今治市北鳥生町にある「明積寺(みょうしゃくじ)」は、真言宗醍醐派に属する由緒ある寺院です。
その開山は慶長年間(1596〜1615年)にさかのぼり、初代住職・憲献上人(けんけんしょうにん)によって、この地における祈祷寺として創建されました。
以来、明積寺は地域の信仰とともに歩み、歴代の住僧たちの手によって、その祈りと伝統が脈々と受け継がれてきました。
三嶋神社(祇園町)の別当寺
この時代は神と仏を分け隔てなく祀る「神仏習合」の時代で、神社と寺院が一体となって地域の信仰を支えることが一般的でした。
神は仏の仮の姿である「権現(ごんげん)」と解釈され、仏教寺院の僧侶が神社の運営や祭祀に関わることも珍しくありませんでした。
こうした中で、神社の実務や神事を司る仏教寺院は「別当寺(べっとうじ)」と呼ばれ、その住職(別当)は神職に準じる宗教的権限と責任を担っていました。
明積寺も三嶋神社(祇園町)の別当寺として、神社と同じ境内にあり、「明積寺別当寺 三島新宮大明神」と記された棟札を社殿に掲げていました。
明積寺の再建史
江戸時代中期に入ると、中興の祖とされる俊範上人(しゅんはん じょうにん)の手によって明積寺は再興され、衰えかけていた寺勢は大きく立て直されました。
荒廃しかけていた伽藍は整備され、祈祷寺としての機能と信仰の基盤が再び確立されることとなります。
天保四年(1833年)七月には、第十八世・珪雄上人(ぜんゆう じょうにん)の代において、老朽化していた本堂の再建工事が始まりました。
この再建事業は大規模なもので、着工から完成までに実に十三年もの歳月を要しました。
そして第十九世・義雄上人(ぎゆう じょうにん)の代となった弘化三年(1846年)四月、待望の落慶法要が盛大に営まれ、本堂は新たな姿で甦ることとなったのです。
この再建は、住職たちの尽力とともに、地域信徒の篤い信仰心によって成し遂げられたものであり、明積寺の歴史における大きな転機となりました。
時代が下って昭和期に入ると、第二十一世・深敬上人、第二十二世・観勝上人、第二十三世・敬照上人、第二十四世・自英上人ら、歴代住職の手により昭和後期の本堂再建が着実に進められていきます。
そして、地域の支えと祈願の積み重ねの末、昭和五十五年(1980年)、現在の本堂がついに新築・完成されました。
この本堂は、真言宗醍醐派の祈祷寺としての伝統と格式を今に伝えながら、今日もなお地域に根ざした信仰と文化の中心として、静かにその存在を保ち続けています。
名僧・学信和尚の誕生
明積寺は、後に一世の名僧とうたわれた学信和尚(がくしんおしょう)が誕生した場所として知られています。
享保7年(1722年)、中興の祖・俊範上人の代に生を受けた学信は、幼くして今治本町の円浄寺にて真誉上人のもとで出家。
やがて江戸・増上寺や京都・長時院、高野山など諸国を巡って仏道修行に励みました。
その後は宮島・光明院や松山・大林寺の住職として教化に努め、学識と人徳により一時代を代表する高僧として名を馳せました。
また、学信はただの宗教者ではなく、無類の読書家・学問僧でもありました。
仏典に加えて儒学や老荘思想にも通じ、著書には『要学集』『蓮門興学篇』『幻雲集』などがあり、教理と実践の双方に秀でた人物として知られます。
信念を貫く性格でもあり、政道への参与を勧められた際には、「僧は政治に関わるべきではない」として松山藩の要請を拒絶。
また、大旱魃の際には七日七晩にわたり読経を続け、慈雨をもたらしたという霊験譚も伝わっています。
晩年は宮島に隠棲し、寛政元年(1789年)に67歳で入寂。臨終の床で「護法」の二文字を揮毫し、荼毘に付された際には光り輝く舎利が灰の中より現れたと伝えられています。
「継ぎ獅子」との関連
今治の伝統芸能「継ぎ獅子(継獅子)」は、鳥生出身の高山重吉(こうやま じゅうきち)が明治期に三嶋神社で初めて奉納したことに始まるとされています。
もう一つの起源として、学信和尚と明積寺にまつわる伝承も伝えられています。
当時、三嶋神社(祇園町)の別当寺であった明積寺の住職・学信和尚は、氏神の祭礼が年々簡素になっていく様子を憂い、獅子舞の行列を新たに加えることを提案し、獅子頭一式を自ら奉納したとされています。
