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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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三島神社・馬越(今治市・日高地区)

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今治市馬越町。

この町の一角には、季節ごとに表情を変える静かな丘「鯨山(くじらやま)」があります。

この丘は、実は古代の墳墓である「古墳」として知られ、長い年月を超えて地域の人々に親しまれてきました。

そしてその頂にあるのが、全国的にも珍しい、古墳の上に鎮座する神社「三島神社・馬越(みしまじんじゃ)」です。

大山祇神社の分霊と安養寺の起源

三島神社・馬越の始まりは、奈良時代の初めにさかのぼります。

元明天皇の詔勅を受けた伊予国司・越智玉純(おちのたまずみ)は、国土鎮護と地方支配の安定を目的として、伊予国内の九十四郷それぞれに大山祇神社の神霊を勧請し、「三島神社」の創建を進めました。

そして、その一社として、和銅5年(713年)8月23日、現在の今治市馬越町に「三島神社・馬越」が創建されました。

三神の守護

こうして誕生した三島神社・馬越には、三柱の神々が祀られました。

  • 大山津見命(おおやまつみのみこと)
  • 上津比売命(うわつひめのみこと)
  • 下津比売命(したつひめのみこと)

大山津見命は、大山祇神社の主祭神であり、「大山積神(おおやまつみのかみ)」や「三島大明神」とも呼ばれ、山と海をつかさどる神として古来より崇敬されてきました。

上津比売命(磐長姫命)と下津比売命(木花開耶姫命)はその娘神にあたり、上津比売命は磐長姫命(いわながひめのみこと)、下津比売命は木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)とされます。

古事記・日本書紀では、天孫・邇邇芸命が木花開耶姫命のみを娶ったため、人の命が短命となったという神話が語られています。

こうした神々の系譜は、自然や命そのものをめぐる古代人の世界観を今に伝えています。

日吉郷の中心神社

このように、自然と命の営みに深く関わる神々を祀る三島神社・馬越は、古来よりその神威によって人々の信仰を集め、越智郡日吉郷において「一郷一社」として位置づけられてきました。

「一郷一社」とは

「一郷一社」とは、奈良時代以降の律令制に基づく信仰制度のひとつで、一つの「郷」(ごう)=行政・宗教の単位に対して、最も重要な神社を一社だけ定め、その地域の守護神として祀る制度を指します。

当時の「郷」は単なる村落ではなく、複数の村や集落を束ねる広域的な行政区画であり、平安時代中期には全国でおよそ4,000郷が存在していました。

それぞれの郷には、祭祀や行事を担う中心神社が置かれ、人々はそこを信仰の核として生活を営んでいました。

伊予国の中でも、国府が置かれていた越智郡(現在の今治市)は特に重要な地域とされ、10郷を擁しており、これは伊予国内で最多でした。

その中でも日吉郷(ひよしごう)は越智郡の中心的な位置を占めていた郷のひとつで、現在の今治市中日吉町・北日吉町・南日吉町をはじめ、馬越町や大浜町、片山町などを含む広範な地域を管轄していました。

その面積はおおよそ6〜10平方キロメートル程度と推定され、越智郡の中でも文化的・宗教的な中核をなす郷であったと考えられます。

江戸時代における行政再編と馬越村の成立

江戸時代に入ると、それまで地域の行政単位とされていた「郷」は次第に形骸化し、「村」が社会運営の基本単位として整備されていきました。

幕府は村ごとの年貢徴収や秩序維持を円滑に進めるため、庄屋制度の確立に力を入れ、各地で村政の再編を図っていきます。

今治藩においても、この動きは例外ではありませんでした。

今治藩の初代藩主となった松平定房(まつだいら さだふさ)にとって、村政整備が藩政初期の重要な課題とされました。

定房は、前領主・藤堂高吉や加藤嘉明の時代から庄屋を務めていた者たちについて、その実績や人柄を慎重に調査しました。

そして、有能と判断された者は大庄屋に抜擢したり、他村の重職に任じたりすることで、人事の再編を行なっていきました。

一方で、長期にわたり職に就いて惰性で勤めていた庄屋については引退を勧め、その子や一族と交代させました。

また、村の中に眠っている優秀な人材を探し出し、適任者を庄屋に任命するなど、徹底した組織の整備が行われました。

こうして今治藩内では、村落ごとの統治効率を高めるための制度的基盤が固められていったのです。

馬越村の独立と村政の開始

このような村政再編の一環として、慶長年間(1596〜1615)には、もともと日吉村の一部であった馬越地域も行政上の便宜から分村され、新たに「馬越村」として独立を果たします。

