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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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三島神社・郷本(今治市・立花・鳥生地区)

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三島神社の起源は、奈良時代以前にさかのぼるとされ、越智氏の祖・小市国造(おちのくにのみやつこ)が神籬(ひもろぎ)を立て、山の神である大山積命(おおやまつみのみこと)を祀ったことに始まると伝えられています。

小市国造と越智氏の起源

奈良時代以前の日本は、律令制度が整備される前で、地方の統治は朝廷から委任された豪族たちによって行われていました。

こうした地方の統治者の一つが小市国造です。

「小市国」今治に息づく古代の国

小市国(おちのくに)とは、古代日本における地域的な行政単位の一つで、現在の愛媛県今治市東部一帯に相当します。

この地域はのちに伊予国越智郡に編入され、瀬戸内海に面した豊かな自然環境と温暖な気候のもと、農耕や漁業、海上交通などが盛んに行われてきました。

「国造」大和朝廷の地方統治

こうした地域を統治するために置かれたのが、「国造(くにのみやつこ・こくぞう)」です。

国造とは、律令制度が整備される以前に大和朝廷から任命され、地方の統治を任された管理者のことです。

国造は、行政や治安の維持のみならず、神事をはじめとする地域の祭祀も司り、地域社会の安定と発展に重要な役割を果たしていました。

古代の伊予国には、五つの国造が置かれていたと記されています。

  1. 伊余国造(いよのくにのみやつこ)
     現在の愛媛県中予・東予地方。
  2. 怒麻国造(ぬまのくにのみやつこ)
     現在の西条市周辺。
  3. 久味国造(くみのくにのみやつこ)
     現在の四国中央市周辺。
  4. 小市国造(おちのくにのみやつこ)
     現在の今治市東部、越智郡周辺。
  5. 風早国造(かざはやのくにのみやつこ)
     現在の松山市北部、北条地域。
小市国造とは何者?

では、小市国造とはいったい何者なのでしょうか。

小市国造としてその名が伝わるのが、小致命(おちのみこと・子致命・乎致命)という人物です。

『先代旧事本紀(国造本紀)』によれば、小致命は物部氏の一族であり、応神天皇の御代に小市国造に任命されたとされています。

物部氏は大和朝廷において軍事や刑罰を司る有力豪族であり、小致命もその血統に連なる人物として、地方を治めるのにふさわしい家格を備えていたと考えられます。

小致命は、「安養寺・馬越」「三島神社・馬越」が鎮座する鯨山古墳に眠っているとされています。

「越智氏」伊予最大の豪族の源流

小致命が国造に任命されて以降、小市国造の地位は子孫に世襲されることとなり、やがて「小市直(おちのあたい)」の氏姓を称するようになります。

そしてこの一族は「越智氏」として発展し、律令制下では伊予国の越智郡司を代々務めるなど、伊予最大の在地豪族へと成長していきました。

「大山積命」小市国の祖神信仰

大山積命は、山や海を司る自然の神であり、特に農業や漁業の守護神として信仰されていました。

瀬戸内海に面した小市国(現在の愛媛県今治市東部)を統治していた小致命にとって、この神を崇めることは地域の平和や繁栄を願うための重要な宗教的行為でした。

また、小致命は大山積命の子孫とされており、祖神としてこの神を深く崇敬し、大山祇神社(大三島)を創建したと伝えられています。

「神籬」神が宿る聖域

神籬(ひもろぎ)とは、神様を一時的に迎えるための神聖な場所のことです。

古代の日本では、神様を木や石などに宿すと考えられており、榊(さかき)などの木を立てて、その周りにしめ縄を張り巡らし、その場所を神聖な領域としました。

こうすることで、神様が降臨する場所を作り、そこで祈りや儀式が行われました。

当初は一時的な場所として立てられた神籬でしたが、地域の信仰が強くなるにつれて、このような神聖な場所が恒久的な施設、神社へと発展していきました

神籬から社殿へ‥国家体制の中で形成された三島信仰

小致命が祖神・大山積命をこの地に神籬として祀った場所も、奈良時代に入るとやがて社殿を伴う神社へと発展していくことになります。

奈良時代の宗教政策

奈良時代(710年〜794年)は、日本で初めて本格的な中央集権国家が築かれた時代として位置づけられます。

この時代、日本は唐(中国)の律令制度を取り入れ、天皇を中心とする国家体制を整備しました。

全国をいくつかの「国(くに)」に分け、それぞれに国司(こくし)を派遣して統治させる仕組みがつくられます。

国司は、租税徴収や治安維持、農地の管理などの行政的役割を担うだけでなく、地方における宗教的中枢である神社の整備・保護もその職務のひとつとされました。

国家の統治権は、神々の加護を受けて行われるべきとされ、国司が主導する祭祀(さいし)は、単なる宗教行為にとどまらず、中央政権による地方支配の正統性を示す重要な政治的儀式でもありました。

そのため、特に古くからの神社や地域の信仰を集める神々に対しては、公的な保護が与えられ、社殿の建立や神職の任命が行われるようになったのです。伊予国にもその動きは及びました。

「社殿創建」二神が宿る郷の社

伊予国にもその動きは及びました。

和銅5年(712年)8月23日には、国司の小千宿祢玉興(おちのすくねたまおき)が、大山祇神社から雷神(いかづちのかみ)および高龗神(たかおかみのかみ)の二神を勧請し、社殿を建立したと伝えられています。

