「野間寺(のまじ)」は、古い歴史を持つ由緒ある寺院で、地域の人々にとって深く愛される場所です。
その歴史の中で、野間寺は地域の信仰と文化の中心としての役割を果たし、季節ごとの行事や祈願を通して、多くの人々が訪れる親しみある存在となっています。
野間寺の創建と村上水軍
野間寺の創建は、永禄8年(1565年)7月7日。
村上水軍御三家の一つ、来島村上氏の当主・村上通康(むらかみ みちやす・来島通康)の早世した子、「長昌院殿 花顔宗桂禅公子」を弔うため、寺町の「大雄寺(だいゆうじ)」の10世「能山門芸大和尚」を迎えて開山としたとされています。
「長昌院殿 花顔宗桂禅公子」は戒名であり、「早世」とは若い年齢で亡くなったことを意味しています。
村上通康の子供たち
村上通康には、4人の男子と2人の娘がいました。
- 長男・得居通幸(とくい みちゆき)
来島家の家督を継ぎました。没年は諸説あり、天正元年(1573年)説と文禄元年(1592年)説がありますが、現在は文禄元年の没説が通説となっています。 - 次男・村上通清(むらかみ みちきよ)
寛永15年(1638年)に生涯を閉じ、天寿を全うしました。 - 三男・河野通直(こうの みちなお)
病弱であったとされ、天正15年(1587年)に竹原で病死したとの記録があります。しかし一方で、豊臣政権の意向により自害を強いられたという異説も伝わります。 - 四男・来島通総(くるしま みちふさ)
文禄・慶長の役で朝鮮に出兵し、慶長2年(1597年)の鳴梁海戦(めいりょうかいせん)で戦死しました。
二人の娘のうち、 一人は穂井田元清(ほいだ もときよ)に嫁ぎ、のちに毛利秀元(もうり ひでもと)の母となりました。
もう一人は、能島村上氏の当主である村上武吉(むらかみ たけよし)に嫁ぎました。
河野通直は村上通康の子供?
さらに、河野氏の一族である河野通吉(こうの みちよし)の子、河野通直(こうの みちなお)についても、実は村上通康の子であった可能性が指摘されています。
通直の母・天遊永寿(てんゆう えいじゅ・宍戸隆家の娘)は、はじめ村上通康に嫁ぎ、その後に河野氏の当主・河野通宣(こうの みちのぶ)に再婚しました。
このため、通直は村上通康の子として生まれ、母の再婚によって河野家の正統な後継者として迎えられた、という説があります。
この説に従えば、通直は毛利元就の曾孫にあたり、血縁的にも毛利・小早川両氏との結びつきが強い人物でした。
実際、通直が家督を継いだ永禄11年(1568年)以降の河野家は、すでに往年の勢力を失い、内外から衰退が進んでいました。
周辺では、大友氏や長宗我部氏が勢力を伸ばし、家中でも大野直之の乱が発生するなど不安定な情勢が続いていましたが、毛利氏と小早川氏の後援によって辛うじて存続していたのです。
通直は幼少で家督を継いだため、しばらくは実父とされる通吉が政務を補佐しました。
やがて成長した通直は、天正9年(1581年)に毛利輝元の姪にあたる矢野局(吉見広頼の娘)を正室に迎え、毛利家との結びつきを一層強めています。
しかし、豊臣秀吉の四国攻めが始まると、河野家の進退は揺れに揺れました。家中では降伏か抗戦かの意見が割れ、最終的に湯築城に籠城しましたが、約1か月で小早川隆景に降伏。
通直は、城内にいた子どもたち45人の助命を嘆願するため、自ら先頭に立って隆景に謁見したと伝わります(『予陽河野家譜』)。
降伏後、河野家は所領を没収され、戦国大名としての歴史はここで幕を閉じます。通直は命こそ助かったものの、以後は事実上の幽閉生活を余儀なくされました。
そして天正15年(1587年)7月14日、通直は竹原で死去します。
従来は病弱であったことから「病死」とされてきましたが、江戸時代の史料や近年の研究では、豊臣政権による伊予旧体制の一掃政策の一環として、小早川隆景と引き離されたうえで自害を強いられたとする説が有力視されています。
ほぼ同時期に、宇和郡の西園寺公広も新領主に殺害されており、伊予の旧領主処分は計画的に行われた可能性があります。
このように、河野通直は伊予河野氏最後の当主であり、その出生から最期までが複雑な政治的思惑に翻弄された人物でした。
村上通康の子であった可能性は、河野家と村上家、さらには毛利家の血縁関係と政治的連携を象徴する興味深い一節といえます。
早世した子供の存在
いずれにせよ、永禄8年(1565年)に亡くなった「長昌院殿 花顔宗桂禅公子」は、通清や通総といった記録に残る子供たちとは別の人物であったと考えられます。