初代庄屋には田坂四郎左衛門が任命され、地域運営が本格的に始動しました。

馬越村は今治平野のほぼ中央、鯨眠山(現在の鯨山)南麓に広がる、正方形に近い整った地形をなしていました。

地形はやや低湿ながらも、日吉川や浅川といった水流に恵まれており、灌漑が行き届いた肥沃な農地が広がっていました。

こうした自然条件のもと、馬越村の石高は約350石(こく)に達します。

これは米に換算すると約50トンに相当し、成人1人の年間消費量を1石とすれば、100人以上の生活を支える中規模な農村であったことがわかります。

交通の要地としての馬越

また、馬越村は東に日吉村、南と西に片山村、北に山路村と隣接しており、複数の村を結ぶ位置にありました。こうした立地条件により、馬越は地域内の交通の要地としても発展を遂げていきました。

馬越町の三島神社

こうして独立した村として歩みを始めた馬越村も、時代の流れの中で明治以降に町村制が施行され、次第に行政区画の再編が進み、

大正九年(1920年)二月十一日、越智郡今治町と隣接する日吉村が合併し、今治市が誕生しました。

この行政再編の流れのなかで、馬越村は馬越町として今治市に組み込まれました。

そして、馬越村の三島神社は、馬越町の三島神社として、時代の移り変わりのなかにあってもその由緒を守り続け、今もなお、地域の人々の心に寄り添いながら、この地に鎮座しています。

神仏集合の時代の中で歩んだ「安養寺・馬越」

三島神社・馬越の歴史を語る上で、欠かせないもう一つの存在があります。

それが、現在も神社と同じく、鯨山古墳にある「安養寺・馬越(あんようじ)」です。

「神宮寺」から真言宗の寺院へ

和銅5年(713年)8月23日、三島神社・馬越が創建された際、神社に付随する仏教寺院「神宮寺(じんぐうじ)」も建立されました。

この神宮寺には、大山津見命(大山積神)の本地仏(ほんじぶつ)とされる大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)が祀られ、長らく信仰を集めていましたが、時代の流れとともに次第に荒廃していきました。

しかし、江戸時代初頭の元和元年(1615年)、僧侶・空真沙彌(くうしんしゃみ)によって再興され、宗派も真言宗に改められるとともに、寺名が「安養寺・馬越」と定められました。

三島神社・馬越の別当寺

こうして再興された安養寺・馬越は、単なる神宮寺としての役割にとどまらず、三島神社・馬越の「別当寺(べっとうじ)」としての立場を担うようになります。

さらに寛永年間(1624〜1644年)に入ると、安養寺・馬越は「南光坊(なんこうぼう)」の末寺となり、以降、安養寺の住職職は南光坊によって兼務されるようになりました。

俊照阿闍梨と享保の中興

その後、しばらくは無住の時期が続き、寺勢も衰えていきましたが、享保年間(1716〜1736年)に入り、第二世住職・俊照阿闍梨(しゅんしょうあじゃり)によって再興されます。

これにより、安養寺・馬越は再び信仰の場としての活気を取り戻していきました。

俊照阿闍梨の志はその後の住職たちにも受け継がれ、天明元年(1781年)には本堂が建立されます。

以降も再建や修繕を重ねながら、安養寺・馬越は三島神社・馬越とともに、地域の人々に寄り添う信仰の拠点として親しまれていきましたが、明治時代におけるある政策が転機となり、両者は別々の道を歩むこととなります。

「神仏分離令」明治の厳しい時代

その政策とは、明治元年(1868年)に明治新政府が発布した「神仏分離令(神仏判然令)」です。

当時の日本は、幕末以来の開国によって欧米列強と直接向き合う状況にあり、列強諸国によるアジア諸国の植民地化が急速に進んでいました。

実際、清(中国)はアヘン戦争を経て半植民地化され、インドやベトナム、ビルマ(現:ミャンマー)なども次々と欧米列強の支配下に置かれていきます。

こうした国際情勢の中で、日本は「近代国家として欧米に対抗し、独立を維持する」という強い危機意識を抱くようになりました。

その一環として、政治・経済・軍事だけでなく、宗教制度も国民統合の柱として再編成する必要があると考えられたのです。

そこで明治政府は、天皇を中心とする国家理念を支える宗教として「国家神道」を打ち立て、仏教と神道が混ざり合っていたそれまでの信仰体系「神仏習合」を根本から見直す必要があると判断しました。

そのための第一歩が、神仏分離令でした。

これは本来、神と仏を制度上明確に区別し、神社の祭祀を仏教的な影響から解放するという、宗教制度の整理を目的とした行政上の通達に過ぎませんでした。

しかし、地方においてはこの意図が正確に伝わらず、あるいは時勢の変化に乗じた過激な行動として、各地で仏教に対する敵意や排斥が急激に高まっていきます。

特に明治初年(1868年~1872年)には、仏像の打ち壊しや仏具の焼却、仏教寺院の廃絶、さらには僧侶の還俗や迫害などが相次ぎました。

これらの動きは、やがて「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と総称される、全国規模の激しい排仏運動へと発展していきます。

