧みに表現する点に特徴があります。
日光の眠り猫が「平和の象徴」として親しまれてきたように、彼の彫刻は単なる装飾を超え、信仰や物語と結びつきながら受け継がれてきました。
その活動年代は安土桃山時代から江戸後期にまでまたがり、数百年にわたって名が伝わることから、一人の人物ではなく、優れた彫刻師たちの総称であったとする見方もあります。
それでもなお、史料に名が現れる場合もあり、実在した名工を基に伝説が膨らんだ存在だったと考えられます。
四国でも、愛媛県松山市の円明寺には甚五郎作と伝わる龍の彫刻が残り、「行いの悪い人が見ると目が光る」と語り継がれています。
大西地区の九王地蔵堂も、甚五郎の流れを受け継いだ阿波大工によって建てられたとされ、堂の木鼻に施された龍や唐獅子の彫刻には、その系譜の技術と美意識が息づいています。
築様式
こうして建立された九王地蔵堂は、唐様建築の美しさと精緻な彫刻が見事に調和した堂宇として知られています。
建築様式は「唐様(からよう)」と呼ばれるもので、中国風の洗練された様式を取り入れた構造美と装飾美が高い水準で融合しています。
唐様は鎌倉時代以降に禅宗寺院などで広まり、簡素で直線的な形態の中に細やかな意匠を取り入れるのが特徴です。
そのため九王地蔵堂も、全体としては端正で引き締まった印象を与えながらも、随所に職人の技術と美意識が息づいています。
特に注目すべきは、屋根を支えるために組まれた「斗栱(ときょう)」の構造です。
斗栱とは、柱の上に木材を積み重ねて腕木を突き出し、屋根の重みを分散させる仕組みを指します。
単なる構造材にとどまらず、建築全体の均衡と美しさを演出する重要な要素であり、唐様建築の見どころの一つです。九王地蔵堂の斗栱は巧みに設計され、力学的な安定性とともに装飾性も備えています。
さらに、木鼻(きばな)と呼ばれる梁の端部には龍や唐獅子の緻密な彫刻が施されており、まるで木の中から生命が躍り出てきたかのような迫力を感じさせます。
頭貫や正面の梁にも繊細な彫刻が刻まれ、花や唐草文様などが緻密に表現されています。
これらは単なる装飾ではなく、堂宇を魔除けや加護の力で守る宗教的意味合いをもっています。
こうした要素が一体となり、九王地蔵堂は荘厳さと繊細さを兼ね備えた建築美を今に伝えています。
なかでも特筆すべきは、建立の際の逸話です。
十六歳の若き大工が木鼻の龍の彫刻を任され、見事に彫り上げたと伝えられています。
その龍は現在も堂に残され、若き才能が生み出した名作として人々を魅了しています。
本尊と信仰
堂内には三体の地蔵尊が祀られています。
中央の地蔵は石造で、柔和な表情をたたえており、参拝者に親しみを与えます。
正面の像には「三界万霊」、左側には「享保六年辛丑」、右側には「野間郡九王村願主御十人造立」と刻まれており、庄屋の霊を弔うために造立されたとも伝えられています。
また「三体の地蔵に祈ると金持ちになれる」という俗信が広まり、金運や財運を願う人々の信仰を集めてきました。
この信仰は現在も続き、老若男女が幸せや繁栄を願って参拝しています。
堂の周囲には庄屋であった村瀬家をはじめ、多くの家々の墓石が残され、地域共同体の先祖供養と信仰の中心であったことを今に伝えています。
御堂建立をめぐる村人の知恵
建立後、参詣者が増え賽銭も多く集まったため、さらに御堂を建てたいと松山藩に願い出ました。
しかし、享保の改革によって倹約が奨励されていたため許可は容易に下りませんでした。
そこで村人たちは「葬式の焼香場として必要である」と訴え、ようやく許可を得たという逸話が残されています。
これは当時の農村社会における信仰と生活の結びつきを示す象徴的な出来事です。
修理と文化財指定
昭和五十一年、堂の老朽化が進んだため、地域住民の浄財と奉仕による大規模な解体修理が行われました。
町や県の補助も受け、その秋に修理は無事完成しました。この改修を経て九王地蔵堂は今治市指定文化財に登録され、地域の誇りとして後世に守り伝えられています。
年中行事と現代の信仰
九王地蔵堂は現在も地域社会に深く根付いています。
特に盆の時期には、堂前で盆踊りが行われ、その後には人々が念仏を唱えて幸せと繁栄を祈ります。
こうした行事は地蔵信仰と地域共同体の結びつきを象徴しており、世代を超えて継承されています。
九王地蔵堂は歴史的建築物であると同時に、今も人々の祈りと生活を支える場として生き続けています。
「例大祭」九王地蔵堂と地域の繋がり
九王地蔵堂は、富山八幡神社は龍神社・九王とともに、地域における信仰と生活の中心として深く結びついています。
