神仏習合の寺院“こんぴらさん”
「満願寺(まんがんじ)」は、高野山真言宗に属し、山号を金毘羅山と称する由緒ある寺院です。
本尊は薬師如来で、新四国曼荼羅霊場の第38番札所、四国三十六不動尊霊場の第21番札所として、多くの巡礼者や参拝者が訪れています。
また、金毘羅大権現を守護神とする神仏習合の霊場でもあり、地元では「こんぴらさん」と呼ばれ親しまれています。
満願寺の起源「光の秘宝」の伝説
満願寺の起源には、今も語り継がれる不思議な光の伝説があります。
遠い昔、この地に住んでいたひとりの村人が、山中を歩いている最中、ふと木々の間から差すような光を目にしました。
それは火でも太陽でもなく、まるで宙に浮かぶように、静かに、そして絶え間なく輝いていたといいます。
その光に惹かれた村人は、毎日のようにそこへ赴いて祀り物を捧げました。
その神秘的な輝きには、人の心を鎮め、自然と手を合わせたくなるような神聖さがあったといいます。
この出来事はすぐに村中に広まり、実際に光を目にした人々はみな同じように心を打たれたと語られています。
やがて村人たちは、その場所を「聖なる地」と見なし、小さな祠を建て、村を挙げて信仰を捧げるようになりました。
こうしてはじまった信仰が、時を経て、現在の満願寺へとつながっていったと伝えられています。
この伝説には、さらに続きがあります。
村人たちが見つけたその神秘の光は、満願寺の本尊・金毘羅権現の背後に密かに祀られることとなりました。
以降、この光は「絶対の秘宝」とされるようになり、厳重に隠されたため、誰の目にも触れることがなくなりました。
現在もこの秘宝の正体は謎のままで、満願寺における“神秘の存在”として、静かに語り継がれています。
道慈律師と満願寺の創設
記録に残る満願寺の創設は、奈良時代の高僧・道慈律師(どうじりっし)によって行われたと伝えられています。
道慈(俗姓:額田氏)は、奈良時代初期の日本仏教界において極めて重要な役割を果たした僧侶で、幼少期より高い志を抱いて出家し、深い仏教の学びを求めた。
大宝元年(701年)に遣唐使「粟田道磨」に同行して仏教の本場「唐(中国)」に渡りました。
唐に無事到着した道慈律師は、宗教の中心地であった長安にある有名な寺院「西明寺」に16年間留まり、三論宗(さんりんしゅう)の教義を徹底的に学びました。
三論宗と空の思想
三論宗とは、インドの龍樹(ナーガールジュナ)によって説かれた「空(くう)」の思想を核に据える仏教哲学の一派です。
万物には固定的な本質がなく、すべては相互に依存し、変化し続けているという認識から、執着を離れた智慧を重視します。
この思想は中国で体系化され、やがて日本に伝わり、奈良時代には「南都六宗」の一つとして隆盛を見ました。
仏教の本場で磨かれた学識
唐滞在中、道慈はその学識と徳の高さが評価され、国家安泰や社会の平和を祈る重要経典『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』を宮廷で講じる高僧百人の一人に選ばれました。
また、密教の先駆者である善無畏(ぜんむい)から、中国密教の秘法「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」の伝授も受けたとされます。
この修法は虚空蔵菩薩の智慧を得るための厳しい修行であり、後の日本密教にも大きな影響を与えました。
律師に任ぜられた道慈と国家仏教の整備
養老2年(718年)、帰国した道慈はその学識と実績を高く評価され、律師に任ぜられました。
律師とは、僧尼の規律(=戒律)に精通し、その解釈と実践において高い権威を持つ僧侶に与えられる称号です。律学の教師であり、修行僧の生活規範を正しく導く役割を担っていました。
