波方町宮崎の御崎に鎮座する「御崎神社(みさきじんじゃ)」は、神亀5年(728年)に創建されたと伝わる由緒ある神社です。
鳥明神(からすみょうじん)と香取神社(かとりじんじゃ)の二柱が合祀されており、海の安全や豊漁、牛馬や農耕の守り神として、古くから地域の人々の厚い信仰を集めてきました。
「香取神社」航海の安全
香取神社は、もともとは梶取鼻(かじとりのはな)に祀られていた神社で、古くから船乗りや海辺の人々にとって重要な守り神で、航海の安全を願って多くの参拝者が訪れていました。
「梶取鼻」古くからの続く航路の要衝
梶取鼻(かじとりのはな)は、古御崎(ふるみさき)とも呼ばれる今治市宮崎地区の南端に位置する岬で、瀬戸内海を行き交う船舶にとって、古くから進路を定めるための重要な目印(ランドマーク)として知られてきました。
「鼻(はな)」とは、地形上岬や突出部を意味し、「梶取」は舵を取る者=操船者を指します。
つまり、「梶取鼻」とは舵を取る岬”という意味であり、まさに航海の分岐点・指針の地としてその名を刻まれた場所でした。
この場所は古くから海上交通・物流の要衝であり、大陸文化や九州方面との往来の中継地としても重視されてきました。
火山狼煙台跡
古代律令制下では、伊予国府(桜井地区)との連絡や国防の要地として、周辺には軍団やのろし台(烽火台)が設けられ、外敵侵入時にはこの岬から煙火を上げて警告を伝える体制が敷かれていました。
実際に、梶取鼻に隣接する丘陵地からは、のろしに使用されたとみられる火山灰の層が複数発見されており、この地は「火山(ひやま)」と名付けられています。
江戸時代には、松山藩の参勤交代の際にものろし台として使用され、藩主の到着を知らせる合図にも用いられました。
また、眼下の海岸には「七五三ヶ浦(しめがうら)」、そして監視施設の存在を偲ばせる「番所」という地名が残されており、海を見張る拠点としての役割も担っていたことがわかります。
香取神社の由来と信仰
この梶取鼻に、古くから海を望む高台から来島海峡を見守るように祀られていたのが香取神社です。
神社名の「香取」は、一般には千葉県の「香取神宮(下総国一宮)」に由来する分霊社に見られる名称ですが、波方の香取神社の鎮座地が「梶取鼻」と呼ばれていたことから、「舵を取る守護神の社」という意味合いで「香取神社」の名が付けられたとも考えられます。
「梶取(かじとり)」とは、単に船の舵を操る者を指す言葉ではありません。
古代・中世の「梶取」は、海上輸送の責任者として、律令制下では貢納物、荘園制下では年貢や公事物などを船で運ぶ重要な職務を担っていました。
やがて彼らは流通・物流に携わる商人層へと発展し、海上交通の担い手=民間のエリート階層を形成していきました。
彼らにとって航海の安全は、生活と経済活動の根幹をなすものであり、そのために海の守り神を篤く信仰することは当然の行為でした。
まだエンジンもレーダーもない時代。
もちろん、鋼鉄の船体もなく、GPSも気象予報もありません。
帆と櫂だけを頼りに、人々は風を読み、潮を読み、夜の闇や突風に命を預けて海を渡っていました。
ひとたび天候が崩れれば、それは死と隣り合わせの航海でした。
そんな時代、この海を通るたびに、人々は香取神社に手を合わせ、船旅の無事を祈ったのかもしれません。
「祭神・経津主尊」航海と勝利の神
そんな香取神社に祀られているのが、経津主尊(ふつぬしのみこと)です。
古代神話において、経津主尊は出雲の国譲りや神武天皇の東征に登場し、軍神・征服神としての性格が色濃く描かれます。
特に下総国一宮・香取神宮では、利根川水系の守護神としても崇められ、水運や航海安全の神としての信仰が全国に広まりました。
さらに経津主尊は、のちに藤原氏の氏神としても祀られ、奈良・春日大社における春日四神の一柱ともなりました。
