今治市中寺にある「実正寺(じっしょうじ)」は、日蓮宗の流れを汲む日蓮正宗に属する寺院で、昭和48年(1973年)、総本山・大石寺の第66世法主日達上人によって開かれました。
実正寺が開かれた背景には、昭和中期以降における日蓮正宗と創価学会の深い関係がありまます。
日蓮正宗の歴史
日蓮正宗は、13世紀に日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が仏教の教えを広めたことから始まりました。
日蓮大聖人は、1253年(建長5年)、千葉県の清澄寺で「南無妙法蓮華経(以下、法華経)」と唱え、仏教の中でも「法華経(ほけきょう・ほっけきょう)」がもっとも正しい教えであると宣言しました。
これが、日蓮正宗の信仰のはじまりです。
「法華経」とは、お釈迦さまが説いた教えをまとめた仏教の重要な経典のひとつで、「すべての人が仏になれる力を持っている」と説かれています。
これは、身分や性別、才能にかかわらず、誰もが等しく仏の悟りを得ることができるという教えであり、「万人救済」や「平等な成仏」を理念とした、非常にやさしく、力強い考え方です。
日蓮正宗では、「法華経」の教えに基づいて、「南無妙法蓮華経」を唱えることが、もっとも大切な修行とされています。
日蓮大聖人の死後、その教えを忠実に受け継いだ直弟子・日興上人(にっこうしょうにん)は、1289年、現在の静岡県富士宮市に大石寺(たいせきじ)を建立し、日蓮正宗の教義を守り伝えるための拠点としました。
大石寺はやがて日蓮正宗の総本山となり、以降の教えの中心地としての役割を担っていきます。
しかしその後の長い歴史において、日蓮正宗は全国的には小規模な宗派として留まり、仏教界の中でも限定的な存在でした。さらに日蓮宗と一括りにされる中でも、複数の派閥のひとつという位置づけにとどまっていました。
日蓮大聖人の死後と大石寺の創建
日蓮大聖人の死後、その教えを忠実に受け継いだ直弟子・日興上人(にっこうしょうにん)は、1289年に現在の静岡県富士宮市にある大石寺(たいせきじ)を建立し、日蓮正宗の中心寺院としての礎を築きました。
しかし、当時の日蓮正宗は仏教界ではまだ小さな存在であり、日蓮宗の中で見ても、小さな分派のひとつにすぎませんでした。
創価学会との出会いと広がり
日蓮正宗が大きく広まったのは、20世紀に入ってからのことです。
昭和初期に創価教育学会(後の創価学会)が誕生すると、日蓮正宗の信仰を強く支持し、その教えを全国に広める原動力となりました。
この時期から、日蓮正宗はそれまでにない規模で信徒を増やし、社会的にも注目される存在となっていったのです。
創価学会と日蓮正宗の関係
創価学会は、1930年(昭和5年)に牧口常三郎氏によって「創価教育学会」として設立されました。
当初、創価教育学会は宗教団体ではなく、教教育を通じて社会を良くすることを目的とした団体で、「価値創造教育」という理念を掲げていました。
弾圧の時代と創価教育学会の受難
しかし、1940年代に入ると、日本国内では軍部による思想統制が強まり、宗教や思想団体への弾圧が厳しさを増していきました。
その中で創価教育学会も標的となり、1943年(昭和18年)、牧口常三郎氏と戸田城聖氏が治安維持法違反および不敬罪の容疑で逮捕されました。
この逮捕は、牧口氏が天皇崇拝を強制する当時の教育政策に反対したことが主な理由とされています。
これにより創価教育学会の活動は事実上停止し、翌1944年(昭和19年)11月18日、牧口氏は獄中でその生涯を終えました。
日蓮正宗を信奉する団体
戦後の混乱が続く中、戸田城聖氏が創価教育学会の第2代会長に就任し、1946年(昭和21年)には、団体の名前を「創価学会」と改めて再出発しました。
戸田氏は、創価学会を日蓮正宗の教えを基盤とする団体として位置づけ、会員に対しても、その教えに忠実に従うように指導しました。
