「御鉾神社(みほこじんじゃ)」は、長い歴史と豊かな自然に彩られた神社で、地元住民や訪れる人々にとって心の安らぎを与える特別な場所です。
御鉾神社の歴史
御鉾神社の起源は推古天皇の御代(593年1月15日 – 628年4月15日)にまで遡ります。この時代、この地を統治していた国司・小千益躬(おちのますみ)が、訓見郡徳威の宮から伊予国大三島宮(大山祇神社)へ「天之逆矛(あめのさかほこ)」という神聖な神器を奉遷する旅の途中、当地に滞在しました。
この地で神々の御威徳を感じ取った小千益躬は、小祠を建てて「御鉾の宮」と名付け、神聖な場所として後世に伝えました。その後、明治15年に現在地へ奉遷され、明治27年2月1日に村社として正式に列格されました。
訓見郡徳威の宮
訓見郡徳威の宮の詳細訓見郡徳威の宮(くんみぐんとくいのみや)は、日本神話や伝承に登場する古代の神社と考えられますが、その具体的な位置や詳細は明らかになっていません。訓見郡徳威の宮から、大三島へ奉遷された天之逆矛。その徳威の宮がどこにあったのか、そしてなぜ大三島へ移されたのかという点については、未だに多くの謎が残されています。
天之逆矛
天之逆矛(あめのさかほこ)は、日本神話に登場する神聖な矛で、天地創造に深く関わる神器です。この矛は、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神が使用し、大地を形作る過程で重要な役割を果たしました。神話によれば、混沌とした大地にこの矛を突き立ててかき回すと、その切っ先から滴り落ちた雫が固まり、最初の島であるオノゴロ島が形成されたとされています。
この矛は、物語の中で単なる道具にとどまらず、神聖な力を宿した存在として描かれています。中世以降、仏教や修験道の影響を受け、その性質はさらに多様化しました。修験道の文献『大和葛城宝山記』では、この矛が「天魔反戈(あまのまがえしのほこ)」と呼ばれ、魔を打ち払う霊具として記されています。また、矛の形状が仏教の法具である独鈷杵(どっこしょ)に似ていることから、仏教的な象徴ともされました。
さらに、天之逆矛は天孫降臨の伝承にも関連付けられています。邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上に降り立つ際、この矛が彼の象徴的な武器とされ、地上平定の象徴として語り継がれました。その後、矛が地上に安置されると、神聖さとともに平和と繁栄を祈る象徴となったのです。
天之逆矛伝説
現在でも、天之逆矛にまつわる伝説や遺跡は日本各地に点在しています。御鉾神社もその重要な一つとして知られており、この神社では天之逆矛の由来や歴史を伝える役割を担っています。