白地地域に鎮座する客天神社(きゃくてんじんじゃ・客天満宮)の創建は不明ながら菅原道真公を祀る天神社であり、他の地から迎えられた神社であることから「客」の名を冠しています。
この神社は「義音(ぎおん)さん」として地域の人々に親しまれており、同じ白地地域にある「須賀神社・朝倉上」が管理する飛地境内社です。
この神社では特別な儀式で、今治市の指定文化財「弓祈禱(ゆみきとう)」が行われています。
弓祈禱とは?
「弓祈禱」は、日本の伝統的な弓を用いた祈祷儀式であり、神道や仏教の宗教儀礼の一環として行われてきました。この儀式では、弓矢が神聖な道具として扱われ、邪気を払う力や願いを込めるための象徴とされています。
弓祈禱の起源と歴史
弓を用いた儀式は、古代より日本各地で行われており、その起源は神話時代にまで遡ることができます。『日本書紀』や『古事記』にも弓を用いた神事が記述されており、特に武神や戦いの神に関連する祈祷として発展しました。中世においては、武士たちが戦の勝利を祈るために行った弓祈禱もありました。
今治市では「客神社(菊間地区)」「姫子島神社(岡村島)」、さらに「喜多浦八幡大神神社(伯方島)」では「弓放し」として行われています。
客天神社の弓祈禱
客天満神社の「弓祈禱(ゆみきとう)」は、江戸時代に起源を持つ伝統的な神事であり、市の無形民俗文化財にも指定されています。この神事は、単なる弓矢の儀式ではなく、武士の誇りと農業の繁栄を願う人々の思いが込められたものです。
江戸時代の武士は、藩から俸禄(給料)を受け取ることで生活していました。しかし、幕府の財政悪化や経済政策の影響により、特に地方の下級武士たちは十分な収入を得ることが難しくなっていきました。
そこで、多くの藩が「帰農(きのう)」、つまり武士が農業を営むことを奨励しました。
白地地域の武士たちも例外ではなく、多くが農業に従事するようになりました。彼らは田畑を耕し、米や野菜を育てることで生計を立てながらも、「武士である」という誇りを忘れず、武道の鍛錬を続けました。
その中で、弓術は比較的道具が少なくて済み、農作業の合間に稽古しやすい武芸だったことから、武士たちは弓を使い続けていました。
やがて平和な時代が進み、かつての武士たちはすっかり農民としての生活に馴染んでいきました。しかし、彼らは祖先が武士であったことや、侍の精神を忘れないために、特別な神事を行うようになりました。それが「弓祈禱」の始まりです。
五穀豊穣と地域の繁栄を願う
こうして客天神社で行われるようになった「弓祈禱(ゆみきとう)」は、新年を迎えた最初の念仏を唱える「お口あけの日」に執り行われ、年の初めに的を射ることでその年の吉凶を占うようになりました。
この神事では、五穀豊穣や地域の繁栄が祈願されます。農作物の豊作を願う信仰と、武士の弓術の伝統が結びついたことで、弓祈禱は単なる占いの儀式を超え、人々の暮らしに根付いた重要な行事となりました。
また、時代とともに武士から農民へと変化していった人々にとって、この神事は精神的な支えとなり、新たな一年の始まりを迎える大切な機会となりました。
新年の神聖なる儀式
現在では、1月の第1日曜日に執り行われるようになった客天神社の弓祈禱では、射手に選ばれた3名(昔は年男6名)は、前日から潔斎し、心身を清めます。当日の朝、射手たちは神楽奉納の後、水垢離をとり、御神酒を戴きます。羽織袴姿で身を正し、神聖な雰囲気の中、神社の階段を上がり客天神社へと向かいます。
射手と矢材振り(儀式の進行役)は、神官よりお祓いを受け、厳かな空気の中で神事が執り行われます。その後、射手の3人が改めて神前に進み、「大前」を務める射手が片肌を脱ぎ、精神を集中させます。的の裏には「鬼」と書かれ、これは邪気を払う意味が込められています。射手たちは約5メートル先に設置された直径約60センチの的に向かって順番に矢を放ちます。
地域の誇りと結束の象徴
この弓祈禱は、戦時中に一時途絶えたものの、戦後に復活し、地域に根付いた貴重な文化遺産として大切に受け継がれてきました。
毎年、多くの参拝者が見守る中、厳かに執り行われるこの儀式は、伝統の継承と地域の結束を深める大切な機会となっています。そして、これからもその精神は受け継がれ、地域の誇りとして未来へとつながっていくことでしょう。