龍神社・九王は海の神として漁業や海上安全を守護し、松山藩領時代には雨乞いの祈禱所としても重要視されてきました。
一方、富山八幡神社は陸の神として農業や武運を司り、地域の氏神として厚く崇敬されています。
この二つの神社は、海と陸を守る神々として補完的な役割を果たしてきました。
地域の人々にとっては、どちらも生活と切り離せない大切な信仰対象であり、その結びつきは毎年五月第三日曜日盛大に行われる例大祭の中に色濃く表れています。
神事と渡御
例大祭は朝8時20分頃から、厳かな神事によって幕を開けます。
その後、龍神社・九王から大人神輿1基と子供神輿2基が宮出しされ、前日に組み立てられた獅子船・神輿船・宮司船の3隻が出航し、神輿を海上渡御へと導きます。
「船上継獅子舞」
海上渡御の最大の見どころは、獅子船で披露される「船上継獅子舞」です。
継獅子(つぎじし・継獅子)とは、大人が子供を肩車し、その上にさらにもう一人が立ち上がって人の塔を築き、頂点で獅子を操る、愛媛県今治市を代表する伝統芸能です。
その起源は江戸時代中期にさかのぼり、伊勢神宮の神楽を取り入れて生まれたと伝えられています。
以来、今治各地の春祭りで奉納され、氏神に祈りを捧げる神事の一部として受け継がれてきました。
継獅子は、大人の肩に子供を立たせる二継ぎを基本に、三継ぎ、四継ぎ、五継ぎへと発展します。
段が増すごとに難易度は高まり、下段の力強い支えと、最上段の子供の勇気や均衡、そして一体となった呼吸が求められます。
特に、四継ぎや五継ぎでは高さが数メートルに及び、観衆はその迫力に圧倒されます。
頂点で獅子を操る子供の姿は、天へ祈りを届ける象徴とされ、五穀豊穣や地域の繁栄を願う奉納芸能として深い意味を持っています。
その中でも船上継獅子舞は、船上という不安定な舞台で披露されるため、陸上以上の緊張感と迫力を放ちます。
瀬戸内海の穏やかな波間を舞台に、江戸時代末から続くこの伝統芸能は、百年以上にわたり親から子へ、子から孫へと受け継がれてきました。
海を背景に繰り広げられる迫力の舞は、祭りの熱気を最高潮に盛り上げる大きな華となっています。
餅つきと餅まき
船上継獅子舞の後には、子供たちが獅子舞の上に立ち、臼と杵を手に餅つきを始めます。
実際に餅をつくわけではありませんが、臼に餅を入れて杵を振り上げる所作が丁寧に演じられ、観客はその愛らしくも厳かな振る舞いに目を奪われます。
やがて餅つきが終わると、福を分け与える「縁起餅」が袋に詰められ、岸辺に向かって勢いよく投げられます。
上陸後の祭礼
海上渡御を終えた神輿は上陸し、九王地蔵堂に立ち寄ります。
この祭りにおいて九王地蔵堂は「札所」としての役割を担っており、神輿が必ず経由する重要な地点となっています。
その後、神輿は東の山頂に鎮座する富山八幡神社へと担ぎ上げられ、本殿にて厳粛な儀式が営まれます。
神輿巡行と宮入り
昼前には富山八幡神社を出発し、獅子連が獅子舞を披露して先導する中、神輿は御旅所や地域の家々を巡ります。
新築の家や招待を受けた家庭にも立ち寄り、家内安全や地域繁栄を祈念します。
そして夕方になると、神輿は再び龍神社・九王に戻り、19時30分頃には宮入りが行われ、威勢の良い掛け声とともに境内へと収められます。
その後、20時頃に解散となり、朝から続いた神事と芸能に満ちた一日のお祭りは幕を閉じます。
受け継がれる祭例
後日、神輿や太鼓、幟(のぼり)などの祭礼道具は地域の人々によって丁寧に片付けられ、九王集会所の隣に設けられた保管庫へ納められます。
その脇には船小屋もあり、獅子舟や神輿を乗せる神輿舟が大切に収められています。
これらはいずれも地域の人々が共同奉仕作業で建てたもので、村人たちの力と心意気によって守られてきました。
かつてはこれらの祭礼道具は庄屋であった村瀬家に預けられており、庄屋が村政とともに祭礼の中心を担っていました。
現在は保管場所を変えながらも、道具を守り、次の祭りへと受け継ぐ営みは変わることなく続けられています。
やがて一年の時を経て、再び祭礼の日が巡ってくると、村人たちは道具を取り出し、舟を整え、神輿を飾り直して祭りに臨みます。
こうして九王の祭礼は、過去から現在へ、そして未来へと、絶えることなく受け継がれていくのです。
九王に息づく海と陸の祭礼
九王の地に連なる三つの聖地を舞台に繰り広げられる例大祭は、海と陸、そして人々の暮らしと祈りを結びつける大きな営みとして受け継がれてきました。
海上を渡る神輿、山頂へと担ぎ上げられる神輿、参道を彩る獅子舞や継ぎ獅子の勇壮な姿。
その光景には、地域の歴史と信仰が幾重にも重なり合い、九王の人々の心をひとつにする力が息づいています。