今治市の中心部、「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」に隣接する寺院、四国八十八箇所第55番札所「南光坊(なんこうぼう)」。
正式名称「別宮山(べっくさん)光明寺金剛院(こうみょうじこんごういん)南光坊」は、四国八十八か所霊場の中で唯一「坊」の名を持つ、極めて珍しい札所です。
その歴史はたいへん古く、大三島に鎮座する「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」の別当寺(神社の管理・運営を担う寺院)、として、神仏習合の時代に誕生しました。
大山祇神社の系譜と歴史
南光坊の起源をたどるには、まずその信仰の源である大山祇神社の創建にさかのぼる必要があります。
推古天皇2年(594年)、天皇の勅命により、大山祇神を祀るための社殿「遠土宮(おんどのみや・現:横殿宮跡)」が、大三島の東海岸に建立されました。
以来、この地は大山祇信仰の拠点として、多くの人々が海の神に祈りを捧げる場となりました。
しかし、遠土宮のあった場所は海に近く、海抜も低かったため、潮の干満による影響を強く受け、何度も津波が発生して、社殿や鳥居が大きな被害を受けていました。
この状況を憂いた当時の伊予国司・越智玉澄(おちの たまずみ)は、より安全な場所への移転を決意し、大宝元年(701年)、大三島の西海岸に新たな社殿の建設に着手しました。
これが、現在の「大山祇神社」の始まりです。
海を越える参拝は命がけ…。天皇の決断
その後、大山祇神社の建築は順調に進められていきました。
しかし、推古天皇には一つ、大きな悩みがありました。
それは、たとえ社殿が完成したとしても、人々が参拝するためには海を越えなければならない、ということでした。
当時の航海は、現在のような技術や安全対策が整っておらず、天候によっては命の危険を伴うこともありました。
参拝に訪れる人々にとって、それは大きな障壁となり、神への祈りを捧げたいと願う心の負担にもなりかねませんでした。
「誰もが天候に左右されずに、いつでも安全に神に祈りを捧げられる場所を…」
そう考えた推古天皇は、新たな拠点にもう一つの神社を作ることに決めました。
別宮大山祇神社の創建
その思いを受けて動き出したのが、古代伊予を代表する名族・越智氏の一族です。
大宝3年(703年)、文武天皇の勅命を受けた河野氏の祖「越智玉興(おちたまおき)」の弟、「越智玉澄(おちのたますみ)」が、大山積神を伊予国越智郡の日吉村に祀り、新たな社殿の建設に着手しました。
そして和銅5年(712年)、社殿はついに完成を迎え人々は海を越えずに大山積神へ祈りを捧げられるようになりました。
これが大山祇神社の別宮、「別宮大山祇神社(べっくおおやまづみじんじゃ)」の誕生になります。
一方で、大三島の本宮である神社はまだ建設の途中でした。
大山祇神社の誕生
養老3年(719年)、別宮大山祇神社の創建から7年の歳月を経て、ついに大三島の地に壮麗な社殿が完成しました。
これこそが、日本総鎮守と尊称され 「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」の誕生です。
大山祇神社は、大山積神を祀る中心聖地として瀬戸内一帯はもちろん、全国にその名を知られる存在となり、航海安全・五穀豊穣・武運長久を祈願する社として、広く崇敬を集めていきました。
南光坊の創建と役割
大山祇神社の創建と並行して、その神域を護り、祭祀や運営を支えるために、多くの別当寺も建築されていました。
神仏習合の色濃い時代にあって、これらの別当寺は神社の儀式を執り行いを仏教的側面から補強する存在として、極めて重要な役割を果たしていたのです。
南光坊もそのひとつとして、大三島に創建されたと伝えられています。
のちに現在の地へと移され、四国八十八箇所霊場の第五十五番札所として、多くの人々の信仰を集めるようになった南光坊ですが、その移設がいつ、どのような経緯で行われたのかについては、いくつかの説が伝えられています。
【移設の伝承①】行基移設説
その説の一つとして伝えられているのが、奈良時代を代表する僧侶、行基(ぎょうき・668年〜749年)による移設の伝承です。
