神宮(かんのみや)に鎮座する「野間神社(のまじんじゃ)」は、地域の人々からこの土地を守る神さま、「総産土神様(うぶすなさま)」として、古くから信仰されてきた神社です。
「総産土神様」とは、個人の生まれた場所に宿る産土神(うぶすながみ)という信仰を、地域全体に広げたような存在で、村や町をまるごと見守ってくださる神さま、として親しまれています。
こうした信仰の中心として野間神社があったことから、この地はやがて「神の宮」と呼ばれるようになり、それが地名となって、現在の「神宮(かんのみや)」という地名が生まれたと伝えられています。
創建と神格のはじまり
野間神社の正確な創建年代は明らかではありませんが、『野間神社誌』によれば、若弥尾命(わかみおのみこと)が祖神である飽速玉命(あかしはやたまのみこと)を奉斎したことが起源とされています。
また社名や御祭神の構成からは、もともと野間姫命を中心とした信仰があったことがうかがわれ、若弥尾命との対の関係によって、現在の祭神体系が形成されたと考えられています。
社伝によれば、大宝元年(701年)には社殿が造営され、神社としての基礎が固まったとされています。
社名・神名の変遷
『三代実録』には「野間天皇神」、『伊豫国神名帳』には「濃満天皇神」と記され、他にも「乃萬宮」「濃萬神社」「乃萬社大梵天王宮」など、さまざまな名称で呼ばれてきました。
これらはいずれも「のま」と読まれてきましたが、鎮座地が大化の改新以前に「怒麻(ぬま)国」に属していたことから、当初は「ぬま」と呼ばれていた可能性もあります。
中世以降は「野間天皇神」の呼称が定着し、江戸時代には「野間天皇」あるいは親しみを込めて「テンノンさん」と呼ばれ、地域の人々に広く親しまれてきました。
また、宝暦10年(1760年)の『松山領神社帳』には「牛頭天王宮」と記されており、当時は牛頭天王(須佐之男命の化身)が主祭神であったと考えられます。
四柱の御祭神
現在の野間神社の御祭神は、飽速玉命(あきはやたまのみこと)、若弥尾命(わかみおのみこと)、野間姫命(のまひめのみこと)、そして須佐之男命(すさのおのみこと)の四柱で、いずれも地域にとって深い関わりのある神々とされています。
「飽速玉命」
「飽速玉命(あきはやたまのみこと)」は、『先代旧事本紀』に記される国造の神で、成務天皇の時代に安芸(阿岐)の国造に任じられたとされます。
広島県廿日市市にある速谷神社でも崇められており、国造としての地位や、地域開拓の神としての神格を備えている神様です。
野間神社においても、飽速玉命はその開拓者精神や守護の力を象徴する神として祀られており、地域の繁栄を支えてきました。
「若弥尾命」
「若弥尾命(わかみおのみこと)」は、飽速玉命の三世孫にあたるとされ、神功皇后の三韓征伐に従い、武勲を挙げた後に怒麻(野間)国造に任命されました。
若弥尾命はこの地の開拓と統治に尽力したと伝えられており、地域の祖神としての位置づけがなされています。
「野間姫命」
「野間姫命(のまひめのみこと)」は若弥尾命の妻とされ、草木の祖神「草野姫」とも呼ばれる神です。地域の自然や草木を守護し、豊かな生態系を育む神と見られており、野間神社の主祭神の一柱としての神聖さを持っています。
「野間」という地名も、この野間姫命に由来している可能性があり、神社の創建時において特に重要な役割を果たしたことがうかがえます。
「須佐之男命」
「須佐之男命(すさのおのみこと)」は、日本神話において強力で荒々しい神として知られ、特に疫病除けや災厄払いの神格として厚い信仰を集めてきました。
須佐之男命は、風雨や嵐、自然の猛威を司る力を持ちながらも、人々の生活に安寧をもたらす役割も果たしており、この神性から厄災除けや疫病退散の神としての信仰が強まりました。
「大山積命」
