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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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幡勝寺(今治市・今治中央地区)

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古くから城下町として栄えた今治市。

その中心部に広がる「寺町」は、江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎によって整備された町並みのひとつです。

武家屋敷と町人町を取り巻くように配された寺院群は、町の防御と信仰を担う要所として重要な役割を果たしてきました。

今もなお往時の面影を残すこの静かな一角に、ひっそりと、しかし力強くその歴史を伝える寺があります。

それが、京都・東本願寺を本山とする真宗大谷派(しんしゅうおおたには)に属する寺院「幡勝寺(ばんしょうじ)」です。

「上宮山太子堂」聖徳太子ゆかりの寺院

幡勝寺は、もともと現在の場所ではなく、かつて日吉村(現在の今治市日吉町周辺)に建てられていた聖徳太子を信仰する、「上宮山太子堂」と呼ばれる寺院であったとされています。

この「上宮山太子堂」という名前は、聖徳太子(574年〜622年)の代表的な別称「上宮太子(じょうぐうたいし)」から付けられていると考えられています。

「厩戸皇子」としての聖徳太子

聖徳太子は、第31代用明天皇と、その后で蘇我氏の出身である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれました。

宮中の馬小屋の前で誕生したと伝えられたことから、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と名付けられました。

その後、太子は推古天皇の摂政として政治を主導し、十七条憲法の制定や冠位十二階の導入といった制度改革を行いました。

また、当時伝来したばかりの仏教を深く尊び、法隆寺の建立などを通じて仏教の普及と文化振興にも大きく貢献しました。

さらに、隋との国交を推進し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な国書を送った逸話に見られるように、外交面でも日本の独立性と主体性を打ち出した先駆的存在として知られています。

「聖徳太子」という呼称の由来

これらの功績から、後世において「聖徳(=聖人のように高い徳をそなえた者)」という諡号(しごう)が贈られ、「聖徳太子(しょうとくたいし)」の名で広く知られるようになりました。

「太子」という称も、太子が叔母にあたる推古天皇の皇太子に立てられたという伝承に基づいています。

ただし、「聖徳太子」という名が一般に定着するのは、奈良・平安時代を経て太子が仏教文化の守護者・理想の人格者として神格化され、各地で太子信仰が盛んになってからのことです。

実際、古代の史料や記録、特に江戸時代以前の文献では、「聖徳太子」という呼称はあまり使われておらず、「上宮太子」や「上宮王(かみつみやのおおきみ)」といった名が一般的でした。

「上宮」とは、太子が住んだとされる斑鳩の宮(いかるがのみや)=上宮に由来するものであり、当時の人々にとってはその住居や地位を反映した自然な呼び名だったのです。

太子信仰と「上宮太子堂」の創建

太子信仰は、奈良時代に始まり、平安時代には宮廷や貴族層の間で尊崇を集めました。特に仏教の興隆とともに、聖徳太子は「和をもって貴しとなす」の理念を体現した理想の人物として敬われ、仏教護持の象徴とされました。

鎌倉時代に入ると、武士階級や民衆の間にも太子信仰が広がりを見せます。

これは、社会が戦乱や不安定な情勢に直面する中で、道徳的理想や仏法の守護者としての太子像が、心の支えや規範とされたためと考えられます。

とくに太子が説いた「十七条憲法」の理念や、仏教の導入・保護の功績が再評価されました。

また、鎌倉新仏教の隆盛も太子信仰の背景にありました。

浄土宗・真言宗・日蓮宗など、各宗派がそれぞれの文脈で太子を尊崇し、寺院建立や太子講の形成を通じてその信仰は各地に広まりました。

「太子堂」が建立

特に鎌倉〜室町初期(13〜15世紀)には、各地に太子堂が建立され、聖徳太子への信仰は、仏教興隆の象徴として、また学問・建築・職人・医術など多くの分野の祖として、広く人々の心に根付いていきました。