その別名に「天日鷲尊(あめのひわしのみこと)」という呼称があり、「鷲(おおとり)」という読みから、「香取神社」は「おとり様」「おおとり様」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。
この呼称は、東京・浅草の「鷲神社(おとりさま)」にも通じ、そこでは商売繁盛・開運招福の神として信仰されています。
現代の香取神社と梶取鼻
梶取鼻の香取神社もまた、流通と交通を支える守り神として、人々の暮らしに深く根ざし、長く祈りの対象となってきました。
現在、香取神社は御崎神社に合祀されたことで梶取鼻から移転していますが、岬の一角には来島梶取鼻灯台が設けられ、現代の船乗りたち(梶取たち)に航路を示し続けています。
「鳥明神」農耕の神様 唐津崎神社
鳥明神(とりみょうじん)は、現在の御崎神社が鎮座する「御崎(烏鼻・からすばな)」に、もともと祀られていた農耕の神です。
「耕す力、育てる力」牛馬とともにあった日本の農業
かつて農業が今ほど機械化されていなかった時代、田んぼを耕し、作物を育てる作業は、多くの時間と労力を必要とする大仕事でした。
人の力だけではとてもこなせない作業も多く、そうしたときに頼りにされたのが、牛や馬といった家畜の存在でした。
とくに水田で行われる「田起こし」や「代掻き(しろかき)」といった基本作業は、牛馬の力が不可欠でした。
田起こしとは、田んぼの土を深く掘り返して空気を含ませ、作物が育ちやすい状態にする作業のことです。
続く代掻きは、水を張った田んぼの泥をかき混ぜて、土をやわらかくし、表面を平らにならす作業で、田植えの準備に欠かせません。
これらの作業では鋤(すき)や犂(からすき)といった農具を、牛や馬に引かせながら進めるのが一般的でした。
当時はまだトラクターや耕運機のような機械が普及しておらず、家畜こそが農作業の中心的な「労働力」だったのです。
さらに、牛や馬の役割はそれだけではありません。
農薬や化学肥料が乏しかった時代、農地を豊かに保つためには自然由来の肥料が欠かせませんでした。
中でも、牛馬の糞尿を使ってつくる「厩肥(きゅうひ)」は、刈敷や堆肥と並んで貴重な有機肥料として広く用いられていました。
とくに、草や落ち葉を集める刈敷が手に入りにくい地域では、厩肥が作物を育てる栄養源として重宝されたのです。
つまり、牛馬は「動力」としてだけでなく、「資源」としても農業を支える欠かせない存在だったのです。
“牛のわらじ”に託した祈り
そのため、この地域では昭和30年代頃まで、鳥明神を信仰する農家が田植えの後に参拝し、牛や馬の健康と作物の豊作を祈る風習が続いていました。
そうした信仰のかたちのひとつが、「牛のわらじ」の奉納です。
農家の人々は、藁で編んだ小さなわらじを神前に供え、牛や馬が一年を無事に過ごし、農作業が滞りなく進むよう願いを込めて祈りました。
わらじは、牛馬の足を守る象徴であり、働き手である家畜に対する感謝と労りの心が込められていました。
そして、わらじを奉納した農家は、神社から「牛馬の護符」を授かり、家に持ち帰りました。その護符は、牛馬が怪我をしたり病気になったりせず、農作業が順調に進むよう願いを込めて畜舎に飾られました。
家族や家畜の健康を守るための大切な守りとして、護符は農家にとって欠かせない存在だったのです。
このように、鳥明神が合祀された御崎神社は、海の守り神であると同時に、陸の農耕神としても信仰され、人々の暮らしに深く結びついた存在でもあったのです。
御崎神社の鎮座地「鳥鼻」にまつわる伝承
御崎神社が鎮座する「鳥鼻(からすばな)」は、正しくは「唐津崎(かつらざき)」といいます。
そして、この地名には、戦国末期のある悲劇的な伝承が伝えられています。
時は慶長年間(16世紀末)。
織田信長の弟・織田有楽斎の家臣であった上田藤右衛門は、関白・豊臣秀吉の命を受けて、九州一帯で名品陶器を収集する任務に就いていました。
