神仏探訪記 神仏探訪記

  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
    • 無量寺の幻のシダレザクラ──優雅に咲き誇った130年の絆
  • 探訪記データーベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • 写真の二次利用について
    • 参考文献・参考論・資料
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ
神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

今治城の歴史

FEATURE

02

【今治城の歴史②】築城四百年の記憶が刻まれた巨石「勘兵衛石」
今治城の歴史

FEATURE

01

【今治城の歴史①】海とともに生きる城!築城の名将・藤堂高虎と新時代の港町
こぼれ話

FEATURE

03

「折敷に揺れ三文字」 FC今治のエンブレムに隠された歴史
今治山林火災
《今治山林火災⑥》鎮圧から鎮火へ──静かに消えた最後の熱源
伝統×文化
高く!高く!今治で受け継がれる伝統芸能『継ぎ獅子』
今治タオル
【今治タオル物語③】矢野七三郎の志を継いだ男・柳瀬義富の挑戦
桜
頓田川に咲いた一人の想い、消えゆく桜並木に秘められた地元愛
SHINTO SHRINE神社の歴史を知る

美保神社・美保町(今治市・今治中央地区)

  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
【PR】
・週末は愛媛へ!ソラハピで今すぐチケット検索
・引越し侍で愛媛移住!瀬戸内暮らしをはじめよう
・今治・瀬戸内の物件で移住を応援。お祝い金+サポート充実。

海から来た福の神。美保町に息づく信仰

今治市本町の北東部に位置する美保町は、古くから漁師たちが暮らす集落として発展してきました。

江戸時代には「猟師町(りょうしまち)」とも呼ばれ、瀬戸内海の豊かな漁場を背景に、イワシ漁や網船漁が盛んに行われていました。

貞享元年(1684年)の「今治藩領改帳」には、この町の人口は292人、船数64艘(大船7艘・網船7艘・漁船50艘)、イワシ網代は8帳と記録されており、当時の美保町が今治の漁業の中心地であったことがわかります。

町奉行の支配のもと、魚類の沖売りや他所売りが禁じられるなど、漁師町として独自の秩序と運営が行われていたことも特徴です。

明治期には今治漁業組合が設立され、大正時代にはタイ・カレイ・フグ・サワラなどの豊かな水揚げで町は活況を呈し、今治の海産物流通の要として繁栄しました。

旧県社・美保神社

その美保町の中央に鎮座するのが「美保神社・美保町(みほじんじゃ)」です。

創建年代は明確ではありませんが、古くからこの地の鎮守として篤く崇敬され、港町の人々の信仰を集めてきました。

明治時代になると、国家が近代的な神社制度を整備し、全国の神社を社格によって「官幣社」「国幣社」「府県社」「郷社」「村社」などに分類しました。

美保神社はこの制度において旧県社(府県社)に列せられます。

旧県社とは、明治4年(1871年)に制定された社格制度において、郷社より上位、官幣社・国幣社に次ぐ格式をもつ神社のことで、県から正式に幣帛料(お供え物)が奉納される対象でした。

これは地域祭祀の中心であることを公的に認められた証であり、港町における信仰の核としての役割がいっそう強化されたといえます。

毎年10月10日の例祭には、漁師や町人たちが集まり、航海安全や大漁祈願、商売繁盛を祈る祭祀が盛大に営まれました。

こうして美保神社・美保町は、港町の人々の暮らしと信仰を結びつける中核として、今治の文化や地域社会の形成に深く関わってきたのです。

主祭神・事代主神

美保神社・美保町では、事代主神(ことしろぬしのかみ)を主祭神としてお祀りしています。

事代主神は、日本神話に登場する大国主神(おおくにぬしのかみ)の御子神であり、海や漁業、農業、商業を守護する神として、古くから広く信仰されてきました。

その神名「事代主」には、「言葉によって事を治める主」という意味が込められており、争いを避け、調停や導きをもって物事を円満に収める神格としても知られています。

事代主神と国譲り神話

事代主神は「国譲り神話」において、非常に重要な役割を果たしています。

ある日、天上の国・高天原(たかまのはら)を統治していた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、地上の豊葦原瑞穂の国(とよあしはらみずほのくに)を、自らの子孫に治めさせたいと考えました。