中でも、「南無妙法蓮華経」を唱えることを信仰の中心とし、日蓮大聖人の教えに基づいて社会の中で仏法を広める活動(折伏)を積極的に推し進めました。
日蓮正宗の教線拡大と創価学会の貢献
1952年(昭和27年)、創価学会が正式に宗教法人として認可されました。
この認可を受けるにあたり、創価学会は日蓮正宗の教えに基づく信仰団体であることをはっきりと示し、その教義に従って活動していくことを約束しました。
これは、当時の文部省(現在の文部科学省)から法人格を得るための重要な条件の一つでもありました。
当時の創価学会の定款(規則)には、次のように明記されています。
「この法人は、日蓮大聖人御建立の本門戒壇の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき信仰する団体である」
この確約のもと、創価学会は全国各地で積極的な布教活動を展開し、多くの人々を日蓮正宗の信仰へと導いていきました。
創価学会によって迎えられた新たな信徒は、日蓮正宗の各寺院に所属し、日蓮大聖人の教えに基づいた信仰生活を送るようになりました。
実正寺の設立と創価学会の支援
こうした日蓮正宗と創価学会の密接な関係の中で、昭和48年(1973年)、愛媛県今治市中寺に「実正寺」が建立されました。
当時、創価学会は日蓮正宗を支援するため、全国各地で多数の寺院建立に資金提供を行っており、実正寺もその一環として建てられた寺院のひとつでした
実正寺は、愛媛県今治市および越智郡に住む信徒にとって、日蓮正宗の教えを学び、信仰を深めるための重要な拠点として機能してきました。
教義をめぐる対立と創価学会の破門
このように、日蓮正宗の強力な信徒団体として、教団の布教や寺院の建立を支える重要な役割を担っていた創価学会でしたが、1980年代後半から1990年代初頭にかけて、創価学会と日蓮正宗の関係は徐々に悪化していきます。
特に1979年に阿部日顕が法主に就任して以降、教義の解釈や教団運営のあり方をめぐる意見の対立が表面化し、両者の関係は次第に深刻なものとなっていきました。
そして1991年11月、日蓮正宗は創価学会が教義を守らず、さらに盗聴行為など反社会的な行動を取っているとして、ついに創価学会を破門する決定を下します。
この破門によって、長年にわたり築かれてきた創価学会と日蓮正宗の関係は、完全に断絶されることとなりました。
もう一つの決別劇……顕正会の離脱
さらに、同じく日蓮正宗の信徒団体として1957年に発足した「妙信講(現・顕正会)」も、創価学会と同様に日蓮正宗との関係を次第に悪化させていきました。
妙信講は、当初は日蓮正宗の教えを広めるために活動する信徒組織でしたが、次第に教義の解釈や教団運営の方針をめぐって創価学会と対立するようになります。
そして1974年には、妙信講の信者たちが東京・信濃町にある創価学会本部を襲撃するという事件が発生しました。
約70人の信者が街宣車で突入し、大乱闘に発展。結果として12人が逮捕され、宗門内でも深刻な問題となりました。
この事件を受け、日蓮正宗は1974年8月、妙信講に対して「講中解散処分」を下し、組織としての解散を命じました。
これにより、妙信講は日蓮正宗からの完全な離脱を余儀なくされ、その後は「顕正会」として独自の宗教活動を展開していくことになります。
こうして顕正会もまた、創価学会と同様に日蓮正宗から分離した団体となり、それぞれが独自の信仰と組織路線を歩んでいくことになったのです。
実正寺が歩む信仰の道
このように、現在の日蓮正宗は、顕正会や創価学会とは一線を画し、独自の信仰の道を歩んでいます。
そうした中で、今治市中寺にある実正寺もまた、創価学会との関係を離れ、日蓮正宗の教義を忠実に守りながら、その伝統と信仰を静かに受け継いでいます。