大山祇神社の社殿が建設されていた頃、文武天皇の勅命により、大三島では神社に付随する別当寺として、「法楽所」にあたる24の坊(僧坊)の建立が進められていました。
法楽所としての24坊
法楽所とは、仏教や神道における儀式や祈祷が行われる場所で、僧侶や神職が集まり、神仏への感謝や祈りを捧げる場です。
特に、大規模な法要や祭祀の際に、多くの参詣者が訪れ、共に祈りや供養を行うための重要な拠点としてなっていました。
大山祇神社の社殿が完成するよりも早く、法楽所として大三島の各地で建設が勧められていた24の坊は完成していました。
その中で、別宮大山祇神社の創建に合わせて、8坊がその周辺に移設されることとなったのです。
別宮創建と8坊の移設
こうして和銅5年(712年)に別宮大山祇神社の社殿が完成すると、それと同時に、大三島から社家104人が移住。
そして、24坊のうち南光坊を含む8坊(南光坊・中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊、円光坊)と、その供僧が近隣に移設されました
これに際して、別宮大山祇神社は神仏習合の体制を強め、「別当寺・大積山金剛院光明寺(以後:光明寺)」を称するようになりました。
以降、移設された8坊は、「光明寺(別宮大山祇神社)」に属する小寺院・支坊「塔頭(たっちゅう)」として位置づけられ、南光坊は「光明寺金剛院南光坊」と称されるようになりました。
現場監督としての行基
この8坊の移転を指揮したのが、行基です。
行基は、仏教の布教者であると同時に、社会事業にも深く関わった人物として知られています。
農業用のため池や灌漑施設、道路、橋など、数多くの公共インフラを築き上げ、当時の人々の生活基盤を大きく支えました。
行基が手がけた施設は、耐久性に優れ、今なおその一部が機能を保っている例も少なくありません。
8坊の移設にあたっては、行基自らが現場監督として陣頭に立ち、農民や労働者たちを組織・指導しました。
そして、その経験と知識に裏打ちされた綿密な計画のもと、作業は効率的に進められ、8つの坊は新たな地に着実に再配置されていったのです。
この時代最高レベルの国家プロジェクト
つまり、別宮大山祇神社に関わる8坊の移設事業は、当代随一の「建築プロフェッショナル」が手がけた国家事業だったのです。
そして、移設を終えたこれらの坊は、僧侶・行基自身の手によって「日本総鎮守三島の御前」として厳かに奉祭されました。
大積山光明寺の塔頭
この奉祭によって、移設された坊の霊威はいっそう高まり、これらの坊と供僧たちは「別宮大山祇神社(光明寺)」の塔頭として、別宮の管理や祭祀を支える重要な役割を担いました。
【移設の伝承②】新宮寺移設説
もう一方の説として伝えられているのが、和銅5年(712年)ではなく、正治年間(1199〜1201年)に8坊の移設が行われたという説です。
平安時代の保延元年(1135年)、神仏習合の思想が進むなかで、大山祇神社においても、神道の御祭神「大山積神(おおやまづみのかみ)」が、仏教の「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」と同一視され、その神霊が仏の姿として祀られるようになりました。
この信仰の変化に伴い、「大通智勝如来」を本尊として祀る仏教寺院「月光山神宮寺(しんぐうじ)」が、大山祇神社に付属するかたちで建立されました。
そしてこの神宮寺を支えるために、その周囲には「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれる24の僧坊が設けられました。
南光坊も、その一つとして創建されたと伝えられています。
これらの坊は、僧侶の住居や修行の場であると同時に、神宮寺を中心とした信仰の体制のもとで、祭祀の補助・仏事の執行・庶務の分担などを担い、神社と仏寺の連携を支える重要な役割を果たしていました。
しかし、正治年間(1199〜1201年)に入ると、何らかの理由で24坊のうち8坊(南光坊・中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊)が、今治市内にある別宮大山祇神社(光明寺)の塔頭として移されたとされています。
神宮寺その後、明治元年(1868年)に発布された神仏分離令により廃寺となり、「祖霊社(それいしゃ)」としてその姿を変えたとされています。