しかし、この地上の国は、すでに大国主神(おおくにぬし)が統治していたため、簡単には譲ってもらうことができません。

そこで天照大御神は、地上の支配権を譲ってもらうために、神々の中から使者を選び、順に大国主神のもとへ遣わすことにしました。

最初に選ばれたのは、天菩比神(あめのほひのみこと)。しかし、地上に降りた天菩比神は、大国主神に心を寄せてしまい、使命を果たすことなく戻ってきませんでした。

次に、天若日子命(あめのわかひこのみこと)が遣わされましたが、地上の暮らしに馴染んでしまい、国譲りの話をすることなく八年もの間留まり続け、ついには天からの使いであることを忘れてしまいました。

こうして使者たちの役目が果たされないまま時が過ぎ、ついに天照大御神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)という強く勇敢な神を派遣しました。

それまでの使者たちは、いずれも地上の魅力にとらわれ、使命を果たせなかったため、天照大御神は、言葉だけでなく威厳と武威を備えた神でなければこの難しい交渉は成しえないと考えたのです。

建御雷神は、出雲の稲佐の浜に降り立つと、大国主神に向かってはっきりと告げます。

「この国を、天照大御神の御子にお譲りいただきたい」

それを聞いた大国主神はすぐには答えず、「この国のことは、自分ひとりでは決められない」として、息子である事代主神(ことしろぬしのかみ)の意見を聞いてほしいと答えました。

そのころ、事代主神は、美保崎(いまの島根県松江市美保関町)で釣りをしていました。建御雷神の使者が訪れ、天照大御神の意志を伝えると、事代主神は迷いなくこう答えました。

「恐れ多いことです。この国は天照大御神の御子に奉献なさってください」

そう言って天逆手(あめのむかえで、拍手)を打ち、船を青柴垣(あおしばがき)に変えてその中に姿を隠したとされています。

こうして、事代主神の賢明な判断により、国譲りは大きな争いもなく、円滑に進められることとなりました。

しかし、この決定に異を唱えた神がいました。

それが、事代主神の弟である建御名方神(たけみなかたのかみ)です。

建御名方神は、父が治めてきた国を見知らぬ神々に譲ることに強く反発し、「自分の力でこの国を守る」として、建御雷神に力比べを挑みました。

しかし、相手は天の神々が選んだ戦の神・建御雷神。ふたりは激しくぶつかり合いますが、その力の差は歴然としており、建御名方神は瞬く間に敗れ去ります。

逃げるように信濃の地(現在の長野県)へと落ち延びた建御名方神は、最終的に降伏し、「もう二度とこの地に戻らぬ」と誓ったと伝えられています。

大国主神はこれに静かに応じ、ただひとつの願いとして、「自らのために、天つ神にも劣らぬ立派な御殿をこの地に建ててほしい」と申し出ました。

この願いは受け入れられ、やがて出雲の地には壮麗な社殿が築かれることとなります。

これが、現在の出雲大社の起源であると伝えられています。

事代主神の役割と意義

この国譲りの神話は、日本の国の成立を象徴するものであり、天照大御神の子孫による統治が始まる重要な節目となります。

事代主神の役割は、争いを避けて知恵と判断によって問題を解決することを象徴しています。

この判断は、日本の神話における「平和的な力の移行」という理想を体現しており、後の天孫降臨や神武東征へとつながっていきます。

美保神社と事代主神の信仰

事代主神は、国譲りの神話の中で釣りをしていた神として描かれていることから、古くより釣りの神として知られるようになりました。

この神格はやがて、海や漁業に関わる豊漁の神としての信仰へと発展し、漁業を営む人々にとって欠かせない守り神として崇められてきました。

「恵比寿様」商売繁盛・農業神

さらに、漁業における「恵みを得る」力が商いの世界に重ねられ、商売繁盛の神としても広く信仰されるようになります。

この過程で、事代主神は七福神の恵比寿(えびす)様と同一視され、笑顔と福をもたらす神として広く庶民に親しまれるようになりました。

信仰の広がりはさらに農業の分野にもおよび、五穀豊穣や収穫祈願の神としても各地で祀られるようになります。

こうして事代主神は、豊漁・航海安全・商売繁盛を願う神様として、日本各地で生活に密着した信仰を集める存在へと変化していきました。

島根県の美保神社

事代主神が釣りをしていたとされる島根県松江市美保関町には、全国に約3,000社ある恵比寿神社(事代主神を祀る神社)の総本社「美保神社」があります。

この美保神社では、毎年「青柴垣神事(あおしばがきしんじ)」が行われます。

これは国譲り神話にちなんだ、海と漁にまつわる伝統行事で、豊漁や航海安全を祈願する重要な祭礼とされています。

こうした神事を通じて、事代主神への信仰は現代においてもなお地域社会に根づいており、海の民の営みを支える象徴的な存在となっています。

美保町と蛭子信仰

このように、事代主神は豊漁・航海安全・商売繁盛の神として広く信仰されてきましたが、美保町の歴史を振り返ると、さらにもう一つの大切な神格と結びついてきたことが分かります。

