藤の名所として知られている「大熊寺(おおくまでら)」。
境内に広がるノダフジは、樹齢約300年と伝えられ、幹まわり約80センチ、棚面積はおよそ200平方メートルにおよぶ堂々たる藤の古木です。
5月初旬の開花期には、花房が60〜70センチにも垂れ下がり、淡紫の花が境内一面を優雅に彩ります。
今治市指定の天然記念物にも登録されており、。藤の見ごろとなるゴールデンウィークの時期には「藤まつり」も開催され、多くの参拝者や花見客でにぎわいます。
このように美しい藤の寺として知られる大熊寺ですが、ただの観光名所にとどまらず、長きにわたり地域の人々の信仰を支えてきた由緒ある古刹でもあります。
大熊寺の歴史
大熊寺(おおくまでら)の創建は奈良時代、日本仏教界に多大な影響を与えた高僧・行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれたと伝えられています。
行基の生涯と活動
行基(668年〜749年)は、飛鳥時代末から奈良時代にかけて活躍した仏教の僧です。
当時の朝廷は、僧侶による自由な布教活動を厳しく統制していましたが、行基はそうした制限を超えて民衆のもとへ赴き、直接仏の教えを説くという革新的な活動を行いました。
また、その活動は布教にとどまらず、社会事業にも及びました。
布施屋の設置、溜池や橋の建設、寺院の建立などを各地で行い、広く庶民の生活を支えました。
こうした活動は当初こそ朝廷からの弾圧を受けましたが、次第にその実績が認められ、晩年には聖武天皇の命により東大寺の大仏造立の勧進を任されることになります。
最終的には、日本で初めて「大僧正(だいそうじょう)」の位を授かった僧侶として、後世に大きな足跡を残しました。
没後には「行基菩薩」と尊称され、多くの人々に信仰される存在となりました。
四国巡錫の中で建てられたお堂
行基は全国を巡って仏教を広め、多くの寺院を建立または再興する中で、天平年間(729年〜749年)には四国にも足を運び、各地で人々の信仰に応えながら寺院を建立していきました。
そのような巡錫の中で、行基は伊予の地にも足を運び、正善寺、竹林寺、国分寺、延命寺、そして南光坊など、他にも数多くの寺院の創建に深く関わりました。
そして、この地を訪れた際にも、村人たちの篤い信仰心に心を打たれ、その願いに応えるかたちで、自ら一体の仏像を刻み、小さな草庵(堂)を建立したといいます。
このとき建てられたお堂こそが、今日の大熊寺の起源であると伝えられています。
江戸期の発展と今に続く信仰
その後、大熊寺は地元の有力氏族である大祝氏(おおほうりうじ)や河野氏(こうのうじ)の帰依を受け、諸堂の整備が進められていきました。
特に江戸時代には寺勢が大きく発展し、地域における精神的な拠り所として重要な役割を果たすようになります。
大熊寺に息づく毘沙門天の信仰
万治三年(1660年)には、仏教の守護神である毘沙門天を祀る毘沙門堂が建立されました。
毘沙門天は七福神のひとつとしても知られ、武運長久や財宝福徳を授ける神として、古くから人々の信仰を集めてきました。
大熊寺の毘沙門堂も例外ではなく、地域の武士や商人たちから戦勝祈願や商売繁盛の守護仏として厚く崇敬されました。
その後、本堂は一時焼失するものの、慶応二年(1866年)に再建され、現在に至るまでその姿を保っています。
「毘沙門講」
また、明治四十年(1907年)には地域住民によって「毘沙門講」が組織され、信仰と地域社会との結びつきを保ちつつ、毘沙門天への信仰が脈々と受け継がれてきました。
毘沙門講とは、毘沙門天を信仰の中心とする集まりで、かつては僧侶が仏法を学び修行する場でしたが、時代が下るにつれ、一般の信徒が参加する講(こう)として広まりました。
江戸時代には、こうした信仰講が庶民の間でも盛んになり、無病息災や家内安全、商売繁盛を願う講として人気を博しました。
大熊寺の毘沙門講も例外ではなく、護摩祈祷や参拝、供物の奉納、写経や写仏といった信仰活動を通じて、地域の人々の暮らしと深く結びついてきました。
