桜咲く山里に受け継がれる、海上安全と五穀豊穣の祈り
愛媛県今治市菊間町池原。
この地に春が訪れると、掌禅寺(しょうぜんじ)の境内にそびえる一本のエドヒガン桜が、満開の花を咲かせます。
「金龍桜(きんりゅうざくら)」と呼ばれるこの名桜は、寺の山号である金龍山の名を冠し、樹齢およそ四百年を数えると伝えられています。
その堂々たる姿と華やかな花の彩りは、地域の人々の心を和ませるだけでなく、遠方からの参拝者や花見客をも魅了し続けてきました。まさに菊間の春を象徴する存在です。
そして、この掌禅寺に寄り添うように鎮座するのが、「客刀比宮神社(きゃくかたひぐうじんじゃ)」です。
「金毘羅宮」創建と歴史
客金刀比羅神社の創建は慶長六年(1601年)十月。
讃岐国(現在の香川県)仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する「讃岐金刀比羅宮(こんぴらぐう)」から分霊を勧請し、一郡一社として野間郡全体の鎮護と五穀豊穣を祈願する社として創建されました。
創建当初は、現在の「客金刀比羅神社」という名ではなく、「金毘羅宮」と称されていました。
金刀比羅宮と全国信仰
讃岐金刀比羅宮は、全国に約600社ある金刀比羅神社の総本宮として知られています。
象頭山の中腹に鎮座し、航海安全の守り神・大物主神(おおものぬしのかみ)を主祭神とし、古来より海上交通や漁業者、旅人たちの篤い信仰を集めてきました。
古くから親しみを込めて「こんぴらさん」と呼ばれ、江戸時代には伊勢参りと並ぶ庶民の一大巡礼「こんぴら参り」が全国的に流行しました。
参拝のために全国各地から人々が集まり、長い参道には多くの茶屋や土産物屋が軒を連ね、にぎわいを見せたと伝えられます。
参道の785段の石段(奥社まで行くと1368段)は現在も名物となっており、こんぴら参りの象徴的存在です。
この金刀比羅信仰は、瀬戸内海に面した港町や海運地帯において特に篤く信仰されました。
菊間町池原も例外ではなく、古くから港町として栄え、海運や製塩業が盛んな地域でした。
そのため、航海の安全や海運の繁栄を祈る金刀比羅信仰が受け入れられやすく、勧請されたと考えられます。
神仏習合と掌禅寺の役割
日本では中世以来、神と仏を同じ空間に祀り、互いに補い合うことで人々の暮らしと信仰を支える神仏習合の形が広く見られました。
寺院は先祖供養や仏法を説く場であると同時に、村人たちの生活に密着し、季節ごとの祭礼や祈願にも深く関わりました。
この時代、寺と神社は対立する存在ではなく、むしろ一体となって村の平安、五穀豊穣、厄除け、豊漁、雨乞いなどあらゆる願いを担う存在でした。村人たちは寺で仏に祈り、神社で神に祈ることで心のよりどころを得ていたのです。
菊間町池原でも同じく、掌禅寺(当時は勝禅寺)の僧侶が社僧・別当として隣接する神社の祭祀を取り仕切り、村の祈りや祭りの中心となっていました。
その祭祀の拠点となったのが、天正七年(1579年)に掌禅寺の境内に建立された柱珠庵(ちゅうじゅあん)です。
柱珠庵は神社の神事を執り行うための拠点として重要な役割を果たし、五穀豊穣を願う春祭、厄除けの祈祷、疫病退散や雨乞いといった村人たちの願いが込められた行事が、四季折々ここを中心として営まれました。
さらに、当時の記録によれば、神社の宮司を補佐して神事や運営を担う重要な神職である祢宣(禰宜:ねぎ)は白石家が代々務めており、社僧別当と連携して祭祀を執り行っていました。
客金刀比羅神社と地域信仰の歩み
こうして掌禅寺と金毘羅宮は一体となり、神仏習合の思想のもとで地域の人々の暮らしを見守り続けてきました。
村人たちは仏に祈り、同時に神にも祈ることで、豊作や海上の安全、家族の安寧といった生活全般の願いを託してきたのです。
しかし、明治に入ると大きな転換期が訪れます。
明治元年(1868年)、新政府は近代国家体制の確立を進める中で、国家神道を基盤とする宗教政策を打ち出し、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を発布しました。
これは、長きにわたり日本社会に根付いていた神仏習合の在り方を否定し、神社から仏像や仏具を排し、僧侶が神社に関わることを禁止するというものでした。
この政策は「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と呼ばれる運動を全国的に引き起こし、多くの寺院が廃絶したり仏像や経典が破壊されるなど、大きな混乱を招きました。
寺と神社が一体となって地域の信仰を支えてきた地方社会にとっても、これは大きな衝撃であり、長年の信仰形態に大きな変化を強いたものでした。
掌禅寺と金毘羅宮も、この全国的な神仏分離の流れの中で切り離され、それぞれ独立した寺院と神社として歩みを進めることとなりました。
この時、金毘羅宮は地域の氏神であり村社でもあった客神社(大字池原宇フルツク甲1006番)の境外末社とされ、祭祀も客神社を中心とする形に整理されました。