藤右衛門は唐津や伊万里の名工たちに命じて器を焼かせ、中国や朝鮮からも貴重な品々を買い集め、船に積んで瀬戸内を東へと帰路につきました。
しかし、斎灘(いつきなだ)で突然の嵐に遭遇してしまったため、しかたなく今治の宮崎の浜辺に船をつけて避難しました。
その避難中、藤右衛門のもとに届いたのが、「秀吉死去」という一報でした。
思いがけぬ主君の訃報に、藤右衛門は任務の行方を案じて激しく動揺します。
さらにその混乱のさなか、なんと同船していた船頭が、船に積まれていた陶器をすべて盗み出し、さらに船を沈めて逃亡したのです。
このことを知った藤右衛門は、任務の失敗と家臣としての責任を重く受け止め、浜辺に突き出た海上の岩場で切腹して果ててしまいました。
この悲劇に心を打たれた地元の村人たちは、忠義の士・藤右衛門を哀れみ、その御霊を慰めるために小さな祠を建て、「唐津明神」と称して祀りました。
後にこの祠は「唐津崎神社」として整えられ、現在の御崎神社に正式に合祀されたといいます。
唐津崎神社=烏明神
さて、この唐津崎神社とはいかなる社だったのでしょうか。
まず、鳥鼻の正式名称である「唐津崎(かつらざき)」 という地名は、先に述べた唐津や伊万里などから陶器を運んだ上田藤右衛門の悲劇的な出来事に由来すると見られています。
このことから、「唐津崎の唐津崎神社=鳥鼻の烏明神」と結びつけられるため、この時に祀られた唐津明神こそが、現在の御崎神社に合祀されている「烏明神」である考えられます。
そして、この伝承にはまだ続きがあります。
タコ釣り陶器の伝説
この海域はいつしか「唐津磯(からついそ)」と呼ばれるようになっていました。
江戸時代・文政10年(1827年)の夏のある日、来島村の漁師が唐津磯でタコを釣り上げたところ、驚いたことにタコが立派な陶器を抱えていました。
この出来事をきっかけに、漁師はお年寄りから聞いた唐津崎の事件を思い出し、海底に宝の山が眠っていると考えました。
そこで、タコの足に細縄と小さな錘をつけ、吸盤を利用して陶器を引き上げるという工夫を施しました。
この方法は「タコ釣り陶器(蛸釣陶器)」として広まり、多くの人々が集まり、海底から陶器を釣り上げる風景が名物となりました。
この「タコ釣り陶器」は、当時の波止浜村の珍品として広く注目を集めました。
後の時代には、学術的にも注目を集め、愛媛考古学の創始者「犬塚又兵衛」もこの陶器に強い興味をしめしました。
このような伝承を今に伝える「唐津崎」の名は、現在も波方国家石油ガス備蓄基地の一角に残され、かつての出来事の名残を静かにとどめています。
宮崎に息づく村上水軍の記憶
そして、この地にはもうひとつ、波方の歴史を語るうえで欠かすことのできない戦国の記憶があります。
それが、瀬戸内海に覇を唱えた「村上水軍(村上海賊)」です。
「来島村上氏」
平安時代から、この宮崎地域には海賊が住んでいたといわれており、古くから海とともに生きる人々の姿がありました。
そして時代が下り、室町時代になると、瀬戸内海に覇を唱えた「村上水軍」の御三家の一つ、来島村上氏がこの地域に勢力を伸ばし、来島を拠点に海上交通を掌握するようになります。
彼らは、急潮が流れる来島海峡を巧みに利用し、航行する船舶に対して通行料(関銭)を徴収したり、船の護衛や案内を請け負うなどして、海上支配権を確立していきました。
こうした活動により、来島村上氏は「海の大名」として広く知られ、その影響力は伊予国にとどまらず、中国・九州沿岸にまで及ぶようになったのです。
来島通康と波方の軍事拠点
戦国時代に入ると、来島村上氏の4代目当主・来島通康(村上通康)の指揮の中で勢力はさらに拡大し、本拠としていた来島城が次第に手狭となっていきました。
そこで通康は、より広い活動拠点を求めて本土側へと拠点を移し、波方に新たな居館「波方館(はがたのたち)」を構えました。