四国霊場第55番札所となった理由
南光坊が四国八十八箇所霊場の第55番札所となった経緯についても、いくつかの説が伝わっています。
【札所の説①】別宮大山祇神社説
一説によれば、弘仁年間(810〜824年)に弘法大師(空海)が別宮大山祇神社(光明寺)を参拝し、隣接する坊で法楽をあげました。
これによって、四国八十八箇所が成立した時に、別宮大山祇神社(光明寺)が四国霊場第55番札所に定められたと伝えられます。
この時代、南光坊はあくまでも塔頭として、第55番札所である別宮大山祇神社(光明寺)の納経業務のみを担っていたとされています。
つまり、巡礼者の受け入れや朱印の授与などを実務的に担当する「前札所」のような役割を果たしていたのです。
ただし、この説は「和銅5年(712年)に行基が南光坊を含む8坊を別宮に移した」という行基移設説にもとづいています。
一方、正治年間(1199〜1201年)に新宮寺(現:祖霊社)から8坊が移設されたとする別の説(新宮寺移設説)では、弘仁年間当時に南光坊はまだ大三島にあったと考えられます。
この場合、空海が法楽をあげたとされる「隣接する坊」とは、南光坊ではなく、当時別宮の近くに存在していた別の僧坊、あるいは別当寺的存在の建物であったと考えられます。
【札所の説②】大山祇神社説
別の有力な説では、四国八十八箇所の第55番札所はもともと大三島の大山祇神社であったと伝えられています。
しかし、大三島周辺の海域は潮流が激しく、渡海は非常に困難であったため、多くの巡礼者にとって大山祇神社まで辿り着くことは容易ではありませんでした。
こうした事情を受けて、巡礼者の便宜を図るために今治市に「別宮大山祇神社(別宮)」が設けられ、これが「前札所」としての役割を担うようになったとされます。
この際、別宮に付属する仏教的業務を管理していた別当寺のひとつである南光坊が、前札所として納経や接待の業務を行うようになったと考えられています。
この説でもあくまでも南光坊は「本札所」ではなく、「前札所」としての機能を果たしていたされています。
【札所の説③】神宮寺説
大山祇神社を第55番札所とする説の中でも、実際に札所としての業務を担っていた場所についても諸説あります。
そのひとつが、神宮寺が実質的な札所であったとする説です。
大山祇神社では、古くから神仏習合の体制のもと、別当寺として「神宮寺」が置かれ、法要や納経といった仏教的な実務を一手に担っていました。
このことから、第55番札所としての実質的な役割は神宮寺が果たしていたと考えられています。
【札所の説④】東円坊説
さらに別の説では、神宮寺の下で特に重要な役職を担っていた「東円坊(とうえんぼう)」が札所としての実務を担当していたという見解もあります。
神宮寺には「供僧(ぐそう)」と呼ばれる僧侶たちが所属しており、神仏習合体制のもとで神事に奉仕する仏教側の機能を担っていました。
そして供僧たちは24の坊に分かれてそれぞれ役割を持ち、協働して神宮寺の仏事を支えていました。
その中でも東円坊は、供僧を監督する「検校(けんぎょう)」という高位の職に任じられ、代々その地位を継承していたと伝えられています。
このことから、第55番札所の納経や巡礼者の対応といった実務は、実際には東円坊が担っており、巡礼に訪れた人々を迎えていたのも東円坊だったと考えられています。
大三島に残された巡礼の記録
札所としての実務を担っていたのが新宮寺(現:祖霊社)だったのか、それとも東円坊だったのか。
その真相は現在のところわかりませんが、大山祇神社が鎮座する大三島に巡礼者が実際に渡ったことを示す記録は、いくつか残されています。
例えば、澄禅が承応2年(1653年)に記した『四國辺路日記』では、澄禅が今治の別宮を参拝した際に「本来の巡礼は島に渡り、ここ(別宮)での参拝は簡略なもの」と述べています。
また、貞淳2年(1685年)に真念が刊行した『四国遍路道指南』にも、「別宮は三島ノ宮(大山祇神社)の前札所であり、海上7里を越えて三島に渡ることが本来の参拝」と記されています。
さらに、寛政12年(1800年)に編纂された『四国遍礼名所図会』では、53番札所の円明寺の次に「五十五番三島社祭神大山積大明神」の項があり、図面付きで大山祇神社と神宮寺が解説されています。