そのような中にあって「上宮太子堂」は、これらの太子堂の中でも特に古い由緒を持ち、聖徳太子の勅願によって創建されたと伝えられいます。

また、幡勝寺に伝わる仏像(佛含利)は、太子の伝来による尊像とされ、寺の信仰の中心をなしてきました。

伊予に残る聖徳太子の伝承

もっとも、これらの伝承がどこまで史実にもとづくかは定かではなく、あくまで後世における太子信仰の展開や地域的な伝承の中で形作られていった可能性も否定できません。

しかし、伊予国(現・愛媛県)には、聖徳太子がこの地を訪れたとする伝承が数多く残されているのもまた事実です。

道後温泉に入浴

その中でも特に有名なのが、西暦596年(推古天皇4年)10月、太子が道後温泉に入浴されたという逸話です。

太子はその際、道後の明媚な風景と良質な湯に深く感銘を受け、その思いを文章に表し、現在の道後公園付近(湯の岡)に石碑を建てたとも伝えられています。

高龍寺の創建伝説

さらに帰路において、瀬戸内海を渡る途中、能島沖で時化(しけ)に遭い、大島の千石港(現・津倉港)に避難した際の伝承も残されています。

その時、突如として太子の前に千手観音が大亀の背に乗って現れたとされ、その導きによって危機を免れることができたといいます。

この奇跡の出来事に深く感謝した太子は、伊予国守・小千勝海に命じて、高麗僧・恵慈を開山に迎え、翌年「大亀山慈眼堂舟守院龍慶寺(現・高龍寺)」を建立させたと伝えられています。

今治に数多く残る伝承

また、今治市には他にも聖徳太子にまつわる伝承が数多く残されています。

  • 無量寺(朝倉地区)
     本尊・阿弥陀如来像は、聖徳太子が「一刀三礼(いっとうさんらい)」の作法に則り、祈りを込めて彫刻した御作であると伝えられています。
  • 仙遊寺(玉川地区)
     聖徳太子が伊予を訪れた際にこの寺と縁を結んだと伝えられ、境内には聖徳太子堂が建立されています。堂内には、法隆寺東院・夢殿と同じ形式の太子像が安置され、古来より信仰を集めています。
  • 常高寺(今治市中央地区)
     寺町にある常高寺の本尊・阿弥陀如来像は、聖徳太子の御作と伝えられ、太子信仰に基づく霊像として多くの参詣者に敬われています。
  • 大須伎神社(日高地区)
     推古天皇四年(596年)、聖徳太子が自ら筆をとって「神名額(しんめいがく)」を奉納したという記録が残されており、古代の神仏習合の萌芽を示す伝承として知られます。

このような伝承と太子信仰の広がりから考えると、幡勝寺も聖徳太子ゆかりの古刹として、太子を篤く信仰する寺院として長く人々の信仰を集めてきたことは十分に考えられます。

上宮太子堂の焼失と歴史の空白

上宮太子堂(現・幡勝寺)は、現在の真宗大谷派に改宗される以前、天台宗と真言宗の教義を併せて学び修する「天台・真言兼修」の寺院として栄えていたと伝えられています。

しかし、延元3年・暦応元年(1338年)、兵火に巻き込まれ、草庵を残して堂宇の大半が焼失。
上宮太子堂は存続の危機に瀕しました。

この兵火については、今に伝わる明確な史料がなく、その原因や経緯には不明な点が多く残されています。

南北朝時代から伝わる尊真親王の伝承

ただ一つ、はっきりしているのは、この頃がまさに全国各地で後醍醐天皇を中心とする南朝と、足利尊氏を擁する北朝との間で激しい戦乱が繰り広げられていた、南北朝時代の初期にあたるということです。

伊予国でも、在地の武士たちは南朝方と北朝方に分かれて対立し、各地で局地的な戦闘や争乱が頻発していたと考えられます。

そのような中、延元3年(1338年)という年には、尊真親王にまつわる伝承が残されています。

1338年3月には、南朝の後醍醐天皇の皇子・尊真親王が、現在の山之内の明堂(大西地区)において亡くなったとされ、現在の藤山健康文化公園(大西地区)に埋葬され、その御霊は大井八幡大神社(大西地区)に合祀されたと伝えられています。

尊真親王の死因については不明ながらも、時期や地域が幡勝寺の焼失と重なっていることから、当時この地域で南北朝の争いに関わる何らかの戦いや騒乱があった可能性が考えられます。