戦国時代から江戸初期にかけての武家系図や家譜では、早世した子供の名前が記録されないことは珍しくありません。
家督や婚姻に関わらない子は重視されず、幼少で出家した場合は俗名が記されずに法名のみが残ることも多くありました。
さらに、戦乱で城や寺院が焼失すると家の記録も失われやすく、特に早世した子供の情報は後世に伝わりにくい傾向がありました。
このことから、長昌院殿 花顔宗桂禅公子も、幼くして出家し、早くに亡くなったため、法名だけを残して歴史に埋もれた存在となったのでしょう。
野間寺と来島村上氏をつなぐ瓦紋
野間寺と来島村上氏とのつながりは、瓦紋(かわらもん)からも感じる出来ます。
それが、来島村上氏の歴史を今に伝える「折敷に縮み三文字」です。
大山祇神社の神紋から河野氏へ
この家紋は、瀬戸内海の信仰の中心である大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の神紋として古来より用いられてきました。
大山祇神社は、航海安全と武運の神として武士たちに篤く信仰され、平安時代には源氏や平氏、南北朝・室町期には瀬戸内の武家がこぞって祈願に訪れました。
神社の祭祀を担ったのは古代豪族・越智氏です。
越智氏は伊予国を本拠に瀬戸内の要地を支配し、のちに武家・河野氏として知られるようになります。
そのため、「折敷に縮み三文字」は越智氏から河野氏へと受け継がれ、やがて伊予国の象徴的な紋となりました。
来島通康と忠義の証
戦国時代、伊予の水軍の中心となって活躍していたのが来島を本拠とする来島村上氏でした。
当主の来島通康(くるしま みちやす)は、河野氏当主・河野通直(こうの みちなお)の娘婿として一族に連なり、河野水軍の主力として活躍します。
特に、天文11年(1542年)の「天文の内訌(天文伊予の乱)」では、通直を守るため来島城に籠城。
激流の海に守られた天然の要塞で、反対勢力を退け続け、ついに城は一度も落ちませんでした。
この籠城戦で示された通康の忠義は、伊予一円に鳴り響くこととなります。
その功績により、通康は越智姓を名乗ることを許され、さらに「折敷に縮み三文字」の家紋を授かりました。
つまり、この瓦紋は単なる装飾ではなく、来島家が河野氏の最も近い家臣として認められた証だったのです。
藤原純友の乱と野間寺
このように、来島村上氏とのつながりで知られる野間寺ですが、その創建はさらに古く、平安時代以前にまでさかのぼると伝えられています。
そして、その歴史の中で最も大きな危機を迎えたのが、10世紀中頃に瀬戸内を揺るがした「藤原純友の乱(ふじわらすみとものらん)」でした。
海賊王が引き起こした反乱
藤原純友は、中央で冷遇された下級貴族ながら、伊予国に赴任し、海賊討伐を命じられて地方官を務めていました。
しかし、やがて海賊たちの境遇に深く共感し、交流を重ねる中で自ら彼らの盟主として台頭。
やがては日振島(現在の愛媛県宇和島市)を拠点とし、数百隻の船団を率いて瀬戸内海一帯を実効支配する「海賊王」として恐れられる存在となります。
純友は天慶2年(939年)頃から勢力を強め、年貢米や特産物を運ぶ官船・商船を次々と襲撃し、沿岸部の港や村々も戦火に巻き込みました。
天慶4年(941年)にはついに九州の大宰府にまで攻め込み、西日本全域は大きく不安定化。
瀬戸内の寺社や集落も被害を受け、地域の暮らしは深刻な混乱に陥りました。
野間寺の焼失
この戦火の中で、野間寺もまた焼き討ちに遭い、壊滅的な打撃を受けたと伝えられています。
純友の海賊軍は、年貢や物資を積んだ船だけでなく、政治や宗教の象徴である寺社にまで手を伸ばしており、野間寺もその犠牲となったのです。
藤原純友の乱は天慶4年(941年)、朝廷側が純友を討ち取り、反乱を鎮圧することで終結しました。
しかし、その後の野間寺については長らく記録が途絶えます。
復興の足取りを示す史料も見当たらず、数百年にわたり荒廃したまま、人々の記憶の中にのみ存在していたと考えられます。
「江戸時代の再興」嘯室宗虎の尽力
長い荒廃ののち、野間寺が歴史の表舞台に再び姿を現すのは、江戸時代に入ってからでした。
大雄寺(だいゆうじ)の11代目住職・嘯室宗虎(しょうしつ そうこ)が、長年放置されていた野間寺の復興に乗り出したのです。
嘯室宗虎は、雑草に覆われた境内を整え、崩れかけた伽藍の再建に心血を注ぎました。
