野間の守護神となった二人の武将と戦国の記憶
岡部神社は、日吉神社の境内に鎮座する、この地の歴史と信仰を今に伝える由緒深い社です。
古くより野間の里を静かに見守り続けてきたこの社には、戦国時代に地域を治め、民の安寧と郷土の守護に尽くした二人の武将、岡部十郎国道公と高田左衛門進公の御霊が祀られています。
両公はそれぞれ夫人とともに「岡部霊神」「高田霊神」として一つの社殿に合祀され、合祀宮として崇められてきました。
幾多の戦火と時代の変遷を経ても、村人たちの厚い信仰の中で守られてきたこの社は、今もなお郷土の誇りと静かな祈りを宿し続けています。
二柱の武将とその由緒
岡部十郎国道公夫妻と高田左衛門進公は、いずれも河野家に仕えた重臣であり、重茂山城と重門山城をそれぞれ拠点として、戦国の動乱のなか郷土の安寧に尽くしました
「岡部霊神」重茂山城主・岡部十郎国道公夫妻
岡部十郎(岡部十郎国道)公は、戦国時代に重茂山城(今治市野間の西側)を領し、この地を治めた武将です。
岡部氏は、武蔵国岡部村を発祥とする坂東武者の一族で、代々源氏に仕えた家柄でした。
坂東武者とは、東国(関東地方)に生まれ育った武士団の総称で、質実剛健にして勇猛、戦場での働きに秀で、主君への忠義を重んじる気風をもつことで知られています。
源平の合戦において彼らが示した果敢な戦いぶりは、鎌倉武士の礎を築き、後の日本の武士道精神にも通じるものがあると伝えられます。
岡部氏の祖である岡部六弥太忠澄もその一人で、源頼朝の兄・源義平に従い、平治の乱(1159年)で勇名を馳せました。
その武功が認められ、子の岡部時綱が頼朝より伊予西条荘の地頭に任ぜられたことから、岡部氏は遠く伊予の地へと移り住みました。
その後、四代目岡部通綱の時代に、河野道有に従って元寇の戦で功を立て、重茂山城主に任じられたことで、伊予における岡部氏の歴史が始まりました。
国道公は、河野家の名将として知られ、特に日吉神社への崇敬が篤く、天正三年(1575年)に奉納された「門九神像」は、のちに国の重要文化財に指定されています。
かつて居城を構えていた重茂山の山頂には、岡部氏の御霊を祀る霊社が建立され、最盛期には一日に二千人もの参拝者が訪れたと伝えられています。
国道公は、衣夫人とともに岡部神社に祀られ、その後、地域の氏族信仰の中心として崇敬を受けてきました。
また、岡部氏のほか、高頃氏・片上氏・大河内氏・長橋氏など、地域の名家・旧家の祖神としても広く信仰を集めています。
「高田霊神」重門山城主・高田左衛門進公夫妻
高田左衛門進公(高田左衛門尉通成公)は、重茂山の東およそ百メートルの地にあったとされる重門山城を守った武将で、河野家の重臣として岡部十郎国道公とともに伊予の防衛に尽力した人物です。
高田氏は、代々河野家に仕えてその武勇をもって知られ、特に通成公は誠実にして智勇兼備の将として名を残しました。
後に、高田左衛門進公は操夫人とともに岡部神社に祀られ、その御霊は岡部霊神とともに郷土の守護神として崇敬を受けてきました。
「二城の伝承」岡部氏と高田氏
岡部氏と高田氏の両家は、重茂山城と重門山城という二つの城をめぐって、さまざまな伝承が残されています。
その実態については確証がないものの、地元には次のような説が語り継がれています。
- 二城別々説:両家がそれぞれ別々の城を構え、岡部十郎国道公が重茂山城を、高田左衛門進公が重門山城を守り、互いに連携して伊予の防衛にあたったとする説。
- 一城交代説:重茂山城を両家が時代ごとに交代で守備し、城の管理と防衛を担っていたとする説。
また、通成公の居城とされる重門山城は、現在の今治市山之内地区「上の城」にあたるともいわれています。
いずれの説においても、両家が力を合わせてこの地を守り抜いたことに変わりはなく、その結びつきは後世まで郷土の誇りとして語り継がれています。
四国攻め」豊臣軍の来襲と落城伝説
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉は四国平定を目指し、大規模な軍勢をもって四国へ侵攻を開始しました。
この戦いは、後に「四国攻め(四国征伐)」として知られています。
当時、四国の諸国(伊予・讃岐・阿波・土佐)は土佐の武将・長宗我部元親の勢力下にありました。
秀吉はその勢力を討伐するため、毛利家の名将・小早川隆景を総大将として伊予方面への進軍を命じます。
