愛媛県今治市清水地区の静かな谷あいに鎮座する「三島神社・新谷(みしまじんじゃ)」は、地域の人々から古くより篤く崇敬されてきた神社です。
一見すると素朴な氏神様の社のように見えますが、その背後には、古代伊予国を支配した有力豪族・越智氏の系譜、さらには日本古代史における大戦「白村江の戦い」や、中世瀬戸内を制した河野水軍の起源にも連なる壮大な物語が秘められています。
三島神社・新谷の創建
「三島神社・新谷」の創建は、神亀5年(728年)、伊予国の豪族であった乎致宿祢玉興(おちのすくね たまおき)とその弟・乎致宿祢玉澄(おちのすくね たますみ)が、大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀って社を建立したことに始まると伝えられています。
乎致宿守興とは?
創建当初の「三島神社・新谷」は、地域の守護神として広く崇敬を集めていましたが、やがてこの社には、兄弟の父親、乎致宿祢守興(おちのすくね・もりおき)の御霊が合祀されるようになりました。
では、この乎致宿守興とはどのような人物だったのでしょうか。
「乎致(おち)」表記と越智氏
「乎致(おち)」は、古代日本における越智(おち)氏の古い表記の一つであり、古文書には「乎致」や「小千」、「子致」などの漢字が、時代や書き手によって使い分けられていたことが記録されています。
たとえば、「乎致宿守興」は同一人物でありながら、史料によっては「越智守興」あるいは「小千守興」とも表記されており、いずれも越智氏の一族を指す名称として用いられてきました。
伊予国造としての越智氏
越智氏は、伊予国(現在の愛媛県)を拠点とした古代の有力豪族であり、伊予国造(くに の みやつ)として、行政・軍事・祭祀といった地方支配の中枢を担っていました。
国造とは、ヤマト王権が地方統治を進めるために各地の有力氏族をその地域の支配者として任命した官職であり、地方政治における王権の代行者としての役割を果たしました。
越智氏はこの国造に任じられることで、伊予国内の実質的な支配権を確立し、王権と連携しながら地域の統治を行ったと考えられます。
その任務は単に行政を司るだけでなく、軍事動員や祭祀執行を通じて、国家的秩序と神々とのつながりを地方において体現する存在でもありました。
特に伊予国は、瀬戸内海交通の要衝であり、大陸や朝鮮半島との交易・軍事にも関与しうる戦略的な地であったため、越智氏のような国造の存在は、地方と中央を結ぶ要として極めて重要でした。
「宿祢(すくね)」の称号
「宿祢(すくね)」は、古代日本において高位の豪族に与えられる称号で、特に有力な氏族に与えられました。
越智氏も伊予国で大きな影響力を持ち、天皇に近い身分や権力を持つ氏族として、この称号を受けていたと考えられます。
つまり乎致宿祢玉興という名前に含まれる「“宿祢”は、玉興が豪族としての高い地位を持っていたことを示しており、越智氏の影響力を反映しています。
神の系譜をもつ越智氏
大山祇神(おおやまづみのかみ)は、山の神であると同時に、海の神・武神としても広く信仰されており、瀬戸内海を望む伊予の地においては、航海・軍事・国家守護の神格としてとりわけ重要な存在でした。
そして、越智氏はこの大山祇神を祖先と仰ぐ家柄であり、単なる地方豪族にとどまらず、その血筋と信仰を継承する一族としての誇りを代々受け継いできたとされています。
古代の記録によれば、越智氏の祖とされる乎致命(おちのみこと)は、大山祇神の血を引く存在とされ、早くから「神の子孫」として特別な位置づけを与えられていました。
その乎致命は、神武天皇の東征に先立って伊予二名島(現在の四国)に渡り、芸予海峡の要衝である御島(大三島)を「神地」と定め、祖神である大山祇神を祀ったと伝えられています。
これが、「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」の起源とされています。
こうした由緒から、大山祇神社は越智氏にとって、祖神と氏神が重なる特別な聖地であり、信仰・統治・文化の中心として深く根づいてきました。
越智氏の神と祖霊が眠る聖域
この信仰の流れの中に、「三島神社・新谷」もまた位置づけられます。
大山祇神を祀る「三島神社・新谷」が鎮座する地域は、古代より越智氏の拠点の一つとされており、信仰と支配の中枢が交差する場所でもありました。
越智玉興(乎致宿祢玉興)とその弟・玉澄(乎致宿祢玉澄)が、大山祇神を一族の守護神として祀り、さらに父である越智守興(乎致宿祢守興)の御霊を合祀して創建したと伝えられるこの神社は、まさに越智氏の血統・祖霊・神意が重なる、他に類を見ない特別な聖域であったのです。
越智守興と「白村江の戦い」
「祖霊」として祀られた越智守興は、単なる祖先ではなく、歴史の大舞台にその名を刻んだ人物でもあります。
その舞台となったのが、663年に東アジア全体を巻き込んだ国際的な戦乱「白村江の戦い(はくすえきのたたかい)です。
百済救援の決断
7世紀の朝鮮半島は、百済・新羅・高句麗の三国が覇権を争う「三国時代」と呼ばれる乱世でした。