現在の年中行事
こうした歴史を背景に、大熊寺では今も地域とともに歩む年中行事が続けられています。
- 1月2日:大般若祈祷会(だいはんにゃきとうえ):新年の加護を毘沙門天に祈願する仏教法要で、今治市内でも珍しい行事として知られています。転読による大般若経の読誦が行われ、一年の平安と繁栄を願う人々が参拝に訪れます。
- 旧暦7月2日:灌頂施餓鬼(かんじょうせがき):蒼社川の氾濫によって亡くなった水難者の供養を目的とした法要で、「流れ灌頂」として水辺で行われる特異な仏教儀礼です。この灌頂施餓鬼は、大熊寺が地域の水災に対して持つ鎮魂と慰霊の祈りを今に伝える重要な宗教行事であり、多くの人々の心に深く根ざしています。
このように、大熊寺は地域の生活や信仰と深く結びついた行事を今も大切に守り続けています。
ではここからは、大熊寺の成立と発展に深く関わった二つの有力氏族“大祝氏と河野氏”について見ていきましょう。
伊予国一宮を支えた神職と氏族「大祝氏」
伊予国(現・愛媛県)において、古代から中世にかけて政治・宗教・軍事の中枢を担ってきた存在がありました。
それが、伊予国一宮・大山祇神社を中心に活躍した「大祝(おおほうり)」という神職と、その役職を代々世襲した大祝氏の一族です。
神職「大祝」
「大祝(おおほうり)」とは、古代から中世にかけて神社に置かれていた神職の一つで、特に重要な神事を主宰し、祭祀全体を統括する高位の役職でした。
神職には、神に祝詞を捧げる「祝(ほうり)」、日々の神事や社務を補佐する「禰宜(ねぎ)」、神社の管理運営を担う「宮司(ぐうじ)」などの職掌がありますが、大祝はその中でも最も高位に位置づけられた特別な存在として重要な神事を主宰し、祭祀全体を統括していたのです。
たとえば、日本最古の神社の一つとして知られる長野県の諏訪大社では、「大祝」が神社全体の祭祀を統括していました。
諏訪大社は上社と下社に分かれており、特に上社における大祝は、神職であると同時に、神が人間界に降臨するための「依り代(よりしろ)」としての性格を持っていました。
すなわち、大祝自身が社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)の化身、あるいは神そのものとして信仰の対象とされていたのです。
そして、伊予国(現在の愛媛県)においても、「大祝」は極めて重要な存在でした。
大山祇神社の権威
愛媛県大三島に鎮座する大山祇神社は、「日本総鎮守」と称され、伊予国一宮として古代から神々を祀る信仰の中心地として信仰されてきました。
祭神である「大山祇命(おおやまづみのみこと)」は、日本神話において山や海を司る神とされ、古くから瀬戸内海の航海者や漁業者、農業従事者に深く信仰されてきました。また、全国の山岳信仰の中心でもあり、瀬戸内海の島々や沿岸地域からも多くの人々が参拝に訪れました。
こうした宗教的中心地において、「大祝」は神社の祭祀を統括する最高位の神職として、地域の精神的・政治的中心を担っていました。
そんな大山祇神社の宗教的な権威を支えたのが、「大祝(おおほうり)」でした。
越智氏の一族「大祝氏」
大山祇神社における大祝は、伊予国一宮の神職として非常に重要な存在であり、伊予国全体に大きな影響を与える立場にあったため、古代からこの地域を治めていた豪族「越智氏」の一族がこの役職を代々世襲していました。
越智氏族の中で、神社の神主さんのことを「お祝(ほうり)さん」と呼んでいましたが、大山祇神社の神主は別格であったので、大の文字を付けて「大祝(おおほうり)さん」と呼んでいました。
そして、大山祇神社の神主を代々務めていた家系は「大祝」を家名として名乗るようになり、大祝家、大祝氏と呼ばれるようになったのです。
地域と軍事の指導者としての「大祝氏」
当時、大山祇神社は単なる宗教施設ではなく、地域の政治的・経済的中心でもあったため、大祝は政治的な決定にも深く関与していました。
