桜井地区登畑に鎮座する「三島神社・登畑(みしまじんじゃ)」は、非常に古い歴史を持つ神社で、元々は富田村高市郷(現在の今治市高市)に鎮座していたとされています。
鉄人を討て!伊予の英雄伝
三嶋神社・登畑の創建は、今からおよそ1300年前、推古天皇(在位593~628年)の御代にさかのぼると伝えられています。
当時、新羅 (しらぎ)・百済 (くだら)・高句麗 (こうくり)の「三韓(朝鮮大陸)」に「鉄人」と名乗る非常に強くて悪賢い武将がいました。
鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。
そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。
これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。
最恐の鉄人の進軍を止めろ!
日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、彼は突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。
兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。
さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れました。
このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。
暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。
そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。
もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族「小千益躬・(越智益躬・おちのますみ)でした。
三島大明神の御神託
朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「三嶋大明神(三島大明神・大山祇神・大山積神)」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。
その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
益躬 vs 鉄人
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。
武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでも益躬じっとチャンスを待ち続けました。鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の選坂(かにさか )にまで到達しました。
この時、ついに決定的な好機が訪れます。
三島大明神の神撃が鉄人を貫く
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。
すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。
鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいきました。そして驚くべきことに、唯一の弱点とみられた足の裏に穴に突き刺さったのです。
これが致命傷となり、鉄人はそのまま息を引き取りました。
こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
大将である鉄人を失い大混乱の軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。
手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。
詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。
この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。
高市郷に創建された三島神社
その後、伊予に帰国した益躬は、富田村田高市郷(現在の愛媛県今治市高市)に三島大明神(大山祇神)を勧請し、赤・青・紫の美しい織旗を社の周囲に掲げて戦勝を祝いました。
これが、今日の「三島神社・登畑」の創建由来と伝えられています。
高市の三島神社が現在の地へ
天正年間(1573〜1593年)になると、高市から現在の桜井地区・登畑に神社が移されました。この移転を主導したのは、当地の有力な氏族であった三宅川家(みやがわけ)であったと伝えられています。
三宅川家とは
三宅川家は、南北朝時代に河野氏第26代当主であった河野通有の孫、越智朝臣通房(三宅川備後守)を始祖とする家系であり、古くから伊予国と深い繋がりを持つ氏族でした。
この一族の一人、「三宅川永昌入道越智通常(みやがわえいしょうにゅうどう おちみちつね)」は、先祖代々の領地である伊勢国宮川(現在の三重県伊勢市)を治めていました。
しかし、戦国時代の動乱の中、永禄十二年(1569年)、通常は一条兼定の招きに応じ、土佐国赤岡・岸本(現在の高知県香南市)に移り住むこととなります。
土佐国への移住後、通常は新たな領地で一族の繁栄を図ろうとしましたが、移住後まもなく、三宅川家は長宗我部元親との衝突が避けられない状況に直面します。
長宗我部元親との衝突
長宗我部元親(1539年-1599年)は、四国全域を統一しようとした戦国大名であり、土佐国を拠点に勢力を拡大していました。
元親は、若い頃にはその穏やかな性格から「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれ、戦士としての資質を疑われることもありましたが、成人後にはその才覚を発揮し、次々と周辺の豪族を服従させていきました。
元亀2年(1571年)頃までに元親は土佐国全域をほぼ掌握するに至り、その勢いはピークに達しました。
通常は、元親の軍勢に対抗するため、土佐国赤岡・岸本に拠点を構え、必死に抵抗しましたが、元親の圧倒的な兵力と戦術の前に、次第に追い詰められていきました。そして元亀4年(1573年)頃には、三宅川家の防衛線は崩壊し、ついに長宗我部軍に敗北を喫しました。
この敗北によって、通常は土佐国での拠点を維持することが極めて困難となり、これ以上の抵抗を続けることは現実的ではなくなりました。
土佐から今治市登畑へ移住
このため、通常はやむを得ず、土佐国を撤退し、先祖代々の縁の地であった伊予国越智郡登畑(現在の愛媛県今治市登畑)に戻ることを決断しました。
「三島神社・登畑」と三宅川家の再興
三宅川通常が新たに拠点を構えた霊仙山の麓、頓田川(富田川)沿いの地は、豊かな自然に恵まれ、農業や防衛に適した理想的な場所でした。
霊仙山は古くから地域の信仰の対象とされ、その霊的な力は地域社会にとって大きな意味を持っていました。
こうした地に根を下ろした三宅川通常は、地域と深く関わりを持つ中で、信仰の中心となる「三島神社・登畑」をこの地に移すことを決意したのではないでしょうか?
それは単なる神社の移転にとどまらず、三宅川家が新たな地で信仰と共同体の絆を再び築き直す、静かなる志の表れだったのかもしれません。