さらに、相殿には大山積命(おおやまづみのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)も祀られています。
「大山積命(おおやまづみのみこと)」は山や海を統べる神で、特に海上の守護神として崇められ、航海の安全を祈願する人々から篤い信仰を集めてきました。
大山積命を主祭神とする愛媛県大三島の大山祇神社は、全国の山祇神社の総本社とされており、古来より朝廷や武将たちの崇敬も厚い神社として知られています。
「大国主命」
「大国主命(おおくにぬしのみこと)」は、国土の開拓と豊穣を司る神であり、地元の人々にとっては五穀豊穣や地域の繁栄をもたらす守護神とされています。
また、大国主命は大地と海の神として、航海安全や水産業の守護神としても崇敬されています。
朝廷の信仰と「名神大社」への昇格
野間神社が正史に初めて登場するのは天平神護2年(766年)のことで、この年に野間神社は従五位下の神階を授かり、神戸二烟を御神領として賜りました。
承和4年(837年)には、南海道の中で最初に「名神」の称号を受け、野間神社は伊予国における大山積神(現・大山祇神社)と並ぶ名神としての格式を得ました。
「式内社」とは、927年に完成した『延喜式』神名帳に記された格式ある神社のことを指します。その中でも特に重要視された神社が「名神大社」であり、野間神社は伊予国唯一の式内名神大社として名を連ねました。
天慶の乱と復興、延喜式への記載
天慶2年(939年)、藤原純友の乱により社殿は焼失しましたが、翌年には「野間神社」として延喜式神名帳に記載され、その格式は失われることなく保持されました。
さらに天慶3年(940年)、朝廷によって反乱平定の祈願「海賊宿祷(かいぞくしゅくとう)」が野間神社で行われ、その功績により神社は正二位に昇叙されました。
武家・朝廷からの崇敬と神領の拡大
天慶5年(942年)には、越智郡押領使であり河野氏の祖とされる越智好方が社殿の再建に尽力し、その後も鎌倉時代には源頼朝が神領を寄進し、河野氏も代々これを受け継ぎました。
室町時代には足利尊氏から二度の教書が下され、後醍醐天皇からも二度の綸旨が授けられるなど、野間神社は武家政権と朝廷双方から深く崇敬され続けました。
建長7年(1255年)の記録によれば、野間神社は14町3反半の封戸田を保有し、加えて6町4反に及ぶ金剛般若田・仏供田・請僧田なども寄進され、伊予国では大山祇神社に次ぐ神領規模を誇りました。
江戸時代から近代へ
江戸時代には松山藩の雨乞い祈願所として信仰を集め、宝永2年(1705年)には拝殿が、文化10年(1813年)には本殿が造営され、現在に至る社殿の形が整いました。
明治時代に入ると、明治4年(1871年)に郷社に、明治28年(1895年)には県社に昇格し、明治30年(1897年)に野間郡が越智郡と合併されたのちも、旧野間郡の総社としての役割を引き継ぎ、地域の信仰の中心として現在も崇敬を集めています。
伝統の舞と豪華な行列が彩る5月の祭礼
毎年5月3日に行われる野間神社の例大祭では、「浦安の舞」「獅子舞」「大名行列」「わらみこし(藁御輿)」「紺原御船」など、多彩な奉納行事が行われ、神社と地域が一体となって神様へ祈りと感謝を捧げます。
「浦安の舞」
「浦安の舞」は、神社で平和を願い奉納される舞です。昭和15年(1940年)に、日本の平和と繁栄を祈る目的で作られ、「心安らぐ」という意味を持つ「浦安」という名前がつけられました。
この「浦安」は、「日本書紀」の中で日本を「浦安の国」(心安らぐ平和な国)と称した表現に由来し、舞の中にも平和と調和への願いが込められています。
舞は、4人の舞姫が「一臈」「二臈」「三臈」「四臈」の役割を担い、神社の本殿で神聖な雰囲気の中で行われます。