地域社会における秩序の維持や、領地の管理、経済的発展にも貢献し、実質的な統治者としての地位を確立していたのです。
さらに神職として、地域の信仰と祭祀を取り仕切る一方で、戦時には水軍の指導者として活動するという特殊な立場にありました。
これは、大山祇神社が航海や水軍の守護神である大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀っていたためで、神社を最高責任者である「大祝」が宗教的な権威だけでなく、軍事的な指導力も求められていたためです。
この中で大祝氏は三島水軍の長として、伊予の水軍を率いる河野氏(越智氏)と深い繋がりを持つようになりました。
また、この繋がりは単なる軍事的なものにとどまらず、両家は同じ祖先である「越智氏」を通じて血縁関係にあったため、その結びつきはとても強いものとなっていました。
「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」鶴姫伝説
このような歴史的背景の中で今に語り継がれているのが、大祝家に生まれ、水軍を率いて戦ったとされる「鶴姫(つるひめ)」の伝説です。
鶴姫は戦国時代、大永6年(1526年)に大山祇神社の大祝家に生まれ、幼いころから武芸に励み、琴や笛のたしなみもある教養深い女性として育てられました。
天文12年(1543年)、中国地方の大大名・大内義隆が家臣・陶隆房(のちの陶晴賢)に命じ、瀬戸内海の制海権をめぐって河野領への侵攻を開始します。
大祝氏も戦火に巻き込まれ、大三島の三島水軍は劣勢に立たされます。
陣代であった兄や、恋仲とも伝わる同族の越智安成までもが戦死し、指導者を失った水軍は危機に陥りました。
この窮地に立ち上がったのが、当時18歳の鶴姫です。
甲冑を身にまとい、大薙刀を振るって敵将を討ち取ると、名乗りを上げて出陣し、「われこそは三島大明神の使いなり」と高らかに叫びながら奇襲をかけ、大内軍を撃退することに成功しました。
その後も鶴姫は大三島を守るために再び出陣し、死闘の末に大内軍の進攻を再び食い止めますが、最愛の安成を失った深い悲しみに耐えきれず、ある夜、ひとり舟を漕いで海へと消えたといわれます。
これが大山祇神社に伝わる鶴姫伝説です。
今日、大山祇神社には鶴姫が着用したと伝わる女性用の甲冑が残されており、「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」として、その勇敢な生涯は今なお語り継がれています。
伊予の有力武家「河野氏」
河野氏は、中世伊予国(現在の愛媛県)を代表する有力武家であり、戦国時代末期まで伊予国を実質的に統治した一族として、その名を伊予の歴史に深く刻んでいます。
河野氏が歩んだ伊予の歴史
その歩みは、平安中期の藤原純友の乱に際して伊予水軍を率いて戦功を挙げた河野好方にはじまり、鎌倉時代には源平合戦で源頼朝側について参戦し、その功績が認められ、伊予国内を統治することになりました。
南北朝・室町時代を通じて伊予国の守護を務め、湯築城を本拠とする有力国人として、瀬戸内の水軍勢力とともに大きな影響力を保持しました。
こうして長きにわたり伊予を治めてきた河野氏でしたが、戦国末期の秀吉の四国征めによって敗北し、その歴史に終止符が打たれることとなりました。
越智氏を祖とする系譜
そんな河野氏の始まりは、伝説的な系譜が語り継がれています。
天智2年(663年)の白村江の戦いに、越智守興(おちもりおき・小千守興)は水軍大将として伊予水軍を率いて出陣しました。
その際、唐の武将の娘と結ばれ、二人の間に生まれたのが越智玉守・越智玉澄の兄弟とされています。この兄弟はのちに日本に帰国し、伊予に帰参して家督を継承。
弟の玉澄は風早郡(現・今治市)河野郷に居を構え、「河野」姓を名乗りました。
こうして、越智玉澄(河野玉澄)を始祖とする河野氏の歴史が始まりました。