この図会では大山祇神社が55番札所の中心に位置づけられており、その次に54番延命寺、55番別宮と続いています。
別宮についても「大三島に渡らない時はここで遙拝する」と記されており、当時の巡礼者にとって大三島への参拝が正式とされていたことが伺えます。
また、大三島南対岸の波止浜港には文政13年(1830年)に建立された「遍路石」があり、そこから北に進んで大三島に渡り、大山祇神社や本地仏である大通智勝如来に参拝していたことが示されています。
これらの記録から、大三島の大山祇神社へ直接参拝することが正式な四国遍路の巡礼行程であり、多くの巡礼者がこの地を訪れていたことがわかります。
その後の南光坊の歩み
このように、南光坊の創建や移設にはいくつかの伝承や説が伝えられていますが、どの説によるものであっても、南光坊は今治の歴史と深く結びついた寺院としての歩みを重ねてきました。
しかし、その道のりは決して順風満帆ではなく、幾度となく戦火に晒され、領地を失い、存続の危機に瀕するなど、波乱に満ちた歴史をたどることになります。
落雷による火災と来島村上氏の再建
天文20年(1551年)、別宮大山祇神社は、落雷による火災によって社殿を焼失しました。
しかしその後、天正3年(1575年)に、来島村上氏(村上水軍)の当主「来島通総(くるしま みちふさ)」によって再建されました。
「天正の兵火」 長宗我部元親の伊予攻め
天正年間(1573〜1592年)、土佐の戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が、四国統一を目指して進軍を開始しました。
天正5年(1577年)には阿波国(現:徳島県)を制圧、その後すぐに讃岐国(現:香川県)も掌握すると、伊予国(現:愛媛県)へと侵攻を始めました。
この十数年にわたる戦乱によって、各地の神社仏閣は甚大な被害を受けました。
四国八十八箇所霊場においても、阿波十三ヶ寺、讃岐十一ヶ寺、伊予四ヶ寺が焼き討ちや略奪に遭い、多くの文化財や信仰の場が失われたのです。
この一連の戦乱は、のちに「天正の兵火(てんしょうのへいか)」と呼ばれ、戦国の混迷が信仰にも大きな爪痕を残した出来事として記憶されています。
そして、南光坊もこの兵火によって甚大な被害を受けた寺院の一つでした。
天正6年(1578年)、長宗我部元親の侵攻により伊予各地が戦火に包まれる中、別宮大山祇神社の周辺にあった8つの坊(南光坊・中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊)が、すべて焼失するという壊滅的な被害を受けました。
しかし奇跡的にも、別宮大山祇神社の拝殿は火災を免れ、神域としての体裁をかろうじて保ち続けることができました。
とはいえ、祭祀を統括する別当寺の存在は不可欠であり、その再建は急務とされました。
そこで、8坊の中でも神社に最も近くにあった南光坊が選ばれ、いち早く再建されました。
一方、残りの7坊はその後も再建されることはなく、そのまま消滅してしまいました。
四国八十八箇所の前札所の塔頭
再建以降、南光坊は別宮大山祇神社の唯一の別当寺として、また、前札所・光明寺(別宮大山祇神社)に付属する唯一の塔頭として、納経業務を担うようになりました。
しかし、この頃から四国遍路の在り方自体にも大きな変化が見られるようになります。
それまでは、本式の遍路は海を渡って大三島の本宮・大山祇神社に参拝し、別当寺である神宮寺で納経を行うのが習わしでした。
この際、納経帳には 「日本總鎮守 三島本宮 別當神宮寺」 と記されており、追加参拝という形式で行われていたため、札所番号は記されていませんでした。
しかし、この頃から「日本總鎮守 大山積大明神 別當南光坊」 と記されるようになりました。
このことから、光明寺(別宮大山祇神社)が従来の「前札所」的な位置づけではなく、四国八十八箇所霊場の正式な札所として認識されるようになったと考えられます。
豊臣秀吉の四国征めと河野氏の滅亡
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐(四国征め)が行われ、伊予の地も戦火に巻き込まれました。これにより、南光坊は変革を余儀なくされることになります。