奈良時代の日本では、僧尼の乱れを正し、仏教界を国家の基盤として整備するために、戒律を重んじる律師の存在が重視されました。
とくに国家主導で行われる「授戒」の儀式では、律師が師として重要な役割を果たしました。
これにより「道慈律師」と称され、単なる学僧にとどまらず、僧尼統制や仏教界改革に携わる指導者的立場に立ったのです。
その後、平城京における大安寺の移設と造営に尽力しました。大安寺は唐の西明寺を模した壮麗な伽藍を備え、国家鎮護のための中心寺院として再建されました。
やがて日本最大級の規模を誇る仏教教学の拠点となり、多くの僧侶が修行と学問に励む場となっていきます。
「大安寺の系譜を継ぐ寺」満願寺のはじまり
道慈はまた、仏教界の改革にも取り組み、自ら仏教の教義を広める活動にも積極的でした。
そして天平6年(734年)、南海道を巡錫していた道慈律師が伊予の朝倉郷に立ち寄り、本尊「薬師如来」の開眼法要を行ったことが、満願寺創建の契機となったと伝えられています。
当時の満願寺は、中国三論宗の教えを基盤にした寺院として、大安寺を本山と仰ぎ、その系譜を継ぐ存在でありました。
弘法大師と真言密教への改宗
延暦23年(804年)、真言密教の祖である空海(弘法大師)もまた遣唐使として唐に渡り、長安の青龍寺において師・恵果和尚より密教の奥義を相承しました。
そして延暦25年(806年)に帰国すると、日本における真言密教の弘通を開始します。
空海は帰国後、嵯峨天皇の厚い庇護を受け、真言宗を広める拠点を築きました。
天長6年(829年)には大安寺の別当に任じられ、国家鎮護の根本道場として大安寺を整備することになります。
このとき空海は「大安寺を以て本寺となし、釈迦大士に仕え奉るべし」と述べ、多くの弟子を大安寺に集めて密教を学ばせました。
こうした大安寺における密教弘通の流れは、かつて道慈律師が基盤を築いた大安寺と深い関係を持つ満願寺にも波及しました。
道慈の時代には三論宗の寺院として大安寺を本山と仰いでいた満願寺も、空海帰国後は真言密教の教義を取り入れるようになります。
その結果、満願寺は律令期の学問寺院から一歩進み、密教を修める道場としての性格を強めていき、一寺を構えて真言宗寺院としての歩みを深めていったのです。
その後の満願寺の歩み
源平合戦が終結した文治元年(1185年)、鎌倉幕府は伊予国の守護職に佐木三郎盛綱を任命しました。
これによって、守護の被官であった長井斎藤氏が朝倉郷へ移住し、満願寺は守護所と深い結びつきを持つようになります。
守護や地頭といった武士勢力の後ろ盾を得たことで、満願寺は真言密教の霊場としてさらに発展し、地域一円から篤い信仰を集める寺院へと成長していきました。
鎌倉末期には、満願寺は府中高橋郷(現:今治市高橋)出身の名僧・凝然国師(ぎょうねんこくし)の指導のもと、一時的に東大寺の戒壇院に属する寺院となりました。
さらに南北朝時代に入ると、大内義弘の子孫である石丸氏や、河野氏の支流である井門氏といった伊予国の有力武士からも厚く信仰され、その加護を受けて繁栄を重ねていきました。
霊仙山城とともに歩んだ満願寺の盛衰
戦国時代に入ると、満願寺は霊仙山城の城主・中川山城守親武(なかがわ やましろのかみ ちかたけ)の祈願所として、重要な役割を担いました。
伊予国では合戦が相次ぎ、武将たちは戦場へ赴く前に仏の加護を求め、寺社に祈願を重ねていました。
満願寺もまた、南條氏・堀川氏・垣内氏・麻生氏など近隣の有力諸家から篤い信仰を受け、寺領の寄進や庇護を受けながら、その威勢を高めていきました。
しかし天正13年(1585年)、豊臣秀吉による「四国征め」が始まり、伊予国は大規模な戦火に巻き込まれます。
