「彌陀八幡宮(みだはちまんぐう・弥陀八幡宮)」は、今治市日高地区に鎮座する、この地に代々住んでいる豊島家の一族の氏神様です。
昭和56年(1981年)9月に建立された比較的新しい社ではありますが、その背景には、戦国の世にまでさかのぼる一族の歴史と、深く根づいた信仰の系譜が静かに息づいています。
名称「彌陀(みだ)」
彌陀八幡宮の「彌陀(みだ)」という名称は、「弥陀(みだ)」の旧字にあたり、「阿弥陀如来(あみだにょらい)」を表していると考えられています。
阿弥陀如来は、仏教において極楽浄土の主であり、多くの人々を救う慈悲深い仏とされています。
極楽浄土は死後の世界で最も幸福な場所とされ、仏教徒にとって阿弥陀如来はその地へ導いてくれる存在であることから、安心や希望の象徴となっています。
名称「八幡宮(はちまんぐう)」
一方、「八幡宮」は、八幡神を祀る神社の名称であり、八幡神は日本全国で古くから信仰を集めてきた神様です。
八幡神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」という名前でも知られ、歴史上では第15代天皇・応神天皇と同一視されています。
応神天皇は古代の英雄として知られ、その神格化された八幡神は戦いに強く、勝利をもたらす神として武士や一般の人々から篤く信仰されてきました。
八幡神の信仰は平安時代には大きく広がり、武士の守護神として多くの武家に崇められました。
戦国時代には、勝利を願う武士やその家族が祈りを捧げ、八幡宮を氏神(うじがみ)として祀るようになりました。
こうした背景から、八幡神は戦いや守護を司る神としてだけでなく、地域や家庭の平和を守る存在としても信じられるようになり、神社や家庭の中で欠かせない神となっていきました。
もともと神道の神として崇拝されてきた八幡神は、日本に仏教が伝来して以降、仏教の思想と神道が結びつく神仏習合の時代の中で、特に重要視されるようになりました。
天応元年(781年)、朝廷は八幡神が鎮座する宇佐八幡宮に対し、国家の平安を守り、仏教を支える神としての役割を正式に認め、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の神号を贈りました。
そしてこの神号授与を機に、八幡神は全国の寺院の鎮守神として祀られるようになり、全国各地に八幡宮が勧請されました。
本尊「阿弥陀如来」と神仏習合
この流れの中で、神道と仏教が融合する神仏習合が進み、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という思想が生まれました。
本地垂迹は、神道の神々が本来は仏教の仏や菩薩の姿をしており、仮の姿として現世に神として現れているという考え方です。
この思想によって、八幡神の本地仏(本来の仏)が阿弥陀如来であるとされ、八幡神は阿弥陀如来の仏教的な慈悲と救済の力も併せ持つ存在として信仰されるようになりました。
ここから考えると、八幡神(阿弥陀如来)、「弥陀八幡菩薩」を祀る神仏習合の社「彌陀八幡宮」であると考えられます。
実際に豊島家の方に伺ったところ、彌陀八幡宮も神仏習合の形式で祀られており、一族の氏神として信仰されているとのことです。
豊島家と彌陀八幡宮の由緒
では、その背景を探るべく、豊島家が歩んできた歴史をひも解きながら、彌陀八幡宮という社がどのようにして生まれ、どのような意味を持つのかをたどっていきましょう。
1585年(天正13年)、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉は、四国をほぼ勢力下に置いていた土佐の戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)を相手に、大規模な戦を始めました。
秀吉は、弟の豊臣秀長を総大将とし、約10万人にもおよぶ大軍を四国へ派遣。
毛利氏、小早川氏、宇喜多氏、蜂須賀氏など、全国の有力大名を動員し、四国を四方から包囲する形で攻撃を仕掛けました。
この「四国征め」において、目覚ましい戦功を挙げたのが、秀吉の従兄弟にあたる「福島正則(ふくしま まさのり)」です。
若くして秀吉に仕え、数々の戦場で功を立ててきた正則は、この戦いでも各地で活躍し、その実力を示しました。
その功績が認められ、正則は伊予国の五郡(越智・桑村・周敷・新居・宇摩)、あわせて11万3,200石を与えられ、今治(いまばり)を本拠とする大名となりました。
福島正則のもとには、多くの有力な武将たちが仕えていました。
その一人が、東近江(現在の滋賀県)出身の佐々木久左ヱ門(善之亟高重公)です。
福島正則の家臣「佐々木久左ヱ門」
佐々木久左ヱ門は福島正則に家臣として、大崎上島の真西、芸州・豊島(弓削島の南東約5km)にある豊ヶ島城の城主となりました。
戦では、「彌陀八幡大菩薩(あみだはちまんだいぼさつ)」の御旗を掲げて水軍を率い、因島を攻め落とすなど、瀬戸内海でその武勇をとどろかせ、福島正則からは500石の知行を与えられたと伝えられています。
河野氏の滅亡と時代の転換