伊予を治めていた河野氏の当主・河野通直(こうの みちなお)は本拠である湯築城に籠城し、徹底抗戦抗戦しますが、すでに天下人としての地位を確立しつつあった秀吉の軍勢に抗うことはできませんでした。
最終的に、軍を指揮していた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の説得に応じて降伏し、通直は大名としての地位を失い、河野氏の領地も没収されてしまいました。
その後、天正15年(1589年)には、竹原(広島県)に逃れていた通直が後継者を持たないまま病気で亡くなったことで、河野氏は57代にわたる歴史を終えることとなりました。
そして、河野氏が滅亡したことで、河野氏の領地や関連する社領・寺領も同時に失われることになり、
このとき、南光坊を含む寺社が保有していた460石(こく)もの領地も没収されてしまいました。
この「石(こく)」とは、当時の日本で用いられていた米の収穫量を示す単位であり、1石はおよそ180リットルの米に相当します。
これは概ね大人1人が1年間に必要とする米の量とされていました。
つまり460石とは、およそ460人が1年暮らせるだけの米の収穫量に匹敵する広大な農地を意味します。
この領地の喪失は、多くの寺社にとって経済的な大打撃となり、以後の運営や再建に深刻な影響を及ぼすこととなりました。
藤堂高虎による再興
河野氏の滅亡により、一時は領地と地位を失った南光坊でしたが、江戸時代に入ると再び再興の機運が高まり、信仰の中心としての地位を取り戻していきます。
慶長5年(1600年)、藤堂高虎が関ヶ原の戦いの功績によって今治の領主となると、南光坊は藩の祈祷所として指定され、保護と財政的支援を受けるようになりました。
これにより、南光坊は重要な寺院として再び注目される存在となり、祭典料も賜ることになったのです。
さらに、藤堂高虎の後を継いだで藤堂高吉からは、薬師堂が寄進されるなど、寺院の整備も進められていきました。
南光坊の格式と藩主の庇護
寛永12年(1635年)、初代今治藩主である松平(久松)定房公は、南光坊を藩の祈祷所として篤く信仰し、別当職の地位を維持しながら、祭祀料の奉納も行ったと伝えられています。
この時期、南光坊では讃岐国(現在の香川県)金毘羅大権現の御分霊を勧請し、金毘羅堂が建立されました。
これにより、南光坊の霊場としての信仰はさらに高まり、寺域も拡大、今治の人々のみならず、藩主からも重要な祈願所として認識されるようになります。
その後も代々の今治藩主から手厚い庇護を受け、南光坊は地域の精神的支柱として機能し続けました。
江戸幕府が全国の寺院を網羅して作成した『寺院本末帳』には、南光坊が真言宗御室派の総本山である京都・仁和寺を本寺とする「中本寺(田舎本寺)」として記録されています。
さらに、南光坊は高位の寺院として、その格式を京都の本山や幕府にも認められ、真言宗御室派の総本山である京都の仁和寺から、格式ある寺院にのみ授けられる栄誉「院家(いんげ)」の称号を賜りました。
「神仏分離令」別当寺としての歴史の終わり
こうして戦乱の世をくぐり抜け、江戸時代には藩主の信仰と庇護を受けて隆盛を極めた南光坊でしたが、その在り方は、明治維新における宗教政策によって大きな転換を迫られることになります。
明治元年(1868年)、新政府は、長らく続いてきた神道と仏教の混合(神仏習合)を解消し、神道を国家の宗教として確立しようとする政策の一環として、「神仏分離令」を発布しました。
これにより、神社と仏教寺院との明確な分離が命じられ、神社において仏教的儀式を行うことや仏像を安置することが禁止されることとなりました。
この政策は次第に過激化し、全国の神社では仏教的要素の徹底的な排除が進められ、仏像や仏具が他所へ移されたり、時には破棄されるといった事態も相次ぎました。
そして、この流れの中で起こったのが「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」です。
これは仏教そのものを否定・攻撃の対象とする過激な運動であり、全国各地で数多くの寺院が破壊され、廃寺に追い込まれるとともに、仏像や仏具の損壊も頻発しました。
この激動のなか、南光坊は別宮大山祇神社(光明寺)から分離され、独立した仏教寺院として再出発を遂げることとなりました。