663年、百済の宿敵であった新羅が大国・唐と手を結び、連合軍を結成。これにより、百済は滅亡の危機に立たされました。
百済は古くから日本と親密な関係を築いており、仏教や文字、先進的な文化・技術を日本にもたらした国でもありました。
そのため、日本の朝廷は百済を重要な友好国と位置づけ、何度も政治・軍事両面で支援を行ってきました。
そんな百済が滅亡寸前に追い込まれた中、百済の王子・扶余豊(ふよほう)は日本に援軍を要請。
この要請を受けた日本の朝廷は、直ちに大規模な救援軍を編成し、朝鮮半島へと派兵する決断を下しました。
伊予水軍を率いた「越智守興」
この戦いの主戦場となったのは、白村江(はくすきのえ)河口付近、すなわち、海上でした。
そのため、日本軍には高度な航海技術と戦闘能力を備えた強力な水軍が求められました。
この際、瀬戸内海を拠点とする伊予国の水軍が重要な役割を担うこととなり、その指揮を執ったのが、伊予国の有力豪族である越智守興でした。
663年、朝鮮半島南部にある白村江(現在の錦江)という川のほとりで、「百済・日本連合軍」と「新羅・唐連合軍」がついに激突しました。
越智守興率いる伊予水軍は、先陣を切って戦列に加わり、白村江の海上にて果敢に唐軍の艦隊に挑みました。
しかし、大国・唐と新羅の連合軍は、兵数・戦術の両面で優勢であり、日本の艦隊は唐の重装船団と火矢による攻撃を受けて次々と撃沈されていきます。
やがて連合軍の猛攻に抗しきれず、日本軍は壊滅的な敗北を喫し、朝鮮半島からの撤退を余儀なくされました。
この敗戦により百済は完全に滅亡し、友好国を失った日本は、朝鮮半島における政治的・軍事的な影響力を完全に失ってしまいました。
捕虜として生き延びた守興と帰国
伊予水軍を率いていた越智守興は、この戦いの中で新羅の捕虜となってしまいましたが、脱走に成功し、故郷である伊予国に無事に戻ることができました。
帰還を果たしたのは大宝2年(702年)。
戦から数えて、実に39年もの歳月が流れていたことになります(※諸説あり)。
敗北後の改革と越智氏の台頭
この戦いでの敗北は、日本にとって未曾有の国難となりました。
唐と新羅が日本に侵攻してくる可能性を恐れ、防衛体制を強化するための大規模な政策を実施。
この一環として、日本の沿岸部に防人(さきもり)という防衛兵が配備され、要塞や城が建設されました。また、大宰府(福岡県)の防衛も強化され、唐や新羅の侵攻に備えました。
律令的な地方行政組織の前身である「評(こおり)」も成立し、のちに郡制が導入されました。この制度は、大和朝廷の地方管理体制を強化し、越智氏は越智郡の地方官としての役割を果たすようになりました。
唐で生まれた玉澄が名乗った「河野」
一説によると、越智守興が白村江の戦いで新羅に捕らえられていた間、唐の武将の娘との間にもうけた子が「玉守」と「玉澄」であると伝えられています。
もしこの伝承が史実であるとすれば、玉守・玉澄の兄弟は異国の地である「唐」で生まれ、のちに父・守興が日本への帰国を果たした際、二人も一緒に伊予国に移り住んだことになります。
さらに、弟の玉澄(たますみ)は、伊予国の風早郡(現在の愛媛県松山市北部)・河野郷に居を構えたことから、「河野玉澄」と名乗ったとされています。
これが、のちに中世瀬戸内を代表する海の武士団・河野氏の起源とされています(※諸説あり)。
河野氏の記憶を繋ぐ神社
河野氏はその後、伊予国(現在の愛媛県)を拠点に台頭し、独自の水軍「河野水軍」を率いて、瀬戸内海の軍事・交易・海上交通の要所を掌握しながら勢力を拡大していきました。
さらに、能島・因島・来島の三家から成る村上水軍とも連携し、瀬戸内海全域にわたって圧倒的な海上支配力を築き上げていきます。
やがて河野氏は伊予の盟主として君臨し、室町時代には伊予守護職にも任じられて、幕府や朝廷と巧みに関係を築きながら、西国屈指の海上勢力へと成長を遂げました。
戦国時代に入ってからも、毛利氏や長宗我部氏とたびたび抗争を繰り広げながら、海上交易を背景に高い独立性を維持していましたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐に屈し、その支配は終焉を迎えることとなります。
こうした長い伊予の歴史の出発点に、越智守興・玉澄の伝承があるとするならば、「三島神社・新谷」は、一族の記憶を超えて、伊予と瀬戸内の歴史を静かに語り継ぐ場所といえるでしょう。
三島神社・新谷に残る守興公の墓
その存在を象徴するように、神社の入口には一枚の立札が静かにたたずんでいます。
鳥居をくぐり、境内へと一歩足を踏み入れると、右手には「平致守興之奥城(おちもりおきのおくつき)」と記された標柱が目に入ります。
「奥城(おくつき)」とは、現代の「城(しろ)」とは異なり、古代から中世にかけて用いられていた語で、「お墓」や「墳墓」、あるいは祖霊が眠る神聖な場所を意味するものです。
さらにその奥へと進むと、「小千守興之墓(おちもりおきのはか)」と刻まれた立派な墓石が
この墓所は、越智氏との深い関わりを今に伝え、守興公とその一族がかつてこの地に確かに生きていたことを静かに示しています。