今治市には、「祇園さん」と地元の人々から親しまれ、市内でも特に信仰の厚い神社があります。
それが、祇園町の蒼社橋の側に鎮座する「三嶋神社(みしまじんじゃ)」と「祇園神社(ぎおんじんじゃ)」です。
「三嶋神社」の歴史
三嶋神社の創建は、崇峻天皇2年(589年)と伝えられます。
この時代は、豪族が力を持ち、巨大な古墳を築いていた古墳時代の終わりにあたり、日本ではまだ律令制度や仏教が広まる前でした。自然や祖先を神として信仰することが中心の時代です。
そうした古代の息吹が色濃く残る時代、日本列島の外では、ある異民族の勢力が急速に台頭していました。
鉄人を討て!伊予の英雄伝
今からおよそ1300年前。
当時、靺鞨(まっかつ)という民族が、北東アジア(現在の中国東北部やロシア沿海州)一帯に広く住んでおり、ツングース系の強大な戦士民族として、周辺諸国から恐れられていました。
鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。
そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。
これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。
最恐の鉄人の進軍を止めろ!
日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、彼は突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。
兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。
さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れました。
このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。
暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。
そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。
もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族「小千益躬・(越智益躬・おちのますみ)でした。
三島大明神の御神託
朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「大山積神(三嶋大明神・三島大明神・大山祇神」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。
その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
益躬 vs 鉄人
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。
武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでも益躬じっとチャンスを待ち続けました。鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の選坂(かにさか )にまで到達しました。
この時、ついに決定的な好機が訪れます。
三島大明神の神撃が鉄人を貫く
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。
すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。
鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいきました。そして驚くべきことに、唯一の弱点とみられた足の裏に穴に突き刺さったのです。
これが致命傷となり、鉄人はそのまま息を引き取りました。
こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
大将である鉄人を失い大混乱の軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。
手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。
詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。
この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。
「木の下三島宮」神木に祀られた神様
故郷に戻った益躬は、戦勝と神恩への感謝を胸に、一本の榊(さかき)の大樹の枝に鏡を懸け、大山積大神を祀る社をそのふもとに創建しました。
榊は「境の木」とも書かれ、神と人の世界をつなぐ神聖な木とされます。益躬が祈願したその榊の大樹は、神霊の宿る木として、まさに神社建立にふさわしい依代(よりしろ)でした。
この社は、神木のもとに建てられたことから「木の下三島宮(このしたみしまぐう)」と称されます。
「鳥生の宮」鳥生町の由来
やがてその神木に白い鳥が集まり、多くの巣を作って子を育て始めました。
人々はこの神秘的な光景を神意の表れと捉え、「鳥生(とりう)の宮」と呼ぶようになりました。
これが現在の鳥生町という地名の由来となったと伝えられています。
白い鳥の正体
「白鳥」とされたその鳥は、実は「白鷺(しらさぎ)」で、清らかで神々しい姿から、「月の神使」または「三嶋神の神使(しんし・つかはしめ)」として崇敬されるようになります。
こうして、瀬戸内における三嶋信仰では、白鷺は神の導き手として航海安全や戦勝をもたらす瑞鳥とされ、神社における重要な象徴となっていきました。
神社の移転と祇園神社との合祀
三嶋神社は、もともとは現在の鎮座地よりも約500メートルほど離れた場所にありました。
しかし、明治2年(1869年)、近くにあった祇園神社(旧須賀神社)と合祀され、現在の地に遷座します。
平成12年(2000年)には新たに社殿が造営され、今日では歴史の風格と清浄な雰囲気を漂わせる社として、地元の人々に篤く信仰されています。
祇園神社と疫病除けの信仰
祇園神社の創建は平安時代の貞観11年(869年)、全国に疫病が蔓延した際、清和天皇の命によって京都・祇園社(八坂神社)から須佐之男命(すさのおのみこと)の分霊を迎えて祀ったことに始まります。
当初は「須賀神社」として存在していましたが、後の時代に祇園信仰の影響を受け「祇園神社」と改称され、地域の厄除け・疫病除けの神として広く崇敬を集めました。
合祀後は、三嶋神社と一体となり、現在も旧暦6月14日の「祇園祭」には多くの参拝者が訪れ、病気平癒・無病息災を願って手を合わせています。
継ぎ獅子発祥の地
この神社は、今治地方の春祭りで舞われる「継ぎ獅子」の発祥の地として知られています。
継ぎ獅子は、明治初年、氏子であった高山重吉氏が伊勢への旅の中で学び、今治に持ち帰って三嶋神社・祇園神社で初めて奉納したとされます。
その後、高山氏の弟子たちが各地で継承・指導を行い、この獅子舞は今治市全域へと広がっていきました。
昭和49年(1974年)には、神社境内に「獅子舞発祥ノ地」の石碑が建立され、伝統の継承を今に伝えています。
春の大祭では、継ぎ獅子が神事の中心をなしており、華麗な演目の後には神輿の宮出し、奴練り、獅子舞の行列が町を練り歩き、地域の人々や観光客の目を魅了します。
春祭りの時期には、今治に足を運び、継ぎ獅子の勇壮な演舞を通して、この地域に受け継がれる歴史と文化の魅力を味わってみてください。