第55番札所「南光坊」
この再編の中で、別宮大山祇神社(光明寺)に祀られていた大山積神の本地仏、「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」をはじめ、その両脇に配された二脇士や十六王子の仏像が、南光坊の薬師堂へと移されました。
これらの仏像は南光坊の本尊として新たに祀られることとなり、別宮の四国八十八箇所霊場第55番札所の地位は、南光坊へと受け継がれました。
明治27年(1894年)には、それまでの山号「大積山」が「別宮山」へと改称され、寺名が「別宮山光明寺金剛院南光坊」として定められました。
この改称は、神社からの分離と仏教寺院としての独立を象徴するものであり、南光坊が独自の宗教的地位を確立したことを意味する重要な出来事でした。
こうして南光坊は、地域の仏教信仰の中心としての役割を担い続け、多くの巡礼者を迎え入れる霊場として、現代の形になりました。
しかし、その歩みは昭和のある出来事によって、突如として断ち切られることになります。
それが今治空襲です。
「今治空襲」南光坊の焼失
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は3度にわたる空襲に見舞われました。
なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、今治市街地の大半が炎に包まれました。
この空襲により、全市戸数の約75%が焼失するという壊滅的な被害が生じ、市民生活はもちろん、歴史的・文化的資産にも甚大な損害が及びました。
このとき、南光坊も例外ではなく、本堂や庫裡、その他の伽藍の多くが焼失しました。に巻き込まれ、本堂だけではなく全ての建物をが焼失してしまいました。
空襲の中で無事だった二つの建物
空襲の中で焼失を免れたのは、金毘羅堂と大師堂だけでした。
この大師堂は、当時の住職・天野快道大僧正の指導のもと、長州地方の優れた大工たちの手によって建てられたもので、南光坊の象徴的な建築のひとつとして知られています。
その最大の特徴は、屋根の四隅が軽やかに跳ね上がる、まるで荒波を越えて進む船を思わせる外観にあります。
さらに、屋根の上に据えられた相輪塔(そうりんとう)がその印象をより一層際立たせ、建物全体に力強さと優美さを兼ね備えた美しい姿を与えています。
文化的にも高く評価されているこの大師堂は、空襲による焼失を免れたことにより、戦後の再建においても貴重な指標となり、今日まで南光坊の歴史と信仰を物語る象徴的な存在として受け継がれています。
現代につながる再建の歴史
ここからの南光坊の歴史は、戦後の復興期から現代に至るまで、さまざまな努力と関わりによって成し遂げられた再建の歴史になります。
醍醐派への転派と新たな出発
まず、昭和53年(1978年)、住職を務めていた天野快道大僧正の縁により、南光坊は真言宗御室派から真言宗醍醐派に転派しました。
天野快道大僧正は、京都の醍醐寺で座主を務めており、その関係で南光坊は醍醐寺の末寺として位置づけられることになりました。
これにより、南光坊は真言宗醍醐派の信仰と文化に支えられ、再建の道を歩み始めます。
本堂の再建と本尊の復興
昭和56年(1981年)には、長く待ち望まれていた本堂がついに再建されました。
新たな本堂は、戦前のものと比べて約2倍の規模で建立され、南光坊の再出発と信仰の復興を象徴する壮麗な堂宇となりました。
堂内の中央には、戦後に再造された大通智勝如来坐像が荘厳に安置され、その左右には二体の脇侍仏が配されています。
これにより、空襲によって一時失われた本尊が見事に復興され、南光坊は再び、四国霊場第55番札所として巡礼者を迎える場としての姿を整えていったのです。
薬師堂の再建
平成3年(1991年)には薬師堂が再建され、南光坊の復興はさらに一歩前進しました。
以降、薬師如来を本尊とするこの堂宇は、南光坊の信仰を支える大切な場所として、多くの巡礼者に親しまれるようになりました。
現在の姿へ
平成10年(1998年)、山門と鐘楼堂が完成し、南光坊の境内整備は新たな段階へと進みました。
なかでも山門は、壮麗な構えと気品ある意匠がひときわ目を引き、南光坊の“顔”とも言える象徴的な存在となっています。
