「御鉾神社(みほこじんじゃ)」は、古代より受け継がれる神話の記憶と、豊かな自然に包まれた信仰の場です。
地元住民の心の拠り所として、また訪れる人々に静かな感動をもたらす特別な場所として、大切に守られてきました。
「御鉾の宮」御鉾神社のはじまり
御鉾神社は、今からおよそ1400年前、推古天皇の御代(6世紀末〜7世紀初頭)。
当時、伊予国を治めていた国司・小千益躬(おちのますみ・越智益躬)は、訓見郡徳威の宮から、神聖な神器「天之逆矛(あめのさかほこ)」を、大三島宮(現・大山祇神社)へ奉納するという、重要な神事を任されていました。
その道中、小千益躬はこの地にしばらく滞在し、天之逆矛の神威を後世に伝えるため、小さなお社を築いて「御鉾の宮(みほこのみや)」としてお祀りしたのが、御鉾神社の起源と伝えられています。
天之逆矛とは
「天之逆矛(あめのさかほこ)」は、日本神話の中でも特に神聖視される神器です。
『古事記』や『日本書紀』によれば、天の神々の命を受けた伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が、この矛をもって混沌たる海をかき回し、最初の島・オノゴロ島を創り出したと記されています。
この矛は「創造の原点」に関わる神具であり、単なる武器ではなく、天地を繋ぐ「霊的な軸」として、古代日本人の宇宙観の象徴ともいえる存在でした。
さらに中世以降、天之逆矛は仏教や修験道の影響を受けて信仰の形を変えていきます。
修験道の古文書『大和葛城宝山記』には、この矛が「天魔反戈(あまのまがえしのほこ)」と称され、魔を打ち払う法具として記されています。
また、矛の形が仏教の独鈷杵(どっこしょ)に似ていることから、修験者や山伏の信仰対象としても受け継がれました。
さらに、邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨の際にもこの矛は象徴的に用いられ、地上平定の神威と平和・繁栄を祈願する道具として語られてきました。
こうした多層的な意味をもつ「天之逆矛」の伝承が、御鉾神社の信仰を支える大きな柱となっています。
「訓見郡徳威の宮」
御鉾神社の創建伝承において、重要な鍵を握るのが訓見郡徳威の宮(くんみぐん とくいのみや)です。
この神社は、日本神話および地方伝承にその名をとどめる古代の霊地と考えられていますが、その具体的な所在地や詳細は、今日に至るまで明らかにされていません。
また、そこからなぜ神器「天之逆矛」が奉じられ、大三島の大山祇神社へと遷されたのかという点についても、多くの謎が残されたままとなっています。
「矛(ほこ)」と「鉾(ほこ)」の意味
御鉾の宮(現:御鉾神社)の社名に含まれる「鉾(ほこ)」という字は、古代武器を意味する「矛(ほこ)」と同義ですが、文脈によって使い分けがなされています。
- 矛(ほこ):直線的な突き刺す武器としての実用的な性格が強く、神話においては「天之逆矛」など神具・神器の名称に用いられます。
- 鉾(ほこ):儀礼的・象徴的な意味合いが強く、神社名や神輿の飾り、祭具の名に使われることが多くなります。神威や神霊を宿す「象徴」としての性格が前面に出ます。
御鉾神社では、神代の神器「天之逆矛(矛)」の神霊を祀るにあたり、祭祀の場としての性格を強調する意味で、「鉾」の字が選ばれたと考えられます。
これは、「武の象徴」である矛を、「祭りと祈りの象徴」へと昇華させた、日本古来の神道的精神を体現しているといえるでしょう。
御鉾神社の近世以降と村社列格
こうして創建された御鉾の宮は、時代を経るごとに地域の人々の厚い崇敬を集めるようになりました。
神代の霊具を祀る聖域としての威光は、村の暮らしの中に静かに息づき、季節の巡りや人生の節目に寄り添う「氏神(うじがみ)」としての信仰へと姿を変えていきます。
古代より続くその霊威は、時代の変遷とともにかたちを変えながらも確かに受け継がれ、近世から近代にかけては、地域社会と深く結びつく祈りの場として、その存在感をいっそう強めていったのです。
明治期の奉遷と神社制度への組み込み
明治時代に入ると、神仏分離令(明治元年・1868)や神社統制政策により、全国の神社が再編されるなかで、御鉾の宮もその影響を受けます。
それまでの信仰形態が見直され、社殿や社地の整備が推進される中で、明治15年(1882年)、御鉾の宮は現在の地へ正式に奉遷されました。
村社への列格と地域共同体へ
明治27年(1894年)2月1日には、御鉾神社は正式に村社として列格されました。
これは、明治政府が推し進めた近代神社制度における社格のひとつであり、地域社会において重要な氏神と認められた証です。
村社への列格により、御鉾神社は行政的にも「地域の中心的神社」として位置づけられ、例祭や年中行事の整備、氏子組織の編成、社殿や境内の維持管理体制などが公的に整えられていきました。
この頃には、氏子たちの手による伝統的な神事が盛んに行われるようになり、御鉾神社は地域共同体の精神的支柱として、今も変わらぬ祈りの中心となっていったのです。
御鉾の宮から御鉾神社へ
この近代的制度化の過程で、それまで「御鉾の宮」と称されていた社名も、公式に「御鉾神社(みほこじんじゃ)」という表記に統一されていきました。
「宮」は本来、神や天皇を祀る聖なる空間を意味する古語ですが、明治期の国家神道体制の中では、「神社」という名称が制度的に定着していきます。
御鉾神社もまた、その流れの中で古称を保持しつつ、新たな時代に即した名称として「神社」の名を冠するに至ったと考えられます。
そして、その名に込められた記憶と祈りは、今も変わらずこの地に息づき、御鉾神社はこれからも、人々の暮らしと共に歩む静かな神威の守り手として、その姿を伝え続けています。