今治市町谷の、田畑と民家が入り交じるのどかな風景の中に鎮座する「美保神社・町谷(みほじんじゃ)」。
小さな境内ながらも、ここには地域の人々の願いや祈りが、世代を超えて静かに積み重ねられてきました。
小さなお社から始まった神社
美保神社のはじまりは、町谷の集落内に建てられた小さなお社(やしろ)にさかのぼります。
正確な創建年代は伝わっていませんが、このお社は地域の道沿いに静かに祀られ、暮らしの安全や作物の実りを願う人々にとって、身近な祈りの場となっていました。
美保神社の誕生
時代が進み、集落が次第に大きくなっていく中で、このお社は地域においてより重要な存在となっていきました。
農作業の合間に手を合わせ、日々の無事や恵みを願う人々の思いが重ねられることで、やがて「神社」としての姿が求められるようになっていきます。
そして、大正15年(1926年)、地域の有志たちの尽力によって、小さなお社は「美保神社・町谷」として正式に整備・再建され、現在の姿へと受け継がれました。
素朴な祈りから生まれたこの神社は、今も町谷の人々の心の拠り所として、大切に守られ続けています。
主祭神・事代主神
美保神社・町谷では、事代主神(ことしろぬしのかみ)を主祭神としてお祀りしています。
事代主神は、日本神話に登場する大国主神(おおくにぬしのかみ)の御子神であり、海や漁業、農業、商業を守護する神として、古くから広く信仰されてきました。
その神名「事代主」には、「言葉によって事を治める主」という意味が込められており、争いを避け、調停や導きをもって物事を円満に収める神格としても知られています。
事代主神と国譲り神話
事代主神は「国譲り神話」において、非常に重要な役割を果たしています。
ある日、天上の国・高天原(たかまのはら)を統治していた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、地上の豊葦原瑞穂の国(とよあしはらみずほのくに)を、自らの子孫に治めさせたいと考えました。
国譲り交渉のはじまり
しかし、この地上の国は、すでに大国主神(おおくにぬし)が統治していたため、簡単には譲ってもらうことができません。
そこで天照大御神は、地上の支配権を譲ってもらうために、神々の中から使者を選び、順に大国主神のもとへ遣わすことにしました。
最初に選ばれたのは、天菩比神(あめのほひのみこと)。しかし、地上に降りた天菩比神は、大国主神に心を寄せてしまい、使命を果たすことなく戻ってきませんでした。
次に、天若日子命(あめのわかひこのみこと)が遣わされましたが、地上の暮らしに馴染んでしまい、国譲りの話をすることなく八年もの間留まり続け、ついには天からの使いであることを忘れてしまいました。
建御雷神と国譲りの交渉
こうして使者たちの役目が果たされないまま時が過ぎ、ついに天照大御神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)という強く勇敢な神を派遣しました。
それまでの使者たちは、いずれも地上の魅力にとらわれ、使命を果たせなかったため、天照大御神は、言葉だけでなく威厳と武威を備えた神でなければこの難しい交渉は成しえないと考えたのです。
建御雷神は、出雲の稲佐の浜に降り立つと、大国主神に向かってはっきりと告げます。
「この国を、天照大御神の御子にお譲りいただきたい」
それを聞いた大国主神はすぐには答えず、「この国のことは、自分ひとりでは決められない」として、息子である事代主神(ことしろぬしのかみ)の意見を聞いてほしいと答えました。
国を託した釣り人の神
そのころ、事代主神は、美保崎(いまの島根県松江市美保関町)で釣りをしていました。建御雷神の使者が訪れ、天照大御神の意志を伝えると、事代主神は迷いなくこう答えました。
「恐れ多いことです。この国は天照大御神の御子に奉献なさってください」
そう言って天逆手(あめのむかえで、拍手)を打ち、船を青柴垣(あおしばがき)に変えてその中に姿を隠したとされています。
こうして、事代主神の賢明な判断により、国譲りは大きな争いもなく、円滑に進められることとなりました。
国譲りの対決
しかし、この決定に異を唱えた神がいました。