こうして野間寺は、再び地域の信仰を集める場として息を吹き返し、その後も檀家や地域の人々の協力によって修繕や手入れが重ねられ、代々の住職と地元の人々の手で大切に守り伝えられてきました。
以後、野間寺は「中興の祖・宗虎上人」の功績を称えつつ、現在も静かに地域の歴史を見守り、訪れる人々にその長い時の流れを語りかけています。
静かに歴史を語る野間寺の文化財
幾度もの戦乱を乗り越えた野間寺には、古の祈りを今に伝える仏像や石塔が静かに佇んでいます。
荒廃と復興を幾度も繰り返しながらも、人々の信仰は絶えることなく受け継がれ、その思いが形となって今日まで残されてきました。
仏像の伝承
野間寺の本尊は釈迦如来であり、脇立として文殊菩薩が祀られています。
この文殊菩薩像には、仏師「安向弥(あんなみ)」が三島神社・馬越や安養寺・馬越が鎮座する「鯨山(愛媛県指定史跡:日高鯨山の古墳)」で彫ったという伝承が残っています。
河野通信の寄進
また、阿弥陀堂には河野通信(こうの みちのぶ)が寄進したと伝えられる阿弥陀如来像、そして厨子が安置されています。
弘法大師ゆかりの虚空蔵菩薩
さらに、堂内には弘法大師が彫ったと伝わる虚空蔵菩薩も祀られています。
この虚空蔵菩薩は、もともと野間地区にあった智蔵寺(ちぞうでら)に安置され、河野家の崇敬を受けていたものですが、智蔵寺が廃寺となった後に野間寺へ移されたと伝えられています。
野間寺に残る石塔群と文化的価値
野間寺の境内やその周辺には、数多くの石塔が残されており、これらの遺構については詳細な由来が現在のところ不明となっています。
しかし、これらの石塔は形状や刻まれた風化の痕跡から、室町時代に建立されたものと考えられています。
室町時代(1336年~1573年)は、足利尊氏が室町幕府を開いたことに始まり、南北朝の動乱、応仁の乱を経て戦国時代へとつながる、約240年にわたる非常に不安定な時代です。
前期(南北朝時代)では、朝廷が南朝(後醍醐天皇)と北朝(足利政権)に分裂し、日本全土で王権を巡る内乱が続きました。
次第に幕府が全国の統制を失い、守護大名が自立し、独自に領国経営を進めていく「戦国時代」へと突入していきます。
このような政争と戦乱の続く中でも、各地の寺社は地域住民の精神的な拠り所としての役割を果たし続けました。
領主が交代しても、地元の人々によって供養や祭祀が守られ、祈りの場は維持されていったのです。
野間寺に残る室町期の石塔群も、まさにそうした時代の中で生まれ、守られてきた信仰の痕跡であり、平穏を願う人々の祈りの結晶といえるでしょう。
永代供養堂「永代涅槃堂」
野間寺の境内に建つ「永代涅槃堂(えいたいねはんどう)」は、平成26年(2014年)の春に完成した比較的新しい施設です。
宗派を問わず永代供養を任せられる現代的な堂宇であり、過去から未来へと受け継がれる祈りの場として建立されました。
ブータン・タクツァン僧院をモチーフ
建築のモチーフとなったのは、ブータンの聖地「タクツァン僧院」です。
標高3120mの断崖絶壁に建てられたこの寺院は、チベット仏教の聖地であり、「雌トラの隠れ家」を意味する「タクツァン」の名の通り、深い伝説をもつ場所です。
この地には、仏教をブータンにもたらした高僧・パドマサンバヴァ(蓮華生大士)が、雌トラに姿を変えた弟子イエイシェ・ツォギャルに乗って飛来し、瞑想を行ったと伝えられています。
その神聖な洞窟にちなみ、1692年にテンジン・ラブジーがタクツァン僧院を建立。以降、タクツァンはブータン仏教最大の巡礼地のひとつとして知られています。
野間寺・永代涅槃堂の建築には、こうした異国の祈りの精神が融合され、白壁に朱と金をあしらった外観は、静寂の中にどこか異国的な風情を感じさせます。
ご本尊・釈迦涅槃像
堂内の奥には、ご本尊として「釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)」が安置されています。
この涅槃像は、お釈迦様が入滅の時を迎えた姿を表現したもので、仏教における「無常」「解脱」「安らぎ」を象徴します。
この像は、インドの仏師がブッダガヤの菩提樹から直接彫り上げた貴重な作で、仏教の源流と直に結びつくものです。
像の足元には、入滅を嘆き悲しむ弟子や動物たちの姿も表現されており、涅槃の情景を目の当たりにしているかのような臨場感があります。
堂内の意匠と祈りの空間
永代涅槃堂の内部は、宗教施設としての荘厳さと美術的な魅力を兼ね備えています。