小早川勢は、総勢三万を超えるともいわれる大軍を率いて桜井付近から上陸し、河野氏の諸城を次々に攻め落としながら西へと進軍しました。
やがてその勢いは、この地にも及びます。
このとき、地域一帯を守っていたのが、河野家の重臣である岡部十郎国道公と高田左衛門進公でした。
両将はそれぞれ重茂山城・重門山城を拠点とし、侵攻してきた小早川軍と激突します。
圧倒的な兵力差の中にあっても両将は奮戦し、郷土防衛の最前線に立ったと伝えられています。
この戦いの様子は『河野家家譜』にも次のように記されています。
「重茂山城主岡部十郎力戦之れを拒む。而して其の完からざるを知り、故に、城中の子女を悉く殺すに忍びず、小早川籐四郎に依りて降を乞う。隆景すなわち之れを肯んず。」
(現代語訳)
「重茂山城主・岡部十郎は懸命に戦って敵を退けようとしたが、ついに持ちこたえられないことを悟った。
しかし、城中の婦女子を皆殺しにすることに心が痛み、小早川藤四郎(隆景の家臣)を通じて降伏を願い出た。
隆景はこれを受け入れた」
この記述から、岡部十郎国道公が最後まで奮戦しながらも、民や家族を守るために降伏を選んだことがうかがえます。
一方で、この降伏に至るまでには数々の逸話が地域に残され、現在も受け継がれています。
岡部十郎親子の最期「お米の計略」
小早川隆景率いる豊臣軍が押し寄せた際、岡部十郎国道公は家臣や一族とともに重茂山城へ立てこもり、籠城の構えを取りました。
重茂山は険しい地形に築かれた山城で、容易に攻め落とせぬ堅固な要害でした。
そのため小早川軍も容易には攻め入ることができず、たびたび激しい攻防が繰り広げられたといいます。
やがて敵は力攻めをあきらめ、谷々を押さえて水源を断ち、城を水攻めにしました。
城内では飲み水も尽きかけ、兵たちは極限の中で戦い続けたと伝えられています。
それでも国道公は、最後まで士気を失わず、敵に窮状を悟らせぬよう策を巡らせました。
このとき生まれたとされるのが、お米を使った計略です。
ある夜、月明かりの下で、城兵が馬を洗っている姿を見た小早川軍の兵は驚きました。
「水を断たれたはずの城に、まだこれほどの水があるのか」と動揺したのです。
しかし、それは国道公の知略でした。
実際には、水ではなく、お米を谷に流して水に見せかけていたのです。
光る米の粒が月光に反射し、まるで清流のように見えたと伝えられます。
この計略により、敵は一時的に城の余力を見誤ったといいますが、やがて不審を抱き、付近の老婆に金を与えて城の様子を探らせました。
老婆が「流れていたのはお米であった」と密告したため、敵は乃万の方から間道を回り込み、一気に城を攻め落としました。
城はついに陥落し、岡部十郎国道公は衣夫人、そして息子らとともに壮絶な最期を遂げたと伝えられています。
また、敵に道を教えたとされるる老婆の一族は、その後代々にわたり不幸が絶えなかったとも語り伝えられています。
衣笠の弁天様「お姫様の悲劇と祈りの伝承」
重茂山城が小早川軍の大軍に包囲され、もはや落城は避けられぬ情勢となったとき、岡部十郎国道公は最期を悟り、城内に家族や家臣を集めて別れを告げました。
その時、国道公はひとり娘を呼び寄せ、静かにこう言われたと伝えられています。
「お前は女ゆえ、この地を離れ、岡部の家を興してくれ」
父の言葉に、お姫様は涙をこらえきれませんでした。幼いながらも、武家の娘としての覚悟を胸に秘め、父母との永遠の別れを悟ります。
夜も更けた頃、粗末な衣に身を包み、菅笠をかぶって、乳母を伴いながら、かねて建築途中であった自分の御殿(現在の市木の上の城と呼ばれる)を目指して山を下りていきました。
月明かりに照らされた山々は静まり返り、ふもとへ続く小道には茅が生い茂っていました。
お姫様は「ここならば見つかるまい」と、しばらくその茅の中に身を潜めました。
しかし、ほどなく谷の向こうから大勢の声が響き渡ります。
それは、城を攻め落とした小早川軍の兵たちでした。
恐れと悲しみの中、息を殺して身を伏せるお姫様。
そのとき、月光が反射して被っていた菅笠(すががさ)の縁がかすかに光りました。
「あっ!菅笠だ!」
その一声で、追手たちは一斉に駆け寄り、松明の光に照らされたお姫様の姿を見つけました。
敵兵たちは刀を構えたものの、幼くも凛とした姫の姿に心を動かされ、誰ひとり手を下すことができなかったといいます。
お姫様はその刹那、武士の娘としての誇りを胸に、自ら短刀を取り、潔く命を絶たれました。年の頃わずか十六とも、十八とも伝えられます。