それが、事代主神の弟である建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
建御名方神は、父が治めてきた国を見知らぬ神々に譲ることに強く反発し、「自分の力でこの国を守る」として、建御雷神に力比べを挑みました。
しかし、相手は天の神々が選んだ戦の神・建御雷神。ふたりは激しくぶつかり合いますが、その力の差は歴然としており、建御名方神は瞬く間に敗れ去ります。
逃げるように信濃の地(現在の長野県)へと落ち延びた建御名方神は、最終的に降伏し、「もう二度とこの地に戻らぬ」と誓ったと伝えられています。
出雲大社の創建と大国主神の願い
大国主神はこれに静かに応じ、ただひとつの願いとして、「自らのために、天つ神にも劣らぬ立派な御殿をこの地に建ててほしい」と申し出ました。
この願いは受け入れられ、やがて出雲の地には壮麗な社殿が築かれることとなります。
これが、現在の出雲大社の起源であると伝えられています。
事代主神の役割と意義
この国譲りの神話は、日本の国の成立を象徴するものであり、天照大御神の子孫による統治が始まる重要な節目となります。
事代主神の役割は、争いを避けて知恵と判断によって問題を解決することを象徴しています。
この判断は、日本の神話における「平和的な力の移行」という理想を体現しており、後の天孫降臨や神武東征へとつながっていきます。
「美保神社・町谷」事代主神の信仰と広がり
事代主神は、国譲りの神話の中で釣りをしていた神として描かれていることから、古くより釣りの神として知られるようになりました。
この神格はやがて、海や漁業に関わる豊漁の神としての信仰へと発展し、漁業を営む人々にとって欠かせない守り神として崇められてきました。
商売繁盛・農業神への展開
さらに、漁業における「恵みを得る」力が商いの世界に重ねられ、商売繁盛の神としても広く信仰されるようになります。
この過程で、事代主神は七福神の恵比寿(えびす)様と同一視され、笑顔と福をもたらす神として広く庶民に親しまれるようになりました。
信仰の広がりはさらに農業の分野にもおよび、五穀豊穣や収穫祈願の神としても各地で祀られるようになります。
こうして事代主神は、豊漁・航海安全・商売繁盛を願う神様として、日本各地で生活に密着した信仰を集める存在へと変化していきました。
島根県の美保神社
事代主神が釣りをしていたとされる島根県松江市美保関町には、全国に約3,000社ある恵比寿神社(事代主神を祀る神社)の総本社「美保神社」があります。
この美保神社では、毎年「青柴垣神事(あおしばがきしんじ)」が行われます。
これは国譲り神話にちなんだ、海と漁にまつわる伝統行事で、豊漁や航海安全を祈願する重要な祭礼とされています。
こうした神事を通じて、事代主神への信仰は現代においてもなお地域社会に根づいており、海の民の営みを支える象徴的な存在となっています。
なぜ海の神が?美保神社の不思議
このように、事代主神は商業繁栄・五穀豊穣・人々の和合など、さまざまなご神徳を持つ神として知られていますが、もともとは海や漁業を守護する神として広く信仰されてきました。
では、なぜ現在のような内陸地にある「美保神社」で、海の神が祀られているのでしょうか?
その理由の一つとして、この地域一帯がかつて海辺に近い地形であった可能性が挙げられます。
現在の町谷周辺は、田畑と集落が広がる内陸地ですが、古代には瀬戸内海の遠浅の海や入り江が広がっていたと推測されており、潮の干満に影響を受ける潟湖や湿地帯のような地形だったと考えられています。
それを大きく変えたのが、684年の白鳳地震(南海トラフ地震)です。
この巨大地震により地殻変動が発生し、今治地域の沿岸部、とくに府中平野では明確な隆起現象が起こり、遠浅だった海が陸地化していったと伝えられています。
町谷周辺もまた、この隆起の影響を受け、かつて海辺であった土地が、徐々に漁撈の場から農耕の場へと姿を変えていった可能性があります。
つまり、現在は内陸に見えるこの場所も、かつては海に近く、漁業を営む人々の暮らしがあった土地だったのかもしれません。
そしてそのような歴史の中で、海の神である事代主神への信仰がこの地に根付き、時代の変遷を経ても失われることなく受け継がれてきたと考えられるのです。