この廃仏毀釈によって、全国で数多くの寺院が破却され、仏教文化は深刻な打撃を受けました。

とくに、神宮寺や別当寺として神社と密接に関係していた寺院は、その存在基盤を根こそぎ奪われることとなったのです。

このような厳しい時代の流れの中で、安養寺・馬越もまた、長らく神社と一体となって歩んできた歴史を断ち切らざるを得なくなりました。

そして明治8年(1875年)には、それまで安養寺が管理していた社地を三島神社側に譲渡し、両者は宗教的・制度的に正式な分離を迎えることとなったのです。

以後、今治市馬越町・鯨山古墳の地において、安養寺と三島神社は、それぞれ独立した宗教施設として歩みを分けながらも、地域の人々の信仰を支え続けています。

鯨山古墳の由来と安養寺・馬越の関係

このように長い歴史がある三島神社・馬越ですが、その立地にもまた、古代から続く由緒があります。

実はこの寺が建つ「鯨山古墳(くじらやまこふん)」は、古代の有力者が眠るとされる、謎に満ちた大型古墳なのです。

地名に残る海の風景

鯨山古墳は、愛媛県指定史跡として「日高鯨山の古墳」と名付けられている大型の古墳で、その名前の由来は、その地形と古代の地理的環境に深く関係しています。

古墳の場所は、現在でこそ丘陵として残っていますが、かつてこの地域は入り江に面しており、今の地形とは異なる海岸線が形成されていました。

この山は元々は串山呼ばれていましたが、満潮時には丘陵がまるで海に浮かぶクジラのように見えたことから、神亀5年(728年)に鯨眠山と名付けられました。

この伝承について、江戸時代の地誌である『愛媛面影』には次のように記録されています。

「かつてこの地域は海に面しており、現在の丘陵が海上から突き出る姿がクジラのように見えたため、地域の人々が『クジラが泳いでいるようだ』と称した」

時代が進むにつれて、地元の人々はこの山を「鯨眠山」からより簡略化した「鯨山(くじらやま)」と呼ぶようになりました。

安養寺・馬越の呼称と山号の変遷

安養寺・馬越もまた、時代と共にその呼ばれ方が変わってきました。

和銅5年(712年)、「串山」に三島神社・馬超が建立され、その神宮寺として「串山安艱寺」が建てられました。

しかし、串山が鯨眠山と呼ばれるようになったため、神亀5年(728年)に「鯨眠山安艱寺」と山号を変更。

元和元年(1615年)には、空真沙彌によって山号を「新宮山」とし、現在の「新宮山安養寺」となりました。

そして、明治8年(1875年)に神仏分離令が発令され、三島神社・馬越は神道の施設として、安養寺・馬越は仏教寺院としてそれぞれ独立して存在することとなりました。

地殻変動にでクジラのような丘陵地へ

約1万年前、氷河期が終わり地球の気温は急激に上昇しました。この温暖化によって氷河や氷床が溶け出し、海面が上昇しました。

この現象は「海進(かいしん)」と呼ばれ、世界中の沿岸地域で海面が内陸へ進出し、海岸線が大きく後退しました。

古墳がある馬越町もこの時期に海岸線が内陸まで進入していた地域の一つとされています。

海面の上昇は数千年にわたって続き、特に約6千年前の温暖期には、海面がさらに高くなり、現在の馬越町一帯はほとんど海に囲まれた状態でした。

この頃、丘陵地であった鯨山古墳の位置する場所は、周囲の低地に海水が入り込み、まるで島のように海に浮かぶ地形となっていました。

このため、地域の人々はこの丘陵を「クジラのようだ」と見なし、やがて鯨山と呼ばれるようになったと考られます。

地質学的な調査によって、この地域に海水が入り込んでいたことが明らかになっています。特に、蒼社川や浅川などの河口が現在よりもはるかに広がっていたことが確認されています。

これらの河川は、長い時間をかけて土砂を運搬し、次第に内陸部の低地を埋め立てていきましたが、氷河期終焉直後の時期にはまだ海が深く入り込んでいました。

馬越町の標高は約7メートルですが、過去の研究によれば、約2200年前にはこの地域が海岸線に接していたことが推定されています。

この推定は、土木工事などの際に発見された地質的な証拠、例えば岩盤に付着したカキ殻の存在からも裏付けられています。カキ殻は、海洋生物であるため、海水がこの地域まで達していた証拠と見なされます。

