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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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水大使堂(今治市・朝倉地区)

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笠松山の南麓、今治市朝倉地区の野々瀬(ののせ)には、古代の営みを今に伝える野々古墳群が点在しています。

その古墳群を縫うように進むと、やがて笠松山の山頂へと続く登山道が現れます。

登山道までの道の途中、小川のせせらぎが響く静かな一角に、「水大使堂(みずたいしどう)」はひっそりと祀られています。

このお堂は「水大師さん」として親しまれ、古くから人々の信仰を集めてきた場所です。

また、「野々瀬水大師」として伊予府中四国霊場 第16番札所にも数えられ、弘法大師(空海)の霊跡を巡る巡礼地のひとつとしても知られています。

霊水の力

ここに湧き出る霊水は、古くから病気平癒や厄除けのご利益があるとされ、なかでも「いぼ取り」に霊験あらたかであると伝えられています。

訪れる人々は、手を合わせて御神水をいただき、心身の清めと病の回復を願いながら静かに修行のひとときを過ごします。

どれほどの日照りが続いても枯れることのないこの霊水は、今もなお地域の信仰の象徴として、丁重に守られています。

訪れる人々は、御神水をいただきながら修行を行い、病の回復や健康を願います。どれほどの日照りが続いても枯れることのないこの霊水は、今もなお、信仰の象徴として大切に守られています。

「信仰の起源」一滴の水に宿る祈り

このお堂の信仰の起源は、江戸時代中期の安永年間(1772年~1780年)にさかのぼると伝えられています。

当時、円久寺(えんきゅうじ)の僧侶・自海(じかい)は重い病に苦しみ、治癒を願って各地を巡る修行の旅に出ていました。

しかし、どれほど祈っても病は癒えず、自海の心身は次第に疲弊していきました。

そんなある日、笠松山のふもと・鶴ヶ巣の地にたどり着きます。そこで、ふと目にしたのは、不思議な湧き水でした。

神秘の霊水と回復の奇跡

その水は、どれほど日照りが続いても枯れることなく、透き通るように澄んでいたといいます。

「この水には何か特別な力が宿っているのではないか」

そう直感した自海は、その地に小さなお堂を建て、弘法大師の御影を丁重に祀りました。そしてそこに留まり、霊水をいただき、身を清めながら、静かに祈りを捧げ続けたのです。

すると、不思議なことに次第に体調が回復し、病が完全に癒えたのです。

祈りの場から、信仰の拠点へ

この奇跡の話が広まると、湧き水は病気平癒の霊水としてすぐに評判になり、多くの人々が訪れるようになりました。

やがて、自海は「大安自海(だいあんじかい)」と称されるようになり、神秘の体験と霊水のご利益が広く語り継がれていきました。

「水大師堂(野々瀬の庵)」の奉納

その後、多くの修行僧や巡礼者が滞在し始める中で、静かに祈りや瞑想を行うための場が求められるようになりました。

そこで、藤原一族によって「水大師堂(野々瀬の庵)」が奉納されました。

この庵は、心を鎮め祈りを深めるための神聖な場所として整えられ、さらに多くの人々が訪れる信仰の拠点となっていきました。

「水大師堂の礎」かつてここにあった寺院

実はこの水大師堂が建立されるよりも約200年前、この場所にはすでに別の寺院が存在していました。

それが、『西方寺(富田地区)』の前身とされる「普拝山西福寺(さいふくじ)」です。

西福寺は律宗の寺院として創建され、地域の人々の信仰を集める重要な仏教寺院でした。戦国時代には、この地域の宗教的な中心地として機能し、伊予の豪族「河野氏(こうのうじ)」の庇護を受けて発展しました。

四国攻めの影響

しかし、16世紀後半の豊臣秀吉による四国攻め(1587年)により、伊予国の政治勢力が大きく変化し、西福寺も大きな影響を受けることになりました。

河野氏は湯築城(現在の道後公園)を拠点に防戦しましたが、豊臣軍の圧倒的な戦力の前にわずか1カ月で敗北し、最終的に滅亡しました。

これにより、河野氏の庇護を受けていた西福寺も戦乱の影響を受け、存続が危ぶまれる状況となりました。

福島正則の領国経営と西福寺の改宗移転

その後、河野氏に代わって豊臣政権下で伊予の統治を任されたのが、豊臣家の重臣・福島正則(ふくしま まさのり)です。

当時、伊予国の湯築城(現・松山市)には、豊臣秀吉の腹心である小早川隆景が在城していましたが、天正15年(1587年)、隆景は筑前・筑後(現・福岡県)という九州方面の要地へ転封となりました。

これにより、湯築城には福島正則が入城し、伊予国の統治を担うこととなったのです。

しかし、湯築城はもともと中世的な構造を持ち、戦国後期の軍政や城下町の形成には不向きな点が多く、正則はより戦略的な拠点を求めました。

その結果、わずか一年後の天正16年(1588年)に、国分山(唐子山)の「国分山城(国府城・唐子山城)」へと本拠を移しました。

福島正則はこの地を拠点として、伊予における本格的な領国経営を始め、交通網の整備、農地の検地、村落の再編といった施策を進める一方で、宗教勢力の統制・再編成にも着手しました。

その中で、西福寺は律宗から浄土宗へと改宗され、寺名は「不遠山西方寺(ふおんざんさいほうじ)」へと改められ現在の現在の今治市東村へと移されました。

水とともに受け継がれる信仰

それから約200年後、西福寺(現・西方寺)の跡地に、あらたな信仰の場として創建されたのが「水大師堂」です。

「水大師堂」は、時代とともに姿を変えながらも、この地に根ざした絶えることのない祈りの心を受け継いできました。

そして現在でも、霊水は一度も枯れることなく湧き続け、訪れる人々の心を潤し続けています。

寺院名

水大使堂(みずたいしどう)

所在地

愛媛県今治市朝倉南乙228

本尊

水大師・延命地蔵

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