「御姫堂(おひめどう)」の創建には、円久寺(桜井地区)とかつてこの地にあった霊仙山城の歴史が深く関わっており、戦国時代の武将「中川親武(なかがわ ちかたけ)」とその家族の物語が浮かび上がります。
中川親武と霊仙山城
中川親武(なかがわ ちかたけ)は、伊予国を治めていた戦国大名・河野氏に仕える河野十八将の一人でした。
戦国末期の親武は松山の藤原村(現在の伊予鉄市駅付近)に住んでいましたが、ある事情から僧侶となり、温泉郡(現在の松山市中心部)の岩子山のふもとに「圓久寺(円久寺)」を建立し、一族の菩提を弔っていました。
しかし、伊予の情勢は日に日に不安定になり、毛利氏・織田氏・豊臣氏といった強大な勢力に挟まれ、存亡の危機に立たされていました。
河野氏は、もともと瀬戸内海の水軍を傘下に持つ名家でしたが、強大な毛利氏の影響を受け、次第にその独立性を失いつつありました。
さらに、織田信長が四国に進出しようとする中で、河野氏の領地は戦の絶えない土地となっていきました。
こうした状況の中、道後湯築城の城主・河野道直(こうの みちなお)は親武に霊仙山を拠点に武器を取ることを命じました。
霊仙山城の築城と円久寺の建立
霊仙山は、伊予の防衛の要所であり、周囲を見渡せる天然の要害として適した場所でした。親武はここに山城「霊仙山城」を築き、城主としてこの地を治めることになりました。
その際、この城の近くにも同じ名前の「円久寺」を建立し、薬師如来を安置しました。
四国攻めと霊仙山城の廃城
天正10年(1582年)、四国の戦局が大きく動く中、河野氏に仕えていた村上水軍の一角である来島村上氏 来島城主・来島通総(くるしま みちふさ)が、織田信長の家臣「羽柴秀吉(はしばひでよし)」の勧誘を受けて織田側につきました。
この裏切りにより、河野氏の海上防衛は崩れ、陸上の防衛にも大きな影響を及ぼしました。
来島勢は河野氏の支城を次々と攻撃し、その勢力圏を削り取っていき、やがて戦略的に重要な拠点である霊仙山城が標的となりました。
親武は、城の堅牢な地形を最大限に活用しながら奮戦しましたが、繰り返される猛攻の前についに城は落ち、親武も壮絶な戦いの末に討ち取られてしまいました。
その後、霊仙山城は一時的に来島勢の勢力下に置かれましたが、河野氏の力が完全に消えたわけではなく、親武の弟である中川通任が跡を継ぎこの地を治めました。
しかし、天正13年(1585年)になると、豊臣秀吉が本格的な四国攻めを開始し、霊仙山城は小早川隆景の攻撃を受け落城し、最終的には廃城となりました。
円久寺の由緒
一方、桜井地区の宮ヶ崎にある円久寺の由緒によると、親武は晩年、腹痛や筋肉痛に長く苦しみながらも、戦乱の中を生き抜きました。
そして、天正5年(1577年)旧暦12月7日、ついに陣中で病に倒れ、54歳で生涯を閉じたとされています。
晩年の親武は、腹痛と筋肉痛に苦しむことが多く、天正5年(1577年)に陣中でその生涯を閉じました。
臨終の際、親武は薬師如来に対して、自分と同じように腹痛や筋肉痛に悩む人々を救うために取り次ぎを行うことを誓願しました。
この誓願によって、円久寺の薬師如来は「山城薬師」として広く知られるようになり、多くの参拝者が訪れる霊験あらたかな仏として崇められるようになりました。
また、この誓いが後の「山城姫の伝承」や「御姫堂の創建」にもつながっていくことになります。
「山城姫の奇跡」
中川山城守親武には、一人の娘がいました。
その娘は「山城姫」と呼ばれ、気品と美しさで広く知られるお姫様でした。山城姫は、その優しい人柄と聡明さから、地域の人々に深く愛され、大切にされていました。
1585年、小早川勢が霊仙山城を攻撃した際、父が亡くなった後の山城姫は、この城を守るために立ち上がりました。家臣や領民たちの前で毅然とした姿を見せ、圧倒的な敵軍に対して最後まで勇敢に抵抗しました。
戦乱の時代、若い女性が戦の場に立つことは非常に珍しく、その勇敢な行動は家臣や領民たちを奮い立たせました。
しかし、最終的には城は落城してしまいました。
敗北が迫る中で、山城姫は捕虜となることを潔しとせず、28歳の若さで自ら命を絶ちました。その誇り高い生き様は後世に語り継がれ、地域の人々の間で伝説となりました。
病を治した山城姫
それから数百年経った昭和25年(1950年)、霊仙山城の伝説が残る宮ヶ崎 (桜井地区)で、不思議な出来事が起こりました。