村人たちはこの出来事を深く悲しみ、姫を弔うためにその地に小祠を建て、弁財天を祀りました。
これが今も「衣笠の弁天様」と呼ばれる衣笠弁天堂の始まりです。
祠の名は、姫が身につけていた菅笠(かんがさ)に由来します。
以来、村の人々の間では「一生に一度も菅笠をかぶらぬと誓えば、弁天様のご加護がある」との言い伝えが生まれました
村ではこの祠の縁日を五月二日と定め、毎年この日にお祭りが行われてきました。
境内では子どもたちが相撲を取って力を奉納し、地域の人々が集まってお姫様の霊を弔い、平穏と豊作を祈る風習が今も受け継がれています。
姫が目指していたと伝わる「上の城」は、後の時代に「金銀財宝を隠した場所」とする埋蔵金伝説まで生まれました。
地元には「朝日あたりの夕こもり、白きつつじの咲くもとに九万九千の金がある」という古い口伝が伝わり、明治の頃には実際に掘り出しを試みた者もいたといいます。
しかし、財宝は見つからず、今もなおその真偽は定かではありません。
さらに、この一帯にはキリシタン信仰にまつわる伝承も残されています。
重茂山は「十文字山(じゅうもんじやま)」とも呼ばれ、戦国末期から江戸初期にかけて、隠れキリシタンが密かに祈りを捧げた場所と伝えられています。
実際、重茂山の麓にはキリスト教に関わるとみられる石碑や刻印が残されており、これを岡部十郎国道公がキリシタン大名であった証として語る人もいます。
盗難に遭って現在は失われていますが、かつて衣笠の弁天堂の前には、十字が刻まれたマリア像の石碑が安置されていました。
このため「姫もまた父と同じくキリシタンの信仰を受け継いでいたのではないか」と考えられてます。
こうした信仰の痕跡は、戦国の動乱の中にあっても、祈りと希望を絶やさなかった人々の姿を今に伝えています。
岡部家の悲劇、姫の高潔な最期、そして信仰に生きた人々の祈り。
これらが重なり合い、野間と大西の山々には、いまも静かにその記憶が息づいているのです。
「異説」戦いとは無関係
一方で、この戦いの時点ですでに岡部十郎国道公は城主の座を退いており、この戦には関わっていなかったとする説もあります。
- 年代交代説
岡部十郎は重茂山城の前代または初期の城主で、落城当時はすでに現役を退いており、天正13年の戦では高田左衛門進が城主であったとする説。 - 非戦開城説
河野通直と小早川隆景が親戚関係にあったため、戦闘は行われず、交渉により開城・降伏したとする説。これにより両武将の命も守られたと伝えられます
いずれの説においても、岡部公と高田公がこの地を守り、民の安寧を願った象徴的な存在であったことに変わりはありません。
岡部十郎夫妻と高田左衛門進公の墓所
戦国の世を生きて郷土を守った両将、岡部十郎国道公と高田左衛門進公を弔う墓所とされる五輪塔が、今もなお野間の地に静かに残されています。
「野間覚庵 五輪塔」岡部十郎夫妻の墓
野間部落北西の通称「覚庵(かくあん)」と呼ばれる田園地帯には、岡部十郎夫妻の墓と伝えられる二基の巨大な五輪塔があります。
花崗岩製で、いずれも刻字はないものの、鎌倉時代の様式を色濃く残し、石造美術としても非常に貴重です。
平成元年(1989年)には解体修理も施され、現在は国の重要文化財に指定されています。
- 大五輪塔:総高240cm(基壇含む265cm)
- 小五輪塔:総高220cm(基壇含む245cm)
「厳島神社・野間」高田左衛門進公の墓
高田左衛門進公の墓とされる五輪供養塔は、日吉神社から北へ約四丁(約400m)の場所にある厳島神社の裏山に位置しています。
周辺には山本氏、山元氏、二宮氏、越智氏など、通成公の末裔と伝えられる家々が今なお暮らしています。
これらの墓所は、戦国の武将としての生涯を終えた二人の存在を静かに物語る、野間の貴重な歴史遺産です。
岡部神社の再興と現在
昭和十年(1935年)には、岡部霊神と高田霊神の両社が正式に合祀され、社号を「岡部神社」と改めました。
その後も地域の人々の篤い信仰は途絶えることなく、昭和二十六年(1951年)には両霊社合同の三七五年祭が盛大に執り行われています。
さらに平成三十年(2018年)、老朽化した社殿の再建に際して、今治の老舗「魚貞蒲鉾店」の岡部氏による寄進が行われ、野間部落を中心とする再建委員会の尽力によって、社殿が新たに甦りました。
こうして岡部神社は今も静かにこの地に鎮まり、野間の歴史と誇り、そして祖神を敬う人々の心を未来へと伝え続けています。



