「水大使堂(みずたいしどう)」は「水大師さん」として親しまれ、古くから多くの人々の信仰を集めてきました。特に、ここに湧き出る霊水には、病気平癒や厄除けのご利益があるとされ、なかでも「いぼ取り」に霊験あらたかと伝えられています。
訪れる人々は、御神水をいただきながら修行を行い、病の回復や健康を願います。どれほどの日照りが続いても枯れることのないこの霊水は、今もなお、信仰の象徴として大切に守られています。
水大師堂の信仰の起源は、円久寺(桜井市区)の住職「自海」に由来します。
起源と霊水の奇跡
安永年間(1772年~1780年)、円久寺の僧侶自海は、病に苦しみながらも回復の道を求めて旅に出ました。
長年仕えていた円久寺を離れ、各地を巡りながら修行と養生を重ね、健康を取り戻す方法を探していたのです。しかし、なかなか快方に向かうことはありませんでした。
そんなある日、笠松山のふもと・鶴ヶ巣の地にたどり着きます。そこで、ふと目にしたのは、不思議な湧き水でした。
神秘の霊水と回復の奇跡
その水は、どれほど日照りが続いても枯れることなく、透き通るように澄んでいたといいます。
「この水には何か特別な力が宿っているのではないか」
そう感じた自海は、その地に小さなお堂を建立し、弘法大師の御影を祀りました。そしてその場にとどまり、水を口にし、身を清めながら祈りを捧げました。すると、不思議なことに次第に体調が回復し、やがて病が癒えたのです。
霊験の広まりと信仰の定着
この奇跡はすぐに広まり、湧き水は病気平癒の霊水として評判になり、多くの人々が訪れるようになりました。童子に自海は「大安自海」と称されるようになり、神秘の体験と霊水のご利益が広く語り継がれていきました。
こうして、水大師堂は単なる祈りの場を超え、信仰の拠点として確立されていったのです。
「水大師堂(野々瀬の庵)」の奉納
その後、修行僧や巡礼者が滞在し、静かに祈りや瞑想を行うための場が求められるようになりました。そこで、藤原一族によって「水大師堂(野々瀬の庵)」が奉納されました。
この庵は、修行者や巡礼者が心を鎮め、祈りを深めるための神聖な空間として機能し、多くの人々が訪れる場所となりました。
西福寺の跡地
水大師堂が建立される約200年前、この場所には『西方寺(富田地区)』の前身の寺院『普拝山西福寺(さいふくじ)』が建てられていました。
西福寺は律宗の寺院として創建され、地域の人々の信仰を集める重要な仏教寺院でした。戦国時代には、この地域の宗教的な中心地として機能し、伊予豪族「河野氏(こうのうじ)」の庇護を受けて発展しました。
しかし、16世紀後半の豊臣秀吉による四国攻め(1587年)により、伊予国の政治勢力が大きく変化し、西福寺も大きな影響を受けることになりました。
河野氏は湯築城(現在の道後公園)を拠点に防戦しましたが、豊臣軍の圧倒的な戦力の前にわずか1カ月で敗北し、最終的に滅亡しました。これにより、河野氏の庇護を受けていた西福寺も戦乱の影響を受け、存続が危ぶまれる状況となりました。
その後、伊予国の統治を任された豊臣家の家臣・福島正則は、寺院の再編成を進め、西福寺もその対象となりました
西福寺はもともと律宗の寺院でしたが、浄土宗へと改宗され、寺名は「不遠山西方寺(ふおんざんさいほうじ)」へと改められました。さらに、西福寺は現在の現在の今治市東村へと移され、地域の新たな仏教寺院として再出発を遂げました。
現在の水大使堂
それから約200年後、西福寺の跡地に新たな信仰の場として創建されたのが「水大師堂」です。
時代とともに形を変えながらも、この地には絶えることのない祈りが受け継がれてきました。
現在でも、霊水は枯れることなく湧き続け、人々の信仰を集めています。歴史の流れの中で生まれたこの霊場は、今もなお多くの参詣者を迎え、信仰の灯を守り続けています。