その思いを受けた氏子たちは話し合いの末、一人を舞の修行役に選び、伊勢方面へ派遣しました。選ばれた氏子は、伊勢大神楽の系統に連なる獅子舞を学び、帰郷後には村の若者たちにその技を伝えました。
これが、三嶋神社(祇園町)における獅子舞行列の始まりとされ、現在も続く継ぎ獅子の起源の一説として語り継がれています。
『飴買い幽霊』
江戸時代中頃、今治の町にひっそりと語り継がれる不思議な出来事がありました。
ある寒い冬の日、今治のとある家で一人の若い女性の葬儀が営まれました。参列者はわずか四〜五人。身寄りもなく、静かな悲しみに包まれた葬式だったといいます。
その日を境に、町では奇妙な出来事が起こり始めます。
翌日の夜、今治市旭町で飴屋を営んでいた惣兵衛さんのもとに、白い着物をまとった青ざめた女性が、音もなくすうっと現れました。
彼女は無言で茶碗に入った一文銭を差し出し、飴をひとつ求めました。
惣兵衛さんは戸惑いながらも飴を手渡すと、女性はまた静かに姿を消しました。
それからというもの、彼女は毎晩のように現れては一文銭を置き、飴をひとつ持ち帰っていきました。
ところが、七日目の夜のこと。
いつものように女性が現れたので、「今夜も飴を買いに来たのだろう」と惣兵衛さんは思いました。
ところが、差し出された茶碗には、一文銭が入っていません。
言葉には出さぬまま、何かを訴えるようなまなざしを向けた彼女に、惣兵衛さんは深く同情し、飴を少し多めに手渡しました。
すると、彼女はお金の代わりに「樒(しきみ・しきび)」の葉を一枚置いて去っていきました。
「何かあったんだろうか?」
気になった惣兵衛さんは、彼女の後をそっと追いました。
彼女は蒼社川を渡り、北鳥生三丁目の明積寺(円浄寺という説も)へと向かい、ついには寺の境内で姿を消したのです。
一気にぞわっと寒気が走り、惣兵衛さんは思わずその場に立ちすくみました。
闇のなか、じっと耳を澄ませていると…。
なんと、新しく築かれたばかりの墓の下から、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえてきたのです。
「これはいかん!」
惣兵衛さんは、すぐさま和尚を起こし、村の人々を呼び集めて墓を掘り返すことになりました。
そして…墓を開けた一同は、思わず息を呑みました。
そこには、亡くなって間もない母親に抱かれ、元気に泣いている生まれたばかりの男の赤ん坊がいたのです。
さらに、その小さな口には、惣兵衛さんがあの夜、手渡した飴がしっかりとくわえられていました。
その後、この女性はちょうど一週間前、赤ん坊を身ごもったまま亡くなり、棺に納められた若い母親であることがわかりました。
そして、彼女が毎晩のように現れては飴を買っていたあの一文銭。
それは、三途の川の渡し賃として、棺に添えられていた六文銭だったのです。
すべては、わが子を生かすため、死してなお、わが子を守ろうとした母の愛情でした。
「この子は、まさしく天から授かった命だ」
深く心を打たれた和尚は、乳母をつけて大切に育てることにしました。
やがてこの赤ん坊は、立派に成長し、学問、書道、絵画に秀でた名僧として知られるようになり、人々からこう呼ばれました。
「学信和尚」
現在に伝わる伝承
この不思議な出来事こそが、学信和尚の誕生にまつわる「飴買い幽霊」の伝説です。
この物語は「飴買い幽霊と赤ん坊図」として絵にも描かれ、今治城天守閣にて紹介されています。
また、旭町四丁目の河上義孝商店は、あめ屋の主人・惣兵衛さんの子孫にあたると伝えられ、今もなお「縁起あめ」を販売しています。
舞台となった明積寺には、「学信和尚生誕の地」と刻まれた石碑が建立されており、彼の偉業とともに、その物語が静かに今に語り継がれています。
寺の本堂内陣には御本尊として千手観世音菩薩が安置され、左に大日如来、右に弘法大師が祀られています。荘厳ながらも温かい雰囲気に包まれた堂内は、今も地元の人々の信仰を集めています。
この地を訪れれば、日本の仏教文化と地域に根づいた信仰の歴史、そして母の深い愛と祈りの物語に、そっと触れることができるでしょう。
どうぞ、明積寺の静けさの中で、様々な歴史と伝説に思いを馳せてみてください。