しかし、これは単なる形式上の変更に過ぎず、金毘羅宮は村人たちにとって変わらず大切な祈りの場として尊崇され続けました。
「客金刀比羅神社」客神社との合併と改称
明治時代後半になると、日本各地で行政区画の再編が進み、池原周辺の村々もその影響を受けました。
1889年(明治22年)12月15日、町村制施行により菊間川下流の西山村・長坂村・浜村の3村が合併して野間郡菊間村が成立し、一方の池原村は高田村・松尾村・河之内村・川上村・中川村と合併して歌仙村となりました。
行政区画が変わっても、池原の人々にとって金毘羅宮は変わらず氏神として大切に祀られ、春祭や秋祭をはじめとする年中行事は途切れることなく営まれました。
村人たちはここで五穀豊穣、海上安全、家内安全を祈り続け、地域の精神的な支柱として信仰を寄せていました。
そして、明治45年(1912年)3月19日、池原村は村中の氏神であった客神社との合併・合祀を、今治地方事務所を通じて正式に出願しました。
地域の代表者や氏子たちが連署して提出したこの願いは同年中に認められ、5月13日には客神社の御神体が金毘羅宮へと合社・遷宮され、社号も正式に「客金刀比羅神社」と改められました。
そして、客神社と金毘羅宮の御神徳が一つに結集したことで、村人たちがより身近に祈りを捧げられる総社として新たな姿となりました。
客神社から勧請された神々
- 伊邪那美命(いざなみのみこと) – 国生み神話の母神。生命・再生、安産、厄除けの守護神。
- 猿田彦命(さるたひこのみこと) – 道開きの神。旅・交通・海上安全の守護神。
- 菊理比売命(くくりひめのみこと) – 縁結び・和合の神。人と人を結ぶ、争いを調停する神。
金刀比羅宮から勧請された神
- 大物主命(おおものぬしのみこと) – 大国主神の和魂。航海安全、産業繁栄、商売繁盛を司る神。
時代ごとに受け継がれた信仰
このように、客金刀比羅神社は江戸時代から明治、大正、昭和、そして令和の現代に至るまで、時代ごとに姿を変えながらも、常に地域の人々の祈りと暮らしに寄り添ってきました。
宝暦10年(1760年)には代官所の主導で野間郡中の総力を挙げて社殿の修繕が行われ、文化13年(1816年)には屋根の葺き替えが施されました。
さらに天保年間(1830〜1844年)には、鳥居や狛犬をはじめとする境内の諸施設が次々と寄進され、社殿も再建されました。こ
れらの修繕や再建には資金だけでなく労働力までも郡中から派遣され、「一郡一社」として野間郡全体でこの神社を守り伝えようとする強い信仰心と結束があったことがわかります。
祈りの社
客金刀比羅神社は、単なる祈願や参拝の場ではありませんでした。
旱魃のときには祈雨(きう)神事、長雨や台風の際には祈晴(きせい)神事が行われ、農作物の収穫と村人の生活を守るために郡中から人々が集まりました。
当時の日本では、旱魃や長雨はただの天候不順ではなく、飢饉や疫病、人口減少に直結する深刻な脅威でした。
一度凶作が起これば米価は急騰し、年貢の納付が困難になり、生活は一気に破綻します。
ときには餓死者が出ることさえありました。
こうした危機を回避するため、祈雨や祈晴は単なる宗教儀式ではなく、郡全体の存亡をかけた切実な祈りとして執り行われました。
客金刀比羅神社は、災害と向き合う村人たちにとって希望の拠り所であり、地域をひとつに束ねる象徴的存在でもあったのです。
歴史を映す社殿と境内
こうした歴史と信仰の積み重ねは、現在の境内や社殿にも色濃く残されています。
本殿は1.9坪(約6.3㎡)の流造桧皮葺で、明治34年(1901年)5月に改築され、昭和11年(1936年)に銅板葺へと改修されました。
優美な屋根の曲線が特徴的で、地域の信仰の中心として今もその姿をとどめています。
境内には大正6年(1917年)2月に改築された11坪(約36㎡)の釣殿、天保14年(1843年)に改築された20.3坪(約67㎡)の拝殿が並びます。
拝殿の格天井には、当時の人々が奉納した発句が今も残されており、氏名が判読できるものも多く、当時の村人たちの信仰心や文化的営みを今に伝える貴重な資料です。
境内の面積は約337坪(約1,113㎡)と広く、石造の鳥居や狛犬、嘉永2年(1849年)に寄進された手水鉢、石灯籠などが点在しており、江戸末期から明治にかけての寄進文化や村人たちの厚い信仰心を感じさせます。
神仏習合の記憶
また、神仏習合時代の名残も境内や周辺に見ることができます。
隣接する掌禅寺の入り口には「金比羅山」と刻まれた石碑が立ち、山門には「野間郡一郡一社 金毘羅大権現」と刻まれた扁額が掲げられています。
これらは、かつて掌禅寺が金刀比羅宮の別当寺として祭祀を担い、神と仏が同じ空間で祀られていた時代の記憶を今に伝えるものです。
こうした痕跡は、村人たちが豊作や地域の安寧を祈るために神仏双方へ祈りを捧げていた往時の姿をしのばせ、客金刀比羅神社が単なる一社ではなく、地域の精神文化の中心であったことを静かに語りかけています。