「大己貴神社(おおなむちじんじゃ)」は、伊予地方に古くから根付いた神社であり、その存在は『伊予風土記』にも記されています。
『伊予風土記』と三社の神々
『伊予風土記』は和銅6年(713年)に元明天皇の命で編纂された地誌ですが、現在では部分的にしか残っていません。その中で、大己貴神社は「多伎宮(大)」「楠谷宮(中)」「荒神宮(小)」という三社と共に、地域の産土神として崇敬されてきたと記されています。
- 多伎宮:地域全体を守る大氏神
- 楠谷宮:中央の守護者
- 荒神宮:災厄を祓う小氏神
これらの神々と共に、大己貴神社は地域住民の生活と繁栄、安全を祈願する拠点であり続けてきました。
神話と結びつく創建伝承
また、『伊予国中八十八社荒神宮の部』によると、大己貴命(おおなむちのみこと)と小彦名命(すくなひこなのみこと)が国造りの際にこの地に立ち寄り、神聖なヒモロギを立てて祀りを行ったと伝えられています。
この祭祀の場が大己貴神社であり、古代からの神聖性を今に伝えています。明治4年には村社に列格され、地域における信仰の中心としての役割が公式に認められました。
祭神「大己貴大神」
大己貴神社の祭神「大己貴大神(おおなむちのおおかみ)」は、古代より日本神話や信仰において非常に重要な神様です。
この神は「大黒様(だいこくさま)」としても親しまれており、優しさと慈悲を象徴する存在です。神話『因幡の白兎』に登場し、傷ついた白兎を助けたという逸話は、人々に温かな印象を与え続けています。
「大きな袋を肩にかけ 大黒様が来かかると ここに因幡の白うさぎ 皮をむかれ赤はだか」という唱歌『大黒さま』にもその姿が描かれています。
大己貴大神は、国土開拓の神として豊かな大地を築き、人々の生活基盤を整える役割を果たしてきました。また、農業・商業の守護神として、さらに縁結びの神としても広く信仰されています。
複数の神名に込められた神格の多様性
『古事記』や『日本書紀』などの記紀神話では、「大国主神(おおくにぬしのかみ)」として登場し、そのほかにも以下のような神名で信仰されています。
- 大物主神(おおものぬしのかみ)
- 八千矛神(やちほこのかみ)
- 大国魂神(おおくにたまのかみ)
- 顕国魂神(うつしくにたまのかみ)
これらの名は、場面や信仰の対象に応じて使い分けられ、それぞれ異なる役割や神格を象徴しています。
「大黒天」との混同に注意
「大国魂神(おおくにたまのかみ)」は、「大国(だいこく)」とも読めることから、七福神の一柱である「大黒天(だいこくてん)」と混同されることがあります。
しかし、大黒天はインドのマハーカーラを起源とする仏教由来の神で、日本には仏教とともに伝来しました。
一方、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)は、日本神話に登場する日本古来の神であり、神格・起源・信仰体系のいずれにおいても、大黒天とはまったく異なる存在です。
今治における出雲信仰の広がり
愛媛県には28社の「大己貴神社」がありますが、そのすべてが今治市と旧越智郡に集中しています。
明治10年の『越智郡神社明細帳』によれば、223社のうち41社が大己貴命を祭神としており、約2割を占めています。杵築神社や出雲神社を含めると63社に達し、3割近くになります。
さらに、今治市内には大己貴命の義父にあたる須佐之男命(スサノオ)を主祭神とする神社も28社あり、大己貴命と合わせると今治地域の神社の4割が出雲系統の信仰であることがわかります。
須佐之男命を主祭神とする神社も28社あり、大己貴命と合わせると今治地域の神社の4割が出雲系統の信仰であることがわかります。
大己貴神社が守り抜いた独立
今治市富田地区に鎮座する大己貴神社は、明治時代に全国で推進された神社合祀(じんじゃごうし)政策のなかでも、独立を守り抜き、現在まで存続している市内唯一の「大己貴神社」でもあります。
神社合祀政策とは
神社合祀政策は、明治政府が主導して小規模な神社を整理・統合し、国家神道の確立と管理の効率化を図るために実施された宗教政策です。
最初の通達は明治10年(1877年)に出されましたが、実効性は低く、進展は限定的でした。
そこで、政府は明治39年(1906年)、より強い法的根拠を持つ「勅令第96号」および「勅令第220号」を発布し、全国的な神社統廃合が本格化します。
この政策により、維持が困難な小規模神社は周辺の大きな神社に統合され、数多くの社が廃止されました。
これは表向きには祭祀の安定を目的としていましたが、実際には信仰の統制を強化し、天皇を中心とする近代国家の精神的基盤づくりを目的としたものでした。
神道は道徳教育や国民統合の柱とされ、「国家神道」として制度化されていったのです。
愛媛県における合祀の進行と影響
愛媛県でも、明治41年(1908年)に「県社以下神社維持方法に関する規程」が布達され、訓令第6号に基づいて神社整理が一気に加速しました。
その結果、愛媛県全体でおよそ7割もの神社が統合や廃止の対象となりました。
特に山間部や農村部では、維持費や担い手の問題から、やむを得ず合祀に応じざるを得ないケースが続出。
大正6年(1917年)には、かつて約5,370社あった県内の神社は約1,650社にまで激減しました。
この統廃合によって、各地の神社が担ってきた地域の祭祀・習俗・信仰の継承が断絶し、地域ごとの特色ある文化も失われていきました。
合併された先の神社では、もとの小社の儀礼が省略されたり、画一化された祭祀に吸収されたりすることも多く見られました。
地域信仰を守り抜いた人々
一方で、伝統文化の消滅が懸念されるなか、地域の人々は自らの信仰と暮らしを守るため、神社の独立を守ろうと声を上げはじめました。
こうした動きは、単なる抵抗運動ではなく、先祖代々受け継がれてきた祭祀や風習を未来へと繋げるための、地域の誇りをかけた戦いでもありました。
その中で、地域に連帯感が生まれ、神社は単なる宗教施設ではなく、地域の精神的支柱としての役割をいっそう強めていったのです。
大己貴神社が合祀の波に呑まれることなく独立を保ち続けているという事実は、当時の住民たちの篤い信仰心と、揺るぎない地域の絆の力によって成し遂げられたものだといえるでしょう。