また、「河野」という姓については他の説もあり、それによるとこの地理的特性に由来するとされています。
伊予国は、瀬戸内海に面した地域であり、川や海に囲まれた自然豊かな環境が広がっています。この豊かな水源や川が、「河野」という名前の源となったと考えられています。
他の説では、越智氏が京(京都)から伊予国に下る途中、高縄山で水を補給するために降り立り、越智氏の一族が剣を地に立てたところ、不思議なことにその場所から豊かな水が湧き出し、この出来事に感動した越智氏が、その地の水の豊かさを称えて「河野」と名付けたといわれています。
いずれにせよ、「河野」という姓は、自然との密接な関係と地域の豊かな環境に由来していることが分かります。
大祝氏の派生
そして、大祝氏もこうした流れの中から誕生したと伝えられています。
和銅元年(708年)3月3日、越智玉澄(河野玉澄)の嫡男・益男が河野家の家督を継ぎ、次男・安元が三島大社(大山祇神社)の大祝に任じられました。これ以降、越智安元が大祝氏の始祖とされています。
以後、歴代の大祝は神壇を住まいとし、「半大明神(はんだいみょうじん)」と称して、弓矢などの武器を携えることなく、国境を越えることもせず、日々神事に専念し、祈祷を行う存在であったと伝えられています。
「半大明神」とは、完全な神ではないものの、神に準じる存在として特別な尊称を与えられたものであり、大祝が神の顕現者(現人神)として人々の信仰を集め、強い霊的権威をもっていたことを示しています。
俗世から距離を置き、神に仕える生活を送ることで、その神聖性を保ち続けたのです。
このように、河野氏と大祝氏は異なる役割を担いながらも、血縁関係を基盤として協力し、伊予国における政治・軍事・宗教の安定に寄与する、きわめて重要な存在となっていったのです。
「鳥生屋敷と御鉾社」大祝氏と大熊寺の関係
大熊寺は、特に大祝氏と深い関わりがあります。
日高地区に居住していた大祝氏
大祝氏は、大祝安元の頃から、伊予国越智郡高橋郷(日高地区)の別名塔の本(べつみょう とうのもと)に屋敷を構えており、代々、船で大三島へ渡って大山祇神社の神事を司っていました。
そのため、より身近な場所でも神事を執り行えるようにと考えられ、現在の今治市別宮町に別宮大山祇神社が勧請されたと伝えられています。
この別名の地には、かつての大祝氏の存在を今に伝える史跡が残されています。
それが、大熊寺から約300メートルの場所にある大祝一族の墓所「端谷五輪塔群(はしたに ごりんとうぐん)」です。
かつては墓石が散在していましたが、後年、地元有志の尽力によって、ひとつひとつの墓石が丁寧に収集・整備され、現在のように整然とまとめられました。
この端谷五輪塔群は、今治市の指定有形文化財にも登録されており、かつてこの地に生きた大祝氏の歴史と信仰の姿を今に伝えています。
また、この地は「御鉾の森」と称され、小泉と別名の両地域が共共同で祭祀を行っていた「御鉾神社(みほこのじんじゃ)」が鎮座していました。
御鉾神社は、鉾(ほこ)を神体とする全国的にも珍しい神社で、古くから山の神・武の神として信仰され、五穀豊穣や地域の安寧を願う祭礼が執り行われてきました。
しかし、明治四十二年(1909年)に実施された神社合祀政策により、御鉾神社は小泉・別名の両地域の神社に分祀されることになりました。
そして、泰山寺(四国霊場56番札所)のそばに鎮座する「三島神社・小泉(今治市小泉857,858)」と、「天満神社・小泉(今治市別名985,986)」のそれぞれの境内に、境内社として「御鉾神社」が祀られ、地域の守り神としての役割を果たし続けています。
武士になった大祝「大祝安世」
大祝氏の歴史の中で、大きな転機となったのが、大祝安世(やすよ)の大山祇神社の大祝職就任です。
元弘2年(1332年)に大祝職に就いた安世は、代々の慣習にならい、日高地区の屋敷から船で大三島へと渡り、神事を司る務めにあたっていました。