それが蛭子(ひるこ、水蛭子、蛭子神、蛭子命)様です。

「蛭子伝説」

蛭子は、日本神話において伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の最初の子として生まれた神です。

しかし、その姿は生まれながらに手足が不自由で、体も十分に成長していませんでした。

当時の人々は「穢れ(けがれ)」と呼ばれる病や死、不完全さを忌避しており、蛭子は不吉な子と見なされ、両親によって葦の舟に乗せられ海へ流されたと伝えられています。

この出来事は『古事記』や『日本書紀』に記され、日本神話の中でも特に哀しいエピソードとして知られています。

やがて、蛭子は摂津国(現在の兵庫県と大阪府の境)西宮の海岸に流れ着き、漁師の戎三郎(えびすさぶろう)という人物に拾われたと伝えられています。

『源平盛衰記』によれば、蛭子は戎三郎によって手厚く祀られ、やがて「戎三郎」という名の神となり、福をもたらす神として崇敬を集めるようになったといいます。

えびすの名に用いられる「戎」や「夷」は、もともと異郷の人々を指す言葉で、えびす様は「外から福を運ぶ客人神(まろうどがみ)」として迎えられました。

これは、海から流れ着いた蛭子が再び福の神として蘇り、漁師や商人にとって縁起の良い守護神となったことを象徴しています。

さらに別の伝承では、蛭子は流された後に竜宮へ辿り着き、そこでしばらく過ごした後に再びこの国へ戻り、住吉の社で盛大な祭りを行ったとも語られています。

「恵比寿様」蛭子の漂着と港の祈り

海を漂流し、異界で再生し、再び人々のもとに帰ってきて福を授けた。

この伝説は、海とともに生きる人々にとって特別な意味を持ちました。

漂流と再生を経て福をもたらす存在となった蛭子は、海の神としてだけでなく「外から福を運ぶ神=客神(まろうどがみ)」として港町や漁師町で篤く祀られるようになっていきます。

やがてこの信仰は港町から港町へと伝わり、蛭子は七福神の恵比寿(えびす)様と一体視されるようになりました。

恵比寿は、右手に釣竿を持ち、左手に鯛を抱える福々しい姿で表され、漁師にとっては航海安全や豊漁の守護神、町人や商人にとっては商売繁盛や家内安全を授ける福神として広く親しまれるようになったのです。

とくに室町時代の末から江戸時代の初めにかけて、「七福神信仰」が庶民の間に広がり、恵比寿はその一柱として位置づけられました。

江戸時代には「恵比寿講」と呼ばれる講が各地に組織され、商人や漁師たちが恵比寿像を祀り、豊漁や商売繁盛を祈願する習慣が定着します。

こうした祭祀や講中の活動を通じて、恵比寿信仰はますます生活に根づき、全国的に広まっていきました。

このように、不遇の誕生から漂流と再生を経て福神へと昇華した蛭子の姿は、港町や漁村の人々の心を深くとらえ、日本全国に「笑顔と福を授ける神」として信仰されるまでに至ったのです。

当時の人々の信仰

美保町に鎮座する美保神社も戎神社とも表記され、さらに古くは「伊予蛭子宮(いよひるこのみや)」と呼ばれ、伊予の夷(えびす)の古社として、港町今治の人々の暮らしとともに歩んできました。

いつ、なぜ、この地に祀られるようになったのかは定かではありませんが、もしかしたら蛭子様が歩んだ人生に、当時の美保町の人々が特別な感情を抱いたのかもしれません。

神社名

美保神社・美保町(みほじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市美保町3丁目2−4

主な祭礼

例祭(10月第3月曜日)

主祭神

事代主神

境内社

海神社

フォトギャラリーを閲覧する
  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
神仏探訪記
次の記事
  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
    • 無量寺の幻のシダレザクラ──優雅に咲き誇った130年の絆
  • 探訪記データーベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • 写真の二次利用について
    • 参考文献・参考論・資料
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