霊仙山城は落城し、その戦火は周辺にも及び、満願寺もまた兵火により堂宇を失い、往時の隆盛を完全に失ってしまいました。
一度は廃墟同然となった満願寺でしたが、慶長年間(1596〜1615年)に入ると、賢舜上人の尽力によって再建が進められました。
荒廃した寺を立て直すために奔走した賢舜上人の努力により、満願寺は再び地域の信仰を担う寺院として息を吹き返し、後世へと受け継がれていくこととなったのです。
金毘羅大権現の勧請
さらに、元禄5年(1692年)、地域を戦乱や疫病から守るための新たな祈願として、本堂の北方に位置する山頂に一社(金毘羅宮)を建立し、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)を勧請しました。
金毘羅大権現は、香川県琴平町の象頭山に天竺(インド)から飛翔して鎮座したとされる神です。
この神は、山岳信仰と修験道が融合して生まれ、航海の安全を守る守護神として広く信仰されています。
満願寺に祀られた金毘羅大権現もまた、地域の厄除け守護神として広く信仰され、神仏習合のお寺として再び信仰の中心地としての役割を果たすようになりました。
特に、毎年の正月、3月、5月、7月、10月、11月の10日には盛大な祭礼が行われ、競馬や植木市、農具市が立ち、近郷の善男善女が集まり、非常に活気に満ちた光景が広がっていたと伝えられています。
こうして地域の信仰を集めた金毘羅宮は、天保13年(1839年)に大改築が施され、現在に至るまでその姿を保っています。
当時施された彫刻は極めて精巧で、今では「これほどの彫り物ができる職人はもういない」と言われるほどの見事な意匠を今に伝えています。
江戸時代の栄華と藩主の信仰
江戸時代になると、満願寺はその霊験と格式の高さから、松山藩主や今治藩主をはじめとする領主たちから厚く信仰されるようになりました。
藩主自身が年に三度も参詣に訪れたと伝えられており、満願寺はまさに「藩主も足を運ぶ名刹」として、その名を広く知られる存在となっていきました。
明治期の満願寺と国家神道政策の影響
しかし、時代が明治に入ると、満願寺は再び危機的な状況に追い込まれることになります。
1868年(明治元年)3月28日、明治政府は神仏分離令を発し、それまで日本で共存していた神道と仏教を明確に分ける政策(神仏分離政策)を推し進めました。
この政策は、神道を国家の中心的な宗教(国家神道)に据えることを目的としたものでしたが、やがて仏教を排除・抑圧する過激な行動を起こす人々も現れ始めます。
その結果、全国各地で寺院や仏像が破壊される廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が引き起こされました。
満願寺もまた、この動きによって大きな圧力を受けることになったのです。
満願寺と金毘羅宮を守った「一夜の硯彫り」
「神仏を分けろ、寺を壊せ」という声が全国で広まる中、当時の住職・恭恵は檀家の方たちとともに対応に終われました。
満願寺では、金毘羅宮(神社)と満願寺(寺院)も分離を迫られましたが、もし分離してしまえば寺の経営は成り立たなかったのです。
最終的に「神仏はどちらも大切。上も下もありません。両方を存続させる道を考えましょう」 と恭恵住職は檀家の方々を説き伏せ、独自の策を打ち出します。
金毘羅宮に祀られている「金毘羅大権現像(神像)」を「不動堂」へ移し、「不動明王像(仏像)」を本尊としてその脇に据えるという大胆な計画でした。
不動明王は大日如来の化身とされ、「仏教に敵対するものを許さない」という、非常に力強い存在です。
この不動明王を堂々と祀りなおすことで、満願寺は神仏分離の波に形式上は従いながらも、仏教の信仰を守り抜こうとしたのです。