こうして、現在まで続く「三島神社・郷本」の形が整いました。

雷神は雷や稲妻を司り、稲作に不可欠な雨をもたらす神として信仰され、高龗神は水源や水流を司る神として尊ばれました。

こうした水と雷の神を同時に祀ることにより、「三島神社・郷本」は農業守護の神社として地域の中心的な信仰の場となり、立花郷の氏神として深く根付いていったのです。

 一の宮への昇格

神亀5年(728年)になると、三島神社・郷本は、伊予国における「国中一の宮」としての地位に昇格しました。

一の宮とは、その国(地域)で最も重要かつ格式の高い神社に与えられる称号であり、国家による宗教政策の中でも特に重視されていた存在です。

律令国家においては、国司が一の宮をはじめとする主要神社を公式に参拝することが義務づけられており、その神社は地方行政と神事の接点として機能していました。

この昇格により、三島神社・郷本は単なる郷土の氏神から、伊予国全体の宗教的中枢として位置づけられるようになり、各地から篤い信仰を集めるようになります。

河野通綱による寄進と神社の発展

元弘3年(1333年)、伊予国の国司であった河野通綱(こうのみちつな)より、三島神社・郷本に対して広大な水田が寄進されました。

河野通綱は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活動した伊予国の有力豪族・河野氏の当主であり、その家系は古代伊予国を支配した越智氏の流れをくむ一族とされています。

河野氏は鎌倉幕府の御家人としての地位を有しつつ、伊予国内で強固な在地支配を展開し、やがて南朝方の有力武将としても歴史に名を刻みました。

この寄進は、神社にとって単なる経済的支援にとどまらず、政治的な威信や地域支配の正統性を示す象徴的な行為でもありました。

寄進された水田は、神社の経済的基盤を支え、恒常的な神事の執行と信仰の維持を可能とし、地域社会における宗教的中心地としての地位を一層高めることとなりました。

宇迦魂神の合祀と信仰の広がり

後年、宇迦魂神(うかのみたまのかみ)が三島神社・郷本に合祀されることにより、神社の性格と役割はさらに大きく変化を遂げました。

宇迦魂神は、穀物や食物の神であり、特に稲作を司る神として古代から篤く信仰されてきました。

「ウカ」とは穀物を意味し、神名が示す通り、宇迦魂神は五穀豊穣の守護神として農民たちに広く祈願されてきました。

やがてその信仰は農業だけにとどまらず、食の神・商いの神としても信仰が広がり、後には稲荷信仰と結びつき、全国の稲荷神社の主祭神として崇敬されるようになります。

この宇迦魂神の合祀によって、三島神社・郷本は、従来の大山積命による山・海・自然の守護神信仰に加え、農業・商業の守護神としての役割も果たすようになり、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全など、より幅広い信仰の対象となっていきました。

こうして神社は、地域全体からの厚い崇敬を受ける多機能な信仰拠点となり、地域社会にとって欠かせない存在としての地位を確立していったのです。

衰退と復興の歩み

しかし、時代が戦国の混乱期に入ると、三島神社・郷本もまたその影響を受け、一時的に衰退を迎えます。地域の争乱や政治的混乱の中で、社殿の荒廃や祭祀の途絶もあったとみられています。

それでも、信仰の灯は絶えることはありませんでした。

文政10年(1827年)には、再びこの地に活気が戻り、社殿および拝殿の再建が行われました。さらに、明治6年(1873年)には本殿が新たに築かれ、神社はその姿を取り戻します。

大正10年(1921年)には社殿の改築が実施され、昭和25年(1950年)には屋根の葺き替えも行われました。こうして、神社は時代を越えてその姿を守り続け、今日もなお、地域の人々を静かに見守り続けています。

歴史・自然・芸術が響き合う境内

三島神社・郷本の境内には、信仰の歴史と自然の力、美術的価値が調和した数々の見どころがあります。

「三十六歌仙図」

まず注目されるのは、拝殿に奉納されている「三十六歌仙図」です。

これは天保14年(1843年)、地元の篤信者である矢野与惣右衛門らによって奉納されたもので、絵師山本美によって描かれたと伝えられています。

三十六人の和歌の名手たちが、優雅で生き生きとした筆致で表現されており、近隣の絵馬の中でも特に芸術性の高い作品として評価されています。

信仰と芸術が見事に融合した奉納絵馬として、訪れる者の目を引きます。

「クスノキ」

次に、境内の東北にそびえるクスノキもまた、三島神社・郷本を象徴する存在です。

推定樹齢200年以上、目通り約3メートル・樹高13メートルを誇るこの巨木は、今治市の保存樹にも指定されており、神社とともに長い年月を歩んできました。

広がる枝葉は境内に穏やかな影を落とし、堂々たる佇まいは訪れる人々に自然の力強さと信仰の永続性を感じさせてくれます。まさに、歴史と自然の共鳴を体感できる場といえるでしょう。

「神が宿る霊池」

また、社殿の左手にたたずむ神池は、古くから「神が宿る霊池」として神聖視されてきました。

澄み渡る水面には、社殿や木々の緑が静かに映り込み、風に揺れるその景色は四季折々に異なる表情を見せてくれます。

池のほとりに立つと、周囲の喧騒がすっと遠ざかり、心を鎮める静けさと、神の気配を感じさせるような時間がゆっくりと流れていきます。

神社名

三島神社・郷本(みしまじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市郷本町3丁目5−2

電話

0898-31-1369

主な祭礼

例大祭 (10月第2月曜日の前日)

主祭神

大山積命・雷神・高龗・ 宇迦之魂神

境内社

貴布祢神社

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