舞は扇舞と鈴舞の二部構成で、扇舞では「桧扇」という装飾された扇を使って優雅に舞い、続く鈴舞では「鉾先鈴」や「神楽鈴」を持って舞います。
特に鉾先鈴は、三種の神器を模しており、日本の神話に基づく神聖な象徴として邪気を払い、神様を呼び寄せるとされています
また、舞姫たちは「小忌衣(おみごろも)」や「緋袴(ひばかま)」といった伝統的な装束を着用し、髪には花簪(かざし)や絵元結(えもとゆい)を施しています。
衣装の一つひとつが神聖な意味を持ち、舞の動きと合わせて神に祈りと感謝を捧げる姿を表現しています。
音楽もまたこの舞を特別なものとしています。雅楽の音色が舞の背景に響き渡り、神楽笛や篳篥(ひちりき)、箏(こと)、太鼓などが使われて荘厳な雰囲気を作り上げています。
神聖な音楽と舞が一体となり、平安と心の安らぎを感じさせる空間が生み出されるのです。
「大名行列」
大名行列の石段降りは、荘厳で格式あるパフォーマンスとして再現されています。
かつての大名行列は、将軍への参勤交代や重要な儀式の一環として行われ、行進の進み方や動きが非常に厳格に決められていました。
石段を降りる際には、先頭から順に武士や従者が整然と進み、やり(槍)などを持つ役人は慎重にゆっくりと進むのが特徴です。
行列全体のゆったりとした進行は、かつての大名家の威厳と、静けさや慎重さを伝えるために重要視されています
このような行列の中で、やりの受け渡しが行われることも見どころの一つです。
やりは、行列の威厳を示す象徴でもあり、受け渡しの動作が一連の所作として繊細かつ優雅に行われます。
この演出は、ただ歩くだけではない行列の美しさと日本の伝統的な武士文化を伝え、観客に当時の雰囲気を伝えるために工夫されています。
「わらみこし(藁御輿)」
大名行列が終わると、子どもたちが鳳凰を模した稲わらの神輿を担いで、野間神社に向かってゆっくりと降りていきます。
この「わらみこし」は昭和46年4月に今治市の無形民俗文化財として認定され、春と秋の2回にわたり運行される貴重な伝統行事です。
もともと10月の秋祭りで行われていたもので、収穫後には新しい稲わらを用いて五体の神輿が作られ、実りへの感謝と豊穣の祈りが込められました。
地域の人々が長年親しんできたこの秋祭りの行事は、後に春の大祭にも取り入れられ、現在では春と秋の両季にわたって神社の伝統行事として受け継がれています。
春の大祭では、子ども神輿の代わりに、秋のわら神輿が使われています。
春のわら神輿は伝統的な大きな作りが特徴で、中心は秋よりも一回り大きく、直径約70cmの円形の胴体の上に羽を広げた鳳凰が飾られ、頂上には神木の榊が立てられています。
子どもたちはこのわら神輿を担ぎ、地域の各集落を巡って神社に奉納しながら、地域の人々と神様を結びつける重要な役割を果たしています。
巡行中には「甘酒まつり」と呼ばれる行事もあり、参拝者には甘酒が振る舞われます。
夜には、わら神輿は野間神社境内の相撲場で燃やされ、その火の光の中で子どもたちが相撲を奉納します。
この儀式は全国的にも珍しいもので、地域の信仰と伝統の豊かさを象徴し、人々の祈りと感謝が込められています。
「紺原御船」
大名行列の後に続いて、神舟「紺原御船(こんばらみふね)」がゆっくりと降りてきます。
この「紺原御船」はもともと大西町の素鵞神社に伝わるもので、ある時期から奉納が一時休まれていました。しかし、野間神社の春の大祭で再び奉納が復活し、現在も春の大祭の一環として参加しています。
参加の背景については現在のところ当サイトではわかりませんが、大西町の多くの住民が野間神社の氏子であることから、地域的な絆が深く影響していると考えられます。
「紺原御船」は、舳先から艫まで四間(約7メートル)を超える長さを誇り、豪華な屋形舟の形をした神輿です。