この頃、松山の湯築城(ゆづきじょう)を居城に伊予国を治めていた河野氏は、激動の時代の波に飲み込まれそうになっていました。
中世以来、瀬戸内海の海上交通と広大な領地を統治してきた名門でしたが、家中の内紛や周辺大名との抗争が続き、勢力の維持が困難になっていたのです。
そこへ追い打ちをかけるように、天正十二年(1584年)頃、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が勢力を拡大し、伊予にも侵攻を開始しました。
河野氏は、姻戚関係にあった毛利氏の支援を受けてこれに対抗しますが、情勢は次第に不利になっていきます。
そして天正十三年(1585年)、ついに豊臣秀吉による四国征めが始まりました。
築城は小早川隆景の軍勢に包囲され、河野氏は籠城戦に踏み切りますが、最終的には隆景の説得に従い、湯築城を明け渡して降伏を余儀なくされました。
当主・河野通直は命こそ助けられたものの、所領は没収され、鎌倉以来およそ四百年にわたって伊予を治めてきた名門・河野氏は、ここに滅亡の時を迎えることとなります。
湯築城の終焉…福島正則が国分山城へ
その後の湯築城は、小早川隆景の居城となりましたが、 天正十五年(1587年)隆景は筑前へと転封。
それと入れ替わるかたちで 福島正則が伊予へ入封し、湯築城に入って新たな城主となっていました。
しかし正則は、より戦略的な拠点を求め、湯築城入城からわずか一年後の翌・天正十六年(1588年)に、国分山城(国府城・唐子山城)へと居城を移してしまいました。
その結果、かつて河野氏の支配を象徴していた湯築城は、役目を終えて廃城となりました。
激動の時代に生まれた「豊島家の祖」
このような激動の時代のさなか、伊予・国分の地に、佐々木久左ヱ門の三男が誕生します。
この人物こそが、現在の豊島家の直接の祖先であると伝えられています。
清洲城の城主・福島正則
文禄4年(1595年)、福島正則は豊臣秀吉の命により、伊予国を離れ、尾張国・清洲城(現在の愛知県清須市)に転封されました。
これは、秀吉の重臣として数々の武功を挙げてきた正則にとって、さらなる出世を意味するものであり、尾張一国を治めるという重責を担うこととなったのです。
関ヶ原の戦い
その後、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
この戦いは、豊臣政権内部の権力闘争が表面化したものであり、中心となったのは家康と石田三成でした。
もともと徳川家康も豊臣秀吉によって五大老の一人に任じられており、名目上は豊臣政権の一翼を担う立場にありました。
しかし、秀吉没後、豊臣家内部の権威が揺らぐなかで家康の権勢は増し、石田三成を中心とする豊臣恩顧の諸将との間に緊張が高まっていきました。
この対立がついに決定的な形で噴き出したのが、関ヶ原の戦いです。
関ヶ原の決断と広島城
長年、豊臣政権の重臣として仕えてきた福島正則でしたが、この戦いにおいては徳川家康率いる東軍に与する決断を下しました。
これは、家康に将来性を見いだしたこと、また三成個人に対する不信感や対立意識が強かったことが背景にあると考えられています。
この戦いで正則は東軍の先鋒を務め、西軍の主力部隊と激戦を繰り広げ、勝利に大きく貢献した武将の一人となります。
その功績が認められ、戦後には、かつて毛利氏が統治していた安芸国・広島を与えられ、広島城の新たな城主として、広島藩の初代藩主に任じられました。
その所領は、四十九万八千石にのぼり、外様大名の中でも屈指の規模を誇る大大名となったのです。
豊島家の始まり
一方で、主君の福島正則が出世を遂げ、新たな領地へと移っていくなか、家臣の佐々木久左ヱ門は病を患っていたため、これに同行することは叶わず、この地にとどまることとなりました。そ
して、かつて自身が城主として統治していた「豊島(とよしま)」の名を新たに姓として名乗り、この地で新たな人生を歩み始めました。
これが、今治における豊島家の始まりとされています
ご先祖様を偲んで…。
時は流れ、昭和五十七年(1982年)九月の吉日。
豊島家のご本家の屋敷跡に、一社の小さな社が建立されました。
そしてその社は……かつて戦のさなかにご先祖様が掲げた御旗「彌陀八幡大菩薩」にちなんで、「彌陀八幡宮(みだはちまんぐう)」と名付けられたと伝えられています。
私有地のため立ち入り制限
彌陀八幡宮は、豊島家の方々が一族の氏神として建立した社であり、豊島家の方の私有地に作られているため、立ち入りには土地所有者の方の許可が必要です。
境内には一族の墓所も設けられており、社の維持は小泉・別名に暮らす豊島一族の浄財によって奉斎されています
また、年に一度、「お当(おとう)」と呼ばれる祭祀も丁寧に執り行われており、この社は、豊島家にとって信仰と家族の歴史を大切に守り伝える、かけがえのない場所となっています。
訪問を希望される場合は、必ず土地の所有者の方から許可を得てください。無断での立ち入りは私有地の規則に反する行為ですので、慎重な対応をお願いいたします。
また、参拝や見学の際は、神聖な場所であることを尊重し、静粛に過ごすよう心がけてください