さらに、東京から役人が視察に来ることがわかると、境内に立つ「金毘羅本殿へ○○丁」と刻まれた丁石が大きな問題となりました。
このままでは、満願寺に金毘羅大権現像を遷座させたことがバレてしまう。
これに対して、恭恵住職は「金毘羅本殿へ○○丁」という表記を、「不動殿大門へ○○丁」と刻み直して対応することに決めました。
しかし、役人の到着まで時間はほとんどありません。
急ぎ地元の石工たちに頼み込み、石工たちは夜を徹して交代で作業に取り掛かりました。
急ぎながらも慎重に行われたのが、「硯彫り(すずりぼり)」という技法です。
これは、元の文字の周囲の縁を残しつつ、表面だけを削り直す高度な技法であり、繊細かつ迅速な作業が求められました。
こうして、わずか一夜で丁石の文字を書き換えるという大仕事を成し遂げたのです。
その努力のおかげで、翌朝には丁石は「不動殿」表記に改められ、役人たちの視察にも何事もなく応じることができました。
現在でも、「一夜彫り」の丁石が願寺仁王門のそばに大切に残されています。
時代とともに変わる願い
こうして無事に守り抜かれた満願寺は、地域の人々の篤い信仰を集め、戦時中には武運長久や兵士たちの無事を祈る場所として、地元の人々にとって重要な祈りの場となっていました。
その後、時代が変わるにつれて、現在では交通安全や家内安全を祈願する参拝者が多く訪れるようになりました。
地元では「金毘羅さん(こんぴらさん)」の愛称で親しまれるようになり、大晦日やお正月には特に多くの参拝者で賑わっています。
令和3年には、33年に一度の本尊・薬師如来と金毘羅大権現の御開帳が行われ、この貴重な機会を一目見ようと、さらに多くの参拝者が満願寺を訪れました。
厄除けや無病息災、家族の安寧を願って境内を訪れる人々の姿は、今も昔も変わらず、この地の信仰の灯を静かに、しかし力強く守り続けています。
金毘羅宮の尊像と院号の伝承
満願寺には、院号と金毘羅宮の尊像にまつわる、不思議な伝承が伝えられています。
慶長年間(1596〜1615年)、満願寺の近くに住んでいた鍛冶屋が、ある夜、突如として雷鳴のような轟音を耳にしました。
その音は七日七晩にわたって鳴り響き、近隣の人々も恐れをなして、誰ひとり近づくことができなかったといいます。
やがて雷鳴がやんだ後、満願寺の住職が恐る恐る現場を訪れると、そこには金色に輝く幣(ぬさ)が置かれていました。
住職はそれを目にして、「これは天から金色の神聖な幣が授けられたものに違いない」と深く感動し、何度も伏して拝みました。
そして、金幣を大切に寺へ持ち帰り、丁重にお祀りしました。
この話が広まると、近郷近在の人々は、「これこそ、うわさに聞く金毘羅大権現のご加護だ」と信じ、満願寺へ参拝に訪れる者が後を絶たなくなりました。
それから時間が過ぎたある日のこと、一人の山伏姿の行者が寺を訪れ、「こちらで金毘羅大権現をお祀りしていると聞きました。どうか、その尊像を彫らせていただきたい」と申し出ました。
住職が快くこれを承諾すると、行者は一室にこもり、「私が作法を終えるまで、決して中をのぞかないでください」と告げ、固く戸を閉ざしました。
それから八日間、行者は食事もとらず、静寂の中で彫刻に打ち込み続けました。
八日目の朝になって、行者に呼ばれて僧たちが部屋を訪れると、そこには質素ながらも力強く、威厳に満ちた金毘羅大権現の尊像が完成していたのです。
行者は、「これは一刀三札の作である(これは一刀ごとに三度拝礼しながら彫り上げた像です)」と言い残すと、どこへともなく姿を消してしまいました。
この時の尊像が、現在も金毘羅堂に祀られている「不動金毘羅吉祥天」で、その後の満願寺における金毘羅信仰の礎となりました。
また、この出来事を機に、満願寺は院号を「金寿院」と改められたとされています。