舟には御簾が下り、華やかな高欄がかけられており、中央の神額には「扶桑総鎮守」(日本全土の守り神)と書かれています。
神額を挟んで、白髪の翁である大山積大神(三島大明神)と、筆を手にした名筆家・藤原佐理卿が向かい合い、静かに座しています。
舟の下部には波を模した垂れ幕があり、氏子である大西町紺原の若者たちが操りながら、舟歌に合わせて石段をゆっくりと降り、まるで本物の舟が波間に漂っているかのような光景を生み出します。
その姿は、まるで絵巻物の一場面を見ているかのような壮観で、観衆を魅了します。
「獅子連(継ぎ獅子)」
最後に、神宮(かんのみや)、宅間、野間、矢田、延喜などの各地区から氏子たちが集い、それぞれの地区ごとに独自の工夫を凝らしたパフォーマンスが行われます。
石段の中段では、愛媛県の無形民俗文化財にも指定されている「継ぎ獅子(つぎじし)」が行われ、三人が積み重なる「三継ぎ」、四人が積み重なる「四継ぎ」といった技が披露されます。
最上部にいる「獅子児(ししこ)」は、扇や鈴を持って力強く舞い、その姿には地域の無病息災や豊穣を願う気持ちが込められています。
石段を下りると、そこでも獅子舞や継ぎ獅子が再び披露され、最後には獅子児たちが獅子の背中に乗り、餅つきの演技を行います。
この餅つきは、豊穣や家庭円満を祈る象徴的な演目として観客に人気で、演技の締めくくりには、参拝者たちに向けてお餅が投げられ、祭りの一体感が広がります。
野間神社には伝わる神話と伝説
野間神社には数々の伝説や神話が伝承されています。
紺原御船と神額伝説
そのひとつが、毎年の例祭で奉納される「紺原御船(こんばらみふね)」の起源にまつわる伝説です。
正暦3年(992年)、藤原実頼の孫で能書家の「藤原佐理(ふじわら の すけまさ)」は、太宰大弐(だざいのだいに)の任を終え、九州から船に乗って都へと帰っていました。
しかし瀬戸内海は連日の荒天に見舞われ、しばしば仮泊を強いられ、やがては航行そのものを断念せざるを得ないほどの状況に追い込まれていきます。
そんなある夜、夢に白髪の翁の姿をした大山積大神が現れ、こう告げたといいます。
「この風浪の原因は、私の意に沿わぬことがあるためだ。多くの宮には神額が掛かっているが、大山祗神社にだけはまだない。それが無念である。しかし、神額は誰にでも書かせられぬ。ちょうど汝が通りかかったので、この方法で呼び止めたのだ。ぜひ筆を取ってほしい」
佐理卿は、その神託に従って身を清め、船板に「日本総鎮守大山積大明神」という神額を力強い筆致で書き上げ、それを海へ流しました。
すると不思議なことに、荒れ狂っていた嵐がぴたりと収まり、佐理卿は無事に都へ帰還することができたと伝えられています。
そして海へ流され神額は、まるで何か神秘的な力が働いたかのように大三島宮浦の海岸に流れつき、大山祗神社の神官がそれを見つけ、神社に奉納したとされます。
この神額は後に重要文化財に指定され、今も大山祗神社(大三島町)に所蔵されています。
佐理卿が神学を書いた場所については、吉海町の泊の海岸、弓削町下弓削の海岸など諸説ありますが、一説には「新来島どっく大西工場」がある越智郡大西町九王の品部川の下流であったとされています。
佐理卿が神額を書き上げた場所については、吉海町の泊の海岸や弓削町下弓削の海岸など複数の説がありますが、一説には越智郡大西町九王の品部川の下流、現在の「新来島どっく大西工場」の近辺であったとも伝えられています。
こうした伝説にもとづき、現在では氏子である大西町紺原の氏子が「紺原御船」を動かす役を担っています。
氏子の方たちが舟を操りながら石段を降りていく様子は、伝説と地域の絆を象徴し、野間神社の春の大祭の中でもひときわ神聖で重みのある光景となっています。
「八しおりの酒」須佐之男の神話