しかし、安世は早々に神職の務めを退き、武器を手にして武士としての道を歩みはじめたのです。
南北朝時代の動乱「大祝屋敷」
この頃は、ちょうど鎌倉幕府が崩壊し、日本全体が南北朝の内乱時代「南北朝時代」へと突入していく、まさに激動の転換期でした。
伊予国内においても情勢は混迷を極め、南朝方と北朝方の支持勢力が拮抗し、各地で局地的な戦闘が相次いでいました。
こうした混乱の中で、勢力を拡大しつつあった北朝方の足利尊氏の要請に応える形で、一族の分家を立てて、祇園町(愛媛県今治市祇園町2丁目3−2)に新たな屋敷を構えました。
やがてこの屋敷は「大祝屋敷」と呼ばれるようになりました。
そして安世は、大祝職をわずか4年で息子の安頭(やすかしら)に譲り、足利尊氏の軍に加わって北朝方として参戦しました。
「鳥生屋敷」大祝安世=鳥生貞実
この大祝屋敷は、後に「鳥生屋敷(とりゅうやしき)」とも呼ばれるようになり、武士・鳥生貞実(とりゅう さだざね・越智貞実)が居住していたことでも知られています。
鳥生貞実は、南北朝時代に足利尊氏の北朝方について戦った武士であり、その活動時期や大祝一族であったとされる系譜などから、大祝安世と同一人物であると考えられています。
鳥生貞実(大祝安世)は、各地において戦功を挙げただけでなく、男山八幡大神、仏城寺、広紹寺など、今治市内の数多くの神社仏閣の創建や整備にも深く関与したと伝えられています。
これらの神社や寺院は、鳥生貞実(大祝安世)が単なる武人ではなく、神職の出自を持つ者として、地域における信仰と祈りの重要性を深く理解していた、信仰者としての面影を今に伝えています。
信仰者としての面影を今に伝えています。
御鉾社と大熊寺の関係
別名塔の本にあった大祝家の本家(宗家)は、長男・大祝安人が鳥生の大祝氏(鳥生大祝家)へ婿入りしたことで跡継ぎを失い、天正5年(1577年)、鳥生屋敷(大祝屋敷)に統合されました。
以後、大祝家は鳥生を拠点とする体制へと移行していきます。
その後、延宝3年(1675年)には、大祝一族の中心が大三島・宮浦へと移されています。
現在の鳥生屋敷(大祝屋敷)は鳥生屋敷跡地として更地となっていますが、敷地内には当時を物語る石碑や、蒼社川の治水に尽力した大祝一族の一人・河上安固(かわかみ やすかた)の墓が今も残されています。
蒼社川の治水事業に大きく貢献した大祝一族の一人、河上安固(かわかみ やすかた)の墓も残されています。
また、かつてこの屋敷には、大祝氏の祖霊を祀る屋敷神「御鉾社(御鉾神社)」が祀られていました。
大熊寺は、この御鉾社(御鉾神社)に付属し、祭祀を担う別当寺としての役割を果たしていました。
実際、大熊寺には延享2年(1745年)および寛政6年(1794年)の棟札が現存しており、いずれにも「御鉾社 別当大熊寺」と明記されています。
これらの棟札は、御鉾社(御鉾神社)と大熊寺、そして大祝氏との深いつながりを今に伝える、貴重な歴史資料として大切に保存されています。
祇園神社に合祀
このように、御鉾社(御鉾神社)と大熊寺は深い繋がりをもちながら、長らく地域の信仰を支えてきましたが、明治維新後の宗教政策の転換により、大きな変化を余儀なくされることとなります。
まず、明治元年(1868年)に発令された神仏分離令(神仏判然令)により、それまで神仏習合のもとに成立していた御鉾社と大熊寺の関係は制度的に分断され、別当寺制度も廃止されました。
さらに、明治39年(1906年)には、政府による神社整理政策る「神社合祀令」が実施されます。
これは、小規模な神社を集約・統合することで、国家神道体制を効率的に整備しようとするもので、全国各地で多くの村社・祠が廃止・統合されました。
御鉾社もこの合祀政策の対象とされ、今治市祇園町1丁目の祇園神社(三嶋神社・祇園神社)に合祀されることとなり、御鉾社(御鉾神社)は独立した神社としての姿を失いました。
しかし、現在も三嶋神社・祇園神社の境内社の一社として、大熊寺や大祝氏との繋がりを私たちに伝え続けています。