「三島神社・旦(みしまじんじゃ)」は、特別養護老人ホーム「唐子荘」の裏手に位置する小さな丘に鎮座している神社です。この丘全体が神域とされ、古くから地域の信仰の場として人々に崇められてきました。
三島神社の創建
三嶋神社・町谷の創建は、和銅年間(708〜714年)。
元明天皇の詔勅(みことのり)により、当時の伊予国司であった越智玉純(おちのたまずみ)は、伊予国内に点在する九十四の郷(ごう)それぞれに三嶋神社を建立することを命じられました。
玉純はこの命を受け、大三島の「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」から、主祭神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を伊予各地に勧請(かんじょう)し、神社の創建を進めていきました。
三島神社・旦(も、そうした歴史的背景をもとに設立された由緒ある一社であり、以来、地域の守り神として長く信仰を集めてきました。
明治時代の再編と国民国家
明治9年(1876年)、神社の再編によって旧旦村の神社が「村社」に指定され、地域の信仰の中心としての地位を確立しました。
その背景には、当時の世界情勢や日本が直面していた深刻な課題が関係しています。
欧米列強の脅威
明治時代、欧米列強はアジアやアフリカを植民地にして、資源を奪い取ることで自国の経済を強くし、軍事力を増強していました。
この政策は覇権主義と呼ばれ、強い国が弱い国を支配して、自分たちの勢力を広げるためのものでした。
その中で日本も、欧米の国々に植民地にされる危険を感じていました。
日本は独立を守り、国際的に強い立場を持つために、急いで近代化を進め、経済力と軍事力を高める必要がありました。
「富国強兵」
これが「富国強兵」というスローガンで表され、明治政府はこの目標に向けてさまざまな改革を実施しました。
富国強兵とは、国を豊かにし、強い軍隊を持つことを意味します。
明治政府はこのスローガンのもとで、工業の発展や農業の改革、軍隊の強化などを進め、国全体を近代的な国へと変えていきました。
同時に、国民が一つにまとまって、強い日本を支えるために必要な政策も打ち出しました。
国家神道の確立
その中で特に重要な柱となったのが国家神道の確立です。
国家神道とは、神道を国家の宗教として位置づけ、天皇を中心に神々を祀ることで、国民に対する忠誠心や愛国心を育てる仕組みです。
神社を国家の管理下に置き、国民全員が天皇を中心に同じ信仰や価値観を持つことで、国を一つにまとめることを目指しました。
この政策の一環として、神社の再編が行われ、全国の神社が国家の管理下に置かれました。
各地域の神社には「村社」や「郷社」といった社格が定められ、地域社会において重要な信仰の拠点とされました。
旧旦村の神社も、この再編により「村社」に指定され、地域住民の信仰を支え、国家とのつながりを強める役割を果たすようになりました。
つまり、神社の再編は、当時の国際的な危機感の中で、日本が強い国民国家として自立し、欧米列強に対抗するための一環だったのです。
そして国民が一丸となって国を支える体制が整えられたことで、欧米列強から植民地として狙われることなく、強い独立国としての地位を確立していきました。
合祀による信仰の広がり
明治41年(1908年)には、周辺地域にあった長谷と福田の荒神社、そして字高麗(じこうらい)にあった保色神社(うちもちじんじゃ)が、「三島神社・旦」に合祀(ごうし)されました。
荒神社は火除けや台所の神として、人々の暮らしの中で家庭の安全と繁栄を願う信仰の対象でした。
一方の保色神社は、稲作をはじめとする農業を守護する保食神(うけもちのかみ)を祀っており、地域の農耕文化と深く結びついていました。
こうした信仰が一つに集められたことで、「三島神社・旦」はもはや海の守護神だけでなく、家庭、農業、地域全体の安寧と豊かさを願う総合的な信仰の拠点へと姿を変えていきました。
それは単なる神社の拡張ではなく、生活のあらゆる場面に寄り添う“地域の心の器”としての役割を担う存在となったことを意味しています。
さらにこの合祀は、当時の政府が進めていた神社合祀政策、いわゆる国家神道体制とも軌を一にしており、時代の大きな流れの中での地域の選択でもありました。
現在の「三島神社・旦」
そして現在、神々がひとところに集まった「三島神社・旦」は、“暮らしの神々”が宿る地域の信仰の中心として、その伝統を受け継ぎながら、地域社会とともに歩み続けています。
境内には、天保時代(1830〜1844年)や文政時代(1818〜1830年)に建てられた燈ろうが静かに並び、訪れる人々に、時を超えた歴史の重みとその美しさを語りかけてくれます。
昭和61年(1986年)には、新たな社殿が建立され、神社創建1250年を祝う式年祭が盛大に執り行われました。この式年祭は、三島神社と地域との深いつながりをあらためて確認する、大きな節目となりました。
こうした歴史的な建造物や行事のひとつひとつが、大切な文化遺産として、今も人々の心の中に息づいているのです。