野間神社の例祭で振る舞われる甘酒には、古代神話に由来する特別な意味が込められており、その起源は、日本神話に登場する神、須佐之男命(すさのおのみこと)にまつわる物語にさかのぼります。
かつて高天原(たかまがはら)に住まいし神、須佐之男命(すさのおのみこと)は、その激しき気性と数々の乱行によって天照大神の怒りを買い、ついには神々の総意により天上の世界から追放されることとなりました。
そして出雲の地に降り立った須佐之男命は、八つの頭と八つの尾を持つ恐ろしい蛇である八岐大蛇(やまたのおろち)がこの地を荒らし、毎年若い娘を生贄として捧げられていることを知ります。
ある村に住む老夫婦の娘、櫛名田比売(くしなだひめ)もまた生贄として差し出される運命にありました。須佐之男命は老夫婦から事情を聞くと、櫛名田比売を救うために八岐大蛇を退治することを決意します。
そこで須佐之男命は、「八塩折(やしおり)の酒」という特別な酒を造る計画を立てました。この酒は八岐大蛇を酔わせて動けなくするためのもので、複数回にわたり「塩」を加えて醸造することで、香りが高く味も濃厚な特別な酒に仕上げられました。
「八塩折」という名前には、酒の味わいを濃厚にするために塩を用いて幾度も「折る」(醸造を重ねる)という意味が込められています。須佐之男命はこの酒を八つの大きな桶に分け、それぞれを八岐大蛇が通る道に配置しました。
八岐大蛇は、酒の香りに引き寄せられて近づき、八つの桶から酒を飲み始めました。やがてすべての頭が酔いつぶれて動けなくなったその瞬間を狙い、須佐之男命は剣を抜いて八岐大蛇を見事に斬り伏せ、櫛名田比売を救い出すことに成功しました。
この「八塩折の酒」の力で八岐大蛇を退治できたことから、この酒はただの酒ではなく、悪しきものを退け、清める力を持つ神聖な酒とされるようになりました。
この伝説に由来して、野間神社の祭りでも甘酒が振る舞われます。
この甘酒には須佐之男命が最初に造った神聖な酒を再現し、悪しきものを祓う力を宿しているとされ、参拝者がこの甘酒を口にすることで、須佐之男命の神聖な力が授けられると考えられています。
「石神さん」と須佐男伝説
野間神社から数百メートル奥に進んだ山中には、「石神さん」と呼ばれる巨岩があります。
この岩は、古代日本において神霊が宿る場所や神が降臨する神聖な岩「磐座(いわくら)」とされ、野間神社の発祥と深く関わるっているのではないかと考えられています。
伝説によれば、須佐之男命は紀伊国(現在の和歌山県)から天の磐く樟船に乗って幾日も航海し、大西町九王(旧大井村)付近の海岸に到着し、そこから品部川を上られたと伝えられています。
この「磐く樟船」は、楠の木で造られた堅固な船で、須佐之男命はこの地に上陸後、牛に乗り換えて宅間、野間、延喜を通り、阿方へと向かおうとしました。
しかし阿方の村人の一部が意地悪をして不浄な物を撒き、進行を妨げたため、須佐之男命はいたしかたなく矢田を経て神宮の地に向かいました。
この時、須佐之男命が阿方と山路を通らなかったため、阿方と山路の村々は野間神社の氏子に含まれていないと言い伝えられています。
神宮の地に到着した須佐之男命は、熊野峰で牛に餌を与え、自らも休息を取りました。そして、そこに置かれた「磐く樟船」が、長い年月の間に化石となり巨大な岩「石神さん」となりました。
昔の人の話によれば、今でこそ雨風で削られてしまったが、須佐之男命のご足跡と牛のえさおけの跡が残っていと言われています。
石神さんから見る創建史
明治の初め頃までは、野間神社の祭礼において「石神さん」と呼ばれる巨岩が重要な役割を果たしていました。祭礼の際には、神輿をこの巨岩の上に乗せることで神霊の降臨を祈り、神聖な儀式が執り行われたと伝えられています。
