今治市町谷に鎮座する三嶋神社・町谷(みしまじんじゃ・まちだに)は、古くからこの地の信仰を支えてきた由緒ある神社です。
周囲には「歓喜寺(かんきじ)」・「法徳寺(ほうとくじ)」・「天祐寺(てんゆうじ)」などの寺院が集まり、古くから信仰の厚い地域として知られてきました。
神社が並び立つ境内
神社の入り口には、「三嶋神社」とともに「姫坂神社」の社号標が並び立ち、参拝者を迎えます。
石段を登りきると、正面には三嶋神社の拝殿が厳かに佇み、その右手には姫坂神社の拝殿をはじめ、大己貴神社・山神社・秋山明神社などの境内社が静かに祀られています。
このうち秋山明神社は、地域にゆかりの深い秋山氏の祖霊を祀る社とされ、特に地元の人々から篤い信仰を集めています。
秋山氏は、同じ富田地区の「三嶋神社・上徳(みしまじんじゃ)」とも関係が深く、武家としての系譜を持ちながらも、地域の開発や社会の発展に大きく貢献した名家として広く知られています。
秋山明神社は、地域にゆかりの深い秋山氏の祖霊を祀る神社とされ、特に地元の人々の厚い信仰を集めています。
三嶋神社・町谷のはじまり
三嶋神社・町谷の創建は、和銅年間(708〜714年)。
元明天皇の詔勅(みことのり)により、当時の伊予国司であった越智玉純(おちのたまずみ)は、伊予国内に点在する九十四の郷(ごう)それぞれに三嶋神社を建立することを命じられました。
玉純はこの命を受け、大三島の「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」から、主祭神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を伊予各地に勧請(かんじょう)し、神社の創建を進めていきました。
「三嶋神社・町谷」も、そうした歴史的背景をもとに設立された由緒ある一社であり、以来、地域の守り神として長く信仰を集めてきました。
三嶋神社・町谷の近代の歩み
かつては「楠谷神社(くすがやじんじゃ)」とも呼ばれ、町谷地区に根付く古社として長い間崇敬されてきました。
明治時代に入ると、日本全国で神仏分離令(1868年)が発布され、それまでの神仏習合の信仰形態が大きく見直されることになります。
これにともない、国家神道の確立を目的とした神社制度の整備が進み、各地の神社はその由緒・格式・地域での役割に応じて、官幣社・国幣社・府県社・郷社・村社などの等級に分類される制度(社格制度)が導入されました。
そのなかで、三嶋神社・町谷は、明治12年(1879年)に正式に「村社」に列格し、町谷地区においての総鎮守としての役割を果たしていたことが公に認められました。
姫坂神社の由緒と伝承
三嶋神社と並んで鎮座する姫坂神社の創建の詳細は明らかではありませんが、一説には、今治中央地区に鎮座する「姫坂神社・宮下(ひめさかじんじゃ)」が、もともとはこの地に祀られており、後に何らかの事情で社殿が遷された可能性があるとされています。
実際に残されている記録によれば、明治41年(1908年)に姫坂神社は三嶋神社の境内社として合祀されましたが、昭和21年(1946年)には、かつての鎮座地において独立・復興(復社)が行われました。
昭和44年(1969年)には、再び三嶋神社の境内へと遷座され、以降現在に至るまで境内社の一つとして祀られています。