馬越の由来

また、馬越という地名には「かつてこの地域が海であった頃、人々が馬に乗ってこの地を越えた」という伝説が残されています。

この話は、地域の伝承として長く語り継がれていますが、歴史的な観点からは矛盾も存在します。

たとえば、中国の歴史書『魏志倭人伝』では、弥生時代の日本には馬が存在していなかったと記されています。

したがって、この伝説は実際の歴史というより、後世に作られた物語と考えられます。

しかし、こうした伝説が必ずしも事実にもとづいていないとしても、地域の人々にとっては重要な歴史の一部であり、世代を超えて口伝され続けてきました。

遺跡から浮かび上がる海の記憶

また、周辺地域の考古学的発見として、阿方貝塚や片山貝塚などの遺跡からも、海岸線がかつてこの地域まで広がっていたことが示されています。

これらの貝塚は、古代の人々が食料として利用した貝殻などを捨てていた場所であり、標高約10メートル付近で発見されています。

このことから、当時の海岸線が現在よりも内陸に位置していたことが確認されています。

このような地殻変動は、海面の上昇だけでなく、周辺の河川の堆積作用も地形に大きな影響を与えました。

蒼社川や浅川など、馬越町を流れる河川は、山間部から土砂を運び、次第に低地に堆積させていきました。

この堆積作用によって、次第に内陸部の海が埋め立てられ、現在のような平地が形成されました。

今治地方では、河川の堆積物が100年間に約10センチメートルのペースで蓄積すると言われており、数千年を経て広大な平野が形成されていきました。

馬越町の標高は約7メートルで、これは現在の海面よりも高い位置にありますが、過去に海水が侵入していた時代にはこの地が海岸線に接していました。

このことからも、当時の人々はこの地を「クジラのような島」として認識していた可能性があります。

古墳時代の地方豪族の権威の象徴

古墳時代(500年〜)にはいると、この地域は現在のような丘陵地帯としての特徴を持つようになりました。

古墳時代の特徴の一つが、地域の豪族たちが自らの権威を示すために大規模な古墳製造です。

鯨山古墳もその一例であり、この地域を統治していた豪族の重要な墓として位置づけられています。

鯨山古墳には、「越智国造(おちのくにのみやつこ)」という地方豪族が深く関わっているとされています。

越智国造は、古代の伊予国(現在の愛媛県)を統治していた有力な豪族であり、瀬戸内海一帯を中心に強大な影響力を持っていました。

国造制度は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、日本各地の地方での統治者が、中央の大和朝廷から国造としての地位を与えられる制度で、国造はその地域の行政や治安、宗教的な儀式を統括する役割を果たしていました。

越智国造は、古代の伊予国においてその勢力を強め、地域の政治的・宗教的リーダーとして位置づけられで、中央の大和政権ともつながりが深い一族でした。

乎知命のお墓

越智国造の中で重要な人物であり、鯨山古墳に埋葬されたと伝えられているのが「小千御子(おちのみこ)」、すなわち「乎知命(おちのみこと・小千命)」です。

乎知命は、大三島の大山祇神社を創建したと伝えられる人物であり、古代においては単なる地方豪族にとどまらず、政治的な統治者であると同時に、宗教的な権威者でもありました。

そのため、乎知命が眠るとされる鯨山古墳は、この地における聖域として、長く特別な意味をもっていたと考えられます。

この伝承を裏付ける史料としては、天正7年(1579年)、中世三島神社の高位神職・大祝(おおほうり)であった三島安人(みしまやすとう)の手記に「小千御子御墓」との記述が残されています。

これは、古代から中世に至るまで、鯨山が信仰の対象であり続けたことを示す貴重な記録になります。

また、鯨山古墳の北部からは土器や埴輪が出土しており、少なくともこの地が古代からの祭祀の場であったことが、考古学的にも裏付けられています。

こうした伝承を大切に受け継いできた地元の人々は、鯨山の北斜面に小さな祠を建て、「小千命社(おちのみことしゃ)」として、乎知命を静かにお祀りしています。

現在の鯨山古墳

現在、鯨山古墳は今治市の住宅地に囲まれており、その全体像を一望することは難しいですが、地域の重要な歴史的遺産として大切に保存されています。

1950年(昭和25年)には愛媛県指定史跡に指定され、今もなおその歴史的価値が広く認識されています。

鯨山古墳は、古代から現代に至るまで、多くの歴史と文化を抱えた存在です。

発掘調査が行われていないため、古墳の全貌はまだ明らかになっていませんが、今後の研究や調査によって、さらなる発見が期待されています。

  

神社名

三島神社・馬越(みしまじんじゃ)

所在地

今治市馬越町字鯨眼山1-耕地229

電話

0898-32-2448

主な祭礼

例大祭(5月5日)

主祭神

大山津見命・上津比売命・下津比売命

境内社

広瀬神社・荒神社

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