この地に住む秋山伊十郎さんは、長年にわたり脳の病に苦しみ、寝たきりの生活を送っていました。どんな治療を試みても一向に回復せず、家族も本人も絶望的な日々を過ごしていました。
そんなある夏の日、伊十郎さんの13歳の娘と友人の渡辺さんが、宮ヶ崎にある高さ40メートルほどの小さな山(通称:お姫山)で遊んでいました。
子どもたちは無邪気に山を駆け回っていましたが、ふとした瞬間、目の前に白鉢巻を巻き、白い衣をまとった美しい女性が現れました。
二人は驚きましたが、その女性は幽霊のような恐ろしい存在ではなく、むしろ気高く、優雅で、どこか神秘的な雰囲気を持っていました。
驚きながらも家に戻った娘は、この不思議な出来事を父・伊十郎さんに話しました。
すると、伊十郎さんは「それは、かつてこの地にあった霊仙山城のお姫様の霊ではないか」と感じました。
山城姫は、戦国時代にこの地で亡くなった伝説の姫であり、昔から人々にとって神聖な存在として語り継がれていました。
そこで、伊十郎さんは藁にもすがる思いで「どうか私の病を治してください」と必死に山城姫へ祈りました。
すると、驚くべきことが起こりました。
なんと長年苦しんでいた病が、少しずつ快方に向かい始めたのです。
そんなある夜、伊十郎さんは夢の中で白い衣をまとった美しい女性に出会いました。その女性は、昼間娘が見た女性と同じ姿をしており、静かに彼の枕元に立っていました。
伊十郎さんは「もし体が完全に治ったら、お堂を建ててお礼をいたします」と約束しました。
すると、さらに病状が回復していき、治るはずがないと思っていた病が完全に治ってしまったのです。
この奇跡に深く感謝した伊十郎さんは、約束通り、地域の人たちの協力を得て、昭和27年(1952年)に山城姫を祀るお堂と通夜堂を建てました。
その後、すっかり元気になった伊十郎さんは、81歳まで長生きし、健康な人生を送ることができたと言われています。
山城姫の絵が語る伝説
昭和28年(1953年)5月、宮内筆代女史は、山城姫の伝説に強い興味を抱き、姪である今井那津子さんにその姿を描いてもらうことを決意しました。
今井さんはこの重要な使命に応えるため、まず自分自身を清めることから始めました。絵を描く前に体を洗い清め、断食をして心身を整え、精神を統一しました。
そして祈願を捧げながら、心の中に山城姫の姿を浮かべ続けました。祈願は8日間にわたって続けられ、その間、今井さんは心を澄ませ、山城姫との繋がりを感じる努力を続けたのです。
祈願を続けた8日目、ついに奇跡が起こりました。今井さんの前に、山城姫の姿が空中に現れ、その美しい姿がはっきりと見えるようになりました。
尊像が浮かび上がると、今井さんはすぐに鉛筆を手に取り、その姿を描き始めました。集中しながら、わずか約2時間でその姿を描き上げたと言われています。
しかも、その絵に描かれた山城姫の姿が、以前に少女たちや伊十郎氏が見た姫の姿と完全に一致していたといわれています。
また、ある時に近所の人が、お姫山の入口にあった「お姫岩」と呼ばれる岩を動かしたところ、不幸な出来事が次々と起こったという話もあります。
現在の御姫堂
昭和57年(1982年)、より多くの参拝者を迎え入れるために、御姫堂が増築されました。この新たなお堂の完成により、歓喜寺を訪れる人々がより快適に参拝できるようになりました。
しかし、年月が経つにつれ、度重なる台風や地震などの自然災害の影響を受け、御姫堂の損傷は次第に激しくなっていきました。
やがて、建物の老朽化が深刻化し、修繕が難しくなったことから、平成16年(2004年)12月に御姫堂は建て替えられました。現在の堂宇は、より頑丈な造りとなり、今も多くの参拝者を迎えています。
山城姫の縁日と法要
御姫堂では、毎年旧暦3月4日に「山城姫の縁日(えんにち)」として法要が営まれています。
この法要は、円久寺で行われ、多くの参拝者が山城姫の霊力にあやかり、病気平癒や開運を祈願するために訪れます。
400年祭の法要も盛大に行われ、地域の人々の信仰の厚さを今に伝えています。
「中川親武の肖像画」
また、円久寺には、天正9年(1581年)に描かれたとされる中川親武(なかがわ ちかたけ)の肖像画が保存されています。
この肖像画は、当時の武将の姿を伝える貴重な文化財であり、同地区の歴史的遺産として大切に保管されています。