そして平成14年(2002年)には、四体の四天王像が山門内に安置され、寺の守護神としてその荘厳な風格にさらなる重みを添えました。
さらに平成22年(2010年)には、大師堂の改修が行われ、現在の姿へと整えられました。
御室派への復帰と信仰の継承
その後、平成25年(2013年)には、南光坊は真言宗醍醐派から再び真言宗御室派に復帰しました。
長らく歴史的に密接な関係を持っていた仁和寺を総本山とする真言宗御室派の末寺として、再びその地位を取り戻しました。
これは南光坊の歴史において大きな転換点となり、再び仁和寺との強い結びつきを持つことになりました。
本尊の開帳と不動明王立像の再建
平成26年(2014年)には、南光坊の本尊である大通智勝如来坐像が開帳され、秘仏としての姿が一般に公開されました。
この坐像は、戦後再建された本堂に安置されていたものであり、多くの参拝者がその姿を目にしました。
また同時に、南光坊の本来の本尊であった不動明王立像も再建され、往時の姿に近い形で復元・安置されました。
本尊「大通智勝如来」海と神仏の祈りの象徴
このように、南光坊の再建は、戦後の困難な時期を乗り越え、多くの人々の支えと努力によって少しずつ進められました。
現在でも、歴史的・文化的背景を大切にしながらも、現代の寺院として地域に根差した役割を果たし続けています。
そうした信仰と文化の中心にあるのが、南光坊の本尊である「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」です。
大通智勝如来とは
「大通智勝如来」は、『法華経』の化城喩品(けじょうゆほん)第七に登場する仏で、過去の世において釈迦如来の父であり、師でもある存在とされています。
また、仏教における本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想に基づき、大通智勝如来は大山祇大明神の本地仏として信仰されてきました。
伊予の豪族・河野氏やその配下である河野水軍にとって、大山祇大明神と、その本地仏である大通智勝如来は信仰の中心であり、航海や海上交通に臨む際には、両尊に祈りを捧げて海上の安全や戦勝を願ったと伝えられています。
南光坊特有の特別な本尊
実は、四国八十八箇所霊場の中で、大通智勝如来を本尊としているのは南光坊ただ一ヶ所のみです。
この特異な信仰形態は、明治時代の神仏分離令による歴史的な経緯に由来します。
当時、隣接していた別宮大山祇神社(光明寺)の本殿に祀られていた大通智勝如来像や十六大王子像は、神仏分離の方針により神社から分離されることとなり、南光坊へと移されました。
これにより、南光坊は神社の別当寺的な立場から独立した寺院として歩み始め、その本尊として大通智勝如来を受け継ぐことになったのです。
このような背景から、南光坊は霊場の中でもひときわ異彩を放つ札所となっています。
南光坊に息づく、書の記憶
南光坊は、ただの巡礼地にとどまらず、書の巨匠たちの思いが刻まれた“文化の聖地”でもあります。
「川村驥山の菅笠」
「川村驥山(かわむら きざん)」は昭和を代表する天才書道家で、1950年に書道家として初めて芸術院賞を受賞しています。娘と一緒に匿名で四国遍路をおこなっており、1954年に南光坊に訪れました。
その際、驥山の筆の技に驚いた住職の望みに応え、菅笠を奉納しました。
この時の菅笠は、現在も納経所に保存されており、笠には金剛経の一節「應無所住而生其心」(どこにもとどまらず、自由自在であれ)と書かれています。
この言葉は、驤山が書に込めた深い哲学を象徴するものです。
書道家「織田子青」との関係
南光坊には、地元の著名な書道家「織田子青(おだ しせい)」に関連する石碑がいくつも点在しています。
織田子青は、1896年(明治29年)に愛媛県周桑郡石根村(現小松町)に生まれ、本名は源九郎、書道家としての号が「子青」でした。
書道への情熱とその功績は、地元だけでなく全国的に広く知られています。
大正3年(1914年)に愛媛県師範学校を中退後、上京して書道の道を志し、その後愛媛県に戻り、今治実科女学校(現 明徳高校)の教頭を務めながら地元の教育にも力を注ぎました。
書道家としての地位を確立し、昭和3年(1928年)には「聖芸書道会」を創立し、雑誌「書神」を発行。
多くの門人を育てながら、自らも各種書展で高い評価を受けていきました。