そして、それは歴史の中で消えていったのか、それとも意図的に記録から消されたのか…。

どこまでいっても推測の域を出ませんが、その謎の中にこそ、歴史をひもとく楽しみがあるのかもしれません。

浄土真宗の寺院「幡勝寺」

その後、時代を経て慶長8年(1603年)、釋浄圓(しゃく・じょうえん)という法師の尽力により、寺は浄土真宗に改宗されました。

これにより幡勝寺は、京都・東本願寺を本山とする「真宗大谷派」に属することとなり、現在に至る宗派の礎が築かれたのです。

さらに、慶長年間後期(1596年〜1615年)には、播州(現・兵庫県)から武田源八郎幡勝入道浄円が今治に移住し、寺院は米屋町へと移設されました。

移設後の寺院は「上宮堂浄円坊道場」と称され、浄土真宗の布教拠点として多くの信仰を集めていきました。

そして、寛永12年(1635年)には正式に「幡勝寺」と改称され、今日に至る寺名が定着しました。

二度の火災と再興の歩み

しかしその後、明暦年間(1655〜1658年)および万治年間(1658〜1661年)に、二度にわたって大火に見舞われ、堂宇はことごとく焼失してしまいました。

それでも、寺を支える人々の手によって再興への歩みは止むことなく続けられ、寛文9年(1669年)には、現在の寺町へと移築されました。

移設に関しては諸説あり、初代今治藩主・松平定房より寺地と本堂の寄進を受けて寛文初年(1661年頃)に移設されたとされるものもあります。

いずれにせよ、移設された幡勝寺は今治の寺町の一角において、静かに、しかし確かに、地域の信仰を支え続けていきました。

ところが、昭和に入り、幡勝寺はその長い歴史の中でも最大の危機に直面することになります。

それが、太平洋戦争末期に起きた「今治空襲」です。

「今治空襲」幡勝寺の壊滅的被害

昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期の今治市は、3度にわたる空襲に見舞われました。

なかでも、8月5日から6日にかけての大規模空襲では、B-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、
市街地の大半が焼失するという、壊滅的な被害を受けます。

この空襲により、全市戸数の約75%が焼失し、多くの命と建物が失われました。

寺町でも周囲の寺院が次々と燃え上がる中、幡勝寺も例外ではなく、山門を残して全てが焼け落ちてしまいました。

再建への道のり

昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合国に降伏し、長く続いた戦争に終止符が打たれました。

日本が復興へと進むの中で、空襲によって焼け野原になってしまった今治でも 多くの人々が失意のなかから復興への力強い歩みを進めていきました。

甚大な被害を受けた幡勝寺も例外ではなく、終戦からわずか数年のうちに、檀信徒や地域の人々の尽力によって復興の歩みが始まります。

資材も人手も不足する困難な状況の中、少しずつ境内の整備が進められ、ついに昭和27年(1952年)、本堂と庫裏が再建されました。

こうして、数々の困難を乗り越えてきた幡勝寺は、今も今治の地にその姿をとどめ、人々の心のよりどころとして静かに息づいています。

現代を生きる幡勝寺のかたち

現在の幡勝寺は、伝統ある寺院としての信仰の場であると同時に、地域と人とを結ぶ“つながりの拠点”としての役割も担っています。

定期的に開かれるヨガ教室は、単なる健康づくりにとどまらず、日常の喧騒から離れ、心と体を整える大切な時間として、多くの方に親しまれています。

また、音楽イベントや法話会など、世代を問わず楽しめる行事も随時開催されており、仏教の教えをより身近に感じられる場として、地域文化の育成にも大きく貢献しています。

幡勝寺は、過去の歴史を大切にしながらも、今を生きる人々に寄り添い、未来へとつながるあたたかな場所として、その歩みを続けているのです。

寺院名

幡勝寺 (まんしょうじ)

所在地

愛媛県治市米屋町4丁目3−2

電話

0898-22-6408

山号

上宮山

宗派

真宗大谷派(東本願寺)

本尊

阿弥陀如来

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