歴史的文化財と遺産
境内には、その他にも数々の歴史的文化財があり、鎌倉時代に建立された「長井斉藤別当実盛の供養塔」や、戦国時代の「朝倉郷代官・井門長政の墓」、大内氏に関連する「石丸忠兵衛の墓」などが残されています。
また、霊仙山城の中川山城守親武の客将「南條法橋入道兼保の墓」もあります。
さらに、満願寺は信仰の場としても広く親しまれています。
奥には「大師堂」があり、天保3年(1832年)に建立された「弘法大師像」が安置されています。
この場所は、参拝者にとって重要な場所であり、満願寺の奥の院に位置しています。
絵馬堂の奥にある「満願寺古墳」は、この地が古代から重要な信仰の場所であったことを物語っています。
本堂には平安時代に作られた「薬師如来立像」が安置され、十二神将や日光・月光菩薩立像とともに祀られています。
護摩堂には江戸時代に作られた「不動明王坐像」が祀られており、これらの仏像が満願寺の歴史的価値を高め、信仰の象徴として尊ばれています。
さらに、鐘楼堂や仁王門といった建造物も満願寺の壮麗な雰囲気を引き立てており、訪れる人々を魅了しています。
天然記念物『マンガンジザクラ』
満願寺は、四季折々の美しい自然に恵まれ、特に春には見事な桜が咲き誇る「桜の名所」としても知られています。
なかでも「マンガンジザクラ」と名付けられた通称「しぐれ桜」は、今治市の天然記念物に指定されている、樹齢200年以上の貴重な桜です。
幹周は約111センチ、高さは7メートルにも達し、毎年春には淡いピンクの可憐な花を咲かせます。その優美な姿は、訪れる人々の心を静かに癒し、魅了してやみません。
もともとは、石垣の上に根を張る「親木」と、石垣の下にあった「若木」の2本が並んで咲いていましたが、残念ながら若木は枯れてしまい、現在では親木1本だけがその姿をとどめています。
それでもなお、風雪に耐えながら咲き続けるその姿は、時の流れを超えて、満願寺の静かな風景に凛とした風情を添えています。
「金毘羅騒動」地域を守るための暴力団追放運動
満願寺には、近世の今治地域で実際に起きた「暴力団排除運動」の先駆けともいえる闘争の記録が残されています。それが、文久3年(1863年)に起こった「金毘羅騒動」です。
この事件は、今治藩と朝倉下村の若者たちとの間で勃発した大規模な衝突で、満願寺の境内を舞台に、地域の秩序を揺るがす一大騒乱へと発展しました。
当時、朝倉下村は幕府の直轄領(天領)であり、年に数回、旧正月・三月・十月の九日・十日には、満願寺の縁日にあわせて境内に賭博場が立ち並びました。
その数は50を超え、多くの見物客や商人でにぎわいを見せていました。
これらの「丁場(ちょうば)」と呼ばれる賭場は、村の若者たちが秩序を守りながら運営しており、村社会の一つの経済的・文化的機能を担っていたのです。
「虎ヶ獄の横暴」血の騒動とその結末
事件のきっかけは、今治藩の相撲取り「虎ケ獄」による不当な金銭徴収でした。
虎ケ獄は、筋骨隆々の体躯と地位を背景に、賭場の若者たちに力づくで場所代を要求し始めたのです。
現代で言うならば、半グレや暴力団的存在に近く、地域の秩序を無視した行為に、朝倉の若者たちは激しく反発。
口論から衝突へと発展し、やがて刀や槍も飛び交う流血沙汰となりました。
この騒動で1名が即死、3名が重傷を負うという惨事となり、事態は藩の統治に関わる重大問題として扱われるようになりました。
虎ケ獄はそのまま今治へ逃亡し、最終的に大阪で捕えられますが、24歳で獄中死を遂げます。
一方、朝倉側の若者9名も捕縛され、松山藩の北屋敷に投獄されて3年間の獄中生活を送ることになりました。
この騒動は後に「金毘羅騒動」として知られるようにり、「暴力団追放運動」として今治の歴史に残りました。