後進の指導にも尽力しました。
篆書・隷書・楷書・行書・草書の五体すべてに通じ、さらに仮名や調和体(複数書体の融合)にも精通した子青は、昭和8年(1933年)に東方書道展で最高賞、また関西書道展でも最高賞を受賞。
愛媛の書壇を代表する存在となり、昭和36年(1961年)には愛媛県教育文化賞を、昭和48年(1973年)には勲五等瑞宝章を受章しました。
昭和59年(1984年)6月17日に87歳で逝去しましたが、南光坊に建てられた石碑がその功績を後世に伝えています。
「筆塚」3つに並んだ石碑が伝える思い
境内には、織田子青と、その教えを受け継いだ門人たちによって建立された、三つ並んだ石碑があります。
中央には「筆塚」と刻まれており、今治市伊予大島から産出される高級石「大島石」で造られた、風格ある石陣です。
この筆塚は、書道家や文筆家の功績をたたえる供養塔であり、書の道に生きた人々への敬意と感謝の思いが込められています。
筆塚「驥山翁笠寺碑」
山門側に位置する石碑「驥山翁笠寺碑(きざんみのかさてらひ)」は、織田子青が尊敬していた書道家、「川村驤山(かわむら きざん)」との出会いを記念して建立されました。
題字は子青の先輩で、篆刻家・書家の巨匠「石井雙石(いしい そうせき)」によって掘られました。
1954年に南光坊に訪れた際に、偶然に織田子青と出会いました。この特別な出会いを記念して、10年後に石碑が建てられました。
石碑の表面には、当時83歳だった驤山による五言絶句「山をよじりまた水を渡り 、八十八霊区、寺々詩偈を留む、歴遊暦日無し」と刻まれています。
(現代語訳)「山を登り、川を渡りながら、八十八の霊場を巡った。私は各寺で詩や偈(仏教の詩)を残したが、旅には終わりがない」
この詩は、驤山が四国遍路を通じて多くの困難を乗り越え、各寺で心に残る思い出を刻みつつも、まだ旅はおわらないんだ、と83歳を迎えてもまだ歩みを続ける様子が詠まれています。
裏面には「回顧十年昭和三十九年四月十四日造之」と、子青の句「呼びとめて遍路笠をぞぬがせける」も彫られています。
(現代語訳)「声をかけて、巡礼者の笠を取らせた」
この句は、驤山との出会いの瞬間の喜びを表現しています。
筆塚「芳翠翁瓢寺碑」
本堂側の石碑「芳翠翁瓢寺碑」 (ほうすいおうひさごでらひ)」は、先輩の書道家「松本芳翠(まつもと ほうすい)」との友情を記念したもので、これも石井變石が手がけました。
松本芳翠は、明治26年に伯方島で生まれ、15歳で上京して書道を学びました。
昭和7年に東方書道会を結成し、日展審査員を務め、さらに芸術院賞や文部大臣賞を受賞するなど、日本の書道界で大きな功績を残しました。
この石碑には、昭和41年(1966年)に松本芳翠が愛用していた瓢(ひさご)を手放す際に詠んだ五言絶句が刻まれています。
「瓢や吾と汝、世を歩って幾浮沈、酔裏乾坤あり、ともに論ぜん昔の心」
(現代語訳)「瓢よ、お前と私は共にこの世を歩き、多くの浮き沈みを経験してきた。酔っている中でも天地(乾坤)を思い、今も昔の心を共に語り合おう」
この詩が読まれたのは、驤山が体のために断酒を始めた年でもあり、芳翠が長年の友として親しんできた瓢、そしてお酒との別れを惜しんでします。
裏面には、織田子青の句が以下のように刻まれています。
「雲の影すだくむしの音瓢寺」
(現代語訳)「雲の影が集まり、虫の音が響き渡る瓢寺」
この詩の背景には、織田子青が友人である芳翠の寂しさに対する共感がにじみ出ています。
芳翠はこの句を残した5年後の昭和46年(1977年)に亡くなりました。
筆塚「真ん中の筆塚」
真ん中には「筆塚」と記された石碑は。昭和48年(1973年)10月に作られました。この記念碑は「書神五百五十号刊行記念」として立てられ、子青の息子で弟子の「織田子鵬(おのだしほう)」の書が刻まれています。
さらに、この石碑には建立に関わった書神同人180名の名前が彫られています。
南光坊で歴史と文化を感じる
その他にも、境内には松尾芭蕉や山田静道など、織田子青が建てた他の石碑など、数多くの句碑や記念碑が並び、歴史と文化の香り漂う場所でゆったりとした時間を楽しむことができます。
南光坊を訪れた際には、ぜひこれらの建物をじっくりと見学し、その美しさと歴史を感じ取ってください。