高く設けられた吹き抜けの天井には、天から舞い降りる天女の姿が描かれ、やわらかな光を受けて優雅に浮かび上がります。
窓には、吉兆を表す鳳凰が羽ばたき、堂内を静かに見守っています。
これらの装飾には、ここに眠る人々が浄土へと導かれ、やすらぎの世界で過ごせるようにとの願いが込められています。
堂内では、玉川町出身の日本画家・越智一馬氏による四季の大作が来訪者の目を引きます。
全長1.5メートルにも及ぶ4枚の作品には、それぞれ以下の風景が描かれています。
- 春:満開の桜
- 夏:みずみずしい新緑
- 秋:色づく紅葉
- 冬:静けさに包まれた雪景色
季節ごとの絵に触れることで、訪れる人々は自然の巡りを感じながら、祈りの中に穏やかな時間の流れを見出すことができます。
また、堂内にはお釈迦様の一代記を刻んだ木彫レリーフも配されており、以下の重要な場面が連続的に彫り込まれています:
- 誕生(ルンビニー園)
- 四門出遊(老病死を知る)
- 出家(修行への旅立ち)
- 悟り(菩提樹下での成道)
- 説法(初転法輪)
- 入滅(クシナガラでの涅槃)
中でも印象深いのは、村娘スジャータが乳粥(ライスキール)を差し出す場面です。
飢えと疲れに倒れかけた釈尊が人の慈しみによって力を取り戻す場面であり、悟りの前にある「人間的な弱さ」と「慈悲」が表現された情感豊かな一場面です。
10周年と地域文化との融合
2024年には10周年を迎え、記念行事としてルミエール野間で「シタール演奏会」が開催されました。
演奏者の伊藤公朗さんは、愛媛出身で、長年インド音楽を学び続けた経験を持つシタール奏者です。その荘厳で美しいシタールの音色が、涅槃堂の10周年を祝いました。
この「永代涅槃堂」は、新しい時代にふさわしい永代供養堂として、参拝者や地域の人々に静かで落ち着いた祈りの場となっています。
新春伝統行事「大根だき」
今治市民の間で「野間寺」といえば、毎年1月初旬に行われる新春恒例の「大根だき」が思い浮かびます。
この行事は、2000年に地元特産の野間大根(乃間大根)を活用して地域を盛り上げようと始まったもので、現在では毎年多くの参拝者でにぎわう人気の新春行事となっています。
野間大根の歴史
野間寺がある野間・宅間地区(旧乃万村)は、なだらかな花崗岩の丘陵地と肥沃な谷底平野に囲まれた土地です。
古くから根菜類の栽培が盛んで、谷底平野では水はけの良い土壌を生かして米や麦の二毛作が行われ、丘陵地ではだいこん、にんじん、ごぼうなどの根菜類が育てられてきました。
この地域で育つ大根は、甘みが強く煮崩れしにくいため、おでんや煮込み料理に最適です。
今では地元の名産品として野間大根(乃間大根)の名が広く知られ、鳥生地区の「鳥生れんこん」と並ぶ今治の二大根菜となっています。
大根だきの準備
「大根だき」に使われる大根は、地元の大根生産者である檀家の方々から奉納されます。
その数はおよそ300本にも及びます。
大根は前日から手分けして洗い、皮をむき、輪切りにしたうえで、大きな鍋に入れて煮込みます。
出汁にはいりこ・昆布・シイタケを使い、醤油と砂糖で薄味に整え、一晩かけてゆっくり煮込むことで、
甘みと旨みが大根にしっかり染み渡ります。こうしてできあがった大根は、柔らかく、寒い季節にぴったりの味わいです。
当日の流れ
「大根だき」は午前10時から始まります。
まず、地元特産の野間大根を供え、無病息災と開運招福を祈願する法要が行われます。
読経が堂内に響き渡るなか、参詣者は無料で配られる引換券を手に大鍋の前に並びます。
大鍋はドラム缶を加工したカマドの上で温められ、熱々の大根が参拝者に振る舞われます。
この大根を食べることで、新しい一年の無病息災と開運招福を祈るのです。
境内では、大根だきとあわせて次のような催しも行われます。
- 炊き込みご飯や手打ちそばの販売
- 地元産の野菜市
- 古着や骨董品の展示販売
- 特別に祈祷された御祈祷大根の販売
参拝者同士の会話や地元の方々との交流も生まれ、行事全体が人と人を結びつける温かい場となっています。
参加のすすめ
大根だきには数百人分の大根が用意されますが、無くなり次第終了となります。
早めに訪れれば、寒い新年の空気の中、湯気の立ちのぼる熱々の大根を味わいながら、心も体も温まるひとときを過ごせます。
ぜひ一度、野間寺の「大根だき」に足を運び、地域の人々に受け継がれる祈りと交流の正月行事を体験してみてください。