「美保神社・拜志(みほじんじゃ)」は、天正18年(1590年)以前に創建されたと考えられる、拝志地域に伝わる由緒ある神社です。
正確な創建年は明らかではありませんが、戦国時代の混乱がようやく落ち着きを見せ始めた頃、地域の平安と五穀豊穣を祈願して建立されたと伝えられています。
伊予国中三十二社と総氏神
美保神社は、かつて伊予国中三十二社の一社に数えられていた格式ある神社です。
伊予国(現在の愛媛県)は古代から瀬戸内海交通や農耕に恵まれた重要な地域であり、三十二社と総称される神社群は、各郡を代表し、地域社会を支える精神的支柱として位置づけられていました。
美保神社もその一つとして、拝志郷(はいしごう)全体の総氏神(そううじがみ)として篤く崇敬されてきました。
拝志郷の地理と歴史的背景
拝志郷には、古代日本の土地制度である「条里制(じょうりせい)」の遺構が、現在も明瞭な形で残されています。
条里制とは、7世紀後半から奈良時代にかけて導入された制度で、土地を東西・南北に碁盤の目のように整然と区画し、それぞれに番号を付して管理したものです。
この制度は、農地の分配・課税・戸籍管理などを効率的に行うために設けられ、中央集権体制の下で地方統治を確立するうえで重要な役割を果たしました。
こうした土地制度は、平坦で広い平野を有する地域において特に有効に機能しました。
拝志郷のように地勢が穏やかで肥沃な土地は、条里制の実施に最適であり、条理に沿った田畑の区画が長期にわたり農業経営の基盤として維持されたと考えられます。
現在も、この地域の地割や水路、道筋などに当時の条里制の影響が色濃く残されており、現代の地図を通して古代の区画の痕跡を見ることができます。
伊予国府の所在と政治的意義
さらに拝志郷の一角には、古代伊予国(いよのくに)の政治・行政の中心地であった「伊予国府(いよこくふ)」の跡地が含まれています。
国府とは、奈良時代以降に確立された律令体制のもとで、中央政府が各地方を統治するために設置した地方政庁で、国司が政務・徴税・裁判・軍事などを執り行う、地方統治の中枢拠点でした。
伊予の国府が拝志郷に含まれていたことから、この地が単なる農業地帯にとどまらず、伊予国全体を統括する政治・経済の拠点であったことがわかります。
江戸時代の拝志郷の歴史
条里制によって整備された計画的な農地、豊かな水資源、そして瀬戸内海を望む海陸交通の結節点という地理的・経済的条件に恵まれた拝志郷(はいしごう)は、古代から中世にかけて、地方統治の要衝として発展を遂げてきました。
そして、江戸時代初期の元和5年(1619年)、この地には新たな転機が訪れます。
拝志を統治した名君。堀部主膳
この頃、拝志郷を治めていたのが堀部主膳(ほりべ しゅぜん)でした。
堀部主膳は、この地にあった拝志城を拠点に地域統治にあたり、農地の整備や流通の確保、地場産業の振興といった多くの施策を推進しました。
その結果、拝志郷の経済は安定し、主膳は領民からも篤い信頼を集める名君として知られるようになりました。
しかし、元和元年(1615年)に江戸幕府が発布した「一国一城令」により、時代の潮流は大きく変わります。この法令により、各藩は一つの城しか持つことが許されなくなり、複数の城はすべて廃城とされました。
その影響を受けて拝志城も廃城となり、城の防衛・行政機能は解体。堀部主膳もまた、長年の拠点を失い、その統治の幕を閉じることとなったのです。
総氏神から地域の守り神へ
さらに元和年間には、拝志郷において地域の分割と再編成という大規模な施策が実施されました。
この再編は、江戸幕府による支配体制の強化を背景に進められた領地整備の一環であり、地域ごとの行政・信仰の単位を明確化するための重要な施策でもありました。
こうした再編のなかで、かつては拝志郷全体の総氏神として広く崇敬を集めていた美保神社も、大きな転機を迎えることとなりました。
地域ごとに新たな氏神が祀られる体制が整えられていく中で、美保神社の祭祀圏は徐々に縮小し、その信仰の役割は、現在の限られた区域を守護する神社として位置づけられるようになったのです。
拝志の歴史を今に残す2つの神社
神社の規模が小さくなったとはいえ、地域住民にとってこの地の守護神としての役割は変わらず、信仰は脈々と受け継がれていきました。
そして現在も、美保神社は拝志の歴史と人々の心に繋ぎ続けています。
さらに美保神社と道を挟んで正面には、拝志城の最後の城主であった堀部主膳を祀る「堀部神社」が建立されています。
この神社は、堀部主膳の功績と善政を称えるために建てられたもので、住民たちの感謝と敬意の象徴として今日まで大切に守られています。
美保神社を訪れる際には、ぜひ堀部神社にも立ち寄り、拝志の歴史と、かつてこの地を支えた名君の歩みに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。