和銅5年(712年)8月23日に創建された「三島神社・四村(みしまじんじゃ」は、現在の今治市に点在する数多くの三島神社(三嶋神社)のひとつで、その起源は、古代の豪族・越智氏(おちうじ)が、大三島に鎮座する大山積命(おおやまつみのみこと)をこの地に勧請したことに由来します。
越智氏と大山祇神信仰
越智氏は、古代日本において有力な豪族の一族で、当時の瀬戸内海の小市国(現在の今治市周辺)を治めていました。
瀬戸内海沿岸は、古代における交通と経済の要衝であり、農業や漁業が栄える豊かな地域でした。とくに今治周辺は、海上交通の結節点として、政治的・経済的にも重要な位置を占めていました。
こうした恵まれた自然と地勢を背景に、越智氏は地域の発展を図りながら、精神的な拠り所として特に大切にしたのが、大山積命(おおやまつみのみこと)への信仰でした。
大山祇神社の創建伝承
大山積命(おおやまつみのみこと)は、古代より山と海の神として広く崇敬されてきました。
とくに瀬戸内海沿岸では、山の恵みと海の幸に支えられた人々の暮らしの中で、日々の営みに寄り添う存在として大山積命への信仰が深く根づいていきました。
越智氏にとっての大山祇神
その信仰の中心とされるのが、愛媛県今治市大三島に鎮座する、古来から「日本総鎮守」と尊称されてきた「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」です。
大山祇神社は、大山積命を主祭神とする全国の「三島神社」や「三嶋神社」の総本社とされ、古くから格式高い社格を誇ります。
中世以降は武家の崇敬も篤く、源氏・平氏・河野氏・村上水軍などが戦勝祈願や奉納を行った記録が数多く伝えられています。
そしてこの大山祇神社を創建したとされるのが、大山積命の子孫であり、越智氏の祖と伝えられる乎致命(おちのみこと)です。
このため越智氏にとって、大山積命は単なる守護神ではなく、血統によって結ばれた「祖神」として特別な信仰の対象でした。
その信仰は、越智氏が伊予の地において政治的正統性を主張し、統治を確立するうえで、精神的支柱の役割を果たしていたのです。
三島神社が歩んだ歴史
こうして創建された「三島神社・四村」ですが、長い歴史のなかで時代の変化とともに、徐々にその姿を変えていきました。
仏城寺の境内に鎮座
創建当初の「三島神社・四村」は、現在の場所ではなく、同じ地区(字日ノ本)の「仏城寺(ぶつじょうじ)」の境内に、小さな祠として鎮座していたとされています。
しかし、仏城寺の建立は暦応2年(1339年)であり、三島神社・四村の創建である和銅5年(712年)よりも約600年後のことです。
このため、神社が先に創建され、その後に仏城寺がその敷地内に建立され、神社と寺院が同一の場所に共存する形となったと考えられます。
当時は神仏習合が広く浸透していた時代であり、神道と仏教の信仰が融合し、神社と寺院が同じ敷地内に祀られることは決して珍しいことではありませんでした。
「三島神社・四村」と仏城寺の共存も、この神仏習合の典型的な例といえます。
「神社合祀」小祠から信仰の中心へ
小さな祠として存在していた「三島神社・四村」でしたが、やがて地域の信仰の中心として、徐々に発展していきました。
その転換点のひとつとなったのが、天保14年(1843年)に実施された神社合祀(じんじゃごうし)です。
当時の神社合祀は、全国的な神社再編の一環として行われたもので、複数の小規模神社を統合することにより、神社の管理を効率化し、地域の信仰を一カ所に集中させる目的がありました。
「三島神社・四村」もこの流れのなかで、村人たちの要請を受けて八幡宮など2つの小社を合祀し、新たな社殿の造営が行われました。
明治期「神仏分離政策」の影響
次なる大きな転換点は、明治元年(1868年)に政府によって発布された神仏分離政策です。
この政策により、全国の神社と寺院は宗教的に分離され、それぞれ独立した宗教施設として再編されることとなりました。
「三島神社・四村」もこの影響を受け、それまで仏城寺と共に神仏習合のかたちで祀られていた仏教的要素が排除され、神道の神のみが祀られるようになります。
以降、「三島神社・四村」は神道の純粋な神社としての役割を果たすようになりました。
現在地への遷座(昭和期)
そして最後の大きな変化が、昭和4年(1929年)6月3日に実施された神社の遷座(移転)です。
この遷座により、「三島神社・四村」は長年鎮座していた仏城寺の境内から現在の地へと移され、新たに社殿が造営されました。
この移転によって、神仏分離後の方向性をさらに明確にし、地域の信仰の拠点としての姿を現在にまで伝えることとなったのです。
地域のなかの三島神社
長い歴史のなかで幾多の変遷を経てきた「三島神社・四村」は、現在では地域の信仰の場としての姿を新たにし、その営みは今も変わらず受け継がれています。
かつての神仏習合や神社合祀、移転などを経てなお、人々の心に息づくその存在は、単なる宗教施設という枠を超えた役割を果たすようになりました。
現在では、地域のコミュニティ活動の拠点としても親しまれており、夏休みには子どもたちが集まり、ラジオ体操や奉仕活動などを通じて世代を超えた交流が行われています。
静かな境内に響く子どもたちの声や、地域の人々が協力して行う行事の数々は、この神社が今も「地域の中心」として生きていることを実感させてくれます。
こうした日々の営みを通じて、「三島神社・四村」は地域の絆を育み、人々のつながりを支えるかけがえのない場として、これからも大切に守られていくことでしょう。