巨岩を中心に神事を行うこの形式は、古代日本における磐座(いわくら)信仰の典型であり、「石神さん」を神霊が宿る場所とみなしていたことがうかがえます。
野間神社の祭神である須佐之男命(すさのおのみこと)は、風や雷といった自然現象や海、山と関わりの深い神として古代から崇められてきました。
須佐之男命は、自然の力の象徴として、嵐や暴風雨を鎮める神であると同時に、人々に恵みをもたらす存在でもありました。
この神が祀られる野間神社において、自然崇拝の象徴ともいえる「石神さん」を神霊の宿る磐座として崇めることは、須佐之男命への信仰と強く結びついていたと考えられます。
野間神社の創建は、こうした自然崇拝に基づく磐座信仰に端を発するものであり、もともとは「石神さん」を中心にした素朴な祭祀が行われていたのです。
しかし、時代が進み、6世紀頃に仏教が日本に伝来すると、神道の祭祀も次第に仏教の影響を受けるようになります。
この過程で神仏習合という日本独自の思想が生まれ、神社も仏教寺院の建築様式や儀式の影響を受け、神霊の宿る場所であった磐座を祀るための社殿が造営されていきました。
神仏習合の影響を受けた野間神社では、「石神さん」を中心にして行われていた祭祀が、次第に社殿内での儀式へと移行していきました。
この変化は、当初の自然崇拝の象徴である巨石が、神社の建物とともに神聖な場所と認識されるようになり、神社が地域の信仰の中心地としての役割を強めていったことを示しています。
また、仏教寺院の儀式や建築様式の影響により、神輿や社殿の造営といった新たな信仰形態が生まれ、今日のような形が整えられていったのです。
神仏習合の思想のもとで、野間神社は神と仏を一体と見なす神道と仏教の調和した形式を取り入れ、発展を遂げました。
特に平安時代以降、国家や貴族の間で神仏習合が広まり、各地で社殿を持つ神社が増加していく中、野間神社もそうした流れに沿い、仏教的な要素を取り入れつつ社殿が整備されました。
これにより、「石神さん」は単なる自然物としてだけでなく、神聖な神霊が宿る場所としての性格がより一層強調されました。
現在に至るまで、野間神社は「石神さん」を中心とした古代の磐座信仰から発展し、神仏習合の影響を受けながら歴史を重ねてきた神社です。
この歴史的な背景から、野間神社は単なる神社ではなく、古代の自然崇拝や神仏習合の変遷を物語る貴重な存在となっています。
文化財「宝筐印塔と和鏡」
野間神社は、いくつかの貴重な文化財も所蔵されています。
その中でも特に注目されるのが、昭和29年(1954年)に国の重要文化財に指定された「宝筐印塔」です。
この宝筐印塔はもともと神社近くの谷間に安置されていましたが、現在は神社の石手裏に移されています。鎌倉時代に作られたもので、全体に重厚な安定感があり、独特の威厳を漂わせています。
塔の上部にある九輪や宝珠は江戸時代に補われたものですが、塔身に彫られた鋭い薬研彫りの梵字が際立っており、金剛界四仏を表しているとされます。総高は280cmを超え、荘厳な姿が訪れる人々に強い印象を与えます。
また、野間神社には平安期の和鏡12面が保管されており、これらの古文書や古鏡も地域の歴史を知るうえで大変重要な資料となっています。
古墳と出土品が語る古代信仰
さらに、野間神社の境内とその周辺には数多くの古墳が点在しており、古代からこの地が栄えていたことを示しています。
これらの古墳からは須恵器や銅鈴が出土しており、当時の信仰や祭祀に関わる貴重な証拠とされています。
須恵器は5世紀から9世紀にかけて製造された土器で、儀礼や祭礼に使用されていたと考えられます。また、銅鈴は古代の祭祀で用いられ、古代人が自然を敬い、神々に祈りを捧げていたことを示す重要な遺物です。
これらの出土品は、野間神社が単なる地域の神社にとどまらず、古代の信仰の中心地であったことを物語っています。