そして、この波方本館を中心に、周囲の丘陵上には多数の見張り台や枝城が配置され、来島村上氏の広大な海上ネットワークを支える重要な防衛線が形成されていきました。
これらは現在でも波方町内の各所にその痕跡を残しており、「波方城砦群(波方海賊城砦群)」と総称されています。
その中のひとつが、御崎神社の鎮座地に築かれた「御崎砦(みさきとりで)」です。
来島村上氏の要塞「御崎砦」
御崎砦はその一角にあたり、波方町の海岸線に位置することで、遠方から接近する敵船や異変をいち早く察知できる、「見張り台」として、まさに絶好の立地条件を備えていました。
急潮流が渦巻く来島海峡を睨むこの地に、見張り場を設置することで、来島村上氏は自らの支配海域を防衛し、通行船に対する監督・徴収・案内を効率的に行うことができたのです。
現在に残る遺構と景観
砦の周囲には、当時の桟橋跡とされる「ピット」と呼ばれる柱穴が多数残っており、往時の水軍活動の痕跡を今に伝えています。
かつて香取神社が祀られていた「梶取鼻」 にも、来島村上氏によって見張り台が設置され、戦略的な監視拠点として重要な役割を果たしていました。
自然と暮らしが結びつく地域
海と山の間に広がるこの地域には、古くから人々の暮らしと自然が寄り添い合ってきた風景が残されています。
「磯の七不思議」と呼ばれる奇岩群や、縄文時代の遺跡、信仰の対象として守られてきた御崎神社などが点在し、人の営みと自然の造形が折り重なるように存在しています。
こうした自然と信仰が重なり合い、今も人々に親しまれているのが「ヤマモモのこみち」です。
「ヤマモモのこみち」
「ヤマモモのこみち」は、御崎神社へと続く緑豊かな参道に広がる、静かで心地よい小道です。
全長およそ300メートルにわたるこの小道には、数百年の時を経たヤマモモの巨木が立ち並び、訪れる人々をやさしく迎えてくれます。
中には、幹の周囲が5メートルに達するものや、株元から複数に分かれた見事な樹形の木もあり、その雄大な姿からは自然の力強さを感じ取ることができます。
この並木道は、波方町に現存する唯一の自然林であり、町の天然記念物にも指定されています。
特に初夏には、ヤマモモの木々に小さな赤い実がたくさん実り、甘酸っぱい香りが風に乗って漂います。
木陰に包まれた参道を歩くと、四季折々の自然の表情に触れることができる、心地よいひとときが流れていきます。
周囲にはウバメガシの木々も生い茂り、豊かな自然環境が広がっています。
こうした自然は、かつての人々の暮らしとも深く結びついていました。
ヤマモモの皮は、漁師たちによって魚網の染料として利用されており、煮出して作った染料で網を染め、砂浜で干すという伝統的な手法が受け継がれてきました。
また、御崎神社に牛のわらじを奉納するために親子が参拝に訪れていたころ、子どもたちは境内で自由に遊ぶのを楽しみにしていました。
中でもヤマモモの木に登って熟した実をもぎ取り、その場で頬張るのは大きな喜びでした。
食べきれなかった実は袋に詰めて家に持ち帰られ、家族で味わうひとときは、自然の恵みと信仰とが一体となった温かな記憶として、地域の人々の心に残っています。
「ヤマモモのこみち」は、自然の美しさだけでなく、地域の生活や文化、そして人々の思い出と深く結びついた場所として、今も大切に守られ続けています。
「七五三ヶ浦キャンプ場」
御崎神社の鎮座する御崎と、梶取鼻に間に広がる入江「七五三ヶ浦(しめがうら)」には、縄文時代の遺跡が今も静かに眠っています。
およそ6000年前、この豊かな海辺に人々が住み、道具を作り、火を使い、日々の営みを重ねていた痕跡が、土器や石器、竪穴住居跡として残されています。
現在は「七五三ヶ浦キャンプ場」として親しまれ、豊かな自然に囲まれながら、古代の